ファンタジー長編小説

                  紅 龍 の 夢

     □ 巻の六

       ── 死の花嫁 / The Bride of Death ──

  ── プロローグ/夢見る宝石 ──

 汎魔殿(はんまでん)……魔界の君主が住まう宮殿は、そう呼ばれる。
 その最下層にある、要石の間。
 暗く、じっとりと湿ったその部屋に、青白く燃える結界に封じられ、“黯黒(あんこく)の眸”と呼ばれる漆黒の宝石が、永い眠りについていた。
 その貴石は、単なる装飾品ではなかった。
 生き物の負の感情を集めて魔力に変換するという、不思議な性質を持ち、テネブレ──“闇”を意味する名の精霊が宿っていたのだ。
 そのため、かつては“焔の眸”と並ぶ魔界の至宝とされ、アナテ神殿に祭られ、魔界人に崇(あがめ)められていた。
 しかしある時、テネブレは暴走した。
 結果は悲惨なものだった。事態は魔界と人界との大戦争へと発展し、一時は人間の絶滅が危惧されたほどだった。
 その戦争が、テネブレが原因と分かったのは、千二百年前。
 魔界の至宝ゆえに破壊されることは免れた。
 さらに“黯黒の眸”は、前魔界王ベルゼブルへの在位中、王家転覆の陰謀にも加担したため、厳重に封印を施され、ここで眠りにつくこととなったのだ。
 それから、どれほどの時が経ったのか、日の光さえも差さぬ地下では知る由(よし)もない。
 今、石は夢を見ていた。
 一万二千年もの昔、おのれの策略ゆえに争い、命を落とした人々、あるいはそれよりさらに遥かなる太古、白き悪魔どもの手にかかり、滅びかけたフェレス(魔族)の夢を。
 眠りは時に深く、時に浅くなりもし、夢うつつに石は思い返す。
 かつて、日の光を浴びて輝いていた時のことを。
 悪夢を操り、憎悪と血の海で溺れさせることが楽しく、石自身もその行為に我知らず溺れていったのだ。
 しかし、もう二度と、日の目を見ることは出来ないと石は知っていた。
 たとえ魔界が天界に勝利し、結界を張る役目からおのれが解放されたとしても、現魔界王タナトスやその後に続く王達が、おのれを外界へ出すことはあり得まい。
 このまま汎魔殿の地下深く忘れ去られ、時の狭間で、うつらうつらと夢を見つつ、眠り続けることになるのだろう。
 だが、闇の中で永遠に続くと思われた、死にも近いその眠りも、ついに破られる時が来た。
 訪れる者もない、風さえ通わぬ地底に、暗黒のマントを身にまとった何者かの姿が、突如湧き出すように現れたのだ。
 その人物の発する強い波動に揺り動かされ、冷水を浴びせかけられたような衝撃を感じ、“黯黒の眸”は目覚めた。

 1.石の心(1)

 ありうべからざる強大な“気”の持ち主は、確信を込めた足取りで魔界の至宝に近づき、口を開いた。
「……ああ、そういえば、貴様はここに封じられていたのだったな、“黯黒(あんこく)の眸”よ。少しは反省したか?」
 威厳のある声、命令することに慣れたその響き、青白い結界の光に浮かび上がる二本の角、つややかな黒髪、紅い瞳、端正な顔立ち。
 “黯黒の眸”は、それらすべてに見覚えがあった。
“……おう、サタナエルではないか。
 黔龍(けんりゅう)王みずからが、わざわざかような場所にお出ましとは、何事が出来(しゅったい)致したのか?”
 決して光を反射することのない闇色の宝石が尋ねると、真の名をサタナエル、黔龍王とも呼ばれる魔界の君主タナトスは、軽く肩をすくめた。
「大したことではない。 たまには汎魔殿の要所を見回って来いと、親父にせっつかれただけだ。 貴様のことなど、親父でさえすっかり忘れていたぞ」
“……左様であったか”
 “黯黒の眸”はつぶやくように答えた。
「何事もなくて残念だったな、このトラブルメーカーめ! 魔界はここのところ、この俺が暇を持て余すほど、まったくの平和だぞ、ざまあみろ!」
 とても王とは思えないセリフをタナトスが吐くと、“黯黒の眸”の思念は、いかにも心外だと言いたげな響きを帯びた。
“……これはしたり。堕(お)ちたりとは申せ、我とて魔界の守護を以(もっ)て任じておった『焔の眸』とは双児の身。 平和と聞かば、落胆など致すわけもなかろうが”
「ふん……どうだかな」
 苛立たしげな貴石の答えを、魔界の王は軽くいなす。
 そして、部屋の中心に据えられている、巨大という他は特に変わったところもない岩に近寄ると、腰に手を当て仰ぎ見た。
 何かを探し求めるように、隅々まで視線を走らせる。
 しかし、いくら眼を凝らしても、選ばれた者しか読むことができない特殊な碑文の文字に変化は見られず、他の異常も感知できなかった。
(ふん、特に変ったところはないな。 イシュタル叔母が、『ここに何か、新たな兆(きざ)しが見られる』と報告して来たが……自慢の占いも時には外れる、といったところか? “黯黒の眸”の封印その他にも、取り立てて変化はないが……)
 彼は一人ごちた。
 イシュタルは、タナトスの父、前魔界王ベルゼブルの異母妹に当たり、水晶占いに長(た)けている。
 “要石”は、その名のごとく、汎魔殿の土台を物理的に支えていると同時に、ここを中心として魔界全土を覆う強力な結界の発生源でもあった。
 これに悪しき変化が起これば、魔界の命運をも左右しかねないのだ。
「──さてと、用件は済んだ。邪魔をしたな、“黯黒の眸”」
 見極めがついた魔界王は、すぐさま要石の間を去ろうとした。
 その彼に向けて、宝石の精霊が名残惜しげに言葉をかける。
 “行くか、サタナエルよ。せめて今少し、話し相手になってはくれぬか。 訪なう者も絶えて久しかったゆえ……ここ千年ほどは”
「貴様と口を利く必要はないし、その気も俺にはない」
 気の短いタナトスの返事は、取り付く島もない。
 だが、“黯黒の眸”は、現在の主である彼を引き留めずにはおれなかった。
“待たれよ、魔界の君主、我が主たるサタナエルよ! 千二百年はさすがに長い、我も、深く、本気で反省致しておるゆえ、何とぞ……”
 刹那、タナトスの眉間(みけん)に稲妻が走り、紅い瞳が物騒な光を帯びた。
「──しつこいぞ! 貴様のごたくなど聞く耳持たんわ! いくら泣き言を並べようと、ここからは出してなどやらん! すべてがややこしくなったのは、貴様のせいなのだからな!」
 語気の荒さに、貴石の化身はうなだれたものの、言わずにはいられなかった。
“……慈悲を知らぬか、冷酷なる魔界の支配者よ”
「何が慈悲だ、冷酷だ! 貴様がそんな言葉を吐ける立場かどうか、よっく考えてみるのだな、このたわけ者! 元々、一万二千年前の戦でさえも、貴様が仕組んだことだったではないか! あの戦いでは、人間のみならず、魔族も数え切れぬほど死んだ。 それゆえ、未だに宿敵天界との決着もつかず、それどころか危く世界の破滅をも招くところだったのだぞ! ──おのれの仕出かした事態の重大さをわきまえよ、テネブレ!」
 タナトスは叫び、目前で揺らめく“黯黒の眸”の化身に向かって、指を突き付けた。
“……我の行動が性急にすぎ、皆様にご迷惑をかけた段については、幾重にもお詫び致そう……申し訳ない。 冷静に顧みれば、他にも方法はあったと、今は我にも分かる……”
 テネブレは、ぎこちなく頭を下げた。
 結界に力の大部分を封じられているため、明確な形状は取れないでいる。
 おぼろな影めいた姿によくよく眼を凝らすと、漆黒の眼を持ち、頭にねじくれた細い角が二本生えていることがようやく見分けられる程度だった。
 しかし、化身に向けられる魔界王の眼差しは、冬の嵐も同然だった。
「──ふん、今頃になってか! 遅きに失し、しかも口では何とでも言えるわ! 覚えておけ! 貴様の詭弁(きべん)に踊らされるたわけ者など、もはやこの魔界にはおらぬことをな!」
“信じて頂けぬのも止むを得まい……我の行動を鑑(かんが)みれば……。 それが巡り巡って『焔の眸』を消滅させることとなり……その瞬間は我にも感じられた……まさしく予言通りに……”
 それを聞くと、タナトスは少し冷静さを取り戻した。
「む、貴様も知っていたのか? “焔の眸”がサマエルに破壊されるということを」
“『焔の眸』と我はかつて、遙かなる太古、一つの結晶から分かたれたものでありしことは存じておいでだろう、サタナエル。 それゆえ、あやつが視る『夢』は全て、我にも視える。 あの折、人界と結び、天界に戦いを挑みしところで時期尚早、魔界の勝利などあり得なんだということも、な”
 テネブレの言葉に、一旦は静まったタナトスの瞳が、再び紅く燃え上がった。
「──なんだと、貴様ごときに何が分かる、この痴(し)れ者め! 人間との同盟がうまくいけば、勝っていたに決まっていようが!」
“……まことに左様であっただろうか? 我のみならず、『焔の眸』にも、それは叶わぬことだと分かっておったのだぞ”
「何っ!? あいつもグルだったのか!?」
“そうは申しておらぬ。 なれど、シンハも、あの時点では我が方に勝ち目なし、と予知しておった。 あやつはかつて、決して外れぬ予知力を持ちし者、『予言の獅子』でありしゆえ”
「俺を騙(た)ばかると許さんぞ! あいつは、一言もそんな話は言ってはおらなんだわ!」
 タナトスは、疑り深そうな響きが声に出るのを隠そうともしなかった。
“忘れたか、黔龍王よ。長の年月『焔の眸』は、魔界王の意に沿わぬことは、口に上らすことすら、禁じられておったことを”
「む、そうだったな……。 あの後ヤツが“ダイアデム”の姿を得て初めて、自由に振舞う権利を与えられたのだったな、親父に」
“新たなる予言によれば、四龍が揃わねば、魔界の宿願は叶わぬ。 当時、我らが手中には『紅龍』のみ。 しかもルキフェルは未だ幼く、みずからの力を制御するも叶わぬほど……。かような状態で勝てると思い込めたは、そなたとバアル・ゼブルくらいなもの。 それゆえ我は、誰にも知らせず行動に出たのだ。人の世の、一時的退行も辞さずに”
 意外な告白に、タナトスの眼が大きく見開かれた。
 一万年以上も昔、“黯黒の眸”が盗み出され、それをきっかけに起きた人間対魔族の戦は、人間をあわや絶滅と言うところまで追い込んだ。
 だが、その戦を起こした元凶が、実は“黯黒の眸”自身だったということが、千二百年前、とある事件により発覚した。
 そして現在に至るまで、誰もが皆、“黯黒の眸”が退屈しのぎに起こしたものだろうと思い込んでいたのだった。
 宝石の精霊……テネブレ自身が、そう宣言していたせいもあるのだが。
「なん……だと? 貴様が、あんなことを仕出かしたのは、魔界のためだったと言うのか? 単に気紛れや単なる暇潰しではなく……?」
 それでもまだ、タナトスの眼差しには疑いの色が濃かった。
 テネブレはうなずき、さらに付け加えた。
“左様、未だ分からぬのか? タナトス。 脆弱(ぜいじゃく)な力しか持たぬ者が幾億いようとも、魔族は神族に勝てぬ。 強大なる力を持ちし四頭の龍が必要なのだ……勝利のためには”
 少しの間、化身の話を反芻(はんすう)していたタナトスは、ややあって肩をすくめた。
「“朱龍”が見つかり、そして“焔の眸”も復活した。 残りは“碧龍”だけか。恩着せがましく、ここから出せと言うつもりか?」
“解放を願い出る気など、毛頭ない。 我も魔界王家に仕える身、魔界王たるそなたの意に従い、四頭の龍が揃うを楽しみに、永久(とわ)なる刻を過ごすことに致そう。 ただ、時折……数年に一度で構わぬゆえ、訪うて戴けるならば、比類なき喜び”
 “黯黒の眸”は、胸に手を当てお辞儀をした。
 タナトスはまたも眉間にしわを寄せ、テネブレの禍々しい姿を見据えた。
「ふん、さっきから聞いていれば、ずいぶんしおらしいことを言うようになったものだな、“黯黒の眸”。今度は何を企んでいる?」
“企んでなどおらぬ。我が大人しくしておっては不服か? サタナエル”
 タナトスは肩をすくめた。
「不服ではない。ただ少々退屈なだけだ」
“退屈? あの小生意気な紅毛の童子が気に入りだったと申すのか? ならば、何ゆえ“焔の眸”を、サマエルにくれてやったり致したのか”
 “黯黒の眸”が何を考えているにせよ、それを簡単に白状はすまい。
 そう考えたタナトスは深追いせず、話題の転換に乗ってやることにした。
「ふん、さほど気に入っていたわけではないさ。 だが面と向かっては媚(こ)び、へつらい、そのくせ、陰でうじうじと文句を言う輩が多い中で、あいつの率直な物言いは一種の清涼剤だったことは確かだ。 それでも、俺は精霊のお守など必要とはせん。しかしだ、サマエルのたわけは、ああやって気を紛らす玩具でも与えておかんとな。 ちょっとしたことで、一々ぶち切れて暴れられては、はた迷惑この上ない」
“ルキフェルか……『紅龍』は諸刃(もろば)の剣……さても難しきことよな”
 テネブレは考え込むように言った。
「ちっ、俺も堕ちたものだ、貴様に同情されるようではな。 ……まあいい、戻るとするか」
“さらばだ、黔龍王よ。先ほども申したが、時にはこの闇の間で、世間話でもして頂けるとありがたいが……”
「ああ、気が向いたら来てやる。 ──ムーヴ!」
 魔界王タナトスが去ると、テネブレのあいまいな姿もふっと消えた。
 そして“黯黒の眸”は、青白い光を放つ魔法陣の中で、決して光を反射することのない暗い結晶面に思いを閉じ込め、ゆっくりと回転するという日常に戻った。

 1.石の心(2)

 気が向いたらとそっけなく言い捨てたタナトスだったが、どういう風の吹き回しか、一週間か十日に一度、“要石の間”を訪れるようになった。
 “黯黒(あんこく)の眸”も、初めこそ驚いたものの、話し相手ができるのは喜ばしいことと、王の訪問を歓迎した。
 しかしある時、ささいなことで口論になり、それ以来タナトスの訪問はぷっつりと途絶えてしまった。
 テネブレはせめて謝罪したいと思ったが、封印された身では、どうすることもできないのだった。
(タナトスの性格を考えれば、ここへはもはや参ってなどくれぬであろう、淋しきことよ。 サマエルの許へ嫁いだ、我が分身たる“焔の眸”……うらやましきことよ……)
 “黯黒の眸”はそう嘆いたが、再び暗い眠りの中に戻っていく他はなかった。
 そうして、二月ほどが経った頃。
 またもや“要石の間”に、何者かが侵入したことに宝石の精霊は気づいた。
 聞き耳を立てていると、一応押しひそめているつもりらしい子供っぽい声が、石造りの部屋に響いた。
「ねぇねぇ、これが“焔の眸”? 光ってもいない、真っ黒けの石だね。 本当に魔界の至宝なの、これ?」
「しっ、大声出すなよ!」
「お前こそ、声が大きいぞ、ヴァレフォル」
「静かにしろってば。 これは“焔の眸”じゃない、あれは紅いんだ、中に黄金の炎が燃え上がって、すごく綺麗だって話だよ。 でも、もう見るチャンスなんてないだろうけど」
「ふーん、これは黒いもんね」
「ああ、そいつは魔界の至宝のもう一つの方、“黯黒の眸”さ。 そいつに気に入られると、“カオスの貴公子”になれるんだって」
「ホントに? いいなー、“紅龍”ってすっごーく強いんだろ?」
「そうだよ。だから、今にきっとサマエル様が、タナトス陛下と一緒に、天界のヤツらを全部やっつけて、ウィリディスを取り戻してくれるはずさ!」
「……そっか。どんなところなんだろうな、ウィリディスって」
「いいところに決まってるだろ!」
“かような場所にて何を致しておる、小童(こわっぱ)ども”
 “黯黒の眸”は侵入者に声をかけ、同時に結界に光を入れた。
「わあ!」
「だ、誰!?」
 二つの人影は、そろって飛び上がった。
 結界の青白い光に照らし出されたのは、ごく若い……というよりかなり幼い、二人の少年達だった。
 光の中に浮かび上がる宝石の化身を、ぽかんと口を開けて見つめる彼らのうち、一人はごく普通の姿、もう片方はライオンの頭部を持っている。
 しかし、動物の頭を持つこと自体、魔族には珍しくなく、“黯黒の眸”も特に驚きはしなかった。
“それはこちらの台詞だ。
 おぬしら、魔界の結界の要(かなめ)たる、かの部屋へ、何をしに参った?
 返答次第では、童子と申せど容赦はせぬぞ!”
「あ、わ、ま、待って下さい! 僕達は……」
「だ、だからよそうって言ったんだよ、ヴァレフォル。あんな賭け……!」
 少年達は、テネブレの鋭い声に震え上がった。
“……賭け、だと?”
 “黯黒の眸”の化身は、眉を寄せた。
「は、はい、あ、あの、僕ら……友達と競争してて……ですね。 それで……負けたら、罰として、すごく強い結界張ってるところに、こっそり忍び込むことにしてた、んです。 けど、今日は、僕らが負けちゃって……だ、だから……」
 ライオンの頭を持つ少年は、しどろもどろに答える。
“なに、賭けの敗者の罰と申すか?”
 テネブレはあきれ声を出した。
 二人の少年は、貴石の化身のぼやけた姿に駆け寄り、必死の面持ちで、代わる代わる頭を下げた。
「ご、こめんなさい! “黯黒の眸”様! でも、陛下には言わないで!」
「言わないで下さい、テネブレ様、何でもします! 母様と父様に知られたら、ものすごく怒られちゃう」
“そうも参らぬ。おぬしら、いかに貴族の子弟と申せど、かような童子ごときに『要石の間』の結界が易々(やすやす)と破られるようでは、敵の侵入を防ぐことも叶わぬ。 魔界王には、事の顛末(てんまつ)を報告せねばな”
「ち、違うんです、僕らが簡単にここに入って来れたのは……」
「……これのお陰なんです……」
 獅子頭の少年、ヴァレフォルが手を広げると、“黯黒の眸”の化身は、我にもなく息を呑んだ。
 少年の掌は、血をなすりつけたように紅く染まっていたのだ。
 そしてその上に、禍々しいほどの美しさで煌(きらめ)いていたのは……。
“そ、それは、『ブラッディ・ムーン』ではないか! おぬしらそれを一体、どこで手に入れたのだ!?”
 宝石の化身は、興奮を抑え切れずに叫んでいた。
 ヴァレフォルは、震えながら答えた。
「こ、これはグーシオン家の家宝なんです……ずっと前のご先祖様が、シンハ様に頂いたもの、なんだそうですけど……。 これって、持つと、こんな風に血がついたみたいになります……よね? だから、ただずっと大切に仕舞われてたんですけど……。 でもこの間、僕、いたずらしてて、これに結界を無効にする力があるってことに気づいて、それで……」
“それで、土竜(もぐら)のごとき真似をしておったと? さぞかし、あれこれと潜ってみたのであろうな、グーシオン公爵家のヴァレフォルよ”
 テネブレが話を引き取ると、二人の少年はうつむいた。
「はい……」
「ごめんなさい……」
“ふむ……聞き捨てならぬ。やはり王には報告せねばならぬな”
 “黯黒の眸”の言葉に、少年達は顔色を変えた。
「ええっ!」
「そんなぁ〜」
“自業自得だ。かの石も、密かに持ち出したものであろうが”
「わあっ、どうしよう!」
「逃げよう、早く、呪文を!」
「えっと、──」
 少年達が慌てて呪文を唱えかけた、そのとき。
「──もはや遅いわ、話は全部聞かせてもらったぞ!」
 鋭い声が部屋の片隅から飛んだ。
 それと同時に、闇の中から人影が歩み寄る。
 漆黒のマントに身を包み、足音も高く近づいてきたのは、魔界に棲(す)む者ならば、決して見誤ることのない人物……魔界の君主である黔龍王タナトス、その人だった。
“おう、おぬし、いつからそこにおったのだ? 我としたことが、全く気づかなんだぞ、サタナエル”
 宝石の化身が、我にもなく驚いたような声を出す。
「タ、タナトス陛下……!?」
「も、もうダメだぁ……」
 少年達は抱き合い、ヘタヘタとその場にへたり込んだ。
「最近、厳重に張られたはずの結界の中に、何者かが侵入するという報告が相次いでいたのでな、ここもひょっとしてと思い、使い魔に見張らせておいたのだ。 盗られたものはなく、入られた場所も関連性はない……そこでおそらくは、ガキのいたずらか何かではないかと思っていたのだが、当たっていたようだな」
「ご、ごめんなさぃいー!」
「わああんー!」
「──うるさいぞ、黙れ、ガキども!」
 泣き出した少年達を、タナトスは頭ごなしに怒鳴りつけた。
 その剣幕に怯えた子供達は、ますます激しく泣きじゃくる。
「わああああん───!!」
「──黙れと言っているのが分からんか、ガキども! 泣きやまぬと……!」
 魔界王は苛つき、一層声を荒げ、拳を振り上げた。
 あきれたように、“黯黒の眸”がそれを制する。
“これ、タナトス。左様な物言いでは、余計怯えさせてしまうぞ”
「──ふん! 俺は子供は嫌いだ、特に、ぎゃあぎゃあ泣いているこんなガキどもは、ぶっ飛ばしてやりたくなる!」
「うわああん──!!」
「恐いよぉ、お母様──!!」
 さらに大声で泣き始めた少年達の声が、石造りの部屋に反響し、頭が痛くなりそうだった。
“……前々から思いしが、童子のごときよな、おぬし自身が。 “焔の眸”も、それゆえおぬしを見限り、サマエルの許に走ったのか”
 ため息をつくような口調で、テネブレが言う。
 タナトスは彼に向かって吼えた。
「──なにぃ!? 言わせておけば、貴様! 主たる俺に向かって!」
“真実(まこと)のことであろうが。 夫となる者が童(わらわ)のごときの上、童子を嫌うとなれば、妃となる婦人も安んじて子など産めまい”
「くっ、ジルのことを言っているのか、何を今さら……!」
“特定の女のことを申しておるのではない。なれど汝も魔界の王、子孫を残す義務があるのを忘れては困る。魔界の君主と名乗るからにはな”
「──ちっ、家臣どもと同じことを言うのだな、貴様! 今、周囲には、俺を満足させるような女は一人もおらん、それに俺はまだ妃など……」
“落ち着くがよい、サタナエル。左様なことよりもまず、この童子らの処分が先ではないのか”
 タナトスは再び言い返そうとしたが、“黯黒の眸”の言葉通り、口論などしている場合ではないことに思い至ってそれはこらえ、少年達を振り返った。
「ふん……そうだったな」
 少年達は、ほこ先が自分達から一時それたお陰で落ち着きを取り戻し、少しべそをかきながらも、二人のやりとりを見つめていた。
 しかし、魔界王にきつい目つきで一瞥(いちべつ)されると、また泣き出しそうになった。
「ごめんなさい!」
「お許し下さい、陛下!」
「……分かった、もう泣くな、男だろう。 今度だけは大目に見てやる、俺も昔は色々やったからな。 だが、言っておくぞ、今回だけだ」
 今度は少し抑えた声で、タナトスは言った。
 子供達は眼に涙をため、抱き合ったまま頭を下げた。
「はい、ありがとうございます!」
「もう、絶対こんなことしません!」
「ならばここへ来い。二人共だ」
「はい……」
 少年達は何とか立ち上がり、おずおずとタナトスに歩み寄る。
 魔界王は二人の額に軽く手を当てた。
 その掌が白く輝き、彼らの顔から表情が消えた。
「いいか、よく聞け。 今日、貴様達は“要石の間”に侵入することはできなかった。 この石、ブラッディ・ムーンに、結界を無効にする力などない。 貴様らの勘違いだったのだ。それゆえ結界破りも、もはやできん。 以前出来たのは偶然で、今日は駄目だったと、悪友どもにも言え。 それにだ、魔界の貴族たるもの、いかに幼くともおのれのやったことに責任は持たねばならん、よく覚えておけ、分かったか」
「はい……」
「……はい、分かりました……」
「よし、見つからぬよう石を戻して、二度と持ち出そうなどとするなよ。 では、行け!」
「はい。──ムーヴ!」
 子供達の姿が消えると、テネブレは言った。
“暗示を掛けたのか”
「ああ。この場合は致し方あるまい。 あの石に、結界を無効にする力があるなどと知れたら面倒だし、かといって家宝を取り上げたりしたら、今度は親が黙ってはおるまいしな」
“ふむ……おぬしも変わったものよ。 以前ならば、童子らを殴り倒し、親許(もと)へ怒鳴り込んだ上、力ずくで取り上げておったであろうに”
「ふん、力ずくでは心まではつかめんということを、嫌というほど知る機会があったのでな」
“左様か……。我は変わることができぬ……おぬしらがうらやましい……”
「そうか? 貴様も、以前よりはかなりマシになったと俺は思うぞ」
 その時以来、タナトスは再び、“要石の間”を訪れるようになった。

 1.石の心(3)

 シュネこと碧龍ベリルが、魔法学院に戻った数ヶ月後。
 サマエルは碧龍を見つけたことを報告するため、ダイアデムをつれて、汎魔殿へとやってきた。
 その頃にはタナトスも、事前に申し出ておけば、弟の魔界への帰還を許すようになっていた。
 人界と魔界をつなぐ次元回廊は、サマエルの子供部屋に設けられている。
 二人が部屋から出た途端、美しい女性が声を掛けて来た。
「久しぶりだな、“焔の眸”。こちらに還って来ると聞いて、待っていた」
「えっ、誰だ? オレ、お前なんか知らねーぞ」
「……妾(わらわ)を見忘れたか?」
 鈴の音を転がすような耳に心地よい響きに、思わずダイアデムの声がうわずる。
「ひ、人違い、じゃねーの……?」
「人違いなどではない、妾は、おぬしの帰りを待ちわびていた……」
 美女のつぶらな黒曜石の瞳は、一心に彼に向けられている。
 ゆるやかに背中を流れる艶(つや)やかな漆黒の髪、胸元の白さが眼を惹(ひ)きつけ、一層彼をどぎまぎさせた。
「? ? ……だ、誰だっけ……?」
 ダイアデムは頭をひねり、懸命に思い出そうとした。
 しかし、忘れることができないはずの記憶のどこを探っても、この美女に出会った事実を見つけ出すことができない。
「お前が思い出せないはずはないだろう、ダイアデム……?」
 そう低い声で話すサマエルの表情が、徐々にこわばってゆくのを眼の隅で捉えて、ますます彼は焦った。
「サ、サマエル、オ、オレ、ホントのホントーに知んねーんだよ、ウソじゃねーってば! こ、こんなべっぴん、一度でも会ったら、わ、忘れるわけねーし……!」
 しどろもどろに言い訳しているダイアデムの様子に、黒衣の美女は首をかしげた。
 闇色の髪が、さらさらと肩に掛かる。
「おぬし、何を左様に焦っておるのだ?」
「な、何をって、お前……」
「……お邪魔のようだな。私は先にあいさつしてくるよ。 まごまごしていると、魔界王陛下のご機嫌を損ねるから」
 言い捨てたサマエルは、一人でさっさと歩き出してしまった。
「──あ! ま、待てよ、サマエル! 誤解だってば、オレを置いてくなよっ!」
「待て、話は終わっておらぬ」
 慌てて第二王子の後を追いかけようとした少年の腕を、美女はつかんで引き留めた。
「な──何だよ、離せ!」
「待てと申すに」
 女性の手をふりほどこうとしたが意外に力強く、魔界王の書斎へと急ぐサマエルの姿は、みるみる小さくなっていく。
「離せよっ! オレは話なんかねーぞ!」
「“カオスの貴公子”はいかが致したのだ? 大層不機嫌のように見受けられたが……」
「なに言ってんだ、てめーのせいだろ! 知り合いでもねーのに、なれなれしく声掛けてくんな、バカ! ……あ〜あ、行っちまった……。 あいつ、ああ見えて、“超”が付くくらいの焼きもち妬きなんだぜ! ──どうしてくれんだよ!」
 ダイアデムは、名も知らぬ美女を睨みつけた。
 どうやってサマエルの機嫌を直そうかと考えると、涙が出そうだった。
「おぬし、本当に妾のことが分からぬのか? ……ふむ……おぬしらも、妾が思うていたほどには、うまくいってはおらぬのだな……」
「何だとぉ、大きなお世話だ! てめーホントに、何モンなんだよ!?」
「我が名はニュクス。タナトスはこの姿に、そう名を付けた」
 美女は自分の胸に手を当てた。
「“ニュクス”? “夜”って意味だな……タナトスが名付けたって? ……あ、この“気”、お前、まさか……!」
 首をひねったダイアデムは、ようやく相手の正体に気づいた。
「今頃分かったか、我が分身、“焔の眸”よ」
 美女は微笑んだ。
「なんだ、てめーは、“黯黒の眸”かぁ! けど、なんだってンな格好してんだよ。 あ、まさか……タナトスとデキたのか?」
「デキる、とは如何(いか)なる意味か?」
 美しい女性に真っ正面から訊かれて、ダイアデムは思わず言葉に詰まった。
「え、え、つ、つまり何つーか、その……」
「その言葉自体は知らぬが、おぬしの申したきことは、おおよそ理解できる。 されど、タナトスは妾を寝所に連れ込んだりはしておらぬぞ、サマエルとは違うてな」
 ニュクスは、あくまでも真面目な顔だった。
「はぁ。分かってんなら訊くんじゃねーよ、……ったく!」
 ダイアデムは大げさにため息をつき、同時に胸をなで下ろしていた。
 この美女が“黯黒の眸”の化身なら、サマエルにも簡単に言い訳が立つというものだった。
 元々一つの結晶から分かれた宝石、つまり兄弟なのだから。
「けど、お前、結構タナトスに気に入られてんじゃねーのか? そうじゃなきゃ、絶対“要石の間”から出してもらえねーだろ、お前、散々なこと仕出かしたんだからさ」
 ダイアデムの言葉に、ニュクスの整った顔が曇る。
「……そなた、左様に思うか?」
「ああ」
「妾も左様に思うておった……なれど、この頃タナトスは妾を避けておるゆえ、しかとは分からぬのだ……」
「ははん……で、オレが、どーやってサマエルとうまくやってっか、知りたくなったワケだ」
 そう話す少年の左手に、深い青色を湛(たた)えた宝石の指輪が光る。
 ニュクスは、それをうらやましげに見た。
「……アイシスの形見か」
「ああ、これな。サマエルが、受け取ってくれねーと死ぬって泣きついてくっからよ……死ねやしねーのにな。 けど、お前も大変だなー、タナトスの野郎ときたら、ガキと大差ねーし。 ええと、じゃあ、まず、いつ頃からその姿でいるんだ?」
 ダイアデムは改めて尋ねた。
「……かれこれ、一年半ほどになろうか」
「へー、結構経ってるじゃん。 タナトスは、初めっから、お前のこと無視してたんか?」
 ニュクスは、否定の身振りをした。
「いや、初めのうちは色々と教えてくれ、汎魔殿内をみずから案内してくれもした……。 それゆえ妾も懸命に、魔界人として知っていて然(しか)るべきことを学んでいったのだ。 だが、一通りそれが済むと、妾がついて参るのを嫌うようになり……。 妾のどこが悪いか、教えてくれるよう懇願しても、特に理由はないと……」
「ふ〜ん……」
 一心同体と言っていい存在だと知っていても、見とれてしまうほどの美貌に浮かんだ思いつめた表情。
 これはかなり深刻な事態かも知れないと、ダイアデムは思った。
 考え事をするときの癖で紅い髪をくるくると指に巻き付けながら、彼はしばし考えを巡らす。
 しかし、すぐには結論は出せそうもなかった。
「うーん、も少し詳しく聞かせろよ、ニュクス。 そんだけじゃ、やっぱオレにも分かんねーよ」
「左様か。なれど、何を話せばよいのだ?」
 ニュクスは優雅に首をかしげた。
「そうだなぁ……。 タナトスは後宮もちゃんと持ってるし、サマエルと女の取り合いしたくらいだし、別に女嫌いじゃねーはずだしな……」
 ダイアデムは腕を組み、頭をひねった。
 それから、はっとしたように顔を上げる。
「そーいや、その超べっぴんの姿は、誰の体をかっぱらったんだ?」
 美女は、またも否定の仕草をした。
「いや、これは奪ったものではない。 たしかに妾は、憑依(ひょうい)して相手を動かすことが多く、固定した人格は、テネブレのみであった。 それゆえこたびは、タナトスに、新たなる風姿を創り出してもろうたのだ」
「な〜る、それでかぁ!」
 ダイアデムは、ぽんと手を打ち、大声で笑い出した。
「ぷっ、くふふふ、あは、あはははは……!」
 “黯黒の眸”の化身は、三日月形に整った眉をひそめた。
「何がおかしいのだ? 妾は真剣に……!」
「くくっ、悪りー、悪りー。 けどさぁ、タナトスって……そーゆートコ、ホント似てるよな、あの兄弟って……ぷぷっ!」
 “焔の眸”は何とか笑いを納めようとするも、ついまた噴き出してしまう。
「一体、何ゆえ笑うのか? “カオスの貴公子”が、関わりあると申すか? 妾にはまったく理解できぬ」
 兄弟石が苛立ち始めたのを感じたダイアデムは、ようやく笑いを止め、真顔になった。
「つまり、タナトスはお前に惚(ほ)れちまったんだよ、サマエルとおんなじに、自分の理想の女を創っちまってさ」
 予想もしなかった答えに、ニュクスの黒曜石の瞳が大きく見開かれる。
「まさか……」
「絶対そーだって。オレから見てもお前、超色っぺーし……だからさっきも、サマエルのヤツ、妬いたんだぜ。 けど、タナトスは、超プライド高いからなー。 主人格の自分から、僕(しもべ)のお前に『好きだ』なんて、逆立ちしたって言えっこねーし。 けど、あきらめようって思ってもさ、お前の顔見ると、こう、むらむらっときて、押し倒したくなったり、夜もベッドの中でも一人でモンモンとして……だから避けてるんだぜ、きっと」
「左様であったか。ならば、夜伽(よとぎ)をせよと一言命じればよいものを。 我らは、主のためのみに存在する。 何ゆえタナトスは、一人で思い悩んでおるのであろうな?」
 ニュクスは、抜けるように白い首をかしげ、その仕草でサラサラと顔にかかってきた、黒の絹糸そっくりの髪をかき上げた。
 ダイアデムは、ニュクスを指差した。
「そう、その仕草。お前は無意識なんだろが、ものすっごく色っぺーんだよな。 うん、もちろんタナトスだって、お前が拒まねー……っていうか、喜んで従うことは知ってるさ。 けどよ、あいつはオレで懲りてっからなぁ……」
「? おぬしで懲りている、とはどういう意味だ?」
 ニュクスの無心な問いかけに、ダイアデムの表情が翳(かげ)った。
 紅い瞳の奥の金色の炎が、か細く揺れる。
「あいつが、オレをベッドに連れ込んだことあんの、知ってんだろ……」
 ニュクスも眼を伏せ、小声になる。
「……それ以上申さずともよい。 ならば、現時点ではいかに対処すればよいのであろうな」
 ダイアデムは頭を切り替え、元気よく顔を上げた。
「そんじゃあまず、タナトスんトコに行こうぜ。 サマエルの誤解も解かなきゃなんねーしさ。 それによ、放っとくと、あいつらまたケンカするだろ? あげくタナトスはサマエルを殴り倒して、ヤッちまおうとするに決まってんだ。ホントしょーがねーったら。もうあいつはオレのもんだってのに!」
 ニュクスは、美しい顔をうつむかせ、胸の前で手を握り締めた。
「なれどタナトスは、妾に会うてくれるであろうか……」
「ンな顔すんなって。 自分のせいじゃねーんだって分かっただけでも、気が楽だろ? それによ、サマエルにも相談してみようぜ。 オレらよか、タナトスのこと分かってるはずだしよ、きっといい知恵貸してくれるさ」
「左様か。おぬしは肉体を持って、はや五十万余年……妾には先輩とも兄とも申すべき者。やはり話してよかった……」
 張りつめていたニュクスの表情が、ようやく柔らかくなる。
 ダイアデムの瞳の炎も優しく揺れて、彼は、にっと笑った。
「先輩なんて、ンな大げさなもんじゃねーけどよ。 ま、お互い頑張ろうぜ、兄弟」
 二人は連れ立って歩き出した。

 1.石の心(4)

 話しながら歩いているうち、至宝の化身達は魔界王の私室に着いた。
「……“焔の眸”……」
 扉の前で思わずニュクスは尻込みし、すがるような眼を兄弟石の化身に向けた。
「いいから、オレに任せとけって。 おーい、タナトス、邪魔するぜーっ!」
 ダイアデムは、ノックもなしに勢いよくドアを開けた。
 案の定、中では魔界王とその弟が、壮絶なののしり合いを演じていた。
「何だと、サマエル、貴様っ!」
「落ち着くがいい、タナトス。 ……まったく、お前と来たら。せっかく忠告してやっているのに、耳も貸せないとはあきれたものだな、それでよく魔界の王などやっていられる」
「うるさい! 人界でふらふら遊んでいる貴様に、魔界王たる俺の大変さなど分からんわ!」
(……ったく、よく飽きねーよな)
 ダイアデムはつぶやくと駆けて行き、間に分け入って二人を引き離す。
「てめーら、いい加減にしろよ! 特にタナトス、それも愛情表現なのかもしんねーけど、この後サマエルを殴り倒してベッドイン、とかってゆーのだけはやめろよな、もうこいつは、オレのもんなんだから!」
「何だと、それでは俺が、まるで色情狂のようではないか!」
 タナトスは、むっとしたように叫ぶ。
 “焔の眸”の化身は下唇を突き出し、かつての主を見上げた。
「へん、違ぇって言えんのか、お前」
「く……」
 タナトスは、ぷいと横を向いた。
 一応争いが収まったところで、ダイアデムは振り返り、入り口近くでまだ躊躇(ちゅうちょ)している片割れを手招きした。
「おい、ニュクス、何やってんだ、遠慮しねーでこっち来いよ」
「ああ」
 おずおずと近づいて来るのが、先ほどの美女だと気づいたサマエルは、顔をしかめた。
 だが、彼以上に険しい顔つきになったのはタナトスだった。
「何しに来た、ニュクス。俺の部屋には入るなと言っておいたはずだぞ!」
 ニュクスは歩みを止め、訴えるようにタナトスを見た。
「……申し訳ない。なれど妾は、そなたと今一度、話がしたく……」
「俺には貴様と話すことなど、何もない」
「……」
 取りつく島もない魔界王の口調に、黒衣の美女は話の接ぎ穂を失い、うつむく。それはさながら、夜露に濡れた黒薔薇のような風情だった。
 その様子を眼にしたサマエルは、首をかしげた。
「ダイアデム、この女(ひと)はタナトスの知り合いのようだが。 さっきは、お前に何の話があったのだね?」
「へえ〜、さすがのお前にも、まだ分かんねーんだな、こいつの正体」
 にやにやしながら、ダイアデムはニュクスを指差す。
「……というと……私も知っている女性なのかな? おや、この“気”は……ああ、そうか」
 第二王子も、ここに来てようやく美女の正体に気づいた。
「左様、サマエル、妾は……」
 口を開きかける“黯黒の眸”の化身を、タナトスは声も荒くさえぎった。
「──やめろ! こんな女たらしと口を利くな、食われるぞ! さっさとここから出て行け、ニュクス! まったく、うろうろしおって、そんなに暇なら、”要石の間”に戻って昼寝でもしておれ、たわけめが!」
 怒鳴りつけられた宝石の化身は、怯えたウサギのように飛び上がり、長い黒髪をなびかせて、部屋から駆け出して行った。
「……ふうん。彼女は、“黯黒の眸”の化身だったのか……相変わらず気配を消すのがうまいね、今の今までまったく気づかなかったよ。 だが、“夜”とは……あのような美しい姿に、淋しい名をつけたものだな。 それに、曲がりなりにもニュクスは女性だ、手荒く扱うのは感心しないね、可哀想に、泣いていたのではないか?」
 艶(なまめ)かしい美女の後ろ姿から目を離さずに、サマエルは気の毒そうに言う。
 その視線を物欲しげなものと勘違いしたタナトスは、弟を睨みつけた。
「──黙れ、あいつは俺の下僕(げぼく)だ! 何と名づけようと、どう扱おうと、貴様に下知(げち)される言われはない! それにだ、これ以上俺のものに手を出すつもりなら、魔界への出入りを永久に禁じてやるからな! ──痛っ! 何をする、ダイアデム!」
 感情に任せて吼(ほ)えていた魔界王は、急に叫び声を上げ、足を押さえた。
 ダイアデムがそっとタナトスの後ろに回り、ふくらはぎを思い切り蹴りつけたのだ。
「──けっ! ニュクスにサマエルが手ぇ出すんじゃねーかって、慌てて隠したってところだろーが、もー少し、優しくしてやれよ! さっきあいつ、お前に無視されちまう、どうしいいか分かんねーっって、半ベソかいてオレんとこ来たんだぞ! あの女の姿を創って、名前までくれてやったのはお前だろ、言わばあいつの親なんだぜ、ちゃんと責任取れよ! これ以上、オレの兄弟を泣かしたら、承知しねーぞ!」
 ダイアデムは、元の主人を見据えた。
 しかしタナトスは、貴石の化身の視線を平然と受け止め、例によって冷ややかに答えた。
「……ふん、俺は、あんな作り物など、女とは思っておらん。 貴様が何と言おうと、後宮に入れる気はないからな」
 ダイアデムは眼を剥いた。
「こ、この大馬鹿野郎っ! 誰が、ンなコトしろって言ったんだよっ! あいつがちゃんと一人前になるまで、責任持って面倒見ろって言ってるだけじゃねーか!」
「しつこいぞ! ニュクスには一通り、魔界のしきたり等は教え終わっている! その上、俺の権限で罪は帳消しにもしてやった、これ以上、俺にどうしろと言うのだ!?」
 以前、ダイアデムが魔界にいたとき同様、叫び返した魔界の王は、ぎょっとした。
 気が強く、いつもは何を言われてもまったくこたえた風もない至宝の化身の眼に、今はあろうことか、涙が浮かんでいたのだ。
「タナトスの馬鹿……。 オレ達は、たしかに下僕……使い魔以下の“物”で、お前らにどんなことされたって、抵抗はもちろん、口答えする自由すらもねーさ……。 けど、オレ達にだって心はある……お前、それ分かっててニュクスを創ったんじゃねーのか」
「むう、それはそうだが、だからと言って……」
「だから何だってんだよ。 やっぱお前にとっちゃ、オレらは、ただのオモチャなんだな。 勝手に作っといて、飽きたらそこらに放り出し、すぐに忘れちまうみてーな。 だったらいっそのこと、後腐れなく壊しちまえばいいんだ、そしたら、ニュクスだって、もう悩まなくていい。 壊すのは簡単……首でも締めりゃそれでおしまい、楽に死なせてやれ、そうすりゃ、あいつはお前を恨んだりしねーよ。 後始末だって楽なもんさ、一時間ほど放っとけば魔力も失せて、死体も消えちまう……ニュクスなんて女、存在したこともねーみたくな。 その間、死体で色々遊ぶことだって出来るぜ、そーやってベリアルの弟は、楽しんでたんだ」
「何!?」
 タナトスは顔色を変えた。
「けど、一度創ってみたんだし、もう気が済んだろ? いくら俺達が石だからって、退屈しのぎの道具にすんのは、やめてくれよ、お願いだから……。 あいつはともかく、オレ、頑張って、ずっとお前らに仕えて来ただろ? それに免じてさ……」
 紅毛の少年は深々と頭を下げ、そして夫の胸に顔を埋めた。
 サマエルは優しく“焔の眸”の化身を抱き止め、キッと兄を見据えた。
 すると、いつもは穏やかな光を湛えている弟王子の瞳の紅い色が変化し、さざなみ一つ立たぬ底知れぬ湖だったものが、不意に煮えたぎる血の池地獄へと変貌を遂げた。
 タナトスは、我知らず息を呑む。
「この力を与えたのは“黯黒の眸”……私のこの眼をおぞましいと思うお前に、ニュクスを愛せるものだろうか……」
 サマエルは内心の怒りを面(おもて)には出さず、その声も静かだったが、辺りの空気はぴんと張りつめ、タナトスのうなじの毛は逆立った。
「……それとも、お前は恐れているのか? 今でこそ力を失っているが、そのうち、自分を操り始めるかもしれない……とでも思って。 今まで“黯黒の眸”に憑依されておのれを見失い、破滅した者のいかに多かったことか。 私も危うく支配されかけたが、皮肉なことに“黯黒の眸”自身に授けられた“カオスの力”に守られて、こうしていられる。 あの至宝の力を得たいと望んだ者は、心を操られ、支配されてしまう……それを恐れ、彼女を敬遠しているのだとしたら、そもそも何ゆえ“黯黒の眸”に新たな肉体を、そして名をも与えたのだ? タナトス、お前はひどく罪作りなことをしたのだぞ、分かっているのか」
 タナトスは唇を噛みしめたものの、ひるんだところを見せまいと吼えた。
「──黙れ、俺は誰の支配も受けん! たとえ今、魔界の玉座を追われたとしても、俺は、自分自身の主人であり続けるだろう、それができなくなったときが、俺の死ぬときだ! それゆえ、俺は“黯黒の眸”を恐れてなどおらんし、ニュクスを敬遠しているわけでもない!」
 すると、ダイアデムが顔を上げ、サマエルにしがみついたまま、うわずった声で言った。
「……タナトス。“黯黒の眸”は、今まで散々悪さばっかしてきた。 だから、お前があいつを、何しでかすか知れねー、うっとうしいヤツだって思う気持ちは、分かるよ……。 でも、あいつもオレも、好きで、ンな能力を持って生まれたわけじゃねーんだ……。 サマエルはそこんトコを分かってくれてて、気にしねーって言ってくれてる……。 あいつを愛してくれなんて言わねー、だけど、ニュクスの姿を創り出した、親代わりのお前だけは……あいつを嫌わねーで、面倒みてやって欲しいんだ。 あいつは、ずっとオレのことをうらやましがってた……ちゃんとした肉体を欲しがってたんだよ。 恨みや悲しみや憎しみ以外の感情を感じてみたいって言ってさ……だから、お前に体、創ってもらえたのは、とってもうれしいと思ってるんだ、その気持ちを、どうか汲んでやってくれ、タナトス。 そしたら、あいつだって、ちゃんとそれに応えるはずだから……」
 かつて魔界の王権の象徴として、自分を魔界王に選んでくれた“焔の眸”の化身ダイアデムが瞳を震わせ、語りかけている。
 普段は誰の話にも耳を貸さない傲慢(ごうまん)な魔界の君主、黔龍王の心にも、さすがにその言葉は響き、タナトスは眼を伏せた。
「……済まん、ダイアデム。口が滑った。 貴様らは物などではない、れっきとした魔族であり、俺の同胞だ……」
 珍しく素直な兄の謝罪の言葉に、サマエルの眼も穏やかな色を取り戻す。
 少年の姿をした妻の紅い髪を優しくなでながら、弟王子は静かに言った。
「彼だけにでなく、ニュクスにもそう言って謝罪してくるのだね、タナトス」
「貴様の下知など……」
 言い返そうとしたタナトスは、ダイアデムの背中が小刻みに震えているのに気づき、力を抜いた。
「……そうするか。 悪気はなかったのだが、俺の態度は、彼女を傷つけていたのだな……探して謝ってこよう。 ──ムーヴ!」
 魔界王は呪文を唱え、ニュクスを探しに行った。

 1.石の心(5)

 タナトスの姿が消えた途端、ダイアデムは顔を上げ、ぺろりと舌を出した。
「やーっと行ったな。へっ、手間がかかるヤツだぜ。 ホントはニュクスのこと、気になってしょーがねーくせによ」
「まあ、タナトスの心境も分からないでもないけれどね……」
 サマエルがつぶやく。
 ダイアデムは、はっと身を硬くした。
 その瞳に、こっそり差した水ではなく、本物の涙が浮かび始める。
「お前があいつの肩持つなんて、やっぱ、オレ達が石だから……?」
 サマエルは、否定の仕草をした。
「いや、そうではなく、彼らの関係は私達同様、複雑だということさ。 魔界の君主と、重罪を犯した家臣という立場もあるしね。 タナトスが独断で罪を許しても、異議を唱える者はかなりいるはずだ。 それもあって、色々悩んでいるのだよ」
「そっか、ちゃんと考えてくれてたんだな」
 ダイアデムは、胸をなで下ろした。
「もちろんさ。 あいつが見かけほど不人情でないことは、知っているだろう? ニュクスも、もう少し付き合いが長くなれば、分かって来ると思うけれどね。 ……はっきりした女性が好みかと思っていたが、ずいぶん控え目な女性を創ったものだな……」
 最後の方はつぶやきに近かったが、耳のいい“焔の眸”の化身には、明瞭に聞き取れた。
「お前も、そういう女が好みなのか? ホントは“黯黒の眸”の相手はお前……“カオスの貴公子”のはずだったんだし、それとも、オレ達にもう飽きたのか?」
 サマエルは、けげんそうな顔をした。
「そんなこと言ってやしないだろう? ふと、タナトスの好みが変わったのかなと思っただけだよ。 だが、あいつは、お前に言われると素直になるように思えるな。 昔、何かあったのかと勘繰ってしまうよ」
「えっ」
 ダイアデムはぎくりとし、サマエルは少し淋しそうな表情になる。
「そう。やはり。だが、気にしなくていいのだよ。 お前は代々、魔界王の伴侶(はんりょ)と定められていたのだから、ベルゼブル陛下やタナトスの、夜の相手をするのも当然だ」
「汚らわしいって、思うだろ……」
 化身はうつむいた。
「いいや」
 静かに答える第二王子の顔を、少年は覗き込んだ。
「嘘だ! 正直に言えよ、平気なわけないだろ! お前が嫌いな、いーや、憎んでるって言ってもいい連中と、オレは寝たんだぜ!?」
「それは……少しは引っ掛かるけれど、済んだことだ。仕方がなかったことにいつまでも執着するのはやめよう。 それに私だって、タナトスには散々弄(もてあそ)ばれているし、ね」
 サマエルは淋しげな笑みを浮かべる。
「……そっか」
 ダイアデムは、大きく息をついた。
「若い頃は、私を愛してくれるなら、誰でもいいと思っていた時期もあった。 しかし、今は違う、お前だけだ、“焔の眸”。 お前ほど類希(たぐいまれ)な存在には、滅多にお目にかかれない。まさしく希有(けう)の至宝と言える……」
 ダイアデムは眼を伏せた。
「オレ、ベルゼブルが初めてだった。シンハは、好みじゃなかったみたいでさ。 けど、信じてくれよ、寝たのは一回ずつだけなんだ……」
「そういえばベルゼブル陛下は、美少年のハーレムを作っておいでだったね。 母上が亡くなってから……だそうだけれど」
「男相手なんか、超絶ヤだった。けど、魔界王の命令は絶対……。 あの夜も、必死に我慢してた。でも、ゼーンの記憶……昔の恐怖が甦って来て、とうとう、思いっ切りゲロぶちまけちまってさ。 もう終わりだ……散々殴られたあげく、壊されるんだ……そう思ったら、震えが来て、涙が止まんなくなって……。 でも、ベルゼブルは怒るどころか謝って来てさ。 もう無理強いしないって……でも、信用できないって言ったら、自由行動を許すって書いた許可証くれたんだ。 どうしてかな。あんとき吐いた石が気に入ったのかも? 苦しくて、マジ死にそうだったお陰で、かなり質のいい石を創れたもんな」
 “焔の眸”の化身であるダイアデムの体液は、すべて宝石となる。
 苦痛や悲哀、喜びなど、伴う感情が激しければ激しいほど、生み出される貴石は美しいものになるのだった。
「……吐いた? そんなに酷くされたのか」
 サマエルは痛ましそうな表情をしたが、ダイアデムの首は横に振られた。
「いや、ベルゼブルは優しかったぜ。けど、やっぱ、男相手はな……」
「すまない、私もお前に酷いことをしたね……」
 王子はうなだれた。
「いや、お前だったら構わねーよ、気にすんな」
「本当に?」
 サマエルは半信半疑で尋ねる。
「うん、お前はモトの……ベリアルの生まれ変わりだしさ。 フェレスん時も、吐かなかったろ?」
「そうだね」
 ほっとしたように、サマエルはうなずく。
「けど、タナトス相手は、やっぱダメだったな。 あいつ、戴冠式の晩、酔っ払った勢いでオレを寝室に引っ張り込んだんだ。 必死に耐えてたけど、とうとう限界来ちまってさ。 盛大にゲロ吐いた上、呼ぶ気なかったのに、長年の付き合いのせいかベルゼブルにオレの声が届いちまって、それで……」
 宝石の化身は、続きを映像としてサマエルに見せた。

       *         *         *

 タナトスは、烈火のごとく怒っていた。
 しかしベルゼブルは一歩も引かず、自分が“焔の眸”に与えた許可証を見せ、傷ついた化身、『ゼーン』にも会わせた。
 これで息子を納得させたと信じた前魔界王は、部屋を出て行った。
 直後、新魔界王は結界を張り、許可証を手に取ると、ずたずたに破り捨て、化身を睨みつけた。
「こんなものがあるから親父ごときに頼りたくなるのだ、貴様はもう、俺のものだということを肝に銘じろ! よくも俺の顔に泥を塗ったな、どうやって仕置してやろうか! 結界も張った、もう何があろうと、親父は助けに来んぞ!」
 魔界王が代替わりするたび、“焔の眸”に対する扱いは変わる。
 それを当然のことと受け止めていたダイアデムは、鞭(むち)を呼び出した。
「──カンジュア! ほら、これで、好きなだけひっぱたけよ」
「何?」
「だってお前、オレが逆らうたびに『魔界王になったら目にもの見せてやる!』って怒鳴ってたろ」
「ふん」
 一旦は受け取ったものの、魔界王はすぐに鞭を放り投げ、代わりに少年を抱き上げた。
「わ、何すんだよ!?」
「大人しくしろ、宝物庫まで行くだけだ」
「えっ?」
 そのまま魔界王は彼を運び、巨人に扉を開けさせる。
 宝物庫の中は相変わらず、色とりどりの宝石が燦然(さんぜん)と輝いていた。
 奥の部屋に進み、タナトスは周囲を見回す。
「そういえば、ベッドはどこだ?」
 少年は悲しげに答えた。
「ンなもん、三十万年くらい前、取り上げられてそれっきりさ。 あーあ、独りぼっちでまたここに、ずっといなくちゃいけねーのか。 今度外に出られるのは、何千年先だろ……お前の結婚式か、ベルゼブルの葬式か?」
「何だと?」
 魔界の君主は、眉を寄せた。
「だってオレらは、許可がねーとこっから出られねーんだ。 たまに会いに来てくれるヤツもいたけど、『また明日』って言っといて、女が出来たら、それっきり。 次に来たのは五百年も後、その女との結婚式さ。 んで、文句言ったらひっぱたかれてよ。 ナマモノって、忘れっぽくってマジ信用できねー……ま、そいつもとっくに墓ン中だけどな」
 ダイアデムは肩をすくめ、床の一角を指差す。
「ほら、あそこが寝場所。シンハが何十万年も寝そべってたから、すり減っちまった。 あ、直したりしねーでくれよ、他よりほんのちょびっとだけど、居心地がいーんだ。そんくらいの自由、くれたっていいだろ? ここにゃ誰も来ねーし、あそこだけちっとみすぼらしくったってよ」
 それを聞いたタナトスは顔をしかめ、呪文を唱えた。
「──カンジュア! 今日から、これで寝ろ」
「ひゃっ!?」
 いきなり豪華なベッドの上に放り出された少年は、小さく悲鳴を上げた。
「今日はめでたい日だ、これで勘弁してやる。 明日は覚悟しておけ。たっぷりと思い知らせてやる、誰が貴様の主人かということをな! 朝一番に部屋へ来い!」
 そう言い捨てて、タナトスは出て行く。
「明日っから地獄だなぁ……。 けど、あいつが魔界王なんだ、仕方ねーや。オレが苦しめば、王家の財政は潤(うるお)うんだし……。 何万年か我慢して、また別なヤツを選ぶ……次のはマシだといーけどな。 いつまでンなこと、続けりゃいーんだか。ホントの自由が欲しいぜ……」
 汎魔殿の中だけとはいえ、一万年ほども自由を謳歌(おうか)していた後で、突然その権利を奪われるのは、ひどく耐えがたいことのように感じられた。
 少年は、枕に顔を埋(うず)め、すすり泣いた。
 紅い貴石が純白のシーツの上に転がる。
 周囲で輝く宝石の群れは、長い年月の間に、彼が苦痛や悲しみと共に生み出した物だった。
 それでも、まるで魔法にかかったように、新しいベッドの心地よさに誘われて、普段睡眠を必要としない彼も、つい眠り込んでしまった。
「うわ、まずっ、寝ちまった!」
 はっと飛び起きた時には、もう昼近かった。
「あーあ、今頃行ったらきっと、たくさんぶたれて、それからまた……」
 べそをかく彼の眼に、枕元のテーブルに乗っている、二本の巻物が映った。
 広げてみると、一つは、昨夜破かれたはずの許可証だった。
 二本目を開けた少年はそれを引っつかみ、魔界王の部屋に駆けて行った。
「タナトス、何だよ、これ!」
 息を弾ませて扉を開けた彼をじろりと見やり、王は言った。
「俺は媚(こび)を売るヤツは好かん、今まで通りにしていろ。 それからな、過去の屑(くず)共と、俺を同一視するな、たわけ」
 もう一つの巻物は、タナトスが書いた新しい許可証だったのだ。

         *         *         *

 サマエルは額に手を当て、ため息をついた。
 鞭が出てきたところでは、ダイアデムを鞭打った数と同じだけ、兄を殴ってやりたそうな顔をした彼だったが。
「なるほど。一晩寝て、あいつも頭が冷えたのだろうね。 でも、忘れたのかい、ダイアデム。お前は一度死んで、復活したのだよ。 だから今のも、前世の記憶と言っていい。気にすることはないさ」
 ダイアデムの顔が、ぱっと明るくなる。
「そっか! この体、お前が新しく創ってくれたんだっけ! あ、そーだ! ──カンジュア! これ、覚えてっか?」
 呼び出された物を見て、サマエルは微笑んだ。
「まだ持っていてくれたのだね」
「うん、だって、お前が彫ってくれたもんだし、誰かから物もらったこと自体、初めてだったし。 ずっと大事にしまっといたんだ」
 化身が差し出す鎖の先に揺れていたのは、小さな木彫りのライオンだった。
 大きさはウズラの卵ほど、両眼には小さなルビーが輝き、カッと口を開いている。
「あの頃は魔法が使えなかったから、地道に手彫りするしかなかったのだよ。 今見ると、下手過ぎて恥ずかしいな。 ──オーラム!」
 サマエルは、呪文で銀の鎖を金に変え、少年の首にかけた。
「ンなことねーって。オレ、これ好きだぜ。 ああ、自由ってマジいーよな! もう、他のヤローを選ぶ必要がねーんだから!」
 宝石の化身は夫に抱きつき、サマエルは、彼を優しく抱き締めた。

 1.石の心(5)

「どこだ、ニュクス! さっきはすまなかった、謝る!」
 “要石の間”に着くなり、タナトスはそう呼びかけた。
 だが、石造りの部屋は冷たく静まり返り、どこからも応答はない。
「ニュクス? どこだ?」
 あちらこちらと視線を移しながら、黒衣の美女の姿を探し求める魔界王。
 その眼に、かつて“黯黒の眸”を封じ込めていた結界の青白い光が、飛び込んできた。
「……? あの結界は、すでに作動していないはずだが……まさか!」
 タナトスは、魔法陣に駆け寄る。
 ぼんやりとした光の中、ほこりにまみれた床に無造作に転がっていたのは、至宝の片割れ、“黯黒の眸”だった。
「何ゆえ、こんなところに落ちているのだ? 浮かんで回転しているのが常だというのに。 ──痛(つ)っ!」
 眩しい光がスパークし、いぶかしげに宝石を拾おうとしたタナトスの手が、結界によって弾かれた。
「どういうことだ? この結界は、貴様が張ったものか、“黯黒の眸”?」
 そう尋ねても、床に転がった宝石は黙したまま、王の姿さえその結晶面に映し出そうとはしなかった。
「一体どうしたのだ、“黯黒の眸”! 答えろ! 俺は貴様の主、魔界王タナトスだ! 何ゆえ返事をしない!?」
 脅したりすかしたり、いくら呼びかけても、闇の宝石からは、どんな答えも返って来なかった。
 かんかんに腹を立てて戻ってきたタナトスは、そのうっぷんを弟と至宝の片割れにぶちまけた。
「可哀想に。お前に怒鳴られたことが、よっぽどショックだったのだね」
 同情を禁じ得ないといった感じの声でサマエルが言うと、タナトスは弟を睨みつけた。
「前々から俺は、四六時中怒鳴りまくっていたぞ、どうして今さら!」
 ダイアデムは、なっていないと言いたげに指を振った。
「ちっちっち、分かってねーな、二人共。そうじゃねーよ。 おい、タナトス。お前さっき、あいつになんて言ったんだ?」
「さっき? いつのことだ?」
 けげんそうに訊き返して来るタナトスに、ダイアデムは苛つき、足を踏み鳴らした。
「──ボケ! オレとニュクスが入って来たとき、何てったかって聞いてんだよ!」
「貴様! その言い草は何だ!」
 乱暴な言葉遣いに腹を立てたタナトスは、またも少年に食ってかかる。
「……タナトス」
 だが、サマエルが静かに声をかけると、我に返って弟を見、それから音を立てて椅子に座り込んだ。
「──ちっ! ああ、あのときは、たしか、『暇なら“要石の間”で昼寝でもしていろ』、とか言ったように思うが。 それがどうかしたのか?」
「やれやれ、まだ分かんねーのか? 今はまだ昼間だろ、だから寝てるんだ、誰にも起こされねーようにって、結界まで張ってさ。 あいつは、ちゃんと、お前に言われた通りにやってんじゃねーか。 なのに、何で怒るんだ?」
 ダイアデムの言葉に、タナトスはあんぐりと口を開けた。
「お、俺の、命令を、守って……? しかし……」
「あのな、お前がニュクスの体を創ってやって、たった一年半しか経ってねーんだろ? 大人のナリはしちゃいるが、ニュクスはまだ赤ん坊なんだよ。 元々精霊だし、ナマモノにとっちゃ当たり前のことも、何一つ知らねー。 シンハだってベリアルにくっついて、何年もかけて少しずつ、色んなこと教わったもんなんだぜ、“オレ”はまだいなかったからな」
 ダイアデムは、自分を指差し、続けた。
「けどニュクスは、“黯黒の眸”の化身ってだけで皆に敬遠されて、話相手もいねーし、心細くても、頼みの綱のお前は責任放棄と来てる。 結局、何で怒られるのかも分かんねーまま、あいつはただ、命令を忠実に実行するしかねーんだ」
「ないないづくし、だね」
 サマエルが穏やかに口をはさむと、ダイアデムはうなずいた。
「そーゆーこと。ベリアルは優しかったぜ、サマエル、お前に似て。 あ、お前がベリアルに似たのか」
「そうだね、きっと」
 第二王子は微笑む。
 自分のうかつさにようやく気づいたタナトスは、額に手を当て、重い息を吐いた。
「……なるほど、そうか、そういうことか……。 分かった、あいつにはできるだけ優しくしよう。 これからも色々と教えてやる」
 ダイアデムは、鼻にしわを寄せた。
「へん、気紛れに化身なんか創っちまった、お前が悪いんだからな」
「く、しつこいぞ、ダイアデム! 分かっていると言ってるだろうが!」
 噛みつくように答える兄に、サマエルはにっこり笑いかけた。
「私は経験済みだが、子育てと言うのはなかなか大変だよ、タナトス。 ましてや彼女は、特別なのだからねぇ。 お前もそろそろ観念して、お妃を本格的に探してみてはどうだ? いい乳母を見つければ、楽に子育てができると思うが」
「くそっ、黙れ、貴様の下知など受けん!」
 タナトスは苛つき、またも大声を上げる。
 ダイアデムがニヤニヤ笑いを浮かべながら、とどめを刺した。
「そーだよ、余計なお世話だよなぁ、タナトス。 せっかくこれから、ニュクスを理想の女にするために、あ〜んなことや、こ〜んなことを、手取り足取り、教えようとしてるってのに」
「うるさいぞっ、貴様ら、いい加減にしろっ! 用がないなら、とっとと人界に還れっ!」
 魔界の王は、扉に向けて荒々しく手を振った。
「ひえ〜、こわ〜い!」
 軽く両の拳を握って顔の前で合わせ、少しも怖くなさそうに紅毛の少年は言った。
 サマエルは、こらえ切れずに声を押し殺して笑い始めた。
「くく……我々がいると、ニュクスと二人切りになれないものねぇ? さ、お邪魔虫はとっとと退散するとしようか、ダイアデム」
「そっだね、ご馳走様〜ってか?」
「早く消えろ!」
「ち、他人事だと思いおって!」
 弟夫婦が去ると、タナトスは忌々(いまいま)しげに舌打ちした。
 しかし考えてみれば、彼らも、自分とは多少違うものの、様々な試練を乗り越えて結ばれたのだった。
 魔界王はしばし、複雑な表情で、弟と、様々な意味で特殊なその妻の出て行った豪華なドアを見つめていた。
 日が沈み、辺りに漆黒の闇が立ち込める。
 魔界の夜は、心の奥に潜む深い淵めいて底が見えない。
 いったんは闇に沈んだ汎魔殿のすべての回廊の燭台に灯りがともされるまで待ち、タナトスは、再び“要石の間”を訪れた。
「……おい、もう日も落ちたぞ、目覚めろ、“黯黒の眸”……」
 淡い輝きに覆われた魔法陣に、恐る恐る声をかける。
 だが、こんな地の底深くでは日没も分からないだろう。
 一瞬、彼は、二度と“黯黒の眸”が目覚めないのではないかという危惧に捕らわれた。
“我を呼んだか、魔界の君主サタナエルよ……”
 しかしそれは杞憂(きゆう)に終わり、静かな“黯黒の眸”の念話が、彼の心に流れ込んで来た。
「さっきはすまなかったな、“黯黒の眸”。 知っての通り俺は気が短い、つい説明するのがおっくうになり、怒鳴ってしまう。 だが、これからは遠慮せずに聞いてくれ、ちゃんと教えてやるから」
“それには及ばぬ。おぬしは魔界の君主たる身、我ごとき下僕の面倒など見ておる暇はあるまい、もはや邪魔立ては致さぬ。 それにまた、この身が結界に封じられてさえおれば、家臣どもがいたずらに騒ぎ、おぬしを悩ますこともない……。 束の間であったが、初めて『楽しい』という感情を理解できたひとときであった……。 もっと前におぬしに会っていたならば、かつてのごとく、いらぬ殺生をする必要もなかったものを。それだけが悔いの残る事柄ではあるがな……”
「貴様、人間の姿が気に入ったと、その姿のままでいたいと、そしてもっと外界を見たいと言っていたではないか、もう諦めるのか!」
“肉体を与えられて一年半余……素晴らしき機会を与えられ、おぬしには深く感謝しておる。 されど、もはや十分堪能させてもらった。後は再び眠りにつくのみ……”
「いや、許さん、貴様は魔界の至宝なのだ、魔界王たる俺に仕えねばならんのだ!」
 タナトスは、だだっ子のように言い募った。
“たとえおぬしが我を赦(ゆる)そうとも、家臣らは、おいそれとは赦すまいぞ……”
「うるさい、俺は黔龍王タナトス、あやつらを束ねる魔界の王なのだ、文句は言わせん! ──銀(しろがね)の箱にて眠りし貴石、闇の象徴たる宝珠、魔界の至宝、“黯黒の眸”よ。 我、魔界王サタナエルが汝に命ずる、長き眠りより目覚め、ニュクスとなりて我に仕えよ! ──プレイサ・サージュ!」
 タナトスが呪文を唱えると、魔法陣が眩しく輝いた。
 一瞬後、光は消えて、黒衣の美女の姿があった。
 保護欲をかき立てられるような、ほっそりとしたシルエット。
「出て来い、ニュクス」
「なれど、タナトス……」
 ニュクスの漆黒の瞳が、ゆらゆらとたゆたう。
「出て来て、俺のそばにいてくれ。 それとも、お前は色々と理由をつけてはいるが……本当は、俺のことが嫌いなのか?」
 常日頃まわりの者達に向かっては、わざと冷酷で、我がままな振りをするのを楽しんでいる魔界王だったが、今、彼は、緋色の眼に浮かんだ深い哀しみの色を悟られまいと眼を伏せていた。
「いいや」
 か細い返事と共に、魔法陣の光が消えた。
 タナトスが素早く手を差し出すと、ニュクスはおずおずとそれを取り、彼の目の前に立った。
「俺は何があってもお前を守る。約束する。 怒鳴るのが嫌だと言うのなら、直すように努力……いや、必ず直す!」
 ニュクスはうなずいて手を引っ込めようとしたが、タナトスは放さなかった。
「放せ……」
「嫌だ。また魔法陣の中に戻る気だろう」
「……戻りはせぬ」
「本当だな」
 タナトスが念を押すと、彼女はこくんと首を振った。
 しかし、解放された手を胸の前で固く握り締め、後ろに下がりたいような素振りを見せる。
「怯えるな、逃げないでくれ、ニュクス。 お前には決して、手荒な真似はせんから」
「……まことか?」
「ああ。女神アナテにかけて誓う」
 タナトスは胸に手を当てて宣誓したが、ニュクスの瞳には、まだ怯えの色が深かった。
「そんなに俺が信用できんか、ニュクス、俺は」
「タナトス……妾は、妾は……どうすればよいか分からぬのだ……」
 ニュクスの体は小刻みに震え出した。
 そして、いきなりくるりと背を向け、走り出す。
 虚を突かれ、タナトスは行動を起こすのが一瞬遅れた。
「ま、待て、行くな!」
「──ムーヴ!」
 しかし、走りながら彼女は移動呪文を唱え、“要石の間”から消え失せた。
「なぜ逃げるのだ、ニュクス、戻れ! 戻って来い、戻って来てくれ───っ!!」
 タナトスの叫びが、虚しく石造りの部屋にこだまする。
 それを見守るかのようにそびえ立つ巨大な要石は、ひたすら沈黙を守っていた。

 2.花嫁候補(1)

 その後、タナトスは懸命にニュクスを捜したが、汎魔殿は広く、わずかな手がかりすら見つけ出すことはできなかった。
 日が経つに連れて彼の苛立ちは増し、政務への興味も急速に失せて、それまではきちんと出席していた会議にも、一切顔を出さなくなった。
 さらには、しばしばふらりと汎魔殿を抜け出し、単身、王都バシレイアに出かけるなど、遊び歩くようになってしまった。
 家臣達は困り果て、魔界王の下で魔界を四つに分割統治する一人、西のデーモン王パイモンが、タナトスを諌(いさ)める役を買って出た。
「陛下、失礼致します。パイモンでございます」
「何の用だ、俺は忙しい、後にしろ」
 入室して来たデーモン王をろくに見もせず、タナトスは書類に眼を通しては、羽ペンを使い署名をし続ける。
 その日、タナトスは最近には珍しく、執務室で仕事をしていた。
 さすがにここのところ遊び過ぎたかと、みずから反省し、滞(とどこお)っていた執務をせっせとこなしていたのだ。
「陛下、今日こそは話を聞いて頂きますぞ。 どうかお手を休めて、お顔を上げて下さいませ」
 威圧するような口調で言い、長身のパイモンはデスクに両手をついた。
 タナトスは、険しい顔でデーモン王と視線を合わせた。
「……話だと? ふん、どうせ、遊びが過ぎるとかいう小言だろう。 だが、見えんのか、貴様。 俺は今、こうして仕事をしているぞ、文句はなかろう」
「たまたま今日は、いらっしゃいましたな」
 嫌味っぽくパイモンは答える。
「貴様の言いたいことなど、とっくに見越しておるわ、会議にも出ろと言うのだろうが? ふん。どうせ俺はただ椅子に座り、首振り人形のように、貴様らが決定したことに同意を与えているだけに過ぎんというのにな。 そんなに飾りの王が必要か?」
 冷ややかにタナトスは決めつけた。
「飾りの王などと……ただ、下の者にも示しがつきませぬゆえ、毎回でなくとも、重要な会議の折には、是非ともご出席願いたく……」
「重要だと? この平和な状態で、俺が決断せねばならんような決定事項など、一体どこにあるというのだ? もういい。見ての通り仕事が溜まっている。 貴様らごときにとやかく言われんでも、今後、遊びはほどほどにしてやる、下がれ」
 横柄に手を振り、仕事に戻ろうとする魔界王に、パイモンは食い下がった。
「いえ、西デーモン王たるわたくしめに免じて、今少し、お話をお聞き下さいませ」
「ちっ、何だ。さっさと言え」
 タナトスは舌打ちしたものの、続きを促した。
 パイモンは大きく息を吸い込み、口を開いた。
「それでは、申し上げますが。何ゆえ陛下は、お妃様をお決めになられぬのですか。 たった一人の弟君、サマエル殿下も魔界をお出になられ、お妃は、こともあろうに“焔の眸”閣下……失礼ながら、お子様は望めませぬ。 さらには、陛下、あの札付きの“黯黒の眸”を女の形にお創りなさるなど、お戯(たわむ)れも度が過ぎておりますぞ! 左様なことに、うつつを抜かしておられるお暇がおありなら、せめて幾人か、お妃候補を……」
「──黙れっ!」
 タナトスは両手を机をたたきつけ、立ち上がった。
「陛下、お静まりを。お怒りは、ごもっともでございま……」
「──何がごもっともだ、黙れと言っているのが聞こえんのか、貴様!」
「いいえ、黙りませぬ、是非とも……」
「いい加減にしろ、俺も遊びが過ぎたと思い、大人しく聞いていれば言いたい放題! 貴様がデーモン王などでなかったら、今すぐここで、息の根を止めてやるものを!」
 魔界王は怒りに激しく身を震わせ、パイモンを睨みつけた。
「殺されても構いませぬ、わたくしは、魔界王家のために……」
「ふん、何が王家のためにだ、貴様らは俺を、種馬としか見ておらんのだ! 早めに子作りをさせ、意のままにならん俺よりも、傀儡(くぐつ)として扱いやすいガキを王位に就けたい、──それが家臣どもの総意なのだな! 貴様らの言い分はよっく分かった。 つまるところ、何でもいい、女を連れて来て妃にすればいいのだろうが!」
 言うが早いか彼は、扉に向かって突進して行った。
 タナトスが、魔族の女性との間に子供を作ることができないということは、極秘とされ、ごく一部の者を除き、伝えられてはいない。
 家臣達が知れば、タナトスの立場を揺るがす可能性があったからだ。
 そのため、何も知らず良かれと思って忠告に来ているパイモンには、形だけでも妃候補を決めてやれば、デーモン王のみならず家臣達も納得し、穏便に事が済むはずで、それは彼にも分かっていた。
 だが、“黯黒の眸”にまで話が及んだことが、苛立ちを煽(あお)る結果となり、彼はついに爆発してしまったのだった。
「あ!? へ、陛下、お待ちを! 陛下! 誰か、陛下をお止め申し上げろ!」
 驚愕し、控えの間にいた小姓達に命を下すパイモンの声を背中に、タナトスは勢いよく執務室のドアを開け、回廊に出た。
「陛下、お待ち下さい、陛下!」
 部屋の中からは、パイモンの声が追いかけて来る。
 デーモン王の顔も小言も、金輪際(こんりんざい)見聞きしたくないと思ったタナトスは、舌打ちして左右を見回した。
 人々が何事かと歩みを止め、小姓や兵士達が集まってくる。
 このまま走っても、すぐに捕まりそうだった。
 一瞬ためらったのち、彼は、本来汎魔殿の中では禁止されている、移動呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
 たちまちタナトスは、汎魔殿の門の前に来ていた。
 爽(さわ)やかな一陣の風が吹き抜け、彼の髪とマントをはためかせる。
 頭上には、広々とした空が広がっていた。
「……あーあ、せいせいしたな。まったく小うるさいパイモンめが」
 生き返った気分になり、彼は大きく伸びをした。
「タ、タナトス陛下……!?」
 突如現れた彼を見て、うなだれて門のそばにたたずんでいた青い毛並みのケルベロスが、ぎょっとしたように後ずさる。
「貴様、マルショシアスだな。まだ犬のままか」
 タナトスは、三つ首の番犬を冷たく見下ろした。
「はい……“焔の眸”閣下は取り成して下さいましたが、ベルゼブル陛下のご裁定では、やはり一生、犬として過ごすようにと……」
 元侯爵、マルショシアスはうなだれた。
「ふん、生かされているだけでもありがたいと思え。 ところで貴様、妻子はいるのか?」
 魔犬は、真ん中の首だけを持ち上げ、力なく横に振った。
「いえ、どちらもおりません。 側女(そばめ)達にも子はなく、すべて里に帰しました。 侯爵領にただ一人残っております妹は体が弱く、また、わたくしが犯した罪のため、婿のなり手もないでしょう。 わたくしの生殖能力は止められておりますし、由緒ある侯爵家も、これにて断絶となりそうです。自業自得ではありますが……」
 タナトスは眉間に険しくしわを刻んだ。
「ふん、どいつもこいつも。 俺もたった今、口うるさいパイモンの小言から逃れてきたところだ。 まったく、血筋が絶えるのどうのこうのと、ガタガタ騒ぎ立ておって!」
「そ、それは非常な一大事でございましょう、陛下。 特に王家ともなれば、魔界人の心の拠(よ)り所でございますよ。 天界に勝つ、そのためには、我ら魔族が、王家の元で団結することが何より大事なのでございますから」
「ち、貴様までうだうだ言うか」
 不快な話題から遠ざかろうと、踵(きびす)を返しかけたタナトスは、ふと、あることを思いついて立ち止まった。
「そうだ、マルショシアス。俺は今、是非とも行きたい場所があるのだ。 貴様、一番下等な娼館を知らんか?」
「……は?」
 マルショシアスは、ぽかんと王を見上げる。
「聞こえなかったのか、最も下等な娼館を知らんかと聞いたのだ。 娼館にもランクがあるだろう、その中で一等程度が低く、女も、二目と見られんような醜悪な者しかおらん、そんなところだ」
 元侯爵は、六つの紅い眼を丸くした。
「そ、そのような下賎(げせん)な場所に、一体どんなご用が……。 あ、いえ、魔界の王ともあろうお方ならば、どのような高貴な美姫(びき)も思いのままでございましょうに……」
「この際、女なら何でもいい、というより、酷ければ酷いほどいいのだ。 そうだ、貴様、俺の露払いをするなら、今すぐ元に戻してやる。 俺に従え、マルショシアス。どうだ、悪い話ではなかろう」
「で、ですが、前魔界王ベルゼブル様のご裁定を覆(くつがえ)すようなことをなさいましたら、陛下への風当たりが一層酷くなるのではございませんか?」
 心配そうにマルショシアスは問い返した。
 彼はベルゼブルと話した折、デーモン王達の、タナトスに対しての評価を聞いたのだ。
「ふん、くそ親父がどうした、今の王は俺だ。 それにどうせ家臣どもは、俺が何をどうしようと、すべてが気に入らず、ピーチク騒ぎ立てるに決まっているのだからな。 それより貴様、元の姿に戻りたくないのか!」
 タナトスは、脅すように指を突きつける。
「そ、それは無論、元に戻して頂けるのでしたら、どんなことでも、喜んでさせて頂きますが……」
「よし、決まりだな。 魔界の侯爵、マルショシアスよ、三つ首の魔犬、ケルベロスの風姿より、おのれの本源たる肉体へと復せ! ──フェアデンデルング!」
 せっかちなタナトスは、速攻で呪文を唱えた。
 番犬の姿が輝きに包まれ、直後マルショシアスは、あれほど望んだ魔界の貴族の姿へと、ついに戻っていた。
「おおお!」
 元侯爵は、感慨深げに自分の手や足、体を見回し、動かし、触れてもみた。
 背中に流した髪は魔犬だったときと同じ、鮮やかな青色で、眼は紅く、肌は日に焼けて体は引き締まり、背はタナトスより少し低い。
 年の頃は、人間で言えば三十前半といったところだった。
 貴族にふさわしい黒いシルクの服に身を包んだ彼は、地面に片膝をつき、喜びを噛み締めるように、うやうやしく頭を下げた。
「タナトス陛下、お礼の言葉もございません! このマルショシアス、今後は命に替えても、陛下に忠誠を尽くすことを、お誓い致します!」
「そんなことより、さっきの続きだ、知っているのか、いないのか」
 マルショシアスの感激など意に介さず、短気なタナトスは答えを急かす。
「ええ……お尋ねは、娼館……でございましたな、最下等の。むむ……」
 マルショシアスは、首をひねり、ちょっとの間、考えた。
「左様ですな……わたくしの定宿(じょうやど)の女主人でしたら、顔が広く、存じておるかもしれませんが」
「よし、では、その宿に案内しろ」
「しかし、本当によろしいので?」
「しつこいぞ、ケダモノに戻りたいのか、貴様!」
 タナトスは、彼を睨みつけた。
「わ、分かりました、それではご案内致します、お手を拝借(はいしゃく)。 ──ムーヴ!」
 マルショシアスは、魔界王の手を取って呪文を唱え、二人は汎魔殿の門前から姿を消した。

 2.花嫁候補(2)

 着いたところは、元侯爵の行きつけだけあって、洒落た感じの宿屋だった。
 老いた女主人は、マルショシアスが罪を許されて元の姿に戻ったことを、心から喜んでくれた。
 しかし、話が娼館に及ぶと、若かりし頃の美しさを残す上品な顔をしかめた。
「まああ、最低の娼館ですって……?」
「そうだ。ゆえあって、どうしても行かねばならなくてな」
 マルショシアスも、負けず劣らず難しい顔つきで答えた。
「そうですか、分かりました。 わたくしの知っている限りでは、レテ街にある、『アケロン』というお店でしょうね。間違いなく、最下層の娼館だと思いますわ。 お待ち下さい、今、地図を……」
 彼女は、ぱちんと指を鳴らして地図を呼び出し、そこに店の名と道順を記して、差し出した。
 それを手にとり、タナトスは首をかしげた。
「レテ街だと? 聞いたことがないぞ。レテ河のそばにでもあるのか?」
 侯爵も、物珍しげに地図を覗き込んだ。
「いえ、この地図では、もっと王都寄りですね」
 魔界にはいくつかの川が流れているが、レテは『忘却』という意味を持つ。
 その川を超えると、辺境地帯ということになっていた。
「ええ、ここからでも馬車で一時間ほどの距離ですわ。 レテ街は、王都に近い割に瘴気が濃く、別名、『忘却の街』とも言われ、それこそ低俗な店ばかり集まっている花街のようですわね。 何もかも忘れたい男女が行きつく街、だとか……」
 女主人は、ゆっくりと首を横に振った。
「ふん、それで忘却の街か。まあいい、女、手間を取らせたな。 マルショシアス、行くぞ」
「は」
「お二人共、お気をつけて」
 タナトスはマントを翻(ひるがえ)し、マルショシアスは女主人に目礼して、宿を後にする。
 正体を隠すため、魔界の王族達は全身をすっぽりと黒いローブで覆い隠し、再び魔法で移動して、怪しげな建物が立ち並ぶ通りへと歩を進めていた。
 すでに辺りは暗くなり、店々には灯りが点り始め、彼ら同様にローブを着た人々が行き交っていて、想像以上ににぎわっていた。
「むう、少々腹が減って来たぞ。ここらの料理屋で腹ごしらえするか」
 タナトスが言うと、マルショシアスは首を横に振った。
「それはちょっと……おそらくこの通りにあるのは、あいまい宿だと思われますので」
「あいまい宿? 何だそれは」
「つまり、表向きは茶屋や料理屋を装い、中で女に客を取らせる店のことでございますよ。 それに、このような場所で出される食事が、陛下のお口に合うとは、とても思えませんが」
 タナトスは、深々とかぶったフードの奥で顔をしかめた。
「ち、『陛下』は使うな、こんなところで。 いや、汎魔殿に戻っても、俺のことは名前で呼べ」
「御意(ぎょい)。 ……あ、どうやらこの店のようです」
 マルショシアスは、手にした地図と看板を照合して言った。
 そこにはかすれた汚い字で『アケロン』と書き殴ってあり、この界隈(かいわい)でも最もみすぼらしい店構えをして、灯りさえ、他の店より暗かった。
「……タナトス様、本当に、このようなところでよろしいので?」
 侯爵は、おずおずと尋ねた。
 ついさっきまで犬だったとはいえ、こんな薄汚い娼館に入っていくのは、気が進まなかった。
「ふん、嫌なら、貴様は外で待っておれ」
 タナトスは、まったく怖(お)じる風もなく、歩を進める。
「あ、お待ちを! 左様なわけには参りません、露払いを仰せつかったのですから!」
 慌ててマルショシアスは、タナトスの後に続く。
「いらっしゃい。お二人様ね」
 薄暗い娼館の案内には、厚化粧の太った中年女が一人、けだるそうに木の机にひじをつき、座っていた。
「いや、お客はこちらのお方だ。お前がカロンか?」
 マルショシアスが問うと、女は立ち上がりもせず、上目遣いに彼を見た。
「そうだよ、あたしが渡し守さ、死人さん。さて、どんな娘がお好み?」
「一番醜い女を」
 間髪入れず、タナトスが答える。
 侯爵はぎょっとし、物憂げな女の表情が、少しだけ動いた。
「……ふうん、あんたも物好きってわけだ。 ま、金さえ払ってもらえりゃ、こちとら客の趣味は問わないよ。 オルプネ、ゴルギュラ! お客だよ、ここにおいで!」
 その声に応え、古びた階段をきしませて二人の女が降りて来ると、おかみは訊いた。
「さ、どっちがいいかね」
 しかし、魔界の王族達は度肝(どぎも)を抜かれ、答えることが出来ずにいた。
 醜いなどという、月並みな理由からではない。
 下着のような衣服しか身につけていないその女達は、人型をしていなかったのだ。
 二人のうち、片方は青紫に輝くウロコに覆われた二足歩行の蜥蜴(とかげ)、そしてもう一方は、エメラルドグリーンが美しい、歩く蛙(かえる)だった。
「ほほ、びっくりしてるねぇ。話を聞いて来たんじゃなかったのかい? それとも想像以上だったのかね。 ここにいるのは、皆、魔族が普通持ってる“第一形態”を持たない娘ばかりなんだよ」
 自慢げに、娼館のおかみは言った。
「何!? 第一形態を持たんだと……そんな馬鹿な!」
 タナトスは思わず叫ぶ。
 おかみは肩をすくめた。
「何にも知らないんだね、お客さん。 まあ、お大尽(だいじん)様方じゃ、知らなくて当然か。 でもね、普通の家にもごくたーまに、そういう子供は生まれるだろ。 それに、魔界の奥地じゃ、濃過ぎる瘴気(しょうき)のせいで、生まれたときから第二形態じゃないと生き延びられないんだよ。 こういう娘達は短命だし、姿のせいでまともな職もない……結局、体を売るしかないのさ」
 初めて聞く話に、タナトスとマルショシアスは言葉を失い、顔を見合わせた。
「知らないで来たんなら、ものは試しだ、一度買ってご覧、病み付きになるよ。 それとも、爬虫類(はちゅうるい)系はお好きじゃないのかね。 お望みなら、もっと毛色の変わったのも、色々取り揃えているんだがね……くくく」
 おかみはいやらしく笑う。
「い、いや、この女達でいい。これで足りるか?」
 我に返ったタナトスは、懐から革の袋を取り出し、中を開けて見せる。
 ざらざらと、色とりどりの宝石が机の上にこぼれ出し、薄暗い灯りの下でさえも、その輝きは見間違えようもなかった。
「ひぇっ、ほ、宝石……本物かい、こんなに!?」
 女は椅子から転げ落ちそうになり、マルショシアスは慌てた。
「そ、そんなに必要ございませんよ、これでは一晩どころか、ここの娼婦全員を身請けできてしまいます!」
「ふん、ではこの館にいる女、全部買い上げるとするか」
 こともなげに、タナトスは答える。
 おかみは眼を剥(む)いた。
「全員だって!? じょ、冗談じゃない、商売上がったりだよっ!」
「何だ、足りんのか? では、これでどうだ」
 タナトスは無造作に、宝石の袋をさらに一つ追加した。
“陛下、お戯(たわむ)れは……”
 焦ったマルショシアスが念話で話し掛けてくるのを無視し、魔界王はさらに尋ねた。
「ところで、ここには何人いるのだ?」
「さ、三十二、ですよ、旦那。 で、でも、これじゃ足りませんねぇ、もう一袋、いえ二袋は欲しいところで……」
 おかみはすでに、宝石の袋を二つ共、両腕で抱え込んでいた。
 眼の色が変わっている。
「そうか」
 タナトスは懐に手を入れると見せかけ、いきなりおかみの胸倉をつかんだ。
 その衝撃で袋が床に落ち、音を立てて輝く石が床に散らばる。
「この業突(ごうつ)く婆(ばばあ)め、身に過ぎた欲は破滅を招くぞ! 足りんというのなら、こいつをくれてやるが、どうだ!」
 魔界王は腰に下げていた黄金の剣を抜き、光る刃を女の顔に突きつけた。
「ひぃい、だ、旦那、ご勘弁を! お、お代は十分です、これで十分でございますぅ!」
 おかみはガタガタ震え、手を合わせた。
「分かればいい、さあ、すぐに女どもを集めろ、一人残らずだ!」
 タナトスは、乱暴に中年女を解放する。
「へ、へい、旦那! 何ぼーっとしてんだい、オルプネ、ゴルギュラ! 全員ここに連れて来な、早くするんだよ!」
 おかみは、あっけに取られて事の成り行きを眺めていた女達に命じると、自分は大急ぎで床の宝石を拾い集め始めた。
「はーい」
 女達は二手に分かれ、慌(あわただ)しく同僚達を呼びに行く。
 その隙に、念話でマルショシアスは王に尋ねた。
“タ、タナトス様、女達を集めて、どうなさるおつもりなので……”
“汎魔殿に連れて行く”
 タナトスの答えは簡単明瞭だった。
“は、汎魔殿に!? こんな低級な色里(いろざと)の女どもを、ですか!?”
 タナトスは、にやりと笑った。
“ああ、そうだ。 パイモンが、何でもいいから、早く妃候補を決めろとうるさいのでな。 これだけ候補がいれば、ヤツも満足だろうさ!”
“えええっ!?”
 ようやく、とんでもないことに荷担させられたことに気づいた侯爵は、腰を抜かしそうになった。
 だが、短気な王に逆らえば、すぐまた犬に戻されてしまうだろう。
 そう思った彼は、意見は差し控えることにした。
 そして娼婦達が集まり始めると、マルショシアスだけでなく、タナトスも眼を見張ることとなった。
 次から次へと現れたのは、おかみの言った通り、様々な形状をした女達……蜥蜴や蛙だけでなく、綺麗な毛並みの三毛猫や黒光りする犬、さらに驚いたことには、バッタやイナゴなど、昆虫に近い姿の者までいたのだ。
 さすがに虫女達は、体の方は人型に近かったが。
「……すごい。これだけ集まると壮観ですね」
 マルショシアスはつぶやく。
「ふん、第二形態でいるときでも、これほどの人数が、いちどきに集まることは珍しいからな……」
 第二形態を持たないタナトスの返事は、どこかうらやましげだった。
「そうだ、貴様、女どもを運ぶ馬車を出しておけ」
「は」
 急いで侯爵は、娼館の外へと駆け出してゆく。
「支度が整いました」
 マルショシアスが戻って来てそう告げると、タナトスは女達に向かって宣言した。
「お前達は俺が買い取った。外の馬車に乗れ」
 女達はどこに連れて行かれるのかと不安な顔で、ぞろぞろと、彼と侯爵の後をついて戸口に向かう。
 魔界王は侯爵に念話を送った。
“さて、マルショシアス、貴様はこの後どうする気だ? どうせ領地に帰っても恥さらしだろう、宦官(かんがん)として、後宮で仕えているがいい”
 一瞬ためらった後、マルショシアスは同意した。
“……御意。 ですがタナトス様、妹にだけは、会って安心させてやりたく存じます。 一旦領地に帰ることを、お許し願えませんでしょうか”
“ならば、三日経ったら戻って来い。 貴様の妹には、俺の権限で適当な婿を見繕(みつくろ)ってやる、それで文句はなかろう”
“ありがたき幸せ。 ですが、まずは汎魔殿までお送り致しましょう、どうぞ、馬車へ”
“俺は貴様の隣でいい、女どもの化粧臭さにはうんざりだからな。 だが、今から楽しみだな、パイモンはどんな顔をすることやら!”
 タナトスは、これから汎魔殿で巻き起こるであろう大騒ぎを想像して、うきうきしながら御者(ぎょしゃ)席の侯爵の隣に座る。
「では、参ります。 ──ヴェラウェハ!」
 マルショシアスは遠距離移動の呪文を唱え、馬車を汎魔殿の門前へと運んだ。

 2.花嫁候補(3)

 数日と経たないうちに噂は汎魔殿中を駆け巡り、タナトスの目論見通りに、大騒動が持ち上がった。
 当然、パイモンは血相を変え、執務室に飛び込んで来た。
「陛下! あなた様が連れて参られた女達は、皆、いやしい花街の、しかも第一形態を持たぬ遊女どもだ、というのは真(まこと)ですか!?」
 待ち構えていたタナトスは、いたずら小僧のように眼を輝かせ、答えた。
「ああ。貴様が、何でもいいから早く妃候補をと騒ぐから、わざわざ一等下賎な遊郭(ゆうかく)に乗り込んで大枚をはたき、買い込んで来てやったのだぞ。 選(よ)り取り見取りだ。どれが妃によかろうな?  俺は蛙が気に入っているが、どうだ」
「何と……何と情けない、これが魔界に君臨するお方の所業(しょぎょう)とは……!」
 パイモンは声を詰まらせ、首を横に振った。
「あっはっはっは!」
 魔界王は高笑いしながら立ち上がると、パイモンに指を突きつけた。
「どうせ貴様は、俺がどんな女を選ぼうと、難癖をつけて来るのだろうが! もういい、当分、貴様の顔は見たくもない、謹慎しておれ、追って沙汰する!」
「へ、陛下……!」
 デーモン王は、わなわなと体を震わせた。
「黙れ! 俺が貴様を成敗(せいばい)せんうちに、失せろ! ──ヴェラウェハ!」
 タナトスは強制的に、家臣を領地まで飛ばした。
 次にやって来たのは、父親であるベルゼブル前王だった。
「タナトス、そなたは……」
 現在の魔界王は眼を怒らせ、それ以上を言わせなかった。
「うるさい、今の王は俺だ、親父だとて、くちばしを挟むことは許さん!」
「何じゃと!」
「たとえ前王だろうと、俺のやり方に文句は言わせんと言っているのだ! まだ何かほざくなら、魔封じの塔にぶち込んでやる、出て行け!」
 タナトスは荒々しく叫び、父親を追い返した。
 その後も入れ代わり立ち代わり、他のデーモン王や大臣が押しかけて来ては、タナトスに苦情を申し立てた。
 初めこそ楽しんでいた彼も、徐々に苛立ちを募らせ、ついに執務室を飛び出してしまった。
(──ち、忌々しい!)
 自分で撒(ま)いた種とはいえ、客間の一つに身を隠す羽目に陥り、憮然(ぶぜん)としていた魔界王を見つけ出したのは、叔母イシュタルだった。
「ここにいたのね、タナトス。捜したのよ」
「もう、うんざりだ! 誰が何と言おうと、俺は好きなようにやるからな!」
 顔をしかめ、すぐさま移動しようとしたタナトスを、イシュタルは押し留めた。
「待って、タナトス。心配いらないわ、わたしはお前を支持するから」
 想像したのと真逆な返事に、彼は動きを止めた。
「……何だと?」
「たしかにお前は、一時期執務をおろそかにして、遊び歩いていたわ。 それは責められるべきでしょう、でも、その後、自発的にやめたじゃない。 なのにパイモンと来たら、戻って仕事をしているところへ押しかけて、がみがみ言って。 しかも、お前が嫌がると分かっているお妃の話題を、わざわざ持ち出して。 デーモン王達は、お前の出来が悪いと頭から決めつけて、良さをちっとも認めようとしないんですもの、お前が腹を立てるのも当然だわ。 タナトス、お前、“黯黒の眸”の件でも色々言われて、それでも我慢していたのよね、短気だのなんだのと、ずっと批判されていたから」
 意外過ぎる答えにタナトスは面食らい、無言で叔母を見つめた。
 イシュタルは、にっこりした。
「ふふ、驚いた? でも、わたし、今までも、幾度か忠告はしてきたのよ、デーモン王達には。 そんな調子では、いつかタナトスを追い詰めてしまうわよ、って」
「……そうだったのか」
「さっきも、パイモンに言ってやったわ。 タナトスは、今やれっきとした魔界の王、そうでなくとも、もういい大人なのだし、子供扱いや過ぎた口出しはいらぬお節介よ、ってね」
「叔母上……」
 まったくの予想外だったが、叔母が自分をようやく理解してくれたと思い、彼は頬を緩めた。
「それに、連れて来られた女達は、お前にとても感謝しているわよ。 王都や近郊から身売りした者だけでなく、奥地からさらわれて来た者もいたし」
「女達に会ったのか、叔母上」
「ええ、昨日ね。でも、あそこまで揃うと、何と言うか、見事だわね……」
「ああ、初めて見たとき、俺もそう思った。 勢いで全員買い取って来たのだが、考えてみれば、あんな低級な娼館に売られて喜ぶ女はおらんし、その点では、いいことをしたと言えるかも知れんな」
「そうね。後で後宮に行ってご覧なさい、大歓迎されるわよ。 それとね、意外でしょうけど、汎魔殿では好評を博しているのよ、今回のことは」
「……何だと、なぜだ?」
 自分の行動が顰蹙(ひんしゅく)を買っていると思い込んでいたタナトスは、理由が分からず首をかしげた。
「暇を持て余している宮廷雀(すずめ)達には、いい話題提供になったということよ、しかも、拉致された女達を助け出して来たなんて、美談じゃない。 実のところお前は、即位から今まで、皆が想像した以上に真面目に勤めを果たしているし、時折起こす奇抜な行動も、汎魔殿の住人には退屈しのぎになる程度だわ。 だから今回のお前の行動も、割と好意的に見られているのよね、頭の固い大臣達を除いては。 それを知らせに来たの、お前が腐っているだろうと思ってね」
 イシュタルは微笑んだ。
「ふん、おだてても何も出んぞ」
 そっけなく言いながらも、タナトスも釣られてにやりとした。
 そんな彼の顔を、イシュタルは、爪先立って覗き込んだ。
「あら、お前、空腹なのじゃなくて?」
「ん? そういえば、最近、精気もあまり食っておらんな……」
「苛々していたのは、そのせいもあるのね。 ねぇ、久しぶりに、二人きりでゆっくりしないこと? ちょうどベッドもあるし、誰もこんなところに、わたし達がいるなんて思わないでしょう……?」
 イシュタルは、誘うような仕草をして見せた。
 するりとドレスが脱げて足元に落ち、見事な裸身が露(あらわ)になる。
「……親父はいいのか?」
 タナトスにしては珍しく、声には少しためらいがあった。
 イシュタルは甥(おい)の首に手を回し、その耳元でささやく。
「お前が気にするなんてね。 大丈夫……というより、あの方は、もうお年寄りだから……実はわたしも、空腹なのよ、とても……」
「そういうことか。では、遠慮なく頂くとしよう」
 タナトスは叔母を抱きしめ、口づけた。

        *        *         *

 汗に濡れ、乱れた銀髪を整えながら、イシュタルはタナトスに声をかけた。
「お前ときたら、いつもわたしを抱きながら、サマエルを呼ぶのね。 たまには、わたしの名を呼んで欲しいものだわ」
 隣に横たわる、弟によく似た顔をした叔母の、均整の取れた姿態(したい)。
 それを堪能していたタナトスはベッドの上に起き上がり、肩をすくめて言い返した。
「そういう叔母上こそ、親父を呼んでいたが」
「えっ、……」
 虚を突かれ、イシュタルは絶句する。
「くく、冗談だ、俺と違って叔母上は、ちゃんと区別をつけているさ。 というより、俺と、しょぼくれた親父とでは、間違えようがないというべきか?」
 彼は笑い、若い肉体を見せつけるように、胸を張った。
 イシュタルは、すねたように頬を膨らませた。
「……もう。お前は、サマエルとわたしを比べているんでしょう。 どうせわたしは、あの子の代用品よ」
「ふん、俺をサマエルと比べているのは、叔母上の方だろう! 本気のあいつに抱かれたいと思ってな!」
 タナトスの声に冷ややかさが戻る。
 イシュタルはそれを否定せず、言った。
「タナトス。そろそろ仕事にお戻りなさい。 他のデーモン王や家臣達にも、話は通しておいたから、もうお前を悩ます者はいないはずよ」
「ふん、仕方あるまいな」
 顔をしかめ、タナトスは魔法で服を着る。
 一旦は晴れた心が、また曇ってくるのを彼は感じた。
 今の魔界には、自分のことだけを見、心から思ってくれる者はいないのだ、と……。
 執務室に戻り、書類を片付けていたとき、彼はふと思い出した。
 弟と共に人界へと赴くことになった、“焔の眸”の化身との会話を。
 魔界王家の守護精霊としての任を解かれ、サマエルと一緒にいられるようになったというのに、なぜか化身は、さほどうれしそうではなかった。
 そして別れの日、ダイアデムは上目遣いに訊いて来たのだ。
「……なあ、タナトス。オレ、ホントに行っていいのか?」
 タナトスは不審に思い、訊き返した。
「何だ、貴様、今さら。自由になりたいと言っていたくせに。 サマエルと共に暮らすのは嫌か?」
「そうじゃねーよ、ただ……お前が一人になっちまうだろ」
 意外な返答に、彼はあっけにとられた。
「何を言っている、俺は……」
「だって、お前も結構、孤立無援じゃねーか。周りは頭の固いジジイばっかでさ。 その上で、魔界の至宝っていう後ろ盾がなくなっちまうんだぜ、お前、マジに、やっていけんのか?」
「うるさい、それくらいで俺が参るとでも思っているのか、たわけ者! 貴様、以前のように俺に弄ばれ、反吐(へど)を吐かされるような暮らしに戻りたいと言う気か!」
 そう叫んでしまってから、すぐに魔界の王は後悔した。
 宝石の化身の体に激しい戦慄(せんりつ)が走り、肩を抱いてうずくまってしまったのだ。
「済まん、ダイアデム……だが、サマエルなら、俺より遥かに優しいはずだ。 あいつを頼む、俺なら一人でも大丈夫だ」
 タナトスは語調を和らげたが、少年は、うずくまったまま首を横に振った。
「オレ、ホントに自由になってもいいのかなぁ……」
「何?」
「縛られた生活に慣れてたからかな、何か急に……怖くなって……」
「ふん、貴様は今まで、汎魔殿の中では勝手気ままに振舞っていたではないか、行動範囲が多少広くなるだけのことだろう、何を怖がることがある」
「そりゃそうだけど、さ……」
 ダイアデムは、まだ自信がなさそうに眼を伏せていた。
 短気なタナトスは、再び声を荒げた。
「──ならば、俺が命じてやる! “焔の眸”よ、我、魔界王サタナエルが命じる、貴様は今後、弟サマエルと常に行動を共にし、ヤツの正気を保つことのみに心を砕け! これが魔界王として出す、俺の最後の命令だ、分かったか!」
「うん」
 ようやくダイアデムはうなずいた。
 それから、胸に手を当てて深々と頭を下げ、シンハの声で言った。
『黔龍王、サタナエル陛下。 陛下の命に従い、我、“焔の眸”は、弟君、ルキフェル殿下の元へ参る。 自由を賜(たまわ)り、深く感謝申し上げる』
「長の勤め、大儀であった、“焔の眸”よ。 ──さあ、さっさと行ってしまえ、サマエルの頭が、またおかしくならんうちにな!」
「うん、ありがと、タナトス!」
 少年は元気よく答え、手を振って駆けて行った。
 あのときタナトスは、去っていくダイアデムに、ジルを重ね合わせていた。
(……結局は誰も、俺を選んではくれんのだ!)
 彼はうつむき、両の拳を力一杯、机にたたきつけた。

 2.花嫁候補(4)

 翌日。
 イシュタル叔母のお陰だろう、もはやタナトスのところに、苦情を言い立てに来る者は現れなかった。
 それどころか、汎魔殿の中を行く自分に向けられる貴族や女官達の視線が、叔母の言った通り、少し前までとはまったく違っていることに、タナトスは気づいた。
「ふん……」
 拍子抜けした彼は、汎魔殿では受けたこともない尊敬の眼差しに、どこか居心地の悪さを感じつつ、ともかく執務室へと入り、今日の分の仕事をこなした。
 その日は会議はなく、手が空いた午後、彼は好奇心も手伝って、自分が身請けした女達に会ってみることにした。
「女ども、入るぞ!」
 案内も請わずに、後宮の、女達にあてがわれた部屋に入って行くと、動物めいた姿が一斉に駆け寄って来て、彼を取り囲み、口々に叫んだ。
「わあっ!」
「魔界王様だ!」
「ありがとうございます!」
「王様万歳!」
「うるさい! 一度にわめくな!」
 タナトスは険しい顔で、女達を怒鳴りつけた。
「皆、静かにしな!」
 そのとき、娼館アケロンで最初に出てきた一人、蛙に似た女が一喝して女達を黙らせた。
「魔界王様、あたい、皆を代表してお礼を言いいますだ。 助けてくれて、ありがとうございましただ!」
 蛙女は、田舎(いなか)言葉丸出しで深々とお辞儀をし、他の女達も一斉に頭を下げた。
「おう、お前はたしか、最初に出て来た女の一人だな」
「オルプネですだ、魔界王様」
「……ああ、そんな名だったか。 そうだ、お前達も、俺に対しては称号などはいらん、名前で呼ぶがいい。 ところで、イシュタル叔母に聞いたが、身売りした者だけでなく、さらわれて来た者もいたそうだな」
「はい、魔界王様……いんや、ええっと、そのぉ……」
 オルプネは口ごもり、困った顔で、うかがうようにタナトスを見た。
「何だ貴様、俺の名を知らんというのか!」
 魔界王の眉間に、稲妻めいたものが走る。
 蛙女のすぐ後ろにいた、犬の姿をした女が急いで彼女に耳打ちをした。
「タナトス様だよ、オルプネ。お名前は、タナトス様」
 オルプネは、ほっとしたようにうなずくと、深くお辞儀をした。
「す、すまねぇこってす、タナトス様。 でも、あたい、このゴルギュラと……」
 蛙女は、隣にいた蜥蜴の女を指差す。
「一緒にさらわれて来て、もうずっと……十年以上も、あの店、『アケロン』に閉じ込められてて、ろくに、外にも出たことなくって。 そんだから、あんまし、魔界王様のお名前も、聞いたことなかっただ、本当にすんません……」
「タナトス様、オルプネを許してやって下せぇ。 あたしら庶民にゃ、尊い王様のお名前なんて、恐れ多くって、そんなに話の中にも出て来ねぇし、よく知らなかったんで……」
 蜥蜴女も口を添え、女達は二人で一緒に、ぺこぺこと頭を下げた。
 たしかに、魔界で“魔界王”と言えば、現在、タナトスただ一人を指す。
 日常生活に無関係な王の名前など、一般庶民にとってはうろ覚えでも別に支障はないに決まっている。
 当然タナトスにも、それくらいのことは分かっていたし、そんな細かいことをあげつらう気分でもなかった。
「ふん、そういうことなら仕方あるまい、もう気にするな。 ともかく、俺が身請けした以上、お前達は自由だ、どこへなりと行っていいぞ、家がある者は帰るがいい。 ここに残ってもいいが、下働きとして働くことになる。 取りあえず後宮に連れて来たのだ、俺は間違っても、お前達を側女(そばめ)にする気はないからな!」
 タナトスは、きっぱりと言ってのけた。
 パイモンを始めとした、口やかましい家臣達に当てつける目的は果たしたのだし、もうこの女達に用はなかった。
「嫌だなぁ、そんなの分かってますよぉ、タナトス様。 後宮にゃ、綺麗な女の人が一杯いるだし、高貴なお方が、あたいらみてぇな半端もんを相手にする気がねぇことぐらい。 あんな店から救い出して下さっただけで、ありがてぇんだすから」
 魔界王の許しを得たオルプネは安堵し、水かきのついた手を振って、ケロケロと声を上げた。
(……ほほう)
 蛙が笑うのを初めて見たタナトスは、思わずしげしげと、その様子を見てしまった。
「おんや、珍しいですか? そうでしょねぇ、たーんとご覧下さいな」
 蛙女は、そういう眼で見られることに慣れているのだろう、別に気にした風もない。
 タナトスは慌てて言った。
「い、いや、分かっておればいい。 ああ、せっかく汎魔殿に来たのだ、話の種に、城内を見て回ってもいいぞ。 床に案内用の矢印がある、場所を告げればどこにでも行けるからな」
「え、いいんですかぁ!?」
 オルプネは眼を輝かせ、女達を振り返った。
「皆、聞いたかい!? お城の中、見学していいんだってさ!」
「わあ、素敵!」
「いい土産話ができるわ!」
「お城の中が見れるなんて!」
 女達は黄色い歓声を上げた。
 顔をしかめたタナトスは、騒ぎを制して、忠告した。
「待て、お前達、単純に喜ぶな! 汎魔殿は広い。矢印があっても端から端まで歩けば何日もかかる、迷っても、捜してなどやらんからな、注意して歩けよ!」
「分かりましただぁ、タナトス様。 何から何まで、本当にありがとうございましただ、ほれ、皆も!」
 蛙女が音頭を取ると、三十二人の女達は声をそろえ、タナトスにお辞儀をした。
「ありがとうございました!」
「ふん、もう礼などいい、聞き飽きた」
 うんざりした口調で言い捨て、タナトスは部屋のソファに腰掛けた。
「それより、俺も退屈しているのだ、汎魔殿から、ろくに出られんのだからな。 俺とて、自由がないと言う点では、囲われている女と大して変わりがないわ。 そうだな、いい機会だ。お前らの村の話でも聞かせろ」
 彼は、ぱちりと指を鳴らす。
 たちまちその手に、ワインの入ったグラスが現れた。
 オルプネは眼を丸くし、女達はざわついた。
「ええ、あたいらの? で、でも、ど田舎で、何にもねぇ村だよぉ? 瘴気のせいで、作物もあんまりできねぇだし、さらわれて来てからの方が、いいもんが食えるようになったくれぇで……なぁ、ゴルギュラ」
 話を振られた蜥蜴女は、こくこくとうなずいた。
「う、うん。アルキュラ村は、し、瘴気を封じ込めるために、作られた村だし、何にも、ねぇだよ……」
「何、瘴気を封じ込めるために作られただと? どういう意味だ?」
 今度は、タナトスが眼を見張る。
「あれ、知らねぇんですかえ、タナトス様。 元は、大昔の王様の命令で、あたいらの村だけじゃなくてぇ、何百って村が奥地に作られたんですよぉ、瘴気を噴き出す穴をふさぐためにさぁ」
「むう、そうだったか……?」
 首をひねっているうち、タナトスは、魔界王になる直前、歴史を再学習した時のことを思い出した。
「……そういえば、移住初期の頃に、立ち込める瘴気を少しでも薄めようと、そうした試みが行われたのだったな……だが、ほとんどの村が死滅し、放棄されたと聞いた。 その当時の村が、まだ残っていたとは」
「あたいらの村だけですよぉ。 うんと離れてるとこに隣村があるんだけんど、やっぱ昔、全員死んじまって、別んトコから移住して来たんだっていう話で。 千百歳の長老様が、もう体は利かねぇのに口だけは達者で、皆に発破(はっぱ)かけてたんだけんど……。 あたいらがさらわれて来てから、もう十年以上経っちまってるだし、長老様はまだ生きいなさるだかねぇ、他の皆もどうしてるだか……」
 蛙女は遠い眼をした。
「ふん、そんな何もないところでも帰りたいのか」
「そりゃそうだすよぉ、生まれた村ですもん。 ま、おっとうもおっかあも、とっくに死んじまってるですけど。 あそこじゃ皆、瘴気のせいか、寿命が短くってねぇ、せいぜい千二百歳までしか生きられねぇだす。 ホントは、もっといい、せめてもっと作物が実る土地に移りたいって、村の人は話してんだけんど、何しろ貧乏で、引っ越す金もねぇもんで……」
「なにぃ、寿命が千二百年だと!? クニークルスよりも短いではないか!」
 タナトスは驚き、叱りつけるように叫ぶ。
 蛙女は悲しげにうなずいた。
「ええ、多分、あたいらの村が、魔界で一番寿命が短い気がするだす。 あ、そういやクニークルスも、大昔にゃ、奥地にいた種族だって聞いたですよ。 それが、いつの代かの魔界王様の眼に留まり、お城の菜園を任されるようになったそうで。 長老は、頑張ってりゃいつか、自分らも認めてもらえるって口癖みてぇに言ってただけんど、村人はもう、たったの四十人しきゃ残ってねぇだすし。 しかも若もんは、もうあたいとゴルギュラだけになっちまってたんだす。 そんな僻地(へきち)だから、新しい魔界王様……タナトス様が即位なさったって知ったのは、即位式が終わってから、もう三年も経っちまった後でさ、お祝いに行くこともできなかっただすよぉ……」
「ふうむ……」
 タナトスは驚きから覚めると、言った。
「そうと聞けば、放っておくわけにもいくまい。 村人を全員奥地から引き上げさせ、今まで苦労をかけた分、ねぎらってやらねば。 もう瘴気の封じ込めなど、とっくに必要なくなっている、こうして強大な結界を張り、瘴気を防ぐことができているのだからな」
「ええっ、全員を引き上げさせるですだぁ!? そ、そりゃうれしいだすけんど、でも……あたいらはこんな姿だし、王都に出て来たって、見世物になっちまうだけじゃねぇですだろか。 それに、アケロンのおかみが言ったみてぇに、まともな働き口だってありゃしねぇですだよ……」
 蛙女はうつむき、首を横に振る。
 その横で、蜥蜴女もうなだれていた。
「ふん、村人の二十や三十、この汎魔殿に置くことなど造作(ぞうさ)もない。 雑用はいくらでもあるからな。 それに、城内を歩いてみれば分かることだが、貴族でも獣の頭を持つ者も結構いるぞ。 仕事ができさえすれば、蛇だろうが豚だろうが、俺は姿形は問わん」
「村の人が、全員、お城で暮らせる!? ほ、ホントですかえ、タナトス様。 あたい達のために、そんなことまで……信じられねぇだすよぉ」
「す、すごいよ、オルプネ。すぐ、皆に知らせなきゃ!」
 蜥蜴女ははしゃぎ、紫の舌で、ぺろりと唇をなめた。
「そうだな、ちょうど今、手が空いているし、行ってやるか」
 タナトスはそう言い、パンパンと手を鳴らす。
「お呼びでしょうか、タナトス様」
 現れた女官に、彼は告げた。
「イシュタル叔母上に伝言を。『俺は今から、例の女達の村に行き、村人を全員ここに連れて来る』と」
「かしこまりました」
 女官は問い返すこともなく、一礼して引き下がる。
「これでよし。叔母上に行き先を告げておけば、文句も言われんだろう。 さあ、お前達、俺と手をつなげ。そして思い浮かべろ、故郷の村を」
「はい!」
 二人の女は、喜んでタナトスの手を取る。
 魔界王は、彼女達の思念を受けて場所を特定し、呪文を唱えた。
「──ヴェラウェハ!」

 3.魔界の影(1)

 目的地まではかなりの距離があったが、魔界王の力は強大である。
 三人は一瞬で、荒涼たる魔界の奥地に到着していた。
「わあ!」
「なつかしいだよぉ!」
「……!」
 女達は歓声を上げるも、タナトスは危く咳き込みかけた。
 辺り一面に、強力な瘴気が渦巻いていたのだ。
 しかもじっとりとした湿気が体中にまといつき、それもまた呼吸を妨げる原因となっていた。
「……むう、聞きしに勝る、瘴気の濃さだな」
 彼は急ぎ手を一振りし、自分の周りに結界を張る。
 一方、女達は平気な顔で、瘴気にかすむ集落に向かって駆け出して行った。
「おーい! あたしら帰って来ただよぉ!」
「長老様! 今帰ったよ、オルプネだよぉ!」
「──ち」
 タナトスもその後を追い、村に入って行った。
 時に忘れられ、古ぼけた、みすぼらしい村。
 時折吹く突風は、さらに強力な瘴気を村の外から運び、周囲の風景や石を積んで作られた家々を、汚らしい茶褐色に染めていた。
(ふん、こんな瘴気まみれの、じめじめした薄汚い場所に長く住んでいたら、寿命が縮まるのも当たり前だな)
 タナトスは一人ごちた。
「誰も出て来んようだが、どうしたのだ?」
 先行した二人に追いつき、彼が尋ねると、女達は振り返り、答えた。
「この時間だと、多分、瘴気の谷に行ってるんだと思いますだ」
「ほう、瘴気の谷か。俺はまだ、瘴気が噴き出すところを直接見たことがない、行ってみるか」
「そりゃいいだけんど。村を越えて、かなり行かなきゃならねぇだよ」
 オルプネが、水かきのついた手で指差す彼方には、さらに煙って見える景色が広がっていた。
「それに谷に行くんなら支度がいるだ、あたいらでもやっぱし、ろ過マスクくれぇはねぇと、さすがに息がしんどいだから」
「そんなものはいらん、俺が結界で囲んでやる。 手をつなげ。谷を思い浮かべろ」
 タナトスの答えは、いつも通りそっけなかった。
 手を一振りし、彼女達を結界で囲んでから、彼は呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
 すぐに三人は、谷間の入り口に着いた。
 巨大な灰色の岩がごろごろと転がり、一段と濃く立ち込める瘴気のせいで、水中にでもいるかのように、すべての物が揺らいで見える。
 一歩結界の外に出ただけで、すさまじい臭気に襲われる羽目になるだろうとタナトスは思い、思わず鼻にしわを寄せた。
「……これは想像以上だな……」
 それに反して女達は、はしゃいでいると言ってもよかった。
「ここに来ると、村に帰って来たって感じがするねぇ!」
「ホントだわぁ!」
「そんなことより、村人達はどこだ?」
 顔をしかめたまま、タナトスは女達を急かした。
「あ、すんません。 ええっと……十年前と、噴き出すとこが変わってなければ、あっちだと思いますけんど」
 オルプネが指差す方角に、タナトスは結界球を進めた。
 いくらも行かないうちに、毒々しい茶褐色の気体が充満した場所に出た。
 すさまじい勢いでひっきりなしに瘴気が、ごつごつした岩の間から噴き出している。
 もし、直接この中に入れば、自分の手の先さえ見えないだろう。
 ろ過マスクをつけていたとしても、並みの魔族ならすぐに呼吸困難を起こし、一日中作業することなど不可能と思われるこの谷の最深部に、うごめく人影があった。
「あ、いたいた!」
「皆! あたいら帰って来ただよぉ!」
 女達が声を上げる。
「あんりゃあ、そこにいるのはオルプネかい?」
 それに気づいた何人かの人影が、近寄って来た。
「そう、あたいだよ!」
「やっぱりそうだか!」
「おう、ゴルギュラじゃねぇだか、心配したぞ!」
「でも、元気そうだな」
「うん、皆も、元気でよかった」
「おや、そっちのお人は誰だぇ? 見かけねぇ顔だが、お客人かぇ?」
 村人の一人が、タナトスに気づいて尋ねた。
「あ、そうだ、皆、聞いてけろ。 このお方はタナトス様、今の魔界王様なんだよぉ」
 オルプネが声を張り上げる。
「ひえっ!? そ、そんな偉ぇお方が、なしてこんだらとこさ……? い、いや、それより、皆、ほれ、ぼさっと突っ立ってんじゃねぇ、御前だぞ、ひざまずかねぇか!」
 黒い犬の姿の村人が声をかけ、全員が大慌てで、足場の悪い岩場に膝をつく。
 タナトスは、彼らに向かって手を振った。
「そんな礼儀などいらん、俺は貴様らを王都に連れて行くために来たのだ。 村人はこれで全部か?」
「へ、へぇ、村にいるのはこれで全員ですだ、魔界王様。 けど、おら達を王都にって……か、勘弁して下せぇ、お、おら達、何にも悪いことしてねぇですだよぉ。 ただ、昔の魔界王様に言われた通り、こうして毎日せっせと、瘴気の穴をふさいでるだけで、そんな……」
 罪人として連行されてしまうと勘違いした、黒犬の村人は、祈るように手を合わせた。
「安心しろ、俺は貴様らを捕らえに来たのではない、その逆にねぎらいに来たのだ。長の年月、ご苦労だったな」
「ええっ!? いぇえ、とんでもねぇこってす。ま、魔界王様が……わざわざこんな田舎に来て頂いた上、おら達をねぎらって下さるなんて、信じらんねぇだ……ありがてぇ、涙が出ますだ!」
 黒犬の男を筆頭に、村人達は彼を伏し拝んだ。
「顔を上げろ。もはや貴様らは、こんな空気の汚れた場所で、手作業で瘴気の穴をふさぐなどといった、時代錯誤の作業をする必要はないぞ。 こんな辺ぴな場所で、うまく連絡が行かなかったのだろうが、結界で瘴気を防ぐことができるようになって久しいのだからな。 仕事がないという心配もいらん、汎魔殿で働けるよう、俺が取り計らってやるつもりだ」
「ほ、本当ですだか、魔界王様!? お、おら達を、お城で働かせて下さると仰る!?」
 男は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
 その後ろで、村人達もざわついている。
「ああそうだ。だが、こんな場所には長居は無用だな、詳しい話は村に戻ってからしてやる、先に行っているぞ」
 タナトスは結界球を反転させ、さっさと谷間を後にする。
 村に戻って待つことしばし、村人達が駆け足でやって来た。
 結界から出たオルプネとゴルギュラは、全員と抱き合い、再会を喜んだ。
 その間中、タナトスは苛々と足を組替えながらも、どうにか急かすことを思い留まっていた。
 それが一段落し、興奮が収まった彼女達は、尋ねた。
「あ、でも、なして長老様の姿が見えねぇんだ?」
「家にもいなかっただけんど、どうしただ?」
 村人達は顔を見合わせ、代表して、またも黒犬の男が答えた。
「……実は長老様は、最近めっきり体が弱くなっちまってな。 村に住むのはもう無理になって、隣村に住まわせてもらってるだよ。 そんで、今はおらが、長老様に代わって皆をまとめてるんだが」
「ええっ、長老様が!?」
「そげに具合悪いんだか?」
 オルプネとゴルギュラが心配そうに尋ねると、男は肩をすくめた。
「いやいや、口はまだまだ達者だけんど、さすがに体の方は、寄る年波には勝てねぇんだなぁ。 それにほれ、やっぱ隣村なら、アルキュラよか、少しは瘴気が薄いだろがよ。 んで、静養さ行ってけろって、皆で意見しただけんど、長老様はなかなか首を縦に振らなぐてなぁ。連れてくのに難儀しただよ」
「……そっか。 あ、あのぉ、タナトス様……言いにくいんだけんどもぉ……」
 おずおずと切り出すオルプネに、タナトスは舌打ちした。
「──ち。その、隣村にいる年寄りも一緒に連れて行けと言うのか」
「へ、へぇ、この通り、お願ぇしますだ」
「ねぎらいのお言葉、長老にも聞かせてやりてぇんです、お願ぇしますだ、これ、この通り……」
 二人の女達は手を合わせ、地面に額(ぬか)づいた。
「お願ぇしますだ、長老様もお連れ下せぇ!」
 村人達も声を揃え、土下座をした。
「……ふん、面倒だが仕方あるまい。一番の生き証人と言っても過言ではないのだからな、その年寄りは。 是非ともねぎらい、余生を安楽に暮らせるよう取り計らってやることが王たる俺の責務だろう。 貴様ら。汎魔殿に着いたなら、まずは、ぬくぬくと平和を享受している貴族どもに今までの苦労を語って聞かせ、先祖の苦難を思い出させてやるがいい。 そら、いつまでそうしている気だ、立っていいぞ、皆の者!」
 タナトスは、手を振って村人達を促す。
 それから、思い切り渋い顔をした。
「しかし、大昔のたわけ者どもの尻拭いを、なぜ俺の代でせねばならんのか、その点は大いに不服だがな!」
「す、済みませんだ、タナトス様。 け、けど、長老様は、あたいらにとって、すっごく大事な……」
 あたふたと言い訳するオルプネを、タナトスはさえぎった。
「気にするな、お前達に腹を立てているのではない。 惰性で王位を継いで来た、先祖代々の愚王どもに対して怒りを感じているだけだ。 ──さあ、さっさとそのジジイを連れに行くぞ、隣村を思い浮かべろ!」
 タナトスは、ひやりとしたオルプネの手を無造作に握る。
「へ、へぇ。んじゃあ皆、待っててけろ。すぐ長老様を連れて来るだよ」
「そんじゃあ、おらも一緒に行きますだ。 長老様を預けてる家に、ご案内しますで」
 黒犬の男が進み出る。
「ああ、案内しろ」
 隣村に着くと、過剰に歓待されることを好まないタナトスは言った。
「おい、貴様ら、俺のことは言うなよ。これ以上、歓迎だの何だのとされると、時間ばかりかかって面倒だ」
「わ、分かりましただ。では、こっちですだ」
 それから彼らは黒犬に先導されて、長老が預けられている家に向かった。
 引き取ることを告げられた村人は、少し驚きはしたものの、それを歓迎した。
 貧乏なのは、この村もアルキュラと大差なかったため、食い扶持(ぶち)が減ることは、正直ありがたいことだったのだ。
「……迎えに来て頂けたんはありがたいだすが、あんた様は……何やら他の人とは、どこか違いなさるようだけんど」
 さすがは年の功、長老は、タナトスの尋常ならざる魔力に気づいていた。
“俺の正体は、村に帰ってからこいつらに聞け”
 タナトスは念話でそっけなく答え、冷たい女の手を握る。
「用件は済んだ、帰るぞ、オルプネ」
「は、はい」
 蛙女は、急いで老人と黒犬の男の手を取った。
 それを目の隅で捉えて、魔界の王は呪文を唱える。
「──ムーヴ!」
 こうして、アルキュラ村へと戻って来た長老は、オルプネ達から説明を聞き、感涙にむせんだ。
「おうおう、魔界王様……待っていた甲斐がありましただ。 ワシはもう、今すぐ死んでもいいですだ」
「ふん、まったく年寄りというものは、涙もろいものだな」
 それに感銘を受けることもなく、タナトスは村人を急かした。
「さあ、貴様ら、さっさと支度をしろ、出来次第、すぐ出発するぞ! のろのろしているヤツは、置いていくからな!」
 タナトスが本気で、自分達を汎魔殿に連れて行く気で入ることを知り、村人達は大慌てで支度にかかる。
 オルプネとゴルギュラは、長老の支度を手伝う。
 全員の準備が終わると、タナトスは馬車を呼び出し、村人を載せて汎魔殿へと向かった。

  3.魔界の影(2)

 こうして、半ば強制的に連れて来られたアルキュラ村の人々は、汎魔殿の住人からおおむね歓迎された。
 なまりがひどいために、言葉が通じにくかったりはするものの、彼らは常に明るく、また、文句一つ言わずよく働いたからだ。
 前魔界王ベルゼブルを筆頭に、大臣やデーモン王達は眉をひそめていたが、イシュタルに釘を刺されていただけではなく、これまでの村人達の艱難辛苦(かんなんしんく)を思えば、表立ってタナトスの処置に異議を申し立てることはできなかった。
 村人達にとっても、王宮での暮らしは天国だった。
 地獄のような環境での重労働に比べれば、ここでの仕事は、楽をし過ぎて申し訳ないと感じてしまうほどの軽作業である。
 また、汎魔殿では最低ランクの食事が、彼らには素晴らしいご馳走であり、そのことでも感激していた。
 そうして一月ほどが過ぎ、ようやく城での生活にもなじんだと思えた頃。
 ぽつりぽつりと、体調を崩す村人達が出始めた。
 激変した環境のせいと思われたが、中でも長老の病状は重く、余命幾ばくもないことは明らかで、もはや寿命と、本人も村人達も覚悟を決めていた。
「タナ、トス様、ほ、ほんに、ありがとう、ござい、ましただ。 これであの世で、胸を張って、ご先祖に、報告、できますだ……長年の苦労が、ついに報われ、魔界王、様に、おらが村が、認めて頂けたと……ううっ」
 ベッドに横たわった長老は息も絶え絶えに、見舞いに来たタナトスに言った。
「気弱なことを言うな。せっかく汎魔殿に来たのだ、もう少し長生きして余生を楽しめ。まだまだ、見聞きしていないことがたくさんあるぞ」
 魔界王の答えに、長老は首を横に振った。
「い、いえ、もう、十分で、ございますだ、それ、よりも、案じられますんは、まだ若い者達の、行く末で……タナ、トス様」
 長老は涙を浮かべ、やせ衰えた手でタナトスの手を取った。
「分かった。心配するな。俺が最後まで、責任を持って連中の面倒を看(み)てやる、心安んじて墓に入るがいい」
 タナトスは力強く、長老の手を握り返す。
「あああ、ありがたや。 お、おらぁは、ほんに、幸せ者だす、代々の、長老の中で、ようやく使命を、果たし、ましただ……」
 そう言うと、長老は息を引き取った。
 幸福そうな死に顔だった。
「長老様!」
「長老様ー!」
 詰め掛けていた村人達は一斉に泣き崩れた。
 長老の葬儀は汎魔殿をあげて盛大に行われ、その遺体は、広大な汎魔殿の敷地内にある、多大な功績を残した者のみが埋葬される“功労者の墓地”へと丁重に葬られた。
 しかし、その後も体調を崩す村人は後を絶たず、タナトスは急ぎ魔法医達に、原因究明を命じた。
 それでも二週間と経たないうちに、オルプネとゴルギュラを除く全員が倒れ、寝込んでしまった。
 主な症状は呼吸困難で、村人以外に症状が出る者はいなかったが、未知の流行病ではないかと汎魔殿の住人達は恐れた。
 そこでタナトスは皆の不安を考慮し、彼らを汎魔殿の一角に隔離して、原因が分かるまでオルプネ達が彼らを看護することになった。
 その後も、村人達の病状は悪化の一途をたどり、苛ついたタナトスは魔法医達を急かしたが、原因は不明のままだった。
 最初の者が倒れてから、一月半ほど経ったある日。
 執務室に、魔法医の代表、エッカルト医師が報告に現れた。
「遅くなりまして申し訳ございません、タナトス様。 村人の体調不良の原因が、ようやく判明致しましたので、取り急ぎご報告に参じました」
「ああ、やっと分かったか。 ──で? やはり、奥地の未知のウイルスか何かか? ワクチンでも作ればすぐ治るのだろう?」
「いえ、それが……」
 魔法医は答えにくそうに眼を伏せる。
 タナトスは顔をしかめた。
「何だ、はっきり言え。まさか、不治の病とか言うのではなかろうな」
「いえ、左様なことではございませぬ」
 そう言うと、エッカルトは顔を上げ、意を決したように話し始めた。
「タナトス様。彼らをただちに、アルキュラ村へ戻すことをお勧め致します。 さもなくば早晩、全員が死に至ることになると思われますゆえ」
「何だとぉ、全員死ぬ!?」
 タナトスは思わず、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「オルプネとゴルギュラもか! あいつらは、何も症状が出ていないぞ!」
 医者は、首を左右に振った。
「いいえ、おそらく近日中に、彼女らにも同様の症状が出て参ることでしょう、そして、長老の元へと旅立つことに……」
「一体どういうことだ! それほど酷い病(やまい)とは何なのだ、聞いたこともない! 言え、その病の名は何だ、何ゆえ、あやつらが死なねばならんのだ!」
 タナトスは語気も荒く、魔法医を睨みつけた。
「この病には名はございませぬ、これは正確には、病とは呼べませぬゆえ。 何しろ、彼らのあの症状は、汎魔殿の清浄な空気に原因があるのでございますから」
 エッカルトの言葉に、タナトスはぽかんと口を開けた。
「何、清浄な空気が原因……どういうことだ」
「様々な角度から調べましたところ、アルキュラ村の人々はもはや、瘴気なしには生きてゆけぬ体になってしまっており、汎魔殿のように、ほとんど瘴気が存在せぬ場所での生活は、残念ながらほぼ不可能かと思われます……。 おそらく遥かな太古より、異常なまでに濃い瘴気の中で生活を続けて来たことによるものでしょう、彼らは、遺伝子レベルまで瘴気に順応している模様でございまして」
「なにぃ!? あんな有毒なものなしには、生きられない体だと!? しかし、十年も村を離れていたオルプネ達は、今もぴんぴんしているではないか!」
 タナトスは、勢いよく手を振った。
「彼女達は、例外的存在と申し上げてよろしいでしょう。 まず、二人が捕らえられておりましたレテ街は、王都の近くにありながら、瘴気の濃い場所でございました。 それに若さもあり、多少薄い瘴気にも体が慣れて、どうにか暮らせていたのでございましょう。 されど他の者達は、彼女らよりも長く強力な瘴気にさらされ、もはや順応が利く年ではなくなっておりましたため、こちらへ参ってすぐに症状が出てしまったのだと考えられます」
「むう、あいつらを、辺境に戻さねばならんと言うのか、あんな、酷い環境に……」
 貧しい村と、瘴気を噴き出す谷のすさまじい情景を思い出し、タナトスは思わず眉を寄せた。
 エッカルトも、沈痛な面持ちでうなずいた。
「はい、まことに遺憾(いかん)ながら、そうする他はないかと。 彼らは、現在において瘴気がほとんど存在しませぬ王都バシレイア、及び汎魔殿には、長期間は住めぬ体なのです。 どれほどの瘴気濃度ならば生存できますかは、現時点では断言できませぬが、レテ街あるいは、奥地との境にあるレテ河近辺でなくては、生きてはゆけぬと思われます」
「……くそ、魔法で何とかならんか、その遺伝子をいじるとか、どうにかできんのか!?」
 タナトスは、険しい顔で尋ねた。
「無論、それも考えました。なれど、事はそう容易には参りませぬ。 遺伝子を操作することにより、患者が死んでしまうのはまだましな方で、下手をすれば、すさまじい怪物を生み出す可能性もございますゆえ。 過去、“紅龍”は、そうやって出現したのだと伝承されておりますし。 やはり幾世代かかけて徐々に遺伝子を戻していく、俗に言う“戻し交配”という手法を用いるのが、最も安全で確実な方法かと。 つまるところ、残念ながら現在の村人の代におきましては、清浄な地での生活は不可能……それが我らの考えでございます」
「……何ということだ。俺は、長老と約束したのだぞ、責任を持ってヤツらの面倒を看ると。それが、こんなことになるとは……」
 さすがの魔界王も、この事態には頭を抱えた。
 魔法医は否定の身振りをした。
「いえいえ、これは決して、タナトス様の咎(とが)ではございませぬ。 辺境に戻さねば命に関わるのでございますから、致し方ないことかと……きちんと理由を説明致せば、村人にも道理が通ることと存じますが」
「──くそっ!」
 タナトスは歯噛みし、壁を殴りつけた。
「力及ばず、申し訳もございませぬ」
 エッカルトは、自分の落ち度のように、深々と頭を下げる。
 それをじろりと見て、タナトスは言った。
「その診(み)たては、間違いないのだろうな」
「はい。これは汎魔殿におります魔法医のみならず、魔法医ギルドの総意でございますゆえ」
 医者はきっぱりと言い切り、続けた。
「これはおそらく、祖先の、壮大なる人体実験だったのではございますまいか、この魔界で、魔族が生き延びるための。 その試練に耐え、立派に使命を果たした彼らを、再び荒地に追いやることは心苦しい限りではございますが。 ……こう申しては何でございますが、アルキュラ村の村人は、今や最も魔界に順応した種族なのやも知れませぬなぁ……」
 エッカルトの言葉の最後は、ため息に近かった。
「…………」
 タナトスは無言で唇を噛み締めると、座り込み、考え込んだ。
 ややあって、気を取り直した魔界の王は立ち上がり、魔法医に命じた。
「分かった。ついて来い。あいつらに話をせねばならん。 これ以上、死人が出るのは敵(かな)わんからな」
「は。お供致します」
 二人は重い足取りで、村人達が隔離されている一角へと向かった。
 その道すがら、タナトスは村人に何と言って切り出したものかと迷った。
 ようやく功績が認められ、汎魔殿に住むことが出来たと喜んでいる彼らを、再び辺境の村に戻し、あの惨めな、見捨てられた暮らしを続けさせなければならないと考えると、どうしても気分が沈んでいく。
 彼らしくもなく迷い続けていた魔界の王だったが、村人達が収容されている部屋の前に着いた瞬間、心が決まった。
 勢いよくドアを開け、タナトスは大声で告げた。
「今から貴様らを村に帰す。泣き言は言うな。 そして、二度と戻って来ることは許さん!」
 言うなり彼は、まだ事態が飲み込めず面食らい、咳き込んでいる村人を、ベッドごと片っ端から辺境の地、アルキュラ村へと飛ばし始めた。
「な、何をなさいます、タナトス様! おやめ下さいませ、まだ話が……!」
「うるさい! こやつらはどうせ、ここに置いておけば死ぬのだろう! ならば、四の五の言わせず、村に帰せばいいのだ! ──くそ、ちまちま送るのは面倒だ、どけ!」
 慌てて止めに入るエッカルトを突き飛ばして外へ追いやると、タナトスは自分も部屋を飛び出し、手荒くドアを閉めて呪文を唱えた。
「──ヴェラウェハ!」
 途端に、目の前にあった扉がかき消えた。
 消滅したのはドアだけではなく、部屋があったところには、ただぽかりと空間があるばかり。石組みだけが残っていた。
 タナトスは、中にいた村人達ごと、部屋そのものを村へ移送してしまったのだ。
「タ、タナトス様、何と無茶なことをなさる……」
 魔法医は、自身が仕える主の魔力の強さとその無謀な使い方に、ただ目を見張っていた。

 3.魔界の影(3)

「ふん、あの小汚い村に戻しさえすれば、ヤツらは息を吹き返すのだろう、文字通りにな。 これでいい、目障りな連中が消えて、ようやくせいせいした!
 タナトスは、傲慢(ごうまん)とも取れる仕草で手を払った。
「なれど、タナトス様、少々乱暴でございますぞ。 村に帰すのは、きちんと事情を説明し、彼らが納得した後でもよろしかったのではございませぬか?」
 咎(とが)めるように言うエッカルトに、タナトスもまた、激しい叱責(しっせき)口調で応じた。
「魔法医ごときが俺に説教する気か、大体、何を説明しろと言うのだ!『お前らは、魔界王家による人体実験の成果だ。よって一生、辺境からは出られん、あのみすぼらしい、餌も満足に取れん村で惨(みじ)めに死んでいけ。 たとえ魔族が神族との戦いに勝利し、ウィリディスの奪還に成功したとしても、お前らは故郷に住むことはできんのだ』とでも言えと!? わざわざそんなことを教えて、連中を絶望に陥(おとしい)れる必要がどこにある!」
「ご説は、ごもっともでございますが。 なれど、このままでは彼らは、なぜ村に戻されたかも分からず、疫病(えきびょう)に罹(かか)ったがゆえに見捨てられたと思い込んで、あなた様を恨むようになってしまうのでは……それが心配なのでございますよ」
 魔法医は、自身の懸念を述べた。
「それで構わん。連中は、俺の気紛れで汎魔殿に連れて来られ、また気紛れに追い出された、そう思っておればいい。 嘆くのはそのことだけでいい、恨みたければ俺を恨むがいいのだ、いくらでも恨まれてやるわ!」
 タナトスは自分の無力さに歯噛みし、足を踏み鳴らす。
「何と、タナトス様。そこまで彼らのことを……?」
 エッカルトは、気短で常に不機嫌、唯我独尊(ゆいがどくそん)の塊(かたまり)だと思い込んでいた主君の意外な情け深さに触れて、衝撃を受けた。
 同時に、その心情を汲んで、痛ましそうな表情をする。
 そのとき。
 何かが割れる大きな音が背後で響き、同時に声がした。
「こ、こりゃ、どうなったんだす、部屋がねぇだ!?」
 はっとしてタナトス達が振り返ると、蛙の姿をした女が呆然と立っていた。
 足元には、叫んだ拍子に落としたらしい水瓶が粉々に砕け、床は水浸しになっている。
「……オルプネ。お前、連中と一緒ではなかったのか……?」
 タナトスは、いたずらが見つかったときの子供のような、ばつが悪そうな顔をした。
「あ、あたい、水汲みに行ってて。 けど、タナトス様、この部屋は、いってぇどしたんだす、ば、爆発でも起こったんだすか!? 中にいた人達は……ま、まさか皆、吹っ飛んんじまっただすかっ!?」
 オルプネは必死の面持ちで、彼に取りすがった。
「落ち着け。 爆発など起こっておらん、その証拠に、音も揺れもなかったろうが!」
「……あ、そうだすな。んじゃあ、どうなったんで……?」
 女は胸をなで下ろしたものの、がらんとした空間を前に首をひねった。
「それは……」
「貴様は黙っていろ、エッカルト!」
 魔界の王は、言いかける魔法医をさえぎり、荒っぽく女の手を捕らえた。
「連中は全員村に帰した、これ以上、汎魔殿で死人を出したくないからな! ──さあ、お前も村に帰れ! そして今後は一切、村から出ることを禁じる、俺は、お前らという玩具に飽きたのだ、もう見たくもない、目の前からさっさと消えろ!」
 タナトスの粗暴な振る舞いにも、オルプネは怯えた様子も見せず、ただ、小さなため息をつき、うるんだ眼で彼を見上げた。
「……はぁ。 タナトス様は、やっぱお優しいだね……あたいらを気遣って下さったんだしょ?」
「何のことだ?」
 意外な反応に面食らい、タナトスは蛙女を凝視した。
「隠さなくてもいいだすよ、あたいらもね、薄々分かってはいたんだす、村から出たら死んじまうんじゃねぇか、ってことはね」
「何だと……」
「それってぇのも、あんなへき地の、ひでぇ暮らしだしょ? 今までだって、ンなトコにいるんは嫌だっつって、おん出てったモンは何人もいたんだすけど、生きて帰って来たモンは誰一人、いなかったんだすよ。 風の便りに、皆死んだって聞いて……だから、あたいらは、村を出てくモンは、皆バチが当たって死んじまうんだって思って……。 そんで、もっといい土地に引っ越そうって話が出ても、やっぱ恐くなって、いつも途中で立ち消えてたんだすよぉ」
「……そうか、知っていたのか、お前達……」
 タナトスは力を抜き、蛙女の手も放した。
 オルプネは、こくこくとうなずく。
「んだす。そんでここに来たときも、皆で心配したんだけんども、弱ってた長老様はもう、村の強烈な瘴気にゃ耐えられなくなってただすしねぇ。 それに、ほら、あたいとゴルギュラは十年も村を出てても平気だっただから、ひょっとしたら、今までのは偶然だったのかもって、皆、希望を持っただすよ。 でも、病気になっちまったから、やっぱ村に帰った方がいいんじゃないかって、話してたんだけんど、せっかくタナトス様に連れて来て頂いたのにって、言い出しにくくって……」
 そのとき、エッカルトが口を挟んだ。
「左様だったか、オルプネ。されど、心配は無用だぞ。 十代ほど先にはお前達も、必ずや瘴気の薄い地……そう、王都や汎魔殿でも、普通の生活を、きっと営(いとな)めるようになるはずだ。 おそらく外からの血を入れさえすれば……ああ、つまり、村人以外の者と婚姻するようにすれば、お前達の子孫は可能になるはず、ということだが」
「えっ、十代先……そりゃあいってぇ、何千年先の話だべ? ……どっちにしろ、あたいらは、村から出るのは無理ってことだすなぁ。 千二百年しきゃ、生きられねぇんだし」
 蛙の姿をした女は悲しい顔をし、魔界の王は、無言で歯を食いしばった。
「我らの力では、すぐにはお前達を救うことが出来ぬ。お前達の体を変えるには、時間がかかるのだ、相済まぬ……」
 魔法医は、暗い表情で頭を下げた。
「いやいや、お医者様、顔を上げて下せぇ。構わねぇだす、あたいらは。 アルキュラは生まれ育った村だし、今までとおんなじように暮らせばいいってことだしょ。 あ、でももう、瘴気の谷で毎日、穴をふさがなくてもいいんだよねぇ、そんだけでもかなり楽だすよ。 その分、畑作業に時間が取れるから、作物も今よりとれて、生活もきっと楽になるだしね」
 オルプネはにっこりした。
「たわけ、貴様らの食い扶持(ぶち)くらいどうにでもなる、いや、食料だけでなく、必要な物は何でも、俺がいくらでも送ってやるわ!」
 魔界王は、たまりかねたように声を上げる。
「えっ、何でも? そりゃありがてぇ! あたい、村人全部に代わって、お礼を言いますだ、タナトス様。 何もかもお世話になっちまって、ほんに、ありがとうごぜぇますだ」
 蛙女は深々と頭を下げたが、タナトスは鼻にしわを寄せた。
「礼など言うな! 俺はただ、戯(たわむ)れにお前らを助け、振り回していただけに過ぎん、いっときの退屈しのぎ、単なる玩具としてな!」
 オルプネは否定の身振りをした。
「いんや、んなこた構わねぇだすよ。 どんな理由があったって、お城で夢みてぇな暮らしさせてもらっただし、長老様だって、あったにきれぇなお墓で、眠らせてもらってるだし。 村に帰っても、あたいらはきっと話しますだよ、お城で過ごしたときのことを。 そんで、子供や孫にも繰り返し言って聞かせますだ、そしたら、子孫が王都に住めるようになった頃にも、ご恩を覚えてられるだしょ? タナトス様はすっげぇ優しい王様で、あたいらを助けてくれて、その上お城にまで連れてってくれた大恩人だって……」
「やめろ!」
 タナトスは叫び、くるりと背を向けた。
「おや? どうなすったんだすぇ、タナトス様?」
 蛙女は大きな目玉で、彼の顔を覗き込もうとする。
 タナトスはさらに顔を背け、繰り返した。
「……やめろ。たとえ俺が、今すぐウィリディスを取り戻したとしても、お前らは故郷には住めんのだぞ。 皆が喜びに沸き立つ中、お前らは魔界に残るしかない。 しかもあんな奥地の、くそしみったれた村にその後もずっと住み、そして、死んでいかねばならんのだ……!」
 固く握り締めた彼の拳は、どうしようもなく震えていた。
「ああ……たしかに、そうかもしんねぇだすが。 あ、そんでも、あたいらだって、行くことだけはできますだよ、タナトス様。 ほれ、何っつうか……そう、観光旅行ってやつにさ。 汎魔殿でだって、どうにか一月くらいは、生きてられたんだし。 魔族の故郷がどんなトコか見に行く、何泊かの旅行くれぇは、あたいらだって大丈夫だしょ」
 そこまで言うと、オルプネは眼をぬぐった。
「ねぇ、だから、タナトス様。あたいらが生きてるうちに、きっとウィリディスを取り戻しておくんなさぇ。 そしてまた、皆を招待して下さったら……そしたらあたいらは、その話を子供や孫達に……」
「もういい!」
 タナトスはオルプネに向き直り、再びその冷たい手を取った。
 今度はさっきより、幾分優しく。
「オルプネ、もうそれ以上言わんでいい。 神族に勝ったら、お前らを一番先に、ウィリディスに連れて行く。 そして見せてやる、俺達の古里がどんなところかを、必ずな!」
「タナトス様……約束だすよ。きっと、あたいらを連れてって下せぇ」
 オルプネは、くりくりとした大きな黒い眼で、彼を見上げた。
 その声もまた、潤(うる)んでいた。
「ああ、だから、村で大人しく待っていろ、戦勝の知らせをな! 必ずウィリディスに連れて行ってやる、それまで全員、絶対生きていろ!」
 タナトスはそう叫び、それから呪文を唱えた。
「──ヴェラウェハ!」
「待ってますだ、タナトス様、あたいら、アルキュラで、ずっと、ずっと……」
 蛙女の声は、かすかに尾を引いて消えた。
「ああ、俺の命と引き換えにしてでも、すべてを取り戻してやるとも。 ……とは言うものの、奪還の目処(めど)など、まったく立っておらんが、な」
 魔界の王は拳を握り締め、険しく眉を寄せて天を仰ぐ。
 それから彼は、再び呪文を唱えた。
「──フィックス!」
 あっという間に、空っぽだった場所は、石造りの部屋として元通りになっていた。
 優に五十台のベッドが置ける広さの部屋を辺境まで転移させ、さらには、残されたその空間を部屋として再構築する、それは想像以上に莫大な魔力を消費する行為だった。
 しかし、それほどのことを平然とやってのけたタナトスは、息も乱していない。
 魔法医は、魔界の王の強大な力に舌を巻いた。
(されど、このお方に、かような面がおありになったとは……。 ほとんどの者は、タナトス様の真のお心を知るまい……)
 みずからも男爵位を持つエッカルトは、型破りな言動のために誤解されやすい主君の、隠された真の魂に初めて触れた気がして、孤高(ここう)のその姿をただ見つめていた。

 3.魔界の影(4)

 その後、タナトスはパイモンの謹慎処分を解き、汎魔殿に呼び戻した。
「タナトス様、ご無礼の数々、平にご容赦……」
 深々と頭を下げるデーモン王をさえぎり、彼は言った。
「もういい、どうせ貴様、反省などしておらんのだろう」
「いえ、まさか、そのような」
「ふん、俺の気紛れに振り回され、内心うんざりしている癖に。 まあいい、貴様がおらんと魔界の内政が滞(とどこお)って困るという苦情が来ている、さっさと仕事に復帰しろ」
 相手の心を読んだようにタナトスは言い、扉に向かって手を振った。
「……は」
 パイモンは、それ以上は何も言わず、礼をして退出しようとする。
 その彼に、タナトスは言った。
「ああ、それとな、真面目に妃を娶(めと)って欲しいなら、俺を汎魔殿に閉じ込めておくのは得策ではないぞ」
「タナトス様、それほど、後宮の女達には興味がないと仰せられますか。 一体、どのような女ならよろしいと?」
 立ち止まったデーモン王は、上目遣いに尋ねる。
(そういう単純なことではないのだがな。 ふん、この際だ、はっきりさせておくか)
 一瞬迷ったタナトスも、すぐに心を決め、ずっと極秘としていたことを、正直に告げることにした。
「よく聞け、パイモン。俺は、魔族の女は妊娠させられんのだ。 たとえ孕(はら)んでも、まともなガキは生まれて来んと、エッカルトには言われている」
 以前、クニークルスの女性が産んだ奇形の赤ん坊、そのことも含めて口外しないよう、タナトスは魔法医に固く命じていたのだった。
 予想外の話を耳にしたデーモン王は、気が遠くなりそうな眼をした。
「な、何ですと、さ、左様な話、初めて聞きましたぞ!」
「当たり前だ、ただでさえ貴様らは、俺が王位に就(つ)くことに反対していた。 その上で、またも魔界王家の血が薄まるような女を娶ることしかできんと知れば、さらに反対する者が増えるに決まっているだろう」
「た、たしかに左様でございますが。 それではあなた様も、ベルゼブル陛下とご同様に、人族から王妃を探さねばならぬということですな……?」
 パイモンは、ため息交じりに尋ねた。
 タナトスは肩をすくめた。
「ふん、どうだかな。 魔法医は、人族の女なら可能性はあると言っていたが、それも気休めかも知れん。よかったな、パイモン」
「な、何がよかったと仰るのですか、このような一大事!」
 パイモンは頭から湯気を立てて、彼に詰め寄った。
「分からんのか、俺を王位から引きずり降ろす、立派な口実ができたろうが。 子種がない男など、傀儡(かいらい)の王としても失格だからな。 もはや“焔の眸”もおらん、俺が魔界王にふさわしくないと考えるなら、家臣全員の署名でも集めて、罷免(ひめん)請求でもするがいい。 そうだ、どうせならパイモン、その後で貴様が王位に就くがいい」
 タナトスは、平然と答えた。
「な、何を仰います、左様な戯言(ざれごと)……!」
「そういえば、貴様には娘がいたな、そいつをサマエルのところに送り込み、子を孕ませて後宮に入れ、俺の子だということにして世継ぎにする、というのはどうだ? 貴様は次代の魔界王の祖父、思うがままに権勢(けんせい)を誇れるぞ」
 まるっきり他人事のように、タナトスは言ってのけた。
「タナトス様! わたくしめを、そんな権力に踊らされる男とお思いか!」
 怒りに震えるパイモンに目もくれず、淡々とタナトスは続ける。
「それに、“焔の眸”はサマエルを選んだ。 つまり、ヤツが真に魔界王に就けたかったのは、俺ではなく、弟の方だったのだろう。
 しかし、サマエルは魔界を出ていたし、貴様らの反対を押し切り、魔界王に据えるのは面倒だったか、その自由がなかったかだ」
「陛下……」
 思わずパイモンは、タナトスが嫌う敬称を使ってしまったが、魔界王はそれには反応しなかった。
「心配無用だ、俺の代わりが見つかるまでは、大人しく、執務でも何でもこなしてやる。 サマエルが種馬として不足と言うのなら、貴様が選んだ男に種をつけさせ、娘を後宮に連れて来るがいい。 さあ、もう用はない、下がれ」
 タナトスは力なく手を振り、パイモンを下がらせた。
 それからのタナトスは、本当に静かになってしまった。
 黙々と執務をこなし、怒りを露(あらわ)にすることもまったくなくなった。
 そして、いつもどこか遠くを見ているような眼差しを宙に投げかけ、その虚(うつ)ろな様子はどことなく、弟、サマエルに似通っていた。
 こうして、怒りっぽく、激しい気性を眠らせてしまったタナトスの様子には、どこか痛々しいものがあり、それと同時に汎魔殿もまた、火の消えたようになってしまった。
 女官や召使達は声を上げて笑うことはなくなり、話をするときも声をひそめ、足音を立てないよう、忍び足で歩くありさまだった。
 宮廷人達もまた同様で、毎夜のように開かれていた舞踏会も、誰言うことなく自粛されてしまった。
 当然、彼らは退屈を持て余し始め、古くからいる重臣達が、魔界王を縛りつけていると不満を述べる者もいた。
 破天荒(はてんこう)な一方、優しいところもあるタナトスは、意外なほど、汎魔殿の住人達の心を捉えていたのだった。
 責任を感じたパイモンは、イシュタルに相談を持ちかけた。
 だが彼女も、タナトスの生殖能力については初耳だった。
「そうだったの、可哀想に。それもあって荒れていたのね……知らなかったわ。 でも、わたしが前々から言っていたでしょう。このままでは、タナトスを追い詰めてしまうわよと。 言い返す元気があるうちはいいの、でも、ひとたび心を閉ざしてしまったら……殻に閉じこもったあの子を引っ張り出すのは、正直とても大変なのよ、パイモン」
「申し訳もございませぬ。 なれど、イシュタル殿下以外におすがりできるお方は、もはや魔界には……」
 パイモンはうなだれた。
「そうは言っても、わたしは本当のところ、タナトスとは相性がよくないのよ、困ったわねぇ。 一番いいのは、“焔の眸”に魔界へ来てもらい、タナトスに意見してもらうことだけれど、彼はもう、魔界王家には関わりたくないでしょうし……」
 イシュタルは考え込んだ。
「失礼ながらイシュタル殿下。 以前、タナトス陛下が王位に就くのを渋られた折、サマエル殿下を説得し、魔界までお連れして頂いたことがございましたな、今回もお願いできないでしょうか」
 イシュタルは否定の身振りをした。
「残念だけれど、わたしは今、魔界を動けないわ。 ベルゼブル様のお加減がよくないの。今はお薬が効いて眠ってらっしゃるから、こうして話もできるけれど、目覚めてらっしゃるときは、わたしを片時もそばから離そうとはなさらないのよ」
「なんと、ベルゼブル陛下が! 一体どちらがお悪いので!?」
 デーモン王は驚き、立ち上がった。
「いえ、特別に、どこかお悪いところがあるわけではないのだけれどね。 でも、もうお年ということだけでなく、何か心に引っ掛かっていることがおありになるようで……最近では夜もうなされて、よくお休みになれないでいらっしゃるのよ」
 イシュタルの美しい顔が憂(うれ)いに沈む。
 パイモンも、顔を曇らせた。
「それは、ご心配なことでございますな……。 かと申しまして、わたくしが人界に参りましても、“焔の眸”閣下は元より、サマエル殿下も、お聞き入れ下さいますかどうか」
「たしかにそうね、多分、二人共、お前達にはいい心象を持っていないでしょ。 ……誰かいないかしら……」
 しばし考えを巡らしていたイシュタルは、ぽんと手を打った。
「そうだわ、プロケルがいるじゃない。 人界でサマエルとも暮らしたことがあるし、彼なら、タナトスにも直言できるわ。 きっと年の甲で、何とかしてくれるのじゃないかしら」
「おお、プロケル殿下に。それはよきお考え。 さっそくわたくし、殿下の領地へと飛びます、では、これにて」
 デーモン王は礼をしてその場を去り、即刻、プロケル公爵の元へと向かった。
 氷剣公の城に着いてみると、プロケルは庭で樹木の手入れをしているという。
 中庭に面したテラスへと通されたパイモンは、出された茶にも手をつけず、ベンチにも座らずに、後ろで手を組んで落ち着きなく歩き回り、引退した元公爵が現れるのを待った。
「お待たせして申し訳ない、パイモン殿。 暇を持て余しておってな、最近では庭師の真似事などしてみておるのだよ。 それにしても、いかがされた? 顔色が優れぬように見受けられるが」
 つばの広い帽子をかぶったプロケルは、首に巻いた布で汗をぬぐいながら、いぶかしげな顔をした。
「突然の訪問、さぞやご不快に思ったことと存知まするが、実は……」
 元公爵は、前置きなしに切り出すデーモン王の話を、最後まで静かに聞いていた。
「……左様なわけにて、タナトス陛下は、あまりにも無気力になってしまわれ、家臣一同、困惑しておる次第。 それにまた、ベルゼブル陛下のお加減がよろくしなく、イシュタル殿下は身動きが取れぬとの仰せ。 公爵様がよきお考えをお持ちではないかとの殿下のご意見を頂きまして、こうして参上仕った次第で……」
「ベルゼブル陛下が!? むう、それはいかん。 さっそく、お見舞いに馳せ参じねば」
 カップを下ろし、プロケルは立ち上がりかける。
「いやいや、ああ、無論、ご心配ではございましょうが、ベルゼブル陛下は何分ご高齢ゆえ、ご病気とまでは……。 それよりもと申せば僭越(せんえつ)ながら、タナトス陛下の今後をお考え頂くのが、先決かと……」
 あたふたとパイモンが言うと、プロケルは帽子を脱ぎ、デーモン王をじっと見つめた。
「……のう、パイモン殿。 差し出がましいやも知れぬが、タナトス様には、お心を少し、お休めになって頂く時間を差し上げてはいかがかな」
「お心を、お休めになる時間ですと……?」
「“黯黒の眸”とのことや、その村人の件でご心痛が重なり、今のタナトス様は少々、神経が参っておいでではないかと思うのだが。 あの方は、王としての責務を重く受け止めておいでだ、だからこそ、王子であったときのように、人界に入り浸るようなこともなさらずにいたのであろう。 時には、お一人にして差し上げ、また、羽目を外すことを多目に見る度量の広さも必要ではないのかな?」
「ご忠告、痛み入ります、なれど……」
「貴殿の心持も分かるが、あまりに事を急(せ)くと、孵(かえ)る卵も孵らぬぞ、デーモン王殿。 一月ほど様子を見て、タナトス様の気鬱(きうつ)が去らぬようであれば、そのときこそ、それがしが汎魔殿に参内(さんだい)致し、色々と申し上げて進ぜよう、それでいかがかな。 時が解決してくれることもある……今はあまり騒がぬ方がよいのではないかとも思うのだがの?」
「分かりました。その折には改めてお迎えに参りますゆえ、何とぞよしなに」
 パイモンは深々と礼をし、プロケルの城を辞した。

 4.迷宮の宝石(1)

 その一月後、汎魔殿の謁見の間にて。
「タナトス陛下におかせられましては、ご機嫌うるわしく……。 久方ぶりにご尊顔を拝する栄誉に恵まれ、喜びもひとしおでございます。 ……おや、いかがなされました? 何やら、お元気がないようにお見受け致しまするが」
 葉に降りた霜のような銀髪、猫に似た、縦長の虹彩(こうさい)を備えた琥珀(こはく)色の瞳。
 久しぶりに汎魔殿に伺候(しこう)したプロケルは、深々と頭を下げた後、魔界王を心配そうに見上げた。
「貴様こそどうした。引退し、田舎(いなか)に引っ込んだのだろうが?  もう、孫の相手に飽きたのか?」
 タナトスは、物憂(ものう)げに答える。
「お陰様で、心静かな隠居生活を満喫しておりましたが、それもいいところ、数年止まりでございますな。 暇が増えてまいりますと、汎魔殿にてお仕えしておりました頃が懐かしくなりまして。 失礼ながら陛下のご機嫌伺(うかが)いをと、思い立った次第でしてな」
「ふん、俺の顔が見たくなっただと? 見え透いたことを言うな。 どうせまた誰かに、いらんことを吹き込まれたのだろう」
「さすがは陛下。実は先日、わが城にパイモンが参りましてな。 近頃陛下はご気分がお優れにならないご様子、どこかお悪いのではないかと申すのでございますよ。 魔法医にお見せしたいが、我々ではお聞き入れ下さるまい、それがしの方から勧めて欲しいと……」
 タナトスは、どうでもよさそうに肩をすくめた。
「……医者? 俺が大人しいと病気と考えるのか、単純なヤツめが。 まあいい。心配はいらん、どこも悪くないと言っておけ。 それにしても、パイモンとは意外だな。あやつはいつも、やれ、俺が人の話を聞かん、真面目にやらんとほざいてばかりいたものを」
「陛下のおんためを思えばこその、小言でございましょう。 以前は、“焔の眸”閣下があなた様をたしなめて下さいましたが、サマエル様のもとへお輿入(こしい)れなさってしまいましたし」
「……ダイアデム、か……」
 ふとタナトスの視線が宙に浮き、暗くたゆたう。
 プロケルは、琥珀色の猫眼(びょうがん)を、窺(うかが)うように細めた。
(たしかに妙だ。 いつもであれば、『陛下』とお呼びしたことに必ず反発なさるのに、それもないとは。パイモンが心配するわけだ……)
「それでは、何かご心配事でも? わたくしめでよろしければ、ご相談にお乗り致しまするぞ。 無論、誓って他言など致しませんので、どうかお聞かせ下され」
 プロケルは、パイモンが、今までのことを洗いざらい語っていったことなどおくびにも出さず、そう促した。
 だがタナトスは、心ここにあらずと言った風で、彼の方を見ようともしない。
 沈黙が続く。
「……タナトス“陛下”?」
 不興を買う覚悟で、元公爵はさらに声をかけてみたが、魔界王の返答は気のないものだった。
「貴様に話しても、どうなるものでもない……」
「されど、多少は、お気が楽になられるやも知れませぬぞ。 わたくしとて、かつては公爵位を頂いた身、ダテに年を取ってはおりませぬからな」
 プロケルが食い下がると、タナトスは、ようやく視線を彼に向けた。
 そして、けだそうな声で尋ねる。
「では聞くが、貴様の妻は親が決めた相手だったのか?」
 意外な話題だったが、プロケルは問い返したりはせず、答えた。
「いえいえ、とんでもございませぬ。 相手の身分が低かったため、親を始めとして、親類縁者にもこぞって反対されました、『世間体が悪い』と。 ですが、最後には強引に押し通しましたよ」
「ほう……」
 初めてタナトスの表情が動き、それに後押しされてプロケルは話し続けた。
「強引と申しましても、それがしも魔界の貴族の端くれ、色々としきたりもございます。 考えましたあげく、方々に頼み込み、相手を、さる貴族の養女にするという形を取って、身分を釣り合わせましてな。 それでようよう、結婚に漕ぎ着けた次第でございます。 ははは……いやはや、お恥ずかしいことで。若さゆえ、できたことでしたな。今では到底、あれほどの気力はございませぬよ」
「別に恥ずかしいことではなかろう。 ふん、俺が思っていたのよりは皆、色々と苦労しているものなのだな……」
 タナトスはつぶやく。
「では、やはりどなたか、意中の女性がおいでなのですかな? あなた様は魔界の王、どのような女性でも思うがままでしょうに」
「それが、そうもいかん……どうも、とことん嫌われてしまったようでな。 情けないことに、どうすればよいのやら、俺にはさっぱり分からん……」
 タナトスは暗い表情で額に手をやり、ため息をついた。
(おやおや、これはお珍しい、女性のことでお悩みとは。 だが、いい機会だ。パイモンが気をもむ、跡継ぎの心配もこれでなくなるかも知れぬ)
 プロケルはそう思い、続けた。
「左様でございましたか。 差し支えなくば、お相手をお教え願えませんかな」
「……聞いたら驚くぞ。そしておそらく、貴様もやめろと言うだろう……。 俺自身も忘れた方がいいと思い、何度も諦めようとしたのだが、あの女の面影がどうしても頭を離れん……」
 タナトスは頭を振り、再び深い息をついた。
「ともかく、ご事情をお話し下さいませ、わたくしは途中で口を挟みませぬゆえ。 すべてをお聞き致しましてのち、意見など述べさせて頂くとしましょう」
「そこまで言うのなら、聞かせてやる。 俺が想っている相手とは、“黯黒の眸”だ」
 縦長の虹彩が円盤のように広がったが、プロケルは約束を守り、口をつぐんでいた。
「驚いたか? 無論、“黯黒の眸”の化身だがな。 一年半ほど前、ほんの気紛れで女の体を創ってやったのだが、ヤツの物質化能力を、俺は見くびっていた。 分かるか? ニュクス……“夜”と名付けたその女を、初めて見た俺の驚きが。 あいつは夢の女だった。俺の理想、そのものの姿をしていたのだ! 衝撃から立ち直ると、俺はニュクスを連れ歩いた。 皆の羨望(せんぼう)の眼差し、それが心地よく思えたのでな。 ……初めはただそれだけだった。だが、時が経つうち、ニュクスをかけがえのないものと考え始めている自分に気づき、俺は驚いた。 相手が一般の魔界人ならまだしも、前科ある“黯黒の眸”……。 共にいる時間が楽しければ楽しいほど、心の中の疑念は膨らみ、大きくなった。俺も、ヤツに操られているのではないか、とな。 そこで俺は強力な結界を張り、ニュクスも遠ざけることにした。 ところが……だ。 影響を絶ったと言うのに、その面影は、離れれば離れるほど俺を悩ませた。あいつが俺を操っていたのではなかったのだ。 そこへダイアデムが来て、ニュクスは精霊、赤ん坊と同じだから、独り立ちするまでは面倒を見ろ、無責任だと責めた。 そこで俺は心を決めた。ニュクスに謝罪し、そばにいてくれと頼んだ。 しかし、あいつは俺を拒絶し、姿を消してしまったのだ。 汎魔殿からは出られない。とすれば、地下迷宮に隠れたのだろう。 だが、あれほどの広大さを誇る迷宮……さらに“黯黒の眸”は気配を断つのに長(た)けているとなれば、捜し出すことなど到底不可能……。 ──とまあ、こういう次第なのだ。 笑うなり、ののしるなり、好きにするがいい、プロケル」
「……何とまあ……」
 プロケルはそう言ったきり、しばらく二の句が継げなかった。
「ふっ、あきれ果てているのだろう、貴様? 俺としたことが、馬鹿な罠にはまったものさ。サマエルのことを笑えんわ。 その上、自業自得で逃げ出されたというのに、忘れられんのだからな、まったく情けない」
 タナトスの唇の端が、自嘲気味にほんの少し持ち上げられたが、眼はまったく笑ってはいなかった。
「左様でございましたか……」
「パイモンに言っておけ。 俺がわめこうと黙ろうと貴様らには関係なかろう、勝手につまらん会議でもやっていろ、俺はそのすべてに同意してやると。 辞めさせたいのなら、さっさと罷免(ひめん)請求をするがいいとな」
「されど、諦めなさってよろしいのですかな、タナトス様」
「仕方あるまいさ、どうすることもできん。 俺が心から愛した者はいつも、手が届かんところに行ってしまうと決まっているようだ……」
 タナトスの緋色の眼は、遥か遠くを見つめていた。
 プロケルは、この魔界王のことを、いつも強気の自信家で、やることは強引で、けれど本当は優しいところもちゃんとある、元気なやんちゃ坊主のように思っていた。
 なのに、今、目の前にいるタナトスは、まるで別人のように覇気(はき)がない。
 プロケルは、自分の子を叱るとき同様、琥珀色の瞳をカッと燃え上がらせた。
「左様にな気弱なことでどうなさるのですか、タナトス様! あなた様は魔界の王、お相手は魔界の至宝の片割れなのですぞ、王妃になさるかどうかは別としても、何も問題はございませんでしょう。 それを、あなた様らしくもなく!」
 今度はタナトスの緋色の眼が、大きく見開かれた。
「プロケル、貴様は反対せんのか?」
「わたくしには、陛下のご健康の方が大事でございますよ。 あなた様がその女性を得られてお元気になられるのでございましたら、多少の身分差やその他の雑事など、どうでもよいこと」
 タナトスは肩をすくめた。
「そんな風に言うのは、貴様だけだ。 俺がニュクスを連れて歩くたびに、誰彼となく騒ぎ立てて大変だったのだぞ。 それを、身近に置くことにしてみろ、どうなるか……」
「おやおや、これは魔界全土を統(す)べるお方のお言葉とも思えませんな。 陛下はいつから周りの雑音に、ご意見を左右されるようになられましたので?」
 プロケルが澄まして言うと、タナトスはあっけにとられ、それから大声で笑い出した。
「あっはっは! 貴様の言う通りだ、俺としたことが、まったくどうかしていたな。 くっくっく……ああ、久しぶりに笑った、礼を言うぞ、プロケル」
「まあ、女性の扱いに関して言えば、たしかにタナトス様は無器用でいらっしゃいますな。 では、どうかわたくしめに、人界へ通じる魔法陣の使用をご許可下さい。 サマエル様にご相談申し上げて参ります、もちろん内密に」
「サマエルにだと……?」
 せっかく機嫌がよくなりかけたタナトスの眉間に、稲妻めいたものが走る。
 百戦錬磨(れんま)のプロケルは、そんなことではめげなかった。
「サマエル様は、“焔の眸”殿を娶(めと)られておいでです。 いわば宝石の精霊との結婚生活に関しては、ご先輩に当たるのですぞ。 それに“焔の眸”殿にならば、“黯黒の眸”殿があなた様から逃げておいでの理由を、説明できるやも知れませぬ。 ご許可願えませんでしょうかな?」
 タナトスは少し考えた。
「ふん……貴様が行きたいというのならば止めはせん。許可してやる」
「ありがたき幸せ。ではさっそく行って参ります」
 プロケルは再び膝をつき、礼をする。
 そしてすぐに立ち上がり、時空の門が設置してあるサマエルの子供部屋に急いだ。
 魔界王タナトスは、その背中を無言で見送った。

 4.迷宮の宝石(2)

「……というわけなのでございますよ、いい知恵をお貸し願えませんでしょうか、サマエル様、ダイアデム殿」
 人界のサマエルの屋敷に着くと、プロケルはあいさつもそこそこに、二人に経緯(いきさつ)を語った。
「ふ〜む、お前も苦労するねぇ、プロケル。 やっと宮仕(みやづか)えから解放され、のんびり過ごせるようになったというのに」
 サマエルが笑いを含んだ声で言うと、プロケルは首を横に振った。
「いえいえ、ご心配には及びませぬ。 悠々自適(ゆうゆうじてき)とは名ばかり。ここ数十年は、毎日、老妻の顔ばかり見て過ごすのにもいい加減飽きが来ておりましたゆえ、渡りに船と」
「ふふん、ンなコトゆっていーのかよぉ? お前、あの女を妻にできなきゃ二人で自決するとか、ほざいてたらしーじゃねーか、あん時」
 唇をゆがめたダイアデムが、いたずらっぽく口を挟む。
 プロケルの頬に、ぱっと朱が走った。
「ご、ご存じだったのですか……!」
「ああ。ベルゼブルに言われてシンハが予知してみたら、正妻にしても別に害はねーって出てさ。 だから、つまんねー恨み買うよりか、婚姻を許可して恩を売っとけ、ってシンハは答えたんだ。 だからお前、あの嫁さんを大事にしなきゃ罰当たるぞ」
 にやにやしながら、紅毛の少年は言う。
「さ、左様でございましたか、ダイアデム殿。 知らぬこととは申せ、お礼の言葉もございませぬ。 無論、大事に致しておりますとも。それに妻は、年は取っておりますものの、昔日(せきじつ)の美しさは、未だ十分残っておりますゆえ」
 プロケルは焦り、額の汗をふきながら答える。
「はん、よく言うぜ」
「のろけられてしまったねぇ」
 サマエルはダイアデムと目を合わせ、微笑む。
「そ、それでしたらなおのこと、“焔の眸”殿のご兄弟である“黯黒の眸”殿にも、お幸せになって頂きたいのです! 是非、お力をお貸し下さいませ、サマエル様、ダイアデム殿!」
 プロケルは深々と頭を下げた。
 ダイアデムは肩をすくめた。
「けどよぉ、オレらよか、もっと難しいと思うぜ、色んな意味でよ」
「そうだね。いっときの恋愛感情だけでは解決できない問題も山積みだ。 果たして、あの気の短いタナトスに、それを一つ一つ乗り越えてゆくだけの辛抱強さがあるだろうか?」
 サマエルは、優雅に首をかしげた。
「いやいや、タナトス様なら、必ず克服されます。 あのお方はもはや、我がままな子供ではございませぬ、信じて差し上げては下さいませぬか、お二方。 先日も、かような出来事がございましてな……」
 プロケルは、アルキュラ村の人々の話を、二人に詳しく語って聞かせた。
 実はパイモンの訪問を受けた直後、タナトスのことを心配したエッカルト男爵が彼を訪ねて来て、パイモンも知らずにいたことを色々と、教えて行ってくれたのだ。
「ふうん、あいつも少しは、王としての自覚が出てきたのかな。 ともかく、ダイアデム、何から始めたらいいだろうね」
 王子に問われた宝石の少年は、真剣な表情になった。
「じゃあ、タナトスに伝えろ、プロケル。 今すぐ地下迷宮の結界を強化して、誰も入れないようにしろって……あ、もちろんお前も、絶対入るなよ、って言っとけ」
「迷宮の結界を強化……とはまた、何ゆえに」
「いいから、早く伝えろ。 ま、今どき、ンなトコにもぐり込みたがる馬鹿もいねーとは思うけど、念のためだ。めんどくせーことになる前によ」
「はあ、ではすぐに」
 プロケルは腑(ふ)に落ちない顔で、それでも急ぎ心の声を飛ばし、タナトスにその旨を伝えた。
「タナトス様は、理由を知りたいと仰っておいでですが」
「あのな、タナトスのヤツ、“黯黒の眸”に、全然エサやってなかったみてーだからさ。 今、“黯黒の眸”は、すんごく飢えてて何すっか分かんねーから、オレ達が行くまで厳重に閉じ込めておけ、って言っとけよ」
「餌? ですが、あなた方は食事など……」
 プロケルは、ぽかんと口を開ける。
 そんな彼に、ダイアデムは問いかけた。
「じゃあ、オレの糧(かて)を知ってるか? プロケル」
「それは……たしか、死にゆく者達が流す血潮とお聞きしたことがありましたが」
「んじゃあ、“黯黒の眸”は? あいつだって、魔力を維持していくための糧は必要なんだぜ」
「むう、“黯黒の眸”殿の糧? 失礼ながら、考えたこともありませんでしたな。 ふむ、一体何でございましょうや……?」
 腕組みをして考え込むプロケルに、サマエルが助け船を出す。
「負の感情、闇の思考。 恨みや妬み、怒りや憎しみ、殺されゆく者の断末魔の悲鳴……などだね?」
 宝石の少年は、首を縦に振った。
「うん、そう。お前にゃ分かるよな、“カオスの貴公子”なんだから。 そんでな、オレと違って、変化(へんげ)に慣れてないあいつにとって、女の姿を維持するのは、すげー大変なはずなんだ。 なのに、何も問題を起こしてねーよな、まだ。 つーことは、タナトスに連れられてた間は、あいつの美しさをうらやんだり妬(ねた)んだりしてる連中の感情を、少しづつ吸い取ってたんだろー。 けどこの頃は、それもできなくなってた……」
「なるほど。逃げ出したのも、その辺に理由があるかも知れないわけだ」
 サマエルが相槌(あいづち)を打つ。
「ああ。新しい体を創ってもらっただけじゃなく、罪も許してくれて、牢獄の外にも出してもらったんだ、タナトスにだけは迷惑をかけたくねーって思って、我慢したんだ、きっと」
「されど……お言葉ですが、それでは食事を与えて欲しいと申し出ればよかったのではないのですかな。何も、逃げ出さずとも」
 プロケルが口を挟むと、ダイアデムは否定の仕草をした。
「いや、あいつは多分、自分が空腹だってことも、よく分かってねーと思う。 これまで“黯黒の眸”は、魔力が足りなくなると、激しい感情を持つヤローに取っ憑いて、闇の感情をどんどん増幅させて、喰らってきたんだけどよ。 それだって意識的っていうよか、本能的なもんだったんだ。 たとえば、トリニティーとの戦い……人族の王セリンに取り憑いたときなんかがいい例さ」
「はあ、それが……?」
「ちぇっ、なんだよ、まだ分かんねーのか? これだから年寄りってヤツは。 説明してやれよ、サマエル」
 ダイアデムは舌打ちし、プロケルは頭を下げる。
「申し訳……」
「いや、それだけでは分かる者の方が少ないよ、ダイアデム。 ああ、つまりね、プロケル。彼が言いたいのは、一歩間違えば、タナトスがセリンの二の舞になっていたかもしれない、ということなのだよ」
「な、何ですと!」
 魔界の第二王子の口調は淡々としていたが、プロケルの眼の黒い虹彩は、抑えようもなく大きく広がった。
「タナトスの魔力は強い。普通なら、いくら“黯黒の眸”でも、そう簡単には取り憑くことはできないだろう。 だが、この頃のあいつは色々と悩んでいて、心には隙ができていた。 だから取り憑こうと思えば、できたはずだ……かなり抵抗はあったにせよね。 でも、彼女はそれはせず、代わりに姿を消したのだ」
 ダイアデムはうなずいた。
「うん。もう、したくなかったんだろーさ、誰かに取り憑くなんてよ。 自分がそれをすれば、またたくさんの血が流されることになる、ってことを、あいつもようやく理解したんだと思う。 久しぶりに会ったらさ、“黯黒の眸”のヤツ、すっげぇ変わってたぜ、見た目だけじゃなくて、考え方もさ。 昔、一緒に宝物庫にいた頃とは全然違ってて、マジびっくりした。 なんか、いい方に変わったなって、うれしくなっちまったくらいさ」
「そう。新しい体をもらって、タナトスと一年半暮らしたことで、いい意味で、お互い感化されたのかも知れないね」
「ふ〜む……」
 プロケルは少しの間腕組みをして、考えをまとめると、二人に聞いたことをタナトスに伝えた。
“──と、こういうわけでございます、タナトス様”
““黯黒の眸”が……そうだったか”
 タナトスの心の声は、彼らしくもなく、暗く沈んでいた。
“それに致しましても、タナトス様。 何ゆえ、直接、サマエル様やダイアデム殿とお話をなさいませぬのか?”
 プロケルは尋ねた。次元を超えての心話のやりとりは、老人である彼には、少々荷が重かったのだ。
“そんな気分になれんだけだ、貴様が話を聞いておけ”
 いつも通りの素っ気なさで答え、タナトスの心の声は一方的に途切れた。
「……お二方、お気の毒に、タナトス様は、だいぶへこんでおいでですよ」
 プロケルがほっと息を着くと、ダイアデムが頭の後ろで腕を組んで、言い放った。
「ふふん、自分が一番だとずっと思ってたバカには、たまにゃーいいクスリだろーぜ」
 その言葉に、プロケルは猫のような眼を燃え上がらせた。
「ダ、ダイアデム殿、いくらあなた様でも、そのような暴言……!」
「へっ、ホントのことじゃねーか! 気紛れで勝手に命を創り出しといて、手に負えなくなったらポイ、ンなことやるあいつが悪いんだろ!」
 そこへサマエルが割って入った。
「待ちなさい、ダイアデム。 お前の気持ちも分かるけれどね、タナトスは変わってきたよ、確実に。 ニュクスのことも真剣に想っているのだそうだから、許しておやり。 それに、いい機会だ、しばらく魔界に還っていてはどうかな? 今度のことは、タナトスの無知から起こったことだ。彼らはお互いを知らな過ぎる、お前が二人の間に入ってやるといい」
「お前は? 一緒に来ないのか?」
 元魔界の至宝の少年は、第二王子を指差した。
「もちろん行くつもりだが。 長期に滞在することは、タナトスが許さないだろうな……」
「じゃあ、いやだ。お前がいらんないんなら、オレもすぐ戻る」
「お、お待ちを。それがしが、責任を持ちましてタナトス様に掛け合います! お願いでございます、お二人そろって魔界にお越し下さいませ、そしてタナトス様をお助け下さいませ。これ、この通り……!」
 そう言うとプロケルは、いきなり体を投げ出し、頭を床にすりつけた。
「プロケル、およし、そんなことは」
 サマエルが手を差し伸べるも、公爵は顔を上げようとはしなかった。
「何とぞ、平に、平に、お願い申し上げます! これ、この通りでございまする!」
 ダイアデムは、面倒くさそうに手を振った。
「あー、分かった分かった、行きゃいーんだろ! ……ったく、年寄りは話が大げさでいけねーや、立てよ、プロケル!」
 サマエルは、くすっと笑った。
「お前の方がずっと年上だろうに」
「うっせーな、いーだろーが、ンな細けーコトは! 早くタナトスにナシつけろ、プロケル! さっさと行って片づけよーぜ、面倒くせー!」
 そこでプロケルは再び念話を送り、魔界王をどうにか説得した。
 許可が下りると、三人は急いで砂漠に転移し、封印してあった魔法陣から汎魔殿へと向かった。

 4.迷宮の宝石(3)

「よー、タナトス。お前、ニュクスにフラれたんだってなー、ドジ!」
 汎魔殿にあるタナトスの私室に着き、魔界王の顔を見た途端、ダイアデムは言い放った。
 タナトスは、きつい緋色の眼を激しく燃え立たせた。
「──この無礼者! いちいち気に触る言い方しかできんのか、貴様!」
「だあ〜って、ホントのことだもんよ、お前ってば、女の扱い、ヘタ過ぎ。 ちったーサマエルを見習っちゃどうだ?」
 少年は下唇を突き出す。
「何だと、こんなスケこましの、どこをどう見習えというのだ!」
 カッとした魔界の王は、弟王子に指を突きつけた。
「……やれやれ、お前達と来たら……。 人聞きの悪いことばかり言うところは、そっくりだね」
 ため息混じりにサマエルが口をはさむと、タナトスとダイアデムは同時に彼の方を向き、叫んだ。
「誰がそっくりだと!」
「オレのどこが、このバカに似てるんだよ!」
 サマエルは苦笑し、取り成すように言った。
「まあまあ、落ち着いて、二人共。 今は、そんなことを言い合っている場合ではないだろう?」
「あ、そうだったな。分かっちゃいるんだけどさ、こいつがホントーにバカなもんだから」
 紅毛の少年は、魔界の王を指差した。
「くっ、言わせておけば……!」
「へっ、ホントのこと言って何が悪りーんだよ!」
「タナトス様、ダイアデム殿、どうか、お静まりを!」
 またも一触即発の二人の間にプロケルが割り込み、引き離す。
 サマエルは真顔になった。
「じゃれ合いは、そこまでにしてもらえないかな。 まずは何をさておいても、ニュクスの身を確保することが最優先だ。 彼女はかなりの空腹なはず、邪(よこしま)な考えを持つ者の心に惹(ひ)かれ、何か問題を起こしてしまう前に、早く連れ戻さなければ」
 タナトスは拳を握りしめた。
「……たしかに、今度問題を起こしせば、俺がどうかばってやっても、よくて幽閉、最悪の場合、処刑もあり得るからな。 そんなことになったら、すべては俺のせいだ。 俺が戯(たわむ)れに、肉体など創ってしまったせいで……」
「そーだ、お前が悪い!」
 反省している様子の魔界王に、元魔界の至宝は容赦なく、突っ込みを入れる。
「き、貴様!」
 それに対してタナトスは、どうしても反応してしまうのだった。
「これ、ダイアデム、話が進まないよ、少し黙っていてくれないかな」
 声にほんの少しに苛立ちを込めて、サマエルが言う。
「分かってるってばよ。でも、どーやって“黯黒の眸”を探すんだ? 汎魔殿の地下は、ちょー広い天然の迷宮なんだぜ。 いくらオレだって、そー簡単には……」
「心配はいらないよ。探すのではなく、呼び戻せばいいのだから」
「呼び戻す? それができておれば、これほど苦労などせんわ!」
 顔をしかめる兄に向けて、サマエルは言った。
「それはひとえに、お前の気持ちにかかっているのだが」
「俺の気持ちだと……?」
 タナトスは、さらに険しい顔になった。
「そうだ。お前は“黯黒の眸”を本気で愛しているのか?」
「くっ、何ゆえ、そんなことを貴様に言う必要がある!」
 タナトスは歯を食いしばった。
「──これは大事なことなのだぞ。 お前が心底彼女を愛し、帰って来て欲しいと望まなければ、“黯黒の眸”は永遠に地下迷宮に封印されたままとなるのだ。 私の眼を見て答えるがいい、真実彼女を愛していると言えるか?」
 魔界の王は、弟王子を睨みつけた。
「それは、俺が心の中で思っていればいいことだろう!」
 厳しい表情のまま、サマエルはうなずいた。
「その通り。これは本来なら、私が口をはさむ筋合いのものではない。 しかしお前がニュクスに、『お前を愛している』と口に出して言えないようなら……。 明瞭に口にしなければ、彼女には伝わらない。呼び戻しに成功したところで、再び同じことが繰り返されるだけだぞ」
「そ、そんなことは分かっている! あいつが還ってきてくれたら、何度でも、何十度でも──あいつが納得するまで繰り返し言ってやるさ、愛していると!」
「よし、言ったな、忘れるなよ、その言葉を!」
「魔界の王の名誉にかけて、忘れはせん!」
「……そんじゃあ……この話聞いても、そう言えるのかなぁ、お前……?」
 ダイアデムがその時、ためらいながら口をはさんだ。
 タナトスは、露骨に嫌な顔をした。
「何だと、まだ何かあるのか、このくそ忙しいときに!」
「ホントは……できれば、言わずに済ましちまいたいこと、だったんだけどな……。 この際だから、言っといた方がいいかなぁって思って……。 後になって、騙されたとか言われたら、“黯黒の眸”だって立つ瀬がないしさ……」
 ダイアデムは珍しく、タナトスの眼を見ようとはせず、口の中でもぐもぐと言った。
「ぐずぐずした言い方はよせ、貴様らしくもない! 俺は急いでいるのだ、もったいをつけずに早く言ったらどうだ!」
「うん……それじゃあ、言うけどさ……。 オレ達……魔界の至宝の正体が、裏切り者のスパイだったとしても、あいつに愛してるって言ってやれるのか? お前も、どうだ? サマエル」
「ス──スパイですと?」
「何を言い出すのだ、貴様……」
 タナトスだけではなく、プロケルもあっけにとられた顔をした。
「私の気持ちは知っているはずだよ、ダイアデム。 それはともかく、どういうことなのか、詳しく話してくれないか?」
 平静な表情のままでいたのは、サマエルだけだった。
「あのな、多分、“黯黒の眸”が姿を消したホントの理由も、ここにあるんだと思うんだ。 ……そんで……う〜んと、何から話したらいいんだろーな……」
 分かりやすく説明しようと、ダイアデムは頭をひねった。
「そう──つまりさ、オレはともかく、真っ黒い宝石の“黯黒の眸”、そして、サマエルがオレを復活させるのに使った“盲(めし)いた瞳”……こいつに至っちゃ、ただの透明な石だろ? なのに、何で“瞳”って呼ばれんのか、その理由を、お前ら考えてみたことあるか?」
「お前の中に、黄金の炎のように燃え上がる輝きが瞳を思わせ、三つ一緒に発見されたから、すべてを“瞳”と呼ぶようになったのではないのかな?」
 間髪(かんぱつ)入れずサマエルは答え、ダイアデムはうなずいた。
「そうだ、オレ達は三つ子。しかも天界のスパイとして創られた、“発見し、監視し、信号を送る者”……だからこそ、“瞳”って呼ばれるんだよ……」
「て、天界のヤツらが、貴様らを創っただと!? ならば、今まで貴様らは、偽りの忠誠で我々を騙していたというのか!? この裏切り者!」
 タナトスは大声を上げ、再び、ダイアデムにつかみかかろうとした。
「待て! 最後まで話を聞け、タナトス!」
「お静まり下され、タナトス様!」
 サマエルとプロケルは、慌てて彼を押さえる。
 ダイアデムは激しく首を振った。
「──違ぇよ、お前達に対する忠誠は本物だった! それに、今まで言わなかったのは、騙そうとしたからじゃない! 信じてくんなくてもいいけど、サマエルが“盲いた瞳”を使って復活させてくれるまでは、思い出せなかったんだ! 二つの石の力が合わさることで、眠っていた記憶に意味が与えられたんだから!」
「何だ、それは! 屁理屈をこねて、また騙そうと言うのか、この嘘つきめ!」
 二人に腕をつかまれたまま、タナトスは吼える。
「──そうじゃねーってば! 創り出された直後は、赤ん坊とおんなじで、自分のしてることの意味なんて分かんなかったんだ! “自分”を持って初めて、物事の意味が分かるもんなんだ、それは前にも話したろっ!」
「そうだったな……分かった、もう危害は加えん、最後まで聞いてやるから手を離せ」
 タナトスは自分を捕らえている二人にそう言い、自由の身になると、腕組みをした。
「続けろ。それで貴様は、何を思い出したと言うのだ?」
「うん……思い出したことってのは、こうだ……。 どんくらい昔のことになるのか、とにかく、ものすっごい大昔のことだ。 天界人……いや、その祖先だな、ヤツらがそれまで住んでた星が、消滅の危機にあるってことが分かってさ。 その星系の太陽は、もう寿命で爆発しそうになってて、それに巻き込まれそうになってた、みたいな感じで。 そこで連中は、新しい星……移住先を探すことにして、何百、何千という“意ある宝石”……“瞳”を三個一組にして、あちこちに送り出した……。その一組がオレ達なのさ」
「何だと、それが、我ら……魔族が襲われた真の理由だというのか! おのれの星が滅びかけたからといって、大量殺戮(さつりく)が許されるわけはないぞ!」
 タナトスは眼を怒らせた。
「まったくさ。今も昔も、天界のヤツらって、自己中もいいトコ、大人しく初めの母星ごと消えちまやよかったのに、ってつくづく思うよ」
 ダイアデムは悲しげに言い、絞り出すように続けた。
「……あとさ、“瞳”にはそれぞれ役割があったんだけど……」
「役割だと? 単にスパイするだけではなく、か?」
「うん」
 宝石の少年は、こっくりとうなずいた。
「“盲(めし)いた瞳”は“推進力の石”……送り込まれる前に注入されたエネルギーを使って、目的地に移動するための石。 移住先の星へ到達した後は用済みで、機能を停止する。 だから、ずっと何の精霊も宿らずにいて、今は、オレの本体になっちまってるわけさ。 二番目の“黯黒の眸”は、“破壊の石”。 負の感情を吸収してため込み、目的の星にいる先住生物……特に高い知能を持つ生物を一掃するためのエネルギーを蓄える石」
 そこまで言うとダイアデムは、誰の顔も見られなくなってしまってうつむいた。
 瞳の中の炎は揺らぎ、声にも力がない。
「……そしてオレ、“焔の眸”は“破滅の石”。 先住生物達の心を狂わせ、同士討ちを誘い、絶滅させるか、数を減らしとくための石……ついでにそれで流された血も、“黯黒の眸”と同じく、魔力として蓄えといて、生き残りをその力で滅ぼす……。 オレ達は、んな仕様で創られてたんだ」
 それはあまりに身勝手な話だった。

 4.迷宮の宝石(4)

「つまりお前達は、魔族を滅ぼすための先兵として、神族の手によって送り込まれてきたと言うわけか。 しかし、それではなぜ侵略の時、ヤツらに与(くみ)しなかったのだ? 私の中にある先祖の記憶では、“黯黒の眸”は、魔族のために“紅龍”を呼び出し、そしてお前……“焔の眸”もまた結界を張って、初代紅龍の見境ない攻撃から、我らフェレスを守ってくれていたよ」
 ダイアデムの衝撃的な告白を聞いても、問いかけるサマエルの声は、あくまでも冷静だった。
 以前、幼少時代に自分の魔力を封じていたのが、シンハだったと打ち明けられた時に比べれば、彼自身のショックは遥かに少なかった。
 宝石の化身は、遠い眼をした。
「ああ、たしかにオレ達は、初めは敵のスパイ同然の存在だったんだけどな。 お前らの先祖は、とても穏やかな性質で、邪悪とは全然無縁な人々だった。 だから、オレ……“焔の眸”の輝きを浴びても、邪心はさほど強く呼び起こされなかったのさ。 戦いが起きたのはたった一度きり、それもごく局地での争いで、絶滅戦にゃ、なんなかった。 戦が終わった後は、オレ達を清めて神殿に祀(まつ)り、花や供物(くもつ)を供えて、崇(あが)めてくれてさえいたんだ、オレらが敵だってことも知らずに。 そんな平和な時が、気が遠くなるほど長く続いてた……」
「そこへ、神族がやって来たのか。 だが、連中がウィリディスに着くまで、どうしてそれほど長くかかったのだろうね?」
 第二王子は再び尋ねる。
 紅毛の少年は、可愛らしく小首をかしげた。
「んーと……それはだなぁ。 ……ほら、連中は、オレら以外にも“眸”をあちこちばらまいてたろ? だから候補地は、他にいくつもあったんだよ。 ちょいと住んでみて、自分らに合わねっとそこをぶち壊して次行く……ンな野蛮なことを繰り返して、とうとう、今の天界……ウィリディスにたどり着いちまった、ってわけさ」
「そう。それで?」
 サマエルは穏やかに先を促す。
「……そんで、オレ達も初めは計画通り、先住生物を抹殺しろっていう命令を実行しようとした。 ……っていうか、ホントのトコ、それ以外の行動はできるはずもなかったんだ、オレらは元々、命令通りにしか動けないように作られてたんだから。 けど、サマエル、お前はいつも心の中で見ているんだろ、あのすさまじい惨劇を……。 あの当時、オレ達にはまだ、肉体はもちろん、心だってなかった。 でも、戦の元凶になった鉱物を、平等に皆のものにしようって決めて、神殿に祀(まつ)った優しい人々が、なす術もなく殺されてくのを結晶面に映し出しているうちに、不思議なことが起こったんだ。 ……長年崇められ、祈りを捧げられるうちに、いつの間にか、フェレス達の精神と同調しちまってたのかもしれねー……うまく説明できねーけど。 ともかく、オレらの中に、魔族の悲劇に対する怒りと悲しみが湧き上がってきた……オレらに初めて、心が生まれたんだよ。 その生まれたての心に、彼らの悲鳴、苦痛の念、流されていく血がどっと流れ込んで来た。それがオレらに力を与え、ついには神族の命令を無効にしたんだ。 そのお陰で、お前らに味方して一緒に戦えるようになったってわけ。 ま、“黯黒の眸”は、魔族に味方した方が戦が大規模になって、たくさん負の感情……つまり餌を手に入れられるって思ったみてーだけどな。 後は、お前達も知っての通りさ」
 元魔界の至宝の長い告白が終わると、タナトスは組んでいた腕をほどき、さも軽蔑したように言った。
「……ふん、それが本当のことだとどうして分かる、貴様らが俺達に、味方したなどと?」
 サマエルは、妻をかばうように、さっと前に出た。
「待て、タナトス、早まるな、“焔の眸”に嘘はつけない。 彼らはやはり、私達の先祖を守って戦ってくれた守護神なのだ」
 だがタナトスは、そんな弟をじろりと見ただけで動こうとはせず、念を押すかのように尋ねた。
「つまりだ。 かつて貴様らが真実、裏切り者のスパイで、虐殺に手を貸したのだとしても、今は違う……そういうことだな?」
 宝石の化身はうなずいた。
「うん。だから、一万二千年前“黯黒の眸”がセリンを操って、人族と魔族の戦を起こしたのも、神族のヤツらの指図なんかじゃねーよ、ホントに。 ……信じられねーかも、だけど」
「ああ、それはもういい、戦を起こした真の理由は、テネブレに聞いた。 だが、貴様らがスパイかどうかということが、現在の俺と“黯黒の眸”に何の関係があるのだ? ついでに言えば、貴様とサマエルについても同様だな。 ──見ろ、貴様のそんな与太(よた)話などより、俺が貴様に危害を加えるのではないかと、それだけを心配しているようだぞ」
 タナトスは、弟王子を指差す。
 ダイアデムは肩をすくめた。
「そりゃーそーさ。 サマエルは、たとえオレが母親を手に掛けたんだとしても許すから、そばにいてくれなんて、泣きついてくるようなヤツなんだぜ、オレが昔、何してよーが、文句なんか言うわけねーじゃん。 けどお前の反応は、よく分かんねくてよ……」
「俺を見くびるな。過去は過去、今は今だ」
 タナトスはきっぱりと言ってのける。
 ほっとしたダイアデムは、今度は銀髪の老公爵に向き直った。
「んじゃあプロケル、お前はどうだ?」
「……は?」
 いきなり話を振られたプロケルは、琥珀の猫眼(びょうがん)を見開く。
「今の話、お前はどう思う? こいつらは、オレらに惚れた弱みでンなコトほざいてっけどよ、魔族の代表として、お前はどう思うんだ?」
「そ、それがしが、魔族の代表とは、左様に恐れ多い……」
 魔界の重要人物三人に見つめられ、プロケルはあたふたした。
 だが一瞬のち、彼は、にっと唇をほころばせた。
「いや、申し訳もございませぬ、それがし寄る年波には勝てませず、この頃、とみに耳が遠くなりましてな。
 お三人様のお話が、この年寄りめには、とんと聞こえませんでしたわい」
 元公爵は、ピンと尖った、よく聞こえそうな耳にわざとらしく手をあてがい、聞き耳を立てる仕草をしながらそう言った。
「はぁ……お前、芝居、ヘタ過ぎ」
 ダイアデムはため息をつき、サマエルは優しい微笑みを浮かべる。
「ありがとう、プロケル」
「ふっ、亀の甲より年の功、というわけだな。 それよりも、今はニュクスのことが心配だ。 ──さあ、それで俺は、何をどうすればいいのだ?」
 タナトスは身を乗り出す。
 彼にとっては済んでしまった大昔の話など、どうでもいいことの一つにすぎなかった。
 サマエルは肩の力を抜き、気を取り直して説明を始めた。
「それではまず、一時的に封印を解き、お前が迷宮に入った後、再び封じる」
「ふん、それから?」
「“黯黒の眸”の名を呼びながら、彼女の気が感じられる方へと進むのだ」
「けどよ、やっぱ無理なんじゃねーの、タナトスにはよ。 オレでさえやっとなんだぜ、あいつの気配を追うのは」
 ダイアデムが口をはさむ。
 タナトスは、憮然(ぶぜん)とした表情になった。
「やってやるさ、やらねばならんのだろう! それで? 後はどうするのだ?」
「彼女が出てくるまで、ずっとそうしているしかない」
「なにぃ! 探すのとどう違うのだ、それでは!」
 兄が叫ぶと、サマエルはにっこりした。
「大丈夫だよ。彼女は飢えている、お前の魔力に惹(ひ)かれて必ず現れるさ、それもすぐにね」
「ふん、貴様の言うことは、いまいち信用が置けんからな。 だが……それしか方法がないというのなら、仕方があるまい」
 タナトスは不服そうに言い、それからさっそく、地下迷宮の封印を解きにかかった。
「──地下に広がるラビュリントスを護りし結界よ、魔界の王、黔(けん)龍王サタナエルが汝に命ず、その堅き扉を開き、我を招き入れよ! よし、では行ってくる。あとは頼んだぞ」
「は。ご幸運を祈っておりまする」
 プロケルがうやうやしく頭を下げる。
 ダイアデムも、ひらひらと手を振った。
「ま、せいぜい頑張りな。オレも祈っててやるよ」
「……私も」
 付け足しのように言う弟王子を、タナトスは睨みつけた。
「ふん、二度と還ってくるな、と思っているのだろう、貴様」
 途端にサマエルは、緋色の眼を、誰にも見られぬようフードに隠したまま、唇の端を釣り上げた。
「まさか、そんなことは思っておりませんよ。 第一、あなた様がいなくなってしまわれたら、魔界王の位が空位になってしまうでしょう? 私は継ぐことはできませんし、リオンもまだ無理ですし。 それゆえ、必ず還ってきて頂きたいと切に願っておりますよ、“兄上”」
 魔界の王は、眉間にしわを寄せた。
「──ちっ! そこでなぜ、いきなり敬語になり、しかも“兄上”などと抜かすのだ!」
「ほらほら、急ぎませんと。 愛しいお方が、あなた様をお待ちになっておいでなのでございましょう? 魔界王陛下」
 サマエルは、わざとうやうやしくお辞儀をし、兄が大嫌いな敬称を使ってみせる。
 タナトスは顔を真っ赤にした。
「くっ、貴様、覚えておれ!」
「おいおい、サマエル、お前、他人のこと言えないじゃんか、それじゃ。 あ、そーそー、一つ教えといてやるよ、タナトス。 ニュクスの手なずけ方はよ、こーやるんだ」
 ダイアデムは、ふわりと空中に浮かび上がった。
 そして、サマエルの顔と同じ高さまで行き、彼の頬を手で挟み込んで、顔を近づける。
「……?」
 彼が何をするつもりか分からず、サマエルはただ、眼を瞬(しばた)いていた。
 二人の唇が合うと、タナトスやプロケルが驚いたのは無論だが、一番信じられない思いでいたのはサマエルだった。
“ダ、ダイアデム、こんな、皆の前で……”
「口移しが一番美味い、って言ったのはサマエル、お前だぞ」
「そ、それはたしかに……あ、あの時は、そう言ったけれど……」
 いつもは何があろうと頭に来るほど冷静な弟が、珍しくへどもどしているのを見たタナトスは、飛び切り皮肉な笑みを浮かべた。
「ふっ、幼獣に口移しでエサをやる要領というわけだな、ダイアデム」
「へっへぇ、分かってんじゃねーかよ、タナトス。 ま、頑張って来いよな。 あ、でもくれぐれも言っとくけど、エサやり過ぎんなよ。 いっつもギリギリって感じにしとくと、お前のそばをフラフラ離れてくってことがねーんだからな」
「貴様も、そうやってサマエルを飼っているというわけか? ふん、参考にしておいてやろう。 ──ムーヴ!」
 タナトスが目の前から消えると、サマエルはため息をついた。
「……はぁ。私は、お前に飼われているのかい?」
「そ。お前ペット、オレ、ご主人様、な?」
「サ、サマエル様が、ペットですと……?」
 プロケルは、この二人の関係に驚きを隠せなかった。
 悪びれる様子もないダイアデムは、例によって質(たち)の悪い笑いを浮かべる。

 5.闇の誘惑(1)

 得体が知れない不気味な怪物の彫像が、カッと開けている。
 その巨大な口こそが、地下迷宮の門だった。
 人の身長の二倍はあろうかというほどの高さ。無数に生えた牙から、まるで涎(よだれ)のように、冷たい雫がぽたぽたと垂れてくる。
 タナトスはその口をくぐり、ついに迷宮に足を踏み入れた。
 夜目の利く魔族、その長である彼の視力をもってしても、底を見通すことができな深い闇が、どこまでも目の前に広がっている。
 太古からある天然の地形とも、強大な魔力を持った者により、ただの一夜にして創り上げられたとも言われる、この暗黒の地下迷宮には、一巻きの地図さえ存在しない。
 汎魔殿の地下深く、縦横無尽にトンネルが伸び、どこでどうつながっているのか、正確に知っている者は、生者の中にはもはやいないのだった。
 タナトスは大きく息を吸い込み、無限の闇に向かって呼びかけた。
「──ニュクス……ニュクス! どこにいる、出て来てくれ! 事情は“焔の眸”から聞いた、俺は、そんなことはまったく気にせん! それゆえ、帰って来てくれ!」
 しかし応えはなく、返ってくるのは虚ろな木霊(こだま)ばかりだった。
 いくら“黯黒の眸”が、気配を消す術には長けているとはいえ、迷宮の中に入れば多少なりとも……せめてあの貴石の存在の片鱗くらいならば、感じられるのではないかという彼の淡い期待は、完全に裏切られた。
 (──くそっ、自分自身の愚かさ加減には、まったく愛想が尽きるな! 自分を偽らずにいれば、こんなことにはならなかったのだ。 ニュクスも俺を恐れたりせずに、何があろうとダイアデム同様、打ち明けてくれたろうに! 考えてみると、逃げていたのは俺の方だったのか……)
 タナトスはおのれを責めた。
 目前には依然として、冥界に通じていると密かに噂されるほど入り組んでいる、果てさえ見えない暗闇。
 恋しい相手のためとは言え、その中を、あてもなく進んで行かねばならない。
 そう思うと、タナトスにしては珍しく、暗澹(あんたん)たる考えにのめり込んで行きそうだった。
 無論サマエルは、そのことも考慮に入れて兄を一人で行かせたのだったが。
 彼は考えていた。
 “黯黒の眸”は、暗い思考に反応しやすい。
 あの単純なタナトスが、珍しくも負の思考に囚われている今なら、彼女もそれに引き寄せられ、戻っても来やすいだろう。
 その後、もし仮に兄が意識を乗っ取られるようなことがあったとしても、代々の魔界王が施してきた強力な封印を破るのはたやすいことではない。
 それに、あのタナトスが、長い間取り憑かれているとは考えにくかった。
 すぐに兄はおのれを取り戻すはずで、それを待てばいいのだ。
(だが、もし万一、タナトスが“黯黒の眸”の呪縛から逃れられないときは、情けは無用だ。 こともあろうに、現役の魔界王が臣下に操られたなどと知れたら最後、デーモン王達を始め、家臣達は、もはや魔界王家には従うまい。 最悪の場合、口封じのため、プロケルにも気の毒だが消えてもらうしかない。そう……名目は二人一緒に、転地療養ということにでもしておこうか)
 そう考えているうち、彼は、黔龍がいなくなるのは、魔界にとっては痛手だということに気づいた。
 四龍がそろわなければ、魔族の戦いに勝利はないのだから。
(ふむ、ではぜひとも“兄上”には、ニュクスの説得に成功してもらわなければならないというわけだな……)
 かつて、魔界一の策士と呼ばれた“カオスの貴公子”サマエルは、そんな風に、様々な可能性を視野に入れ考えを巡らせていたのだ。
 並の者には決して窺(うかが)い知ることができない、フードの奥に隠された第二王子の素顔をかいま見ることができたのは、妻である“焔の眸”の化身、ダイアデムだけだった。
 サマエルは、その唇に浮かぶ温かい笑みで、いつもは優しい印象を人に与えている。
 しかし今、フードの陰の緋色の眼は少しも笑ってはいなかった。
 こんな時のサマエルにダイアデムは怯え、逃げ出したくなってしまう。
 と同時に、ひどく惹きつけられもするのだった。
 サマエルもまた、こういうときの自分にダイアデムが戸惑うのを知っており、なるべく見せないよう心がけてはいた。
 が、自分が少し距離をおくと、かえって彼の方から近づいてきてくれることが多いとも感じていて……それでわざと、冷たく取り澄ました顔を見せてみることもあった。
 それでも、今回はサマエルにも、そこまでできるほどの心の余裕はなかった。
 彼はパチンと指を鳴らし、愛用の、一抱えもある巨大な水晶球を呼び出して、それを覗き込んだ。
「……ふうん、まだ出て来ないとはね。私が思っていたよりも、ニュクスはタナトスのことを大切に思っているらしい、これは意外な展開だな……。 それとも、彼女を創ったとき、タナトスはよほど、孤独を噛み締めていたのだろうか? もしかしたら、他の誰をさて置いても自分を大事に思ってくれるように、思いを込めてニュクスを創ったのかも知れない……あいつのことだ、無意識にだろうけれどね」
 ダイアデムは、ぽりぽりと頭をかいた。
「そうかもしんねーけどさ……覗きかぁ? そーゆーのって、趣味じゃねーんだけどな……」
 サマエルは微笑んだ。
「大丈夫、こちらの声は届かないようにしてある、あいつに、覗いていることを悟られる心配はないさ」
「たしかにプライバシーの侵害ではありますが、この際は致し方ございませんでしょうな。 まかり間違ってタナトス様が取り憑かれ、操られてしまうようなことにでもなれば、それこそ一大事になりますぞ」
「ま、そりゃそーだ」
 自分達の声は向こうには聞こえないと分かっていながら、プロケルとダイアデムの声は知らず知らずに低くなる。
 三人は、息を殺して水晶球に意識を集中した。
 魔族の王の力をもってしても、“黯黒の眸”の気配を探り出すのは難しい。
 タナトスは、いくつも枝分かれした通路の選択に苦慮していた。
(ちぃっ、サマエルめ、“黯黒の眸”の“気”など、まったく視(み)えんではないか……! くそっ、何ゆえ、魔界王たる俺がいつまでも、こんな辛気(しんき)臭い穴蔵に、突っ立っておらなければならんのだ! ──こうなったら、あいつが自分から出てくるように仕向けてやる!)
「ニュクス! “黯黒の眸”よ、出て来い! ──聞け! 貴様は空腹なのだろう、俺が魔力を分けてやる! そうすれば、誰かに取り憑いて闇の感情を吸い取る必要など、もはやなくなるのだ! 現にサマエルはそうやって“焔の眸”から魔力を与えられている、あいつはもう、女の精気を吸わずにすむようになっているのだぞ!」
 気を高めてそう叫んだ後、タナトスは待ちの姿勢に入った。
「……遅い! “黯黒の眸”よ、出て来い! ニュクス!」
 しかし短気な彼はそう長くは待てず、すぐにまた叫び始めた。
 彼が大声を出すたびに、紅い魔力が勢いよく体からほとばしる。
 闇に棲(す)む者にとって、強大な魔界王の魔力は、暗闇で弾ける火花の輝きも同様で、当然“黯黒の眸”もまた、それに惹きつけられるはずだった。
 だが……。
 いくらタナトスが気を高めて呼びかけても、“黯黒の眸”は、一向に姿を現そうとはしなかった。
「──はぁ、はぁ……く、くそっ、サ、サマエルめ……! す、すぐ出てくるなどと、いい加減なことをほざきおって……! ──ウッ、ゲホ、ゲホッ……くっ、戻ったら八つ裂きにしてやる! くそぉ、もう堪忍袋の緒が切れたぞ、出て来んのなら、それでいい! “黯黒の眸”め、貴様ごと迷宮を破壊し尽くしてやる──!」
 激しい怒りと共に魔力が放出されて真紅の渦となり、タナトスの体を取り巻いてゆく。
 彼の怒りに、迷宮を覆っている結界が同調し、みしみしときしみ出した。
「あーあ……ついにキレちまった、もー、後先考えてないぜ、あのバカ。 どーするよ、サマエル」
 あきれて振り返るダイアデムを、サマエルが制す。
「──お待ち。来たよ」
「おお、参りましたか」
「やっとかよ」
 元・魔界公と宝石の化身は、急いで水晶球に目を凝らす。
「魔界王よ、この地下迷宮を破壊すれば、上階部の汎魔殿も無事ではすむまいぞ」
 聞き覚えのある気配と声に、透明な水晶球の中に映し出されたタナトスの姿がさっと振り向く。
 黒ずくめの美しい女が、闇の中から湧き出たようにそこに立っていた。
「き──貴様が、すぐに出て来ないからだっ!」
 しかし、緋色の眼を燃え上がらせ、荒い息遣いをしたタナトスの鋭い語気は、ニュクスを怯えさせた。
「……っ!」
 声なき叫びを上げて、美女が身を退く。
 思わずダイアデムは、自分の額をぴしゃりとたたいた。
「あのバカ! せっかくニュクスが出て来たってのに……ったく、声くれー、も少し優しくかけらんねーのかよ!」
 案の定、震え上がったニュクスは、再び闇に溶け込んでいこうとする。
 タナトスはその手をわしづかみし、力任せに引き寄せた。
「どこに行く気だ、ニュクス」
「離せ、タナトス。妾(わらわ)は咎人(とがびと)、魔界の王たるそなたの元にいる資格など……」
「咎や資格などと四の五のほざくな! そんなことはどうでもいい、俺はお前を愛している、もうどこにも行かせん。 お前は俺のものだ!」
 そう言うとタナトスは、荒っぽくニュクスに口づけた。
「ひょー、やったね!」
 ダイアデムは、パチンと指を鳴らす。
 サマエルは、取り立てて表情を変えなかった。
「……いや、これでようやく第一段階突破、というところだ。 だがまあ、すぐ引っ張り出すのも気がひけるし、少し二人切りにしておいてあげようか?」
「いーや、エサのやり過ぎが心配だ、あいつに恨まれてもいーからすぐ戻した方がいい!」
 ダイアデムはきっぱりと言い切った。
 プロケルは、心の底からほっとしたように、深々と頭を下げる。
「お二方には、お礼の言葉もございません。 ならばそれがしが、タナトス様にお声をおかけ致しましょう。 なに、この年寄りが多少恨まれたところで、老い先短い身ですからな」
「よし、任せた!」
「そうか、助かるよ」
“タナトス様、即刻お出まし願います!”
“何だと、プロケル、貴様!”
 プロケルは、魔界王の抗議も怒りも意に介さず、強引に迷宮から引っ張り出した。

 5.闇の誘惑(2)

「プロケル、貴様!」
 ニュクス共々、地下迷宮から強制的に出されたタナトスは、元公爵に食ってかかった。
 しかし、この王に怒りをぶつけられることに慣れていたプロケルは、特にうろたえることもなく、うやうやしく頭を下げ、詫びを入れた。
「申し訳もございませぬ、タナトス様。されど、年寄りになりますると気が短うなりましてな。 一刻も早く、ご無事なお姿を拝見致したいがゆえの我がままでございます、平にご容赦……」
 サマエルも、にっこりしながら老公爵に加勢する。
「二人きりでいたかったところを悪いが。タナトス、問題は、まだすっかり解決したというわけではないのでね」
「それによぉ、タナトス。オレが見たトコ、お前、エサやり過ぎだぞ」
「何を言う、これしきのことで……!」
 ダイアデムの言葉に、魔界の王は勢いよく振り向く。
 途端に足元がふらついて、両足を踏ん張らなければならならなくなり、彼は面食らった顔をした。
「くっ、ど、どうしたのだ、力が入らんぞ……?」
「タナトス様!」
 プロケルが急いで彼を支える。
 ニュクスもまた、おろおろと主に取りすがった。
「タ、タナトス、すまぬ、妾が吸い過ぎたせいで……」
「ほらみろ。ま、最初は加減が分かんねーのも無理ねーけどな。 サマエルだってさ、初めの時は飢え過ぎてて、オレの力をほとんど全部吸い取っちまって。 その上、オレをベッドに押し倒してさー、あん時は、さすがに参ったぜ」
 第二王子は焦り、妻の言葉をさえぎった。
「ダイアデム、よ、よしておくれ、こんなところで、人聞きの悪い……!」
「ホントのことじゃん。 へへ〜ん、逃げられないオレにその後何をしたか、みんなの前で言ってやろーかぁ?」
「……どうして? なぜ、今頃になって、そんな昔のことを蒸し返すのだね? そんなに私に、恥をかかせたいのかい……?」
 サマエルはうなだれた。
 そんな彼のフードの奥を覗き込み、ダイアデムは念話を送った。
“お前がヤバイこと考えてっからさ。 今は私情を挟むのは禁物だぜ、魔界のことだけ考えてくれよな”
 一瞬心臓の鼓動が激しくなるのを覚えたサマエルだったが、彼も魔界の王子、それを心の声にさえ現さない。
“何のことだね? さっぱり分からないが”
“ごまかしたってダ〜メ、お前とは長いつきあいなんだからよ、バレバレだぜ。 さっき、タナトスが迷宮に入ったときさ。 このまんま、入り口塗り込めて『暗黒の瞳』に取り憑かせ、一生閉じ込めてやろーかとか、アブねーこと考えてたろーが? 邪魔んなるようなら、プロケルもまとめて始末しちまえ……とかさ”
 今度こそサマエルは、息が止まりそうになった。
 心の中で一つため息をついて気を取り直し、彼は妻に返事をした。
“やれやれ、お前には隠し事ができないね……。 お前の言う通り、たしかに一瞬だけれど、そう思ってしまったことは認めるよ……あ、それでさっき私にキスしたり、即刻タナトスを呼び戻すよう、主張したりしたのだね?”
“そーそ。お前ってば、殺気立って、超ヤバイ顔してたぜ。 だから、腹が膨(ふく)れりゃ少しは気が和(なご)むかなーとか思って、精気をくれてやったんだけどよ。 ……ったく、困ったもんだ、そんなに憎いのかよぉ、たった二人の兄弟だってのにさ?”
 ため息まじりの妻の念話に、サマエルもまた諦めたように答える。
“お互い様さ、タナトスもそう思っているのだからね……”
 その時、気遣わしげにタナトスを介抱していたニュクスが、顔を上げた。
「なれど、“焔の眸”、サマエルは、おぬしに何をしたのだ? 後学のために聞いておきたい、教えてはくれぬか」
 その問いかけに、弱り切ってプロケルとニュクスに支えられていたにも関わらず、タナトスはにやりとした。
「そうだな、俺もぜひ聞きたいものだ。詳しく聞かせろ、ダイアデム」
「へへぇ、そんなに聞きたい? じゃあ、教えてやるよ」
「やめておくれ、ダイアデム、お願いだから、あの時のことは、もう……!」
 サマエルの哀願も気に止めず、ダイアデムは話し始めた。
「こいつはな、ベッドにオレを押さえ込んで、もー一度唇を合わせて来たのさ。 オレは、もうダメだって覚悟を決めた。魔力すっからかんにされて、消されちまうんだって……。 けど違ってた。オレを押さえつけたのは、女を振るための芝居だったんだぜ、あきれたことに。 その女ってのが、ライラ。今のリオンの恋人さ」
「ライラ? ……ああ、イナンナの子孫で、彼女に瓜二つの女性だったな。 だが、本当にそれだけか?」
 タナトスは、疑いの眼差しをサマエルに向ける。
 ダイアデムは、かつての主人に言い返した。
「へっ、ンな偉そーに言える立場かよ、お前?」
「なに?」
「お前こそ、オレにしたこと忘れたのか、ってゆってんだよ! あの、魔界王になった日の夜、お前はオレをどうしたんだっけな!?」
 途端に、タナトスの顔から血の気が引いた。
「あ、いや、それは……」
「どうした、タナトス、顔色が悪いぞ。 どうやら身に覚えがあるようだな……?」
 彼らの間に何があったか、とっくに聞いて知っていたサマエルだったが、わざと冷ややかな視線を兄に送った。
 ダイアデムもそれに便乗して、わざとらしくサマエルにすり寄っていく。
「そーなんだ、サマエル。聞いてくれよぉ。 あん時、こいつときたらさぁ、オレを……」
「よ、よせ、ダイアデム! 貴様こそ、サマエルに知られればまずいのだろうが!」
「へん、男らしく認めろよ。お前、魔界の王なんだろ!」
「妾も聞きたい。“焔の眸”はこの通り、正直に話してくれた。 それにおぬしは妾に、『何でも聞いてくれ、ちゃんと説明するから』と申したのではないか?」
 ニュクスまでが口を出すと、タナトスは唇を噛んだ。
「くっ、そんなに聞きたいなら教えてやる! 俺は、戴冠式の後、ダイアデムを寝室に呼び出し、夜伽(よとぎ)をさせたのだ! あの時の仕返しがしたいのだろう、“焔の眸”! 貴様が吐き、泣き出してしまうまで、嫌がっていながら抵抗できずにいたことに、俺は気づきもしなかったのだからな!」
 そこまで言うと、タナトスは、淋しげな微笑みを浮かべ、ニュクスの漆黒の瞳を見つめた。
「俺に愛想が尽きたろう? せっかく戻って来てくれたのに、こんな話を聞いたのではな……」
「何ゆえ愛想を尽かさねばならぬ? おぬしは魔界王、我ら“眸”の主人。 その話ならば、すでに聞き及んでおったし、第一、主人が下僕に夜伽を命じたとて、何の不具合がある?」
 きょとんとした顔で“黯黒の眸”が答える。
 続けてダイアデムが言った。
「サマエルもそう言ってくれたぜ。それに、たとえ、進んで身を任せたんだとしたって、過去のことは気にしないって」
「ダ、ダイアデム──サマエル……貴様ら、俺をはめたな……!」
 歯ぎしりをしながら、タナトスは二人を睨みつける。
 それに答えるサマエルもまた、苛立ちが声に出るのを隠そうともしなかった。
「そう、たしかにとっくの昔に聞いていたさ。だが仕返しをしたくなったのは私で、ダイアデムはそれに乗っただけなのだから、彼を責めないで欲しいね。 それにしたところで、考えてもみるがいい、いくらしもべだからと言って、後宮の女性でもない者の意志も確かめずに夜伽をさせるとは……。 魔界では身分制度は絶対だ、彼が拒否できるわけがない。お前は傲慢過ぎるのではないのか?」
 常日頃、誰かに誤りを指摘されても決して反省などしないタナトスも、今回助けてもらったこともあり、また、自分の身に置き換えてみれば、弟の腹立ちももっともだと思った。
「分かった。ならば改めて謝罪しよう、許してくれ、ダイアデム」
 そう言って、彼は頭を下げる。
 紅毛の少年は、首を振った。
「もー千二百年も前のことだし、オレは気にしてねーけどよ。 でも“黯黒の眸”のことは、下僕だなんて思わないでくれよな」
「当然だ、妃のことを僕(しもべ)などと考えるわけがなかろう」
 苛立たしげに、タナトスは答える。
「おお、もう夜が明けて参りましたぞ。 お体も心配でございます、少し休息を取られてはいかがですかな、タナトス様」
 プロケルが口を添えると、虚勢を張っていたものの、実際はかなり弱っていたタナトスはその気になった。
「そうだな。少々休むとするか。他のことは、体力が戻った後だ」
 次の瞬間、サマエルは突如ニュクスの手を取り、引き寄せて抱き上げた。
「いい機会だ。お前が休んでいる間……明日の朝まで彼女を貸してもらうよ、タナトス」
「サ、サマエル、何を致す!? 降ろせ!」
「いいから、大人しくしておいで、ニュクス」
 サマエルはもがく“黯黒の眸”の化身をがっちりと押さえ、決して降ろそうとはしなかった。
「ニュクスに何をする、貴様! ……く!」
 驚いたタナトスが、二人のそばに寄ろうとするが、足に力が入らない。
「では、ごきげんよう、兄上。──ムーヴ!」
 暴れる美女を抱いたまま、サマエルは呪文を唱え、消え失せた。
 消える寸前、弟の唇に、意味ありげな微笑みが浮かんでいたのを、タナトスは見落とさなかった。
「くそっ、サマエル、どこに行きおったのだ!」
 魔界王は叫び、後を追おうとするものの、弱り切った体では、自力で立っていることもおぼつかない。
「あ、あいつめ──! 俺はちゃんと謝ったではないか! それなのに、なぜニュクスをさらう!」
 ダイアデムは再び、不良少年のような質(たち)の悪い笑いを浮かべた。
「分かんねーのかよ、タナトス。 あのセリフ、お前がジルを借りたときとおんなじだぜ……?」
「くそっ、なんて根暗なヤツだ、俺がジルにしたことを、まだ根に持っていたのか!?」
「それに致しましても、それがしめには分かりかねますな。 わざわざ手を貸して下さり、せっかく“黯黒の眸”殿が無事戻ったと言うのに、何ゆえサマエル殿下は、かようなことをなされるのか……?」
 琥珀色の瞳を曇らせて、いぶかしげにプロケルがつぶやく。
 その疑問は、同時に魔界王のものでもあった。
「たしかにな。最初から、ヤツが自分で地下へ行った方が手っ取り早いはずだ……というか、元々ヤツは、“黯黒の眸”から力を得たのだぞ、今さらニュクスを手に入れて、どうする気なのだ……?」
 首をかしげていたタナトスは、紅毛の少年と眼が合うと残りの力を振り絞り、紅い眼に凶暴な光をたぎらせて、彼に詰め寄った。
「ダイアデム、ヤツはどこに行ったのだ、貴様は知っているのだろう! さっさと教えろ! さもないと、俺は貴様を……!」
 魔界王の剣幕に臆(おく)した風もなく、けろりとダイアデムは答えた。
「さもないと、どうするってんだ? 念のため言っとくけど、またオレに何かしたら、サマエルのヤツ、今度こそマジギレして、“黯黒の眸”を粉々にしちまうぜ?」
「何だと貴様!」
 タナトスは荒っぽく、少年のえり首をつかんだ。

 5.闇の誘惑(3)

 もみ合う彼らの間にプロケルが割って入り、言い諭(さと)す。
「まあまあ、お二方とも落ち着きなされ。 タナトス様、お怒りはごもっともなれど、この場は一時、お納め下さいませんかな。激情に駆られて闇雲に行動なさっては、何事もうまくは運びませんぞ」
「くっ……!」
 タナトスは、歯ぎしりをしながらもダイアデムを解放した。
「ですがダイアデム殿、サマエル様がどうされるおつもりなのか、お分かりならば、教え願えませんかな」
 下手に出られたダイアデムは、ようやく答える気になった。
「う〜ん、オレもよくは分かんねーけど……。 ハッキリしてんのは、あいつがニュクスに危害を加えるつもりはねーってことくらいだなぁ」
「どうしてそんなことが分かる! あいつは、女と見れば見境のない、下劣なヤツだろうが!」
 魔界の王は吼(ほ)えた。
 少年は口をとがらせた。
「そりゃヤツの罪じゃねーよ、勝手に女の方から寄って来るんだし。 あいつは“カオスの貴公子”、生きてる媚薬みたいなもんなんだから。 それに考えてみろよ、このオレを置いてってことだけで、ニュクスは大丈夫だって分かるだろ」
 タナトスは、眉間にしわを寄せた。
「何ゆえそれが、大丈夫だという理由になる!?」
「だってマジにサマエルが、ニュクスを手に入れようと思ったんなら、オレも連れてったさ。 お前が激怒して、オレをどうにかしようとするに決まってんだから。 あいつが、そこまで考えねーはずねーだろ。 だからさ、『自分を信じて待っていて欲しい』ってことなんだと思うぜ」
「では、なぜあの馬鹿は、そう言って行かんのだ!」
 ダイアデムは、可愛らしく小首をかしげた。
「そこが、オレも引っかかるトコなんだよなー。ちょいと聞いてみっか」
「何、それでは貴様は、あいつがどこにいるのか知っているのだな、言え、ヤツはどこにいる!」
 再びタナトスは少年に詰め寄る。
「こん中」
 宝石の化身は、サマエルが置いて行った、巨大な水晶球を指差した。
 そこには、たった今魔界王が出てきたばかりの、地下迷宮の入り口が映っていた。
「迷宮の中だと!? 何ゆえヤツはあんなところに!」
「だから、今それを聞いてみるんだ、少し黙ってろよ」
 ダイアデムが意識を集中させるのを、タナトスとプロケルは固唾を呑んで見守った。
 静寂が辺りを支配した。
 長い長い沈黙が続き、タナトスの苛立ちが頂点に達しようとしたとき、少年はいきなり頭を抱え、しゃがみ込んた。
「サマエルの馬鹿……!」
 涙が滑らかな頬を伝って滴り落ち、美しい深紅の宝石となって床に散らばる。
 滅多に見ることができない宝石を目の当たりにして、魔界の王族達は驚愕した。
「一体どうした、ダイアデム!」
「ダイアデム殿、いかがされた、サマエル様は!?」
 二人が“焔の眸”の化身を揺さぶると、ダイアデムはうつむいたまま、低い声で言った。
「見る勇気があるか……? タナトス。 ……とてつもなく、嫌なものを見ることになるかもしんなくても……?」
「どういう意味だ?」
「サマエルが何をしてるか、これに映せるっつったら、見る気があるかって聞いてんだよ!」
 ダイアデムは、水晶球を小さな拳で殴りつけた。
 それはまだ先ほどと同じく、迷宮の入り口を映し出しているだけだったが、タナトスの胸の鼓動は激しくなり始めた。
「な、何をしているのだ、ヤツは……」
「……もう始めちまったかな……オレ、一人で見る勇気ねーや。 お前が見るんなら、一緒に見てもいいけど、さ」
 彼のひどく落ち込んだ様子から、タナトスは、弟が自分の恋人にどんなことをしているか、分かってしまった気になった。
「──くそっ! 貴様は腹が立たないのか、サマエルに裏切られて!」
「……裏切る?」
 その紅い眼に、今にもあふれそうに涙をたたえたまま、ダイアデムは顔を上げる。
 涙で一層美しさを増すはずの至宝の輝きが、裏切られた悲しみに曇っているように思えて、プロケルまでもが腹を立てた。
「そうではありませんか、あの方はあなたを捨てて、“黯黒の眸”殿に乗り換えたのですぞ! ニュクス殿はたしかにお美しい、ですが、兄君様と奥方であるあなたを裏切ってまで、手に入れようとなさるとは!」
 “焔の眸”の化身は、ぽかんと口を開けた。
「……何言ってんだ? おめーら……」
「まだあの方をかばうのですか、お話をなさったのでしょうに!」
「そうだ、場所を教えろ、直接行ってニュクスを取り返して来てやる!」
「え、だ、駄目だよ、邪魔しちゃ……」
「貴様は諦めがついているようだが、俺は許さんぞ! 今度こそ八つ裂きにしてくれるわ!」
 魔界王の剣幕に驚愕したダイアデムは、大慌てで立ち上がる。
「よせよぉ、タナトス、ンな馬鹿なこと! 何勘違いしてんだ、今、サマエルは、お前らのために命賭けてんだぜ!」
 今度は、タナトスが眼を見開く番だった。
「何だと、命を賭けている? 一体ヤツは、何をしていると言うのだ!?」
 少年は眼を伏せる。
「あいつ……死ぬ気なんだ……うまくいく確率の方が低いのに……」
「何ぃ! どういうことだ、言え!」
「ダイアデム殿!」
 二人に促され、ダイアデムは重い口を開いた。
「……あのな、“黯黒の眸”は、ずっと力がない状態でいただろ? 長いこと封印されてたし、この頃はどこも平和だしよ。 ンなトコへ、タナトスが魔力をたくさん注入してやった。 そんでサマエルは、闇の力すべてを取り込む、いい機会だと思ったみたいなんだ」
「ちっ、見下げたヤツだ、さらに力が欲しかったと言うのか! あれほどの力を持ちながら!」
 かつての主が大声を出すと、宝石の化身も負けじと叫び返した。
「違っげぇよ! まだ分かんねーのか、馬鹿! “黯黒の眸”が、お前に取り憑(つ)くのを防ぐためには、そーしなきゃなんねーんだよ! ──ったく、少しは頭使えよな! ニュクスはお前が作った人格だから大丈夫だけど、“テネブレ”って厄介もんがいるだろ!」
 思い出したくもない名を聞いて、タナトスは顔をしかめた。
「テネブレだと? 俺はヤツとも一緒にいたことがあるが、別にどうということもなかったぞ」
「あったり前だろ、そんときゃまだ、魔法陣の中に封じられてたんだもん。 けど、弱ってないときのテネブレは、どうしたって、血と殺戮(さつりく)、憎悪と恐怖……それを欲しがっちまうんだ。 それをオレとサマエル以上に知っている者はいねー。 だからこそあいつは、テレブレを取り込もうって決めたんだ」
「それにしても、なぜだ? サマエルは俺を憎んでいるはず。 “黯黒の眸”のため……貴様の兄弟のためにしても、なぜそこまでする必要がある?」
 魔界の王は首をひねった。
「そりゃきっと……一瞬だけだ、ってゆってだけど、お前を、本気で殺そうって考えちまったからじゃねーかな」
「ふん、迷宮に入るときか」
 タナトスは平然と答え、ダイアデムは眼を丸くした。
「お前、気づいてたのか?」
「ああ。迷宮に入ろうとした刹那、……いや、あいつと話をしていた時点で、氷のような殺気を感じたぞ。 もう、ここから生きて出られんかもしれんと、ふと思ったほどにな。 だが、それも当然だろう、俺が貴様にした仕打ち……何より幼少の頃、俺があいつにしたことを考えれば、な。 それより分からんのは、なぜ頭で考えただけで命を賭けねばならんのか、というところだ。 俺だとて、かつては常にサマエルを殺してやりたいと考えていた……それを、あいつも知らんはずはあるまい」
 ダイアデムはかぶりを振った。
「いーや、サマエルはよ、お前が思ってるより、ずっと恩義感じてるんだぜ。 オレの左眼と、そしてオレの憑代にするために“盲いた瞳”を渡してくれたことにさ。 それに……“闇”に取り憑かれるのが、どんなに辛いかってことも知ってるしな」
「ふん、あいつが俺に恩義だと?」
 疑わしそうに鼻を鳴らすタナトスに、ダイアデムはうなずいて見せた。
「ああ。昔の……ジルのこともあるし。きっとお前は根に持ってて、絶対渡してなんかくれないだろうって思ってたみたいでさ。 ほんの気紛れだったとしても、とてもうれしかった、って感激してた」
 タナトスは肩をすくめた。
「……あいつに感激などされてもな。大体、ジルのことは仕方がないではないか。いくら望んだところで、相手が受け入れてくれねば意味がない。 しかしそれとて、もはや済んだこと。俺はそれほど執念深くはないぞ」
「でもサマエルはずっと、ホントはジルは、お前のことが好きだったのに、自分が彼女の師匠だったから、言い出せなかったんじゃないかって、誤解してたんだ。 彼女はオレのことを予知してて、そんで魔族にならなかったんだけどな」
「貴様のこと? “焔の眸”がサマエルの伴侶になる、とでも?」
 少年はうなだれた。
「ああ。彼女がたった二百年しか生きられなかったのは、オレのせいさ……。 でも、それを言ったらサマエルは、ジルは予知を無視することもできたはずなんだから、気にするなって言ったんだ。 それを選んだのは、彼女なんだからって……」
 タナトスは深くうなずいた。
「色々な意味で強い女性だったからな、ジルは」
「それによ、たしかにサマエルはガキの頃、魔界を憎んでた。 お前や親父、“カオスの力”、“黯黒の眸”……魔界だけじゃなく、今現在存在してるすべての世界をひっくるめてさ……。 でも、大人になってから、色んなことが分かって来て、お前も被害者だったってことを知った。 オレといるから、“黯黒の眸”のことも前より理解できるようになった……なのに……まだ遠い昔の憎しみに囚われ、引きずられてる自分が情けなくて、許せないみたいなんだ。  『これは自分が落とし前をつけなきゃならないことだから、手を出さないでくれ』ってあいつは言ってるよ」
「むう、しかしだ……」
「左様、いかにサマエル様が“カオスの貴公子”であられても、左様な大事を、お一人で試みられるのは無謀ではないのですかな? よもやということもあるのでございましょう?」
 プロケルが心配そうに言う。
「ああ、もし失敗したら……その可能性が高いんだけど……サマエルは死ぬ。 でも、“黯黒の眸”は無事さ。ニュクスが消滅してたら、そんときゃ、お前がまた体を創ってやればすむことだ」
 タナトスは眉をしかめた。
「気楽そうに言っているが、あいつが死んだら、貴様、どうするつもりだ」
「自己破壊するよ、オレも。もう呪縛は解かれたからな。 ま、オレには魂なんかねーから、地獄の底まで付き合ってやるこたできねーけど。あいつがいない世界なんかにゃ、未練はねーし」
(ちっ、こいつらは、いつもこうだ。 大して努力もせず、すぐ生きることを諦めたがる。皆がうらやむ美しさと、能力を持ち合わせていながら。 ニュクスが、このたわけ者どもに感化されんように気をつけねば)
 タナトスは、心の中で舌打ちした。

 5.闇の誘惑(4)

 この意ある宝石達にとって“真の自由”とは、“死”、つまり自身の破壊を意味するようなところがあることに、タナトスは気づき始めていた。
 眸達がそう思い込んでしまった理由の一つは、魔族が代々、事実上不死である彼らを呪縛し、自由を奪って来たせいもあるのだろう。
 長い年月が過ぎ行くうちに、いつしか彼らは、解放されることを諦め、自身を元素へと変換させて地中に融けていくことを夢見るようになってしまったのかも知れなかった。
 タナトスには到底、理解しがたいことだったが。
 かつては、常に自分に付き随っているのが当然だった、魔界の王権の象徴とされた“焔の眸”……生き物のように考え、行動する鉱物の化身。
 その少女めいた美貌を見ながら、タナトスは口を開いた。
「ふん。いい覚悟だが、それに成功したとしても、ヤツは廃人になるのではないのか。現状でさえ、正気を保つのに苦労しているのだろう。 俺はいい気味だと思うが、貴様はどうだ? 真実あほうに成り果てたあやつを見て、平気でいられるのか?」
 痛いところを突かれたダイアデムは、青くなった。
「えっ、そ、そうなっちまうかもしんねーけど……。 サマエルがどうなっちまっても、オレは頑張って面倒見るよ……」
 プロケルは首を振った。
「いけませんな、ダイアデム殿。いかにサマエル様ご自身の仰せでも、手をこまねいている場合ではありませんぞ、ぜひともお助けに参らねば。 タナトス様、ここまでお尽くし下さる弟君を、見殺しにしたとあっては末代までの恥でありますぞ。 微力ながらそれがしもお手伝い致しとう存じます、第一、魔界王家の末席に連なるものと致しましても、ご先祖様に申し訳が立ちません!」
「そうだな。面倒だが致し方あるまい。 “カオスの貴公子”だからといって、“黯黒の眸”のすべてをかぶる必要もなかろう。行ってやるとするか」
「だ、駄目だよ、サマエルは一人でやるって……」
 それでも止めようとするダイアデムを、タナトスは見据えた。
 緋色の瞳が強く燃え上がり、命令することに慣れた声が辺りに響き渡る。
「黙れ! すぐ死にたがるあのたわけ者を、伴侶である貴様が止めずして、誰が止めるのだ!? それとも貴様は、サマエルの死を望んでいるとでも言うのか! 今すぐ案内しろ、“焔の眸”! 我が弟の元へ!」
「な、何でオレが、サマエルを死なせたがらなきゃなんねーんだよ!? こっちだ、早く!」
 ダイアデムは、ぱっと立ち上がり、駆け出した。
 タナトスとプロケルは急いで後を追う。
 先行する“焔の眸”の輝きに導かれ、魔界王と元魔界公爵は、憑かれたように暗闇の中を走り続けた。
「いた! あそこだ!」
 少年が指差す先、青白い光を発する魔法陣の中に、黒衣の美女が横たわり、そしてすぐそばには、第二王子が倒れていた。
「サマエル!」
 夫の体に取りすがったダイアデムは、青ざめた。
 すでに息がなかったのだ。
「死んじゃヤだ! ずっと一緒にいるって約束、破る気かよぉ! ──オルゴン!」
「殿下! ──オルゴン!」
 プロケルも大急ぎで魔力を送った。
 そんな二人には眼もくれず、タナトスは、最愛の女性に駆け寄った。
「無事か、ニュクス!」
 揺さぶられて、黒衣の美女は薄く眼を開けた。
 たゆたう漆黒の瞳がようやく魔界王を捉え、色あせた唇がかすかに動く。
「あ、あ、タナ、ス……最期、一目、会い、たいと……う、れし……」
「しっかりしろ! 貴様は俺のものだ、許可なく消滅するなど、許さんぞ!」
「デ、モ、一人、デハ、淋シ、イ、一緒、ニ……」
「何だ? よく聞こえんぞ」
 タナトスが口元に耳を近づけた、そのとき。
 ニュクスの眼がいきなり大きく見開かれ、その手が彼の首に掛かり、きつく締め上げた。
「な、何をする!? く、放せっ!」
「ニュクス殿、おやめなされ!」
 プロケルがそれに気づき、ニュクスの手を外そうとするが、女とは思えないすさまじい力で、どうしても振り解くことができない。
 一方、“焔の眸”の祈りは天に通じ、どうにか第二王子は蘇生した。
 まだ意識はなかったが、呼吸も心臓も元通り動き始めた。
「はぁぁ、間に合ったぁ……!」
 額の汗をぬぐったダイアデムの眼に、もみ合う三人の姿が映り、彼は急いで老公爵に思念を送った。
“オレに任せろ! サマエルを頼む!”
“──は!”
 素早くプロケルと入れ代わった少年は、ものすごい形相でタナトスの首を締め上げている凄艶(せいえん)な美女の背後に忍び寄り、頭に触れた。
「ぎゃっ!」
 青白い火花が炸裂し、悲鳴を上げて倒れかかる兄弟の体を、宝石の化身は魔力で支え、静かに床に横たえる。
 やっと解放されたタナトスは、くっきりと手の跡がついた首に手を当て、激しく咳き込んだ。
「うっ、ぐふっ、ごほっ、はぁっ」
「大丈夫かよ、タナトス」
「タナトス様、おケガは!」
 駆け寄ろうとするプロケルを、タナトスは手を振って押し留める。
「大、丈夫だ、プロ、ケル、あれくらいで、やられる、俺ではない」
「それはようございました」
 プロケルは胸をなで下ろす。
「礼を言うぞ、ダイアデム。……ふう。だが一体、なぜ……」
 タナトスは、肩で息をしながら尋ねた。
「ああ、テネブレの意識に支配されたんだよ。 化身としちゃヤツの方が長いし、お前を道連れにしよって思ったんだろ。 お前、テネブレにも気に入られてるみてーじゃん」
「くそっ、ヤツの仕業か! 俺は心中など望んではおらん、共に生きて楽しい思いをしたい、とは思うが。 俺にとって人生とは楽しむことだ。 まだ俺は、楽しみ尽くしてはおらんからな」
 タナトスはニュクスの息を確かめ、意識を失っているだけと知ると、安堵した。彼女のドレスの乱れを直し、髪を優しくなでてやる。
「はん、さっすがは“この世の君主”、生きることにいっつも前向きだよな。 けど、ニュクスが特別だってサマエルが言った意味、分かっただろ。 最初にお前が感じた通り、こいつはヤバイんだ。んな嫁さんもらったら、命がいくつあっても足りやしねーぜ、やっぱ諦めた方が……」
 暗い口調のダイアデムの言葉を、タナトスは最後まで言わせなかった。
「黙れ! ニュクスが一人前になるまで面倒を見ろと言ったのは、貴様だぞ! 今さら途中で、放り出せと言うのか!」
「あん時はそう言ったけどさ。んなことになるなんて思わなかったし。 けど……本気なんだな、お前」
「当たり前だ! 俺はサマエルのように、好きでもない女に甘い言葉を掛ける気にはならん、偽りの恋などいらんからな」
 タナトスはきっぱりと言い切った。
 ダイアデムは、かつての主人……魔界王に選んだ男の顔を、初めて見るかのようにまじまじと見つめた。
「ふうん。そんなに真剣に“黯黒の眸”のこと思っててくれてたのか。 なら、話は別だ、オレが引き受けるよ、残りの闇の力を。 そうすりゃテネブレは、オレの中に封じておける」
「い、や……そ、れは、あまり、勧められ、ないね。テネブレが、お前を、乗っ取ってしまう、ことも、あり得る、から」
 その時、かすれてはいたが、聞き慣れた声が聞こえてきて、一同は、はっとした。
「サマエル!」
「殿下、ご無事で……」
 妻と元公爵に助け起こされて、サマエルはゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう、心配を掛けたね、ダイアデム、プロケルも」
「サマエル、オレのこと分かるんだな? 頭、おかしくなってないな?」
「分かるとも。いつもと同じ程度にしか狂っていないよ。幸か不幸か、ね」
「──バカ!」
 胸に飛び込んで来た妻を、サマエルは受けとめて微笑んだ。
「すまないね、また死に損なってしまった。 駄目男を相手にする苦労は、まだ当分続きそうだよ」
「るせー、オレを置いて逝(い)くな!」
 震え声で叫び、少年は彼にしがみつく。
「ああ。すまなかった」
 そんな弟夫婦に、複雑な視線を注いでいたタナトスは、つかつかと近づいていき、冷ややかに声をかけた。
「サマエル、貴様! 何ゆえ、主たる俺に一言の断りなく、“黯黒の眸”を連れ出した?」
 サマエルは顔を上げもせず、静かに尋ね返した。
「彼に聞かなかったのか?」
「大方は聞いた。しかし、初めに言えばすむことではないか!」
「一刻を争う状態だったからね」
「それに致しても、ちゃんと説明して頂きませんと、我らも困惑致しますぞ、サマエル様。 お聞き及びの通りタナトス陛下は、心より“黯黒の眸”殿を想っておられるのですからな」
 プロケルが口を挟んだ。
「“陛下”はよせと言っているだろう、プロケル」
 タナトスが苛立たしげに言う。
 まだ、やらなければならないことが控えている、早く終わらせてしまおうと思ったサマエルは、心満たされる妻の温もりから身を離した。
「ダイアデム、後でまたちゃんと話し合おう。タナトス、説明も後だ。 ニュクスが眠っているうちに“闇の力”を封印しなければならない……が、私はもはや飽和状態だ。 本気で彼女を、娶(めと)る気があるのなら、残りの力を引き受けてはくれまいか」
「分かった。だが後で一発殴らせろ、気が治まらん」
「ご随意に、兄上。いえ、魔界王陛下」
「貴様、またそれか!」
「タナトス様……」
「ちっ!」
 プロケルにたしなめられたタナトスは舌打ちし、顔をしかめつつも急いでテネブレを封じる呪文を唱え始めた。
「──闇に属する者、“黯黒の眸”の第一化身テネブレよ、その身邪悪にして魔界に仇なすものなれば、“闇の貴公子”たる魔界の王、黔龍王サタナエルの名に於て、汝の身を永久に封じる。 我が魔力の一部となりて、我が体内で久遠の眠りにつくがよい、テネブレ! ──サムナス!」
「ぎゃあああ!」
 苦しみ悶えるニュクスの体から、黒い煙状のものが立ち昇る。
 細く曲がりくねった角を持つ禍々しい姿のそれは、すぐに崩れ、魔界王の体内に吸い込まれていった。
「うわっ! く、くそっ、何だこれは……!」
 直後、タナトスは、体を二つに折って苦しみ出した。
「ど、どうなされたのです、タナトス様!」
 とっさにプロケルが彼の体を支える。
 サマエルは、にっこりした。
「ああ、うっかり教えるのを忘れていたよ。 “黯黒の眸”は、神族の手によって創られ、さらに永の年月、魔界の神殿に祭られていた貴石。弱ってはいても、単純な呪文で封じるなどできはしない。結界を使うのも、知っての通り不十分。 私のように体内に吸収し、同化するのが確実だが、そのためには“闇の力”……負の感情の集合体と戦い、従わせなければならない。 お前の中にあるのは、“黯黒の眸”が集めた力の極々一部、私のものよりは遙かに屈伏させることはたやすいはず、少しばかり苦しいが、愛する女性を得られるのなら、安いものだろう?」
「貴様! うっかりだと! うわ……!」
 つかみかかろうとしたタナトスの手は空を切り、がくんと膝をつく。
「タナトス様!」
「うるさい!」
 手を貸そうとするプロケルを振り払い、タナトスはよろよろと立ち上がる。
「ま、魔界の王ともあろうものが、これしき……!」

 6.裏切りの貴公子(1)

「ふふふ」
 その時突如、サマエルの口調、そして表情までもが一変した。
 青ざめていた頬には赤みが差し、眼は爛々と輝き、端が持ち上げられた唇からは鋭い牙が覗く。
「さすがは兄上。ですが、どれくらいもつでしょうね?“黯黒の眸”に操られて傀儡(くぐつ)と化したあげく、死んでいった哀れな者達……その中には、あなたなどより遥かに強い力の持ち主もいたのを、私は先祖の記憶として持っているのですよ」
「な、何だと……?」
 あまりの態度の変わりようにタナトスは驚き、弟を凝視した。
 サマエルは、紅い瞳に異様な光を浮かべたまま、兄を指差した。
「ほら、もう立ってもいられない。すぐにあなたも闇の力に飲み込まれ、意思を持たない人形(ひとがた)と成り果ててしまうでしょうね。 さあ、意識を手放しなさい、そうすれば楽になれます。愛する“黯黒の眸”と、未来永劫(えいごう)一緒にいられますよ」
「ふ、ふざけるな! 魔界の王たるこの俺が、こんな程度の力に屈してたまるか!」
 タナトスは怒鳴り返した。
 しかし、それもまったく耳に入っていない風で、弟王子は続けた。
「ですが、テネブレに支配されてしまったあなたは、もはや危険人物、魔界に害をなさぬよう、またもや地下迷宮にご滞在頂くことになるでしょうけれどね、今度は永遠に。 ああ、ご心配なく、その際のニュクスの処遇は私にお任せ下さい。 “焔の眸”と“黯黒の眸”、両手に花として平等に扱って差し上げますよ。誰にも文句など言わせません、何しろ他に適任者はなく、私が魔界王の位を継ぐことになるのですからね、ふふふ……」
 体の中を荒れ狂う闇の力を一瞬忘れ、タナトスは、想像もしなかった台詞を言い放つ弟に、驚きの眼差しを送った。
「き、貴様! まさか、最初からそのつもりで……この機に乗じ、王位を簒奪(さんだつ)する気でいたのか!?」
 第二王子は、冷たい微笑を艶(つや)やかな唇に張り付けたまま、兄である魔界の王に視線を戻した。
「くくく、これほどうまくいくとは思いもしませんでしたよ。 ですが、これは私の一存でやったこと、ダイアデムを責めないでやって下さい、彼は何も知らなかったのですから」
「サマエル殿下! 本気で仰(おっしゃ)っておいでなのですか!?」
 彼の言葉を信じかねた、元魔界公爵が叫ぶ。
 サマエルは笑みを消し、冷ややかに答えた。
「陛下と呼べ、プロケル。 私はタナトスとは違う。礼儀を知らぬ臣下に容赦はしない」
「な、何を仰います、タナトス様は未だご存命ですぞ! それに、あなた様が、次期の魔界王と決まったわけでもありませぬ!  第一、こんな卑怯なやり方で兄君を陥れるようなお方が、魔界の王にふさわしいと言えるでしょうや!?」
 プロケルは、わなわなと身を震わせる。
「……卑怯? ふっ、たかが闇の力の一部も制御できず屈してしまうようでは、“闇の貴公子”を名乗る資格などあるまいぞ。 そうではないか、魔界の至宝、魔界王家の象徴である我が妃、“焔の眸”よ」
 いきなり正式名称で呼ばれて、ダイアデムはびくっとした。
「……へ?」
「ほ、“焔の眸”殿! どうか、夫君(ふくん)を、サマエル殿下を、お諌(いさ)め下され! かような背信、許されるものではございませぬぞ!」
 必死の形相で、プロケルは哀願する。
「え、いや、けどよぉ……」
 事態が飲み込めず、面食らっている妻に向けて、サマエルは、優しいとさえ言っていい声音(こわね)で問いかける。
「ねえ、ダイアデム。プロケルやタナトスなどより、私の方が大事だろう? タナトスが闇の力に負けた暁(あかつき)には、私を次の魔界王に選んでくれるね?」
 “焔の眸”の化身はそんな夫を呆然と見やり、それから昔の主に視線を移し、次いで意識がない兄弟の姿に眼をやった。
 そして、再びサマエルに視線を戻したとき、答えるその口調は、重く湿っていた。
「……プロケルの言う通り、サマエルのやり方は間違ってるとオレも思う……。 けど、オレは、お前の望むことは全部叶えてやりたい、だから……ごめんな、タナトス。 でも、サマエルなら、“黯黒の眸”のことも大事にしてくれるから……」
「う、裏切り者──っ!」
「ご、ごめんよぉ……!」
 血を吐くような魔界王の叫びを聞くまいとして、貴石の化身は耳を押さえ、夫の胸に顔を埋めた。
「ダイアデムを責める資格が、お前にあるのか、タナトス。 弱いお前が悪いのだ、常々魔界では強さがすべてと言い、“闇の貴公子”などという称号を冠しながら、闇の力の何たるかを知ろうともしなかった、不明を恥じるがいい。 おのれの心の闇に永遠に囚われたまま、ここで朽ち果ててゆくのが、お前には似つかわしい」
 サマエルの口調は、ひどく冷酷な響きを帯び……そうなったとき常であるように、声も表情も兄のタナトスに酷似していた。
 第二王子の背信行為を目の当りにしたプロケルは、血も凍る思いでいた。
 サマエルを、大人しく気弱な……と言って悪ければ、穏やかで優しい人柄と思い、子供の頃から同情を寄せていた元魔界公爵は、それが自分の勝手な思い込みだったと知って、愕然としたのだ。
 しかし、この王子の不遇な生い立ちを割り引いて考えても、こんな裏切り行為が、許されていいはずがなかった。
 老公爵の射るような視線をまったく気に止めた様子もなく、サマエルはニュクスのぐったりした体を抱き上げた。
「さて、こうしているのも時間の無駄だ、行くとしようか、魔界の玉座へ」
「ま、待て、ニュクスを返せ、貴様! くうっ!」
 タナトスは弟を追いかけようとするも、闇との戦いに力を取られ、動くことさえままならない。
 プロケルは意を決し、主の代わりに、第二王子の行く手に立ちふさがった。
「行かせは致しません、サマエル様」
「なんだ、プロケル。ここに残りたいと言うのならば、止めはしないぞ。 主に殉教(じゅんきょう)するというのもまた、家臣としての誉(ほま)れだろうからな」
「左様なことではございません、私利私欲のために兄君を罠にはめ、王座の簒奪を目論(もくろ)むなど、左様な卑劣な方をおめおめと見過ごしたとあらば、かつて公爵を拝命した身にとっては、一生の不覚……!」
「私に歯向かう、と?」
 元公爵に向けたサマエルの表情や声は、いつもの穏やかで優しげなものに戻っていた。
 プロケルは、わずかばかりの罪悪感さえ持ち合わせていない彼の態度に、怒りを募らせた。
「お目をお覚まし下され、サマエル殿下! 兄君様は、あなた様の真の心をお聞きになり、もはや過去のことは水に流すと仰せになって、お助けに参ったのですぞ!」
 途端に、またも魔界の王子の表情は豹変し、優しい光を帯びていた紅い眼は、闇の輝きに満たされた。
「ふっ、笑止。何が水に流す、だ。 こやつの方がよほど私や“焔の眸”に大して、ひどい行為を重ねてきたのだぞ、それに陛下と呼べと申しつけたはずだ! ──漆黒の深き闇の中より生まれ出で、昏(くら)き輝きを放つ凶(まが)つ星よ。汝の凍れる焔もて、我に仇(あだ)なす敵を焼き尽くせ。 ──マレフィック!」
 サマエルの手から地獄の業火が放射される。
「うわあっ!」
 プロケルは、激しく燃え上がりながら部屋の向こうまで吹き飛び、壁にたたきつけられた。
「ふん、たかが公爵の、しかも引退した老いぼれの分際で、魔界の王たる我に歯向かおうとは片腹痛い! だが、長年の忠誠に免じて命までは取らない、そこで大人しく、かつての主が、無様に狂い死にする様を見ているがいい」
 第二王子は冷たく言い捨てる。
「く、お、お逃げ下さい、タナトス様、うう……!」
 すさまじい炎によって全身焼けただれてしまったプロケルは、うめき声を漏らすのみで、起き上がることができない。
 そんな彼に、サマエルは、恐ろしいほど優しい口調で言った。
「……逃げる? 誰から? 私は、直接タナトスに手を下すつもりはないよ、こやつは、おのれ自身の心の闇にむしばまれ、自滅してゆくのだからね。 そうだ、はなむけに、ニュクスの姿も消滅させてあげるとしよう」
「ふ、ふざけるな、この変態! ニュクスに手を出してみろ、殺すぞ!」
 タナトスの叫びも聞こえていない様子で、淡々とサマエルは続けた。
「これもたしかに美しいが、お前が創ったものだしねぇ。 まったく別の美しい姿を創って妃とすれば、“黯黒の眸”は完全に私のものとなり、お前のことなど、問われれば思い出す程度のものとなるだろうさ」
「──やめろっ、貴様ーっ!」
 魔界王は吼(ほ)えた。
「う、ううん……」
 そのとき、ニュクスが身動きし、ぱちりと眼を明けた。
「あ、サマエル。妾はどうしたのか……?」
「おやおや、眠ったまま、楽に死なせてやろうと思ったのに」
 サマエルは肩をすくめた。
「えっ?」
 けげんそうな顔のニュクスに、サマエルは指差してみせる。
「そら、タナトスはそこにいるよ」
「ああ」
「ニュクス、来るな、逃げろ!」
 床にうずくまる魔界王は声を上げ、近づかないようにと手を振り回した。
「……タナトス?」
 眼が覚めたばかりのニュクスは事態を把握できず、タナトスの方に歩きかける。
 と、突如サマエルが後ろから、その華奢な首をつかんだ。
「な、何を……サマエル!?」
「見よ、タナトス、そして、おのれの無力を思い知るがいい! お前が闇の力に屈伏するように、“黯黒の眸”の化身もまた、我が力の前に無惨に散り果てるのだ!」
 能面のように冷たく取り澄ました顔のまま、サマエルは両手に力を込めてゆく。
「やめろ──っ! 俺が憎いなら俺を殺せ、ニュクスに手を出すなっ!」
 タナトスが絶叫すると同時に、ダイアデムが、必死の面持ちで夫の腕に取りすがった。
「ど、どうしたんだ、サマエル! いくらオレらが石だからって、タナトスが憎いからって、ンなコトするの、いくらなんでもひでーよ、やめてくれ! “黯黒の眸”を放してくれよっ!」
 第二王子の表情が動いたが、それも一瞬のことだった。
「すまないな、ダイアデム。だが、いくらお前の頼みでもこれだけは譲れない。 “黯黒の眸”に新しい体を授けた後は、こんな野蛮な真似は絶対にしないと約束する。
 今だけは好きなようにやらせてくれないか、この埋め合わせはきっとするから」
「埋め合わせなんていらねーよっ! 今すぐやめてくれっ!」
 ダイアデムは涙目で叫ぶ。
「やめる気はないよ」
「ンなコト言わねーで、お願いだよぉ! サマエルってば!」
「何と言われても、ニュクスには消えてもらう」
「ど、どうしてもか!?」
「どうしてもだ」
 ダイアデムがどれだけ懸命に食い下がっても、突き放したような冷たい返事が返って来るばかり。
 それどころか、第二王子の瞳には、暗い闇の炎が燃え上がり始めていた。
 これ以上追いつめると、その力が爆発しかねない。
 そうなってしまえば、ニュクスは無論、誰も助からないことを、“焔の眸”の化身ほど、よく知っている者はなかった。
 彼の結晶面には、遥かなる過去、暴れ狂って世界を滅ぼしかけた“紅龍”の禍々しい姿が、今も鮮明に記録されているのだから。

 6.裏切りの貴公子(2)

 ダイアデムは途方に暮れた。
 タナトスとニュクスに恨みはない。少なくとも、サマエルが彼らに対して感じているような強い遺恨は、持ってはいない。
 それどころか、できることなら二人には、幸せになって欲しいとさえ思う。
 しかし、緊迫した今の状況は、それを許してくれそうにもなかった。
「うっ、うう、うう……く、苦し……」
「やめろ、サマエル、狂ったか、貴様!」
 散々思い迷う間にも、ダイアデムの目前では、兄弟が絞め殺されかかっており、体内で暴れ狂う闇との戦いに力を取られているタナトスは、彼女を助けられないでいるのだった。
 このままでは確実に、サマエルはニュクスを殺してしまうだろう。
 かといって、自分が逆らい続ければ、サマエルは怒りを制御できなくなり、最悪の場合、“紅龍”が出現して、世界を破壊してしまうかも知れない……。
 貴石の化身は頭を抱えた。
「そんなに悩まなくていいよ、お前のせいじゃない。全部、僕がいけないんだから。 でも、ねぇ、“焔の眸”。お前だけは、僕の味方だと思っていいんだよね……? 僕、お前がいなかったら、もう生きていけないんだ」
 わざと子供っぽい口調を使い、哀願するように第二王子は言った。
「サマエル……」
 “焔の眸”の化身は、心がかきむしられるような思いがした。
 その言葉遣いと深い悲しみを湛(たた)えた瞳が、幼い頃、必死にシンハにすがって来た、第二王子の姿を思い起こさせたのだ。
「ダ、ダイアデム殿、いけませんぞ、そんな、童子のごとき態度に騙されては!」
 ひどい火傷の痛みに耐えながら体を引きずり、部屋の中ほどまで戻って来ていたプロケルが叫ぶ。
「るせー、プロケル、てめーに何が分かんだよ!」
 ダイアデムは眼を潤ませて叫び返し、それから夫に向けて言った。
「分かった、サマエル、お前の好きにしていい! オレ、もう邪魔しねーから!」
 そして、最愛の人が、兄弟の命──仮そめとはいえ、命には違いない──を消すところを見まいと、固く眼をつぶってうずくまり、自分の膝に顔を埋めてしまった。
「そう、それでいい、ダイアデム。見ていると辛いからね。 大丈夫、すぐに終わらせるよ」
 サマエルは、すぐに大人の口調に戻って優しく答え、もがく美女の首を締め付ける力を、さらに強めていった。
「う、く、ううう……」
 ニュクスのうめきも抵抗も、徐々に弱くなってゆく。
「……や、やめん、か、サマ、エル、殺す、ぞ、貴様……!」
 肩で息をするタナトスは、途切れ途切れに抗議するのがやっとだった。
 体が鉛のように重く感じられ、ニュクスに近寄ることはおろか、立っていることさえ危(あやう)くなってきていたのだ。
「はぁ、はぁ、くそっ、俺としたことが!」
 歯噛みしつつも、不覚にも座り込み、しまいに彼は床に手をついてしまう。
「だいぶ弱ってきたな、あまり嬲(なぶ)るのも可哀想だ、そろそろ終わりにしてあげようね、ニュクス。 苦しいのならタナトスを恨むがいい、その姿を創ったのはあいつなのだから。 口先ばかりで、お前を守ることもできなかった哀れな男を、ね。 ……ああ、そうだ、何か恨み言の一つでもあるのなら、これが最期だ、言わせてあげるよ」
 サマエルは、ことさらに優しげな笑みを浮かべ、ニュクスの体を兄の方に向ける。
「い、今だ、逃げろ、ニュクス……!」
 魔界王の声はひどくかすれ、ほとんど聞き取れないほどだった。
 口を開き言葉を発する、たったそれだけの動作にも、ありったけの気力を、奮(ふる)い起こさなければならないほどになっていたのだ。
 体中から汗が噴き出し、支えている腕からも力が抜けていき、もはや彼は、上半身を起こしていることも難しくなり始めていた。
 しかし“黯黒の眸”は、喉にかかる力がゆるむのを感じても、逃げなかった。
 自身が力を分けたカオスの貴公子、その力量のほどを知りつくしていた貴石の化身は、この状況下では、サマエルから逃げ切ることは無理だと知っていた。
 ならばせめてタナトスに、きちんと別れを告げておきたい、彼女はそう考えたのだ。
 苦しい息の下、ニュクスはどうにか声を振り絞った。
「……タ、ナトス……真に遺憾(いかん)ながら、妾は、もはや、おぬしのそばには、おられぬ……。 新たなる化身は、おぬし、ではなく、サマエルを、主とする、こととなろう……。 なれど、妾の心は、常に、おぬしと、共に……さらば、だ、タナトス……」
 彼女は、自分を捕らえているサマエルの手を押さえるのをやめ、主に向けて白い手を伸ばす。
「ニュクスっ!」
 タナトスが、悲痛な声を絞り出した刹那、彼の頭の中で不気味な声が響いた。
“我が主、魔界王サタナエルよ”
“き、貴様、テネブレだな!”
 それは“黯黒の眸”に宿る、もう一人の化身の思念だった。
“左様。かような仕儀(しぎ)と相成(あいな)り、我もまた消滅する。ゆえに、我もおぬしに別れを告げたく思うてな“
“ふん、貴様と別れられるのだけは、心底ありがたいと思うぞ!”
 タナトスは、冷ややかな思念を送った。
 驚きと腹立たしさで、一時的に闇の支配が緩んだのは皮肉だった。
 薄気味の悪い声は続いた。
“相も変わらず、冷たい素振りよ。そこがまた、おぬしに惹きつけられる所以(ゆえん)でもあるのだがな。 魔界王家の守護たる“焔の眸”にならばいざ知らず、災いの種なるこの我に、新たなる体と名を与え、愛人と成すなど、何者も考えつかなんだ大いなる茶番、心ゆくまで楽しませてもろうたぞ、くくく……”
“黙れ、貴様ごときを喜ばせるために、ニュクスを創ったのではないわ!”
 魔界王は、たたきつけるように念話を返す。
 彼らの会話は、闇の力でつながっているサマエルにもはっきりと聞き取れた。
「くすくす……もらい泣きしそうだよ、タナトス。 よかったな、お前にしては珍しく、相思相愛ではないか。 ニュクスのみならず、テネブレにまでも、しっかりと愛されているとはね。 ああ、この際だ、お前も彼女達に、何か言い残したいことがあったら……」
 軽薄な口調で言いかける弟王子を、タナトスは、床に這いつくばった格好で、さえぎった。
「言わせておけば、サマエル、この裏切り者……殺してやる……!」
 しかし、その声は弱々しくかすれて、いつもの迫力はまったくない。
 第二王子は、普段なら決して人前では見せない類(たぐい)の酷薄な笑みを浮かべ、兄を見下ろした。
「くくく……兄上、いくら強がって見せたところで、そんな格好では、ちっとも怖くないですねぇ。魔界の君主が泣きますよ、みっともない」
 サマエルは、わざとていねいな言葉を使う。
 それから彼は靴を片方脱ぎ捨て、裸足でタナトスの顔を踏みつけた。
「くっ、き、貴様……」
 屈辱に、魔界王は顔を紅潮させた。
「ふふ、さぞやお悔しいでしょうねぇ、タナトス陛下? お分かりですか? あなたに踏みにじられてきた弱い者は、皆、こんな風に、自分の無力さを噛み締めていたのですよ……?」
 第二王子は、満足げに兄の顔を覗き込む。
「サ、マエル、やめて、おくれ、そんな、こと……」
 捕らえられたままのニュクスが悲しげに言ったが、彼は、聞く耳を持たなかった。
「いい気味だよ。これで下位の者の苦しみが、少しは理解出来たろうさ。 ……ね、タナトス陛下? ふふふ」
 笑いながらサマエルは、兄の顔を執拗(しつよう)に踏みにじる。
「お、おやめ下され、サマエル殿下……!」
「さっきからうるさいな、この年寄り猫は」
「うっ!」
 体中にひどい火傷を負った身で、まだ彼を止めようとする元魔界公爵を、第二王子は、表情も変えず蹴り飛ばす。
「よ、よせ、サマ、エル……!」
「タナトス、こんな死に損ないのことより、彼女に話しておくことは何もないのかい? “黯黒の眸”は事実上不死だとは言っても、化身である“ニュクス”は、簡単に殺してしまえるのだよ……こんな風にね」
 揶揄(やゆ)するように言い、サマエルは、美女の首にかけた指に一層力を込めて見せる。
「ぐっ、苦し……っ!」
 ニュクスは美しい顔を苦痛に歪め、再びサマエルの手をつかんだ。
「やめろ! くそっ、体さえ動けば……!」
 不甲斐ない自分自身に苛立ち、タナトスは渾身(こんしん)の力を振り絞って、無理矢理体を引き起こした。
「ぐわっ! うっ、ぐふっ、げっ、げほ、げぼっ!」
 途端に、激烈な痛みが全身を走り抜け、彼は再び倒れ込む。
 激しい咳と共に吐血し、大理石の床に紅い水溜りができていく。
「なぜだ……くそっ!」
 幾千幾万本もの太い針で、体の内外から刺し貫かれているかのような苦痛の中、タナトスの心には、弟と闇の力、双方に対する、ふつふつとたぎるような怒りが湧き上がって来ていた。
 たしかに過去、自分が幼い弟にした行為は、思い返してもかなりひどいことで、それを未だ根に持っている、サマエルの気持も分からないではない。
 しかし、最近になって過去の所業を心から悔いた彼は、弟に謝罪し、さらには、生け贄の身分からも解放してやったのだ。
 なのに、自分だけでなくニュクスをも裏切り、これほど残虐な仕打ちをしてのけるとは。
 さらにタナトスは、体内を暴れ狂う闇……祖先の霊がぶつけてくる恨みの念に対しても、憤(いきどお)りを感じていた。
 遥かな過去から現在へ延々と続く、神族の理不尽な圧力に対してはたしかに彼も腹を立ててはいたし、連中に代償を支払わせてやることに異存はなかったが、かといって仇討ちの押し付けなど、真っ平ご免だった。
 どうせ戦うなら、自分の意志で。
 そうでなくては意味がないと、彼は思った。
 だがその間にも、タナトスに取り憑いた闇は、外へとあふれ出て、黒い霧状の物質となり、彼の周囲を取り巻き始めていた。
「ぐふっ、い、息ができん……」
 呼吸することが次第に難しくなっていき、弱々しくもがくものの、闇は、すさまじい力で彼を押さえつけ、手を動かし喉に当てることもままならない。
 さらには頭がしびれたようになり、つい今し方まで、あれほど強く感じていた怒りが消えていくのを彼は感じた。
 同時に目蓋がひどく重くなって、眼を明けていることさえ困難になりつつあった。
(まずい、このままでは……ニュクスを助けられんどころか、俺自身が……)
 そのときプロケルが、ようやく彼の元にたどりついた。
「タ、タナトス様、陛下! しっかりなさって下され……!」
 必死の思いで取りすがり、彼を呼ぶ元公爵の声を、遠くでタナトスは聞いた。
 このまま意識を手放してしまったが最後、闇の力に支配され、二度と自我を取り戻すことはできないだろう。
 それはタナトスにもよく分かっていたが、もはや、抵抗する気力は完全に奪われてしまい、彼はただ、無様にも自室の床に横たわり、自我の喪失、もしくは死を、待つばかりの状態になってしまっていた。

 6.裏切りの貴公子(3)

「ふふ……タナトス、お前が闇と同化するのももうすぐだ。 闇に囚われ漆黒の龍と化し、地下迷宮の主として、永遠に彷徨(さまよ)い続けることになるのだろう……おのれが、かつて何者だったのかも忘れてね。 それとも、闇の支配に耐え切れずに死んでしまうのかな……。 うらやましいよ、どの道、お前はもうすぐ、悩みも悲しみも苦痛も、何も感じなくなってしまえるのだからね……」
 サマエルは、うっとりとした目つきで、息も絶え絶えの兄を見る。
「おお、サマエル、どうか、どうか、タナトスを許しておくれ……妾は、どうなってもよいから……」
 懇願するその声に、第二王子は、思い出したように手の中の美女に視線を戻す。
「ああ、ニュクス。可哀想に、お前の最愛の人は何も言ってくれないようだよ、冷たいものだね。 でも、今ああしてタナトスが苦しんでいるのは、お前の力のせいなのだから、仕方がないとも言えるかな。 さあ、もう終わりにしてあげようね。 ──エンサングイン!」
 サマエルの呪文に応え、空中に、眩(まばゆ)い黄金の短剣が現れた。
「き、貴様、何をする気だ……!?」
 はっと我に返ったタナトスの額から、嫌な汗がにじみ出て来る。
「お前も“黯黒の眸”の化身、そう簡単には死ねないだろう。 でも、これで心臓をえぐり出し、潰してしまえば、さすがに生きてはいられないだろうね……ふふふ」
 魔眼を暗く輝かせて、第二王子は短剣を手に取った。
「やめろ、サマエル!」
 そして、叫ぶタナトスを尻目に、ニュクスのドレスの胸元を切り裂いた。
 びくりとする美女を、サマエルは、女性的な外見には似合わぬ力で押さえつけ、露(あらわ)になった震える胸に、冷たく光る刃をあてがう。
「さよなら、ニュクス。もっと美しい体を創ってあげるよ。 こんなつまらない男のことなど忘れて、“焔の眸”と三人、楽しく暮らそうね」
「やめろ──っ!」
 弟の残虐行為を止めようと、タナトスは必死に叫ぶ。
 だが、ごくわずか持ち上げることのできた拳を、狂った弟にたたき込むだけの力は、彼には残されてはいなかった。
 そして、彼の見ている前で、とうとう美女の豊かな胸に、鋭い短剣の切っ先が、ざくりと食い込んだ。
「あああっ!」
 激しく身もだえするニュクスの傷口から鮮血がほとばしり、白い胸を紅く濡らしていく。
「タ、ナトス、助け……」
 救いを求めて、“黯黒の眸”の化身は、血にまみれた手を差し伸べる。
「ニュクス──!」
 タナトスもまた必死に腕を伸ばすが、周囲に渦巻く黒い霧に阻(はば)まれて、彼女には届かない。
「無駄だよ、ニュクス。こんな男に助けを求めても。 自分一人の身さえ救えない、情けない男などに。 それにお前はずっと、私を求めていただろう? 私が人界に去った後でさえ、自分の下へ戻って来るよう、仕向けたりして。 だがもう私は、お前を拒絶したりしない、“焔の眸”と共に、魔界の玉座に君臨する私のそばにいておくれ……これが誓いの印だ!」
 サマエルは勢いよく、短剣をニュクスの胸に突き立てた。
「──ぎゃああっ!」
 美女の艶(つや)やかな唇から、悲鳴と共に、ばっと血が吐き出される。
「ニュクス──やめろ、サマエル、この気違いめ!」
 タナトスは声を張り上げるも、狂気に侵されたサマエルには聞こえた様子もなかった。
「可哀想に、ニュクス、痛いのだろうね? 私も痛かった……そして苦しんだよ、“カオスの試練”の間中ね。 でも死ねなかった……ベルゼブル陛下に、自分を認めてもらえるのはこの機会しかないと思い、必死に耐えたのだ……今考えると、お笑い種だけれど。 やはり私はあの時に、死んでしまえばよかったのだね、そうしたら、お前をこうして殺さずに済んだのに。 本当に、私は罪を犯すためだけに、生まれて来てしまったのだな……。 ねぇ、タナトス。どうして子供の頃、私を殺してくれなかったのだい。そうしていたら、私は、こんなひどいことをせずにすんだのに。 いや、お前だけでなく、ベルゼブル陛下もシンハも、私を汚した男達、女達も……なぜ誰も、私を殺してくれなかったのだろう……」
 サマエルの口調は暗く沈んでいたが、その手元はゆるぎない。
 まるで見えているかのように手際よく、突き立てた短剣を下へと動かし、宝石の化身の胸を縦に切り裂いてゆく。
「ああ……ああ、ああ……」
 ニュクスの唇は血の気が失せ、大きく見開かれた黒い眼からも光が消え、もはやどこも見ていなかった。
「ニュクス、ニュクス、ニュクス、ニュクス──!」
 自分の身を切られてでもいるかように、タナトスは心に鋭い痛みを感じ、最愛の女性の名をひたすら繰り返す。
 そして、懸命に起き上がろうと床をかきむしるも、体はまったく動かない。
「……ああ……」
 一声上げて、ついに“黯黒の眸”の化身は気を失った。
「よかった。ようやくこれで、終わりにできる」
 ほっとしたように、サマエルは美女の体を横たえる。
「やめろ──!」
 そして弟王子は、タナトスの悲鳴に近い声を背景に、短剣を持ち直し、傷が十字になるよう、今度は横に切り裂いていく。
 再び大量の血糊が飛び散り、返り血を浴びて紅く染まった弟王子の唇には、凄艶(せいえん)な笑みが張りついていた。
「今度こそ私はお前を受け入れ、お前は私のものとなる。 だが“黯黒の眸”よ、案ずることはない。 これは死ではなく、再生の儀式なのだから……」
 第二王子は、意識のないニュクスに顔を近づける。
 血の気が引いた唇に、サマエルの唇が触れようとした、そのときだった。
 タナトスの体を、内外から飲み込もうとしていた暗黒の力が、四方に飛び散ったのは。
「ニュクスから離れろ、この色魔!」
 解放された魔界王は、それまで彼を縛りつけていた闇の力を束ね、弟めがけて投げつけた。
「おっと」
 それを予期していたかのごとく、サマエルは、覆いかぶさっていた美女から体を離し、優雅に身をかわす。
 それまでのタナトスならば我を忘れ、そのまま弟に突っ込んでいったことだろう。
 しかし彼は深追いはせず、胸を切り裂かれ、血を流しているニュクスに駆け寄った。
「ニュクス! しっかりしろ!」
 急いで彼女の脈を取る。
 幸いなことに、化身にはまだ息があった。
 安堵して、彼は治癒魔法を唱えた。
「──フィックス!」
 見る間に無惨な傷はふさがり、肌は元の滑らかさを取り戻す。
 そしてニュクスは、ぱちりと目覚めた。
「タナトス……?」
「ニュクス!」
 二人は固く抱き合う。
「ああ、間に合った……」
 心から愛(いと)おしそうにニュクスの黒い髪をなでた魔界王は、一つ大きく息をつくと、言った。
「少し待っていろ、ニュクス。あいつと決着をつけてくる」
「タナトス……?」
「大丈夫だ、すぐ戻る」
 心配そうな美女を残して彼は立ち上がり、眼差しだけで殺しかねない勢いで、弟を睨みつけた。
「覚悟はいいだろうな、貴様!」
 サマエルは、刺すような兄の視線を、落ち着き払った態度で受け止め、微笑んだ。
「ええ、とうに覚悟はできていますよ、兄上。 でも、どうか少し、お待ち頂きたいのですが。 妻を、安心させてやらなくてはいけないのでね」
「何だと!」
 怒り心頭に発している兄を尻目に、弟王子は、がたがたと震えている少年の肩に、そっと手を置いた。
 それまでずっとダイアデムは、固く眼を閉じ、耳をふさいで涙をこらえ、言われた通りに、すべてが終わるのを待っていたのだ。
“全部済んだよ、ダイアデム。顔を上げて”
 “焔の眸”の化身はびくりとし、いやいやと首を振った。
“大丈夫、ニュクスは生きているから。……タナトスも無事だよ”
「えっ!」
 ぱっと眼を明け、ダイアデムは、恐る恐る顔を上げる。
 その言葉が事実なのを確かめて、彼はサマエルに抱きついた。
「よかった! よかったよぉ!」
「よくないっ! サマエル、貴様、殺してやる! どけ、ダイアデム!」
 険しい表情でタナトスは、二人を引き離そうとする。
 ダイアデムは、懸命にサマエルをかばった。
「ま、待てよ、タナトス! よく分かんねーけど、ほら、見てみろ、こいつ、初めからこうなることを予期してたって顔だ、話聞いてみよーぜ、その後で……」
「うるさい、どんな理由があろうと、オレはこいつを許さん! サマエル、貴様も、ニュクスと同じ目に遭わせてやる!」
 魔界王は弟の首をつかみ、力任せに締め上げ始めた。
 サマエルは抗議も抵抗もせず、されるがままになっている。
「待つがいい、タナトス!」
「ああ、もう、よせってばよ!」
 止めるニュクスとダイアデムの叫びも、その耳には入らない。
「──エンサングイン!」
 そのときサマエルが呪文を唱え、全員が凍りついた。
 さらに皆が驚愕したことには、出現した短剣を、サマエルは兄に差し出したのだ。
「……タナ、トス。私を、ニュクスと、同じ目に、遭わせてやると、言ったな。 これを、使うが、いい……」
「な、何だと、貴様……?」
 面食らったタナトスの手から、思わず力が抜ける。
「だから、私がニュクスにしたように、これで私の胸を切り裂くがいいと言っているのだよ、タナトス」
 世間話でもするかのような、ごく普通の口調でサマエルは言う。
「いい覚悟だ!」
 ようやくその言葉の意味を理解したタナトスは手を伸ばし、短剣を引っつかんだ。
「望み通り、貴様の心臓を引きずり出して、二度とこんな振る舞いができんようにしてやる!」
「よせよ、タナトス!」
「やめておくれ、タナトス!」
 貴石の双子が叫ぶ中、魔界王は、弟王子の胸に向け、光る刃を突き出そうとした。
「──死ね!」
 次の瞬間、少年の体が紅く発光し、黄金色の獅子が現れた。
 一声高く咆哮(ほうこう)したシンハは、タナトスに飛びつき、短剣を持つ手に鋭い牙を食い込ませた。
 音を立てて床に転がった短剣を、素早くニュクスが拾い上げ、呪文を唱えて消滅させる。
「──アベオ!」
「何をする! 邪魔をする気なら貴様も殺すぞ、シンハ!」
 彼を振りほどき、眼を怒らせる魔界の王に、ライオンは、こちらもまた紅い瞳を爛々(らんらん)と光らせ、答えた。
『ならば、ルキフェルもろとも我も消せ、かつての主、黔(けん)龍王よ。 我はもはや王権の象徴ではなく、儀式の際にも不要なれば、構いはせぬ』
「すまないね、シンハ。私の我がままのせいで、お前まで……。 でもこれで、私達を引き裂くものはもうなくなる……ずっと一緒にいられるのだね。 さあどうぞ、魔界の王、タナトス陛下。ご存分になさって下さい」
 サマエルは、獅子の首に腕を回し、黄金の毛並みに顔を埋めると眼を閉じた。
 シンハは大きな舌で、彼の顔の血糊を優しくなめ取る。
「おのれ──貴様ら……ふざけおって! もう我慢できん、望み通りに二人共々、息の根を止めてくれるわ!」
 タナトスは怒りのままに、強力な呪文を唱えようと、大きく息を吸い込んだ。

 6.裏切りの貴公子(4)

 そのとき、怒りに沸騰しているタナトスの心に、静かな声が流れ込んで来た。
“待っておくれ、タナトス。何かいわくありげだ。 そう急くこともあるまい、サマエルの話を聞こうではないか”
「話を聞くだと!? 何を言っている! ニュクス、こやつらは、俺とお前を裏切り、殺そうとしたのだぞ!」
 興奮冷めやらぬまま、魔界王は、二人に向かって指を振り立てた。
 それに対して、一番ひどい目に遭ったはずの美女は、至極(しごく)冷静だった。
「なれど、妾はこうして生きておろう。 それに、先ほどまでの様子では、どうやら“焔の眸”は、この件には関与しておらぬように見受けられるが」
「しかしだな!」
「よしんばカオスの貴公子が、この肉体を消滅させたところで、再び新しき体を、おぬしが創り出せば良いだけのこと。 タナトスよ、何をいきり立っておるのだ?」
 いかにも不思議そうに尋ねる“黯黒の眸”の化身に、魔界の王は切ない眼を向けた。
「ニュクス、俺達はそうは考えないのだ。俺にとってお前は、かけがえのないものだ……。 傷つけられたり、消されたりすれば、心が痛む……」
「ふむ、生き物の心とは、そのような動きをするものか。 されど、怒りに任せて行動するは、魔界の王に有るまじき行為であろう。 ましてや“焔の眸”は、たった一つの我が兄弟。仮に、まきぞえで消滅するとなれば哀れだ……。 おぬしの怒りは一時棚上げして、何ゆえサマエルが、このようなことを仕出かしたか、理由を聞いてはもらえまいか。 処罰は、その後でも遅くはあるまい、どうか……」
 ニュクスは、祈るように手を組み合わせる。
 最愛の女性に懇願(こんがん)されては、魔界の王も折れるしかなかった。
「……むう、お前がそう言うなら仕方がない、弁明の機会をやるとしよう。 たしかに、“焔の眸”には罪はなさそうだ。 どうせ、この下らん茶番はすべて、こやつが一人で考えたに決まっているからな」
 そう言うとタナトスは、ライオンの滑らかな毛並みに顔を埋(うず)めている弟の肩をつかみ、乱暴に揺さぶった。
「おい、サマエル! 何ゆえこんなことをしたのだ、俺達に分かるように説明しろ! 聞こえんのか! 理由を言え!」
 幾度も揺さぶられて、ようやく第二王子は顔を上げる。
「……あ、あ、誰……何?」
 だが、その表情は虚ろで、眼は何も見てはいない。
 タナトスは苛つき、弟のえり首をつかんだ。
「サマエル、俺だ、タナトスだ、わけを言えと言っているのだ!」
「何でしょう、兄上……もはや、私は死んでいく身……。 今さら、あなたを騙した理由など、どうでもいいことでしょう……? 早く殺して下さい……それが……それだけが、私と彼の望みです……」
 サマエルの答えは、眼差し同様、ぼんやりしていた。
「何、寝言をほざいている! このたわけ者めが、しっかり眼を覚まして説明せんか! せっかくニュクスが、貴様に弁明の機会をやると言っているのだぞ!」
 タナトスは勢いよく、弟の頬を張った。
『グルルル……』
 シンハは、不機嫌そうに喉の奥で唸り、元の主を睨んだ。
 それでもビンタを食らったことで、サマエルは多少なりとも頭が働くようになったようだった。
 ようやく眼の焦点は兄に結ばれ、彼はのろのろと答えた。
「……なぜ、こんなことをしたか……? ああ、お前と同じことをしてみたまで、だよ……。 お前は昔から、私やジルや他の人々に、よくこういった悪ふざけを仕掛けていただろう……それを、私も真似してみただけさ……。 しかし、こんなことの、どこが楽しいのだ? 私には、さっぱり分からない……」
「何ぃ、貴様! 悪ふざけをしただけだと言う気か! やはりぶち殺してくれる!」
「待てと申すに、タナトス」
 再び弟王子の首に手をかけようとする主をニュクスは押し留め、それからカオスの貴公子に向けて言った。
「サマエル、それだけではあるまい、正直にわけを話しておくれ、“焔の眸”を、道連れにするのを哀れと思うのなら……」
 サマエルは眠たげな目つきで彼女を見、それから、ゆっくりとライオンの黄金の毛並みをなでた。
 シンハは紅い眼を細め、猫のようにゴロゴロと喉を鳴らして、彼の手に頬をすりつける。
 魔界の獅子の、信頼し切った様子を眼にした第二王子は頭を振り、意識をハッキリさせると答えた。
「そうだね……彼に罪はない。分かったよ、すべてを話そう。 タナトス、どの道、すべての咎(とが)は私にある。 たとえ私の話が気に入らなくても、処刑するのは私だけにして欲しい、“焔の眸”を、壊したりしないでくれないか」
「ちっ、頼まれんでも壊したりはせん、御託(ごたく)はいいから、さっさと話せ!」
「ありがとう。ああ……その前にまず、一つ、質問していいかな」
「回りくどいヤツだな、何だ、早く言え!」
 気の短いタナトスは、焦れて地団駄を踏む。
「では……タナトス、お前さっき、“闇の力”を屈伏させるのに、どれくらいの時間がかかった?」
「ふん、三十分かそこらだ、あんな程度のものを押さえつけるのに、何時間もかかってたまるか」
 その声は、幾分自慢げだった。
 サマエルは微笑んだ。
「……そう。では、愛しい女性が生きるか死ぬかの瀬戸際でなかったら、どうだったのだろうね……」
「それはどういう意味だ!」
 サマエルは、遠くを見るような目つきになった。
「覚えているだろうが、かつて、私が“カオスの試練”を受けたとき、紅龍の塔を出るまで二十年以上もかかった……。 まだ子供だったし、吸収しなければならない闇の力や、祖先の怨念が膨大だったこともあってね……。 分かるかい、タナトス。あの苦痛が、何日も何年も、延々と続くのだ……眠ることもできず、気を失うことすら許されず……いつ果てるとも知れない、激烈な苦しみが……。 やっとそれから解放されたとき、私はすべてを憎んでいた。 何をどう努力しても、決して振り向いては下さらないベルゼブル陛下……そして、ことあるごとに辛く当たってくるお前、この力を授けた“黯黒の眸”……さらには、産んで下さった母上でさえもね……。 そして何より、自分という存在を憎んだのだ……。 お前の場合は、私よりは短く済むとは思った。だが、もし長引いてしまうと、せっかく“黯黒の眸”を受け入れる気になったのが逆転して、憎むようになってしまうかもしれない……ともね……。 それに、私は軟弱者だから、自分と同じ苦痛を感じている者を目の前にして、黙っていられなかったのだ……」
「ふん、それゆえ、わざと俺を怒らせて、早く終わらせようとしたとでも言う気か? そんな見え透いた弁明が、俺に通じるとでも思っているのか、貴様」
 うさんくさそうに、タナトスは鼻を鳴らす。
 サマエルの目蓋(まぶた)は再び徐々に下がり始め、半ば眼をつぶった状態で、彼はゆっくりと首を振った。
「信じてくれなくていい……ただ、私を殺した後は、“焔の眸”を再び魔界へ……。 宝物庫の奥で静かに過ごさせてやって欲しい……いえ、過ごさせて頂けないでしょうか、兄上……タナトス陛下……」
「また始まったな、この性格破綻(はたん)者め! 貴様の言うことなど、簡単に信じてたまるか!」
「ですから、信じて頂かなくていい……と申し上げているでしょう、兄上……。 私はもう、自我のほとんどを“カオス”に食われてしまい、ただ“焔の眸”……妻のことだけが気がかりで、こちら側……正気の側に留まっているのみ、なのですから……」
 サマエルは大儀(たいぎ)そうに答えて完全に眼を閉じ、またも獅子の金色の毛皮に頬をすり寄せた。
 その時、再度眩(まばゆ)い光がシンハを包み、紅毛の少年の姿になった。
 彼はサマエルの頭を自分の膝に乗せてやり、タナトスを見上げた。
「タナトス、残りの話は、もうちょい後にしてくんないかなぁ?  こいつ、心身ともに疲れ切っちまってるんだ……。 オレが分かる範囲でなら答えるし、気が治まらねーって言うんなら、オレが代わりに殴られるからよぉ」
 その言葉に、サマエルは、ぱちりと眼を開けた。
「それは駄目だ、ダイアデム。たしかに、今の私は筋道立てて話はできそうにもない……けれど、殴られることはできる……意識を手放してしまえば……苦痛は感じない……」
「ンなコトしたら、回復がよけー遅れるだけじゃんか、その方がダメだろ!」
「うるさいぞ、貴様ら! 回復など必要ない、俺が今すぐ息の根を止めてくれる!」
 タナトスが緋色の眼を燃え上がらせると、ダイアデムは体を張ってサマエルをかばい、叫んだ。
「だったら、さっきも言ったみてーに、オレも殺しゃいーだろ! 大体、オレが全部悪いんだから。 オレが肉体を持ってなきゃ、サマエルは魔力を封印されず、ベルゼブルももう少しこいつを可愛がっただろうし、そしたらタナトス、お前だって、サマエルに優しくしてやることができて……こんな風に、兄弟でいがみ合ったりもしなくて済んだんだから……!  さあ、殺れよ、二人一緒に!」
「ふん、言われなくても……」
 タナトスは言いかけたが、腕を引かれてはっと振り向いた。
 眼に涙を一杯ためて、“黯黒の眸”の化身が彼を見ていた。
「これは……この感情が悲しみ、か……? 心が引き裂かれそうな……。 この感情を妾は楽しみ、食らって来た……それが我が身に起こると、これほど苦しいものとは、知らなんだ……。 タナトス、助けておくれ。どうすればよいのだ、この胸の痛み、苦しみ……妾は……」
 その漆黒の瞳から、ついに涙があふれ出す。
「どうしたのだ、落ち着け、ニュクス」
 タナトスは、美女の肩をつかみ、軽く揺さぶる。
「妾は……多くの死を見てきた……自身が手を下したことも数え切れぬ……。 なれど今、我が兄弟、そして力を授けし“カオスの貴公子”……それが目の前で死んでゆく……それを助ける術もない……何となれば、妾は主人たる魔界王に逆らえぬゆえ……。 “焔の眸”よ、おぬしの心、その悲しみを……妾は初めて理解した……」
 身を震わせる黒衣の美女の眼から流れ出、床に滴り落ちて出現するのは、闇色をした宝石。
 それは、この世のどんな物質よりも硬い、最高級の黒ダイアモンドだった。
 今ここで彼らを殺せば、ニュクスの心も砕け散ってしまうに違いない。
 タナトスは密かに舌打ちしたが、彼女だけでなく、自分自身も弱り果てているのに気づいた。
「分かった、こやつらは殺さん。言い訳を聞くのも後回しだ。 疲れているのだろう、ニュクス。今日は、いちどきに色々ありすぎた」
 その刹那、ニュクスは、ふらっとタナトスの腕の中に倒れ込んだ。「ニュクス!」
 ふらつく足を踏ん張り、タナトスは彼女を抱き上げた。
「ダイアデム、今度こそ俺達は休むぞ。一週間後に話を聞いてやるから、その間は顔を見せるなと、そのたわけに言っておけ! ああ、そうだ、忘れずにプロケルも看てやるがいい。 ──ムーヴ!」
 タナトスは、自分のベッドにニュクスを横たえると、その隣に倒れ込み、あっと言うまに眠りに落ちた。

 6.裏切りの貴公子(5)

「ちょっと待ってろ、サマエル」
 ダイアデムは、夫の頭を膝から外して床に横たえ、痛みにうめく老公爵に駆け寄った。
「大丈夫か? 今、治してやっからな。 ──フィックス!」
「おお、かたじけない」
 傷はすぐに癒え、プロケルは礼を言って立ち上がる。
 サマエルはひじをついて半身を起こし、頭を下げた。
 輝く髪がさらさらとまといつき、その美しい顔を隠す。
「プロケル、行きがかり上とはいえ、ひどいことをして済まなかった。 かくなる上は、反逆者として私を告発するのだね」
「何を仰います、先ほどのことは、すべて芝居だったのでございましょうに」
 プロケルは、王子のそばにひざまずいた。
 サマエルは顔を上げ、真っ直ぐに彼を見た。
「本気でそう思っているのか? 私は二人を手にかけ、王位を簒奪しようとしたのだぞ」
「いいえ、それは、あなた様が仰っていらした通り、兄君様の窮地(きゅうち)を救わんがため。 つまりは深い仔細(しさい)がおありになってのことと、それがしは理解致しております」
 かすかに微笑み、第二王子はゆっくりと否定の仕草をした。
「騙されやすいねぇ、お前は。 そんなに簡単に信じては駄目だよ。罪を逃れるためにはどんな嘘も平気でつき、その場を取り繕(つくろ)おうとする……犯罪者とはそういうものなのだから。まずは疑ってかからなければ」
 プロケルもまた、かぶりを振った。
「いえ、それがしにはやはり、あなた様が反逆者であるとは思えませぬよ」
 第二王子は首をかしげた。
「……それは何ゆえ? 確信があるような口ぶりだ」
「ならば、お尋ね致しましょう。兄君様を足蹴(あしげ)になされた時、何ゆえ素足になられたのですかな?」
 氷剣公は、床にバラバラに転がった彼の靴を指差した。
「……目ざといね。偶然脱げたのさ。私も興奮していてね」
 サマエルは指を一振りし、魔法で靴を履く。
「いえ、それがしのときもまた、あなた様は靴をわざわざお脱ぎになられた。しかも、蹴る力も弱いものでしたな。 まあ、あの時は、そこまで頭が回りませなんだが。 ……ご幼少の砌(みぎり)より、あなた様は、本当にお優しいお方でございますなぁ」
 彼を見る、プロケルの眼差しは温かかった。
 サマエルは暗い目つきになった。
「そんなことを言うなら、お前に聞こう。 もし、私とタナトスの立場が逆だったら、お前はさっきタナトスをかばったように、私をかばってくれたのか?」
 プロケルは息を呑むと眼を伏せ、口の中でもぐもぐと言った。
「そ、それは……それがしの忠誠は、魔界王家に向けられておりますれば……」
「王家に忠誠を誓っているから、王が誰だろうと関係ない、か? ああ、そういえば、昔、私が腹を空かせて死にかけていたとき、こっそり菓子をくれたことがあったな……」
「さぞかしお恨みなのでしょうな、それがしのことも。 結局はあなた様を、お助けすることはできませなんだ」
 元魔界公爵はうなだれた。
 王子は肩をすくめ、あいまいな笑みを浮かべたが、眼は笑っていなかった。
「……さあね。私が何と答えようと、お前の心だけが真実を知っている。 お前自身に聞くがいい、それが答えだよ」
「おい、サマエル、あんま年寄りをいじめんじゃねーよ」
 ダイアデムが口を挟む。
 サマエルは首を横に振った。
「いじめてなどいないよ。 魔力もなく、王位に就けそうもない落ちこぼれの王子などより、自分が大事なのは当たり前さ。 ましてや、根暗でうじうじしている私などより、タナトスの勇猛果敢(ゆうもうかかん)な性格の方が好ましいと、武人のプロケルが感じるのも当然だ」
「ま、プロケルならそうだろな。 けど、オレはタナトスよか、お前の方が好きだぜ」
「……そう。ありがとう。 でも、どうしてだね? タナトスの方が男らしいし、頼りがいがあるだろうに」
「だって、乱暴なヤツってヤだし。それに理屈じゃなく、オレはお前がいーんだ」
 ダイアデムは、彼に笑いかけた。
 かつて、あれほど自分を恐れていた彼が、今は無条件に信頼を寄せてくる。
 ようやく彼の愛を勝ち得たというのに、その笑顔が胸に突き刺さるように感じられて、サマエルは眼をそらした。
「愛しい妻がいて、理解者も見つけ、兄とも和解した……なのに、どうして私は、これほどまでに世界を憎んでしまうのだろう……。 すべてを破壊し、無にしてしまいたい、そんな衝動を時々抑えられなくなる……あ」
「危ない」
 立ち上がろうとしてよろけたところをとっさに支えた勢いで、プロケルは、第二王子を抱きしめる形となった。
「……プロケル。お前も私を抱きたいのか?」
「い、いえ、滅相もございませぬ、これは弾みで……失礼を」
 うろたえて放そうとする老公爵に、サマエルはしがみついた。
「お前ならいいよ。 抑えたつもりだったのに、ひどい火傷を負わせてしまった。 罪滅ぼしに、私を好きなだけ目茶目茶にすればいい……」
 実直な氷剣公は真っ赤になった。
「何を仰います、そちらに奥方様がおいでなのですぞ」
「構わねーぜ、抱いてやれよ、プロケル。 けどサマエル、お前、こんなジジイも守備範囲なんか?」
「な、何と!?」
 けろりとしたダイアデムの答えに、プロケルの細長い瞳孔は真ん丸になった。
「彼は、古代のフェレスに一番近い種族だからね。 とても綺麗な眼だ……」
 うっとりと、第二王子は公爵の猫眼を覗き込む。
「い、いけませぬ、お放し下され、サマエル様……!」
 絡みついて来る彼の腕を、プロケルはどうにか振りほどいた。
 悲しげにうなだれ、サマエルはローブをかき合せた。
「皆が食べ物の見返りに、私の体を汚していたあの頃も、お前だけは私を求めなかったな。 お前がくれた小さなケーキ……あれのお陰で、どうにか二日ほどは、体を売らずに済んだよ。 でも、本当のところ、お前は私を軽蔑していたのだろう? 王子ともあろう者が、とね……」
 老公爵は顔を紅潮させた。
「滅相(めっそう)もございませぬ、軽蔑などと! あの後、それがしは、ベルゼブル陛下に進言致しましたのです、今のままではサマエル様がお気の毒に過ぎまする、せめてお食事だけでもと! ですが、陛下の逆鱗に触れ、これ以上差し出た口を利くようなら、侯爵位を剥奪して領地を没収、さらには一族郎党、ことごとく処刑すると……仕方なく、それがしは引き下がり……」
「そう、やはり」
 静かな第二王子の声は、まくし立てていた氷剣公の口を閉ざさせた。
「お前の好意はうれしいけれど、陛下がそうまでお怒りになるほど、私の死を望んでいらしたとはね……」
 サマエルの瞳は、底知れぬ悲しみで満たされていた。
「も、申し訳ございませぬ、余計なことを申し上げました。 されど陛下は、それがしの無礼な言い草にご立腹され、弾みで仰られたのでございますから……」
 プロケルは蒼白になり、額の汗をぬぐう。
 サマエルは首を横に振った。
「いいや、陛下は、私を餓死させるおつもりでいたのだろう。 その前に、叔母上がお元気になられて果たせなかったから、今度は生け贄にと……」
「ま、まさか、左様なことは!」
 震える声で、老公爵は懸命に否定する。
「いいのだよ、プロケル。私はそれでいいと思っていた。 死を夢見て生きて来たのだ……あの方の仰せの通りに、死ぬためにね。 そして、もう少しで死ねると思っていたのに、この頃、皆が私に『生きろ』と言う……顔を合わせるたび、死ねと言っていたタナトスでさえ、『生け贄になる必要はない』などと言い出す始末だ……。 でも、死ぬことだけを考えて来た私は、生きろと言われても、どうしたらいいのか分からないよ……」
 第二王子は顔を覆った。
 少しの間、そんな彼を痛ましそうに見ていた公爵は、意を決したように口を開いた。
「サマエル様。もう、許して差し上げてはいかがですかな」
「……許す? タナトスのことなら……」
「いえ、あなた様ご自身のことを、でございますよ」
「えっ!?」
 サマエルは珍しく驚きを面に表し、元公爵をまじまじと見た。
「ご自分をお許しになられれば、おそらくもっと、生きるのが楽になることと存じますぞ。 お小さい頃のあなた様を、許して差し上げなさいませ。 そして、童子を扱う時のように優しく褒(ほ)めるのです、このように」
 再びプロケルは王子を抱き寄せ、さらには、幼い子供にするように頭をなでた。
「サマエル様、今までよく頑張りなさいましたな、よくぞ生きて来て下さった。 後はもはや、ご自分の幸福をご追及なさればよろしいのです」
 一瞬、けげんそうな顔で老公爵を見た第二王子は、すぐに透き通るような笑みを浮かべ、その胸に頬を寄せた。
「ああ、温かいな……。 僕が幸せなのはね、“大っきいにゃんこ”といるときなんだ。 あとね、甘いお菓子を食べてるとき。あなたがくれたの、とっても美味しかったなぁ。 それとね、ベルゼブル陛下に褒めてもらうとき……あ、でも、まだ褒めてもらったこと、ないんだけどね。 陛下は、僕が生け贄になれば、皆が幸せになるって仰ったよ。 僕も母様のところへ行ける。そしてお空の上から、皆が喜んでるところ、見るんだ。だから、僕は死ななくちゃいけないの。 そしたら陛下は、褒めて下さるよ、ね……?」
 幼児のような口調で話していたサマエルの目蓋が、ゆっくりと閉ざされた次の瞬間、いきなり体から力が抜けた。
「い、いかがなされました!?」
 ぐったりとした王子を、慌てて老公爵は抱き止める。
「心配すんな、寝ただけだ。 世話かけちまって悪かったな、プロケル。 こいつの『抱いて』ってのは、ガキの『だっこ』とおんなじなんだ。 さ、こっちにくれ」
 落ち着き払ってダイアデムは、両手を差し出す。
「は。されどサマエル様は、幼少時の心の傷が、まだ癒えておいでではないのですな」
 ほっとしたプロケルは王子を渡し、受取った少年は、夫を魔力で浮かせた。
「んでも、最近は、かなり前向きになってたんだぜ。 また子作りしてみっか、とか言ったりしてよ。 やっぱまだ、洗脳が解けてねーんだろな」
「左様で。 やはり魔界に戻っていらしたために……お辛い記憶ばかりですからな」
「……そうだな。 ああ、タナトスに言っとけ。サマエルが起きるまで、オレらは紅龍城にいる、逃げも隠れもしねーから、反逆罪で処刑すんならしろって。 ま、でっけー猫と甘いもん、親父に褒められんのが好きで、自分より皆が幸福なのがイイなんてヤツに、野望なんてあるわきゃねーけどな」
 ダイアデムは肩をすくめた。
「いいえ、タナトス様のお怒りがどれほど激しくとも、老い先短いこの命に賭けて、処罰などお止め申し上げますよ」
 力強く、プロケルは請合った。
「そっか、ありがと」
 貴石の化身は微笑んだ。
 その瞳の輝きに老貴族も笑顔で応え、胸をたたいた。
「万事、それがしにお任せ下され」
「うん。 ……けど、サマエル、お前、ちっとやり過ぎだぞ。 あんな無茶すりゃ、タナトスが殺してくれるとでも思ったんか?」
 ダイアデムは、愛しそうに王子の顔を両手で挟み、色あせた唇に口づけた。

 7.夢の罠(1)

 第二王子を連れた宝石の化身が去って、一人きりになったプロケルは、まずは深呼吸し、気を落ち着けて頭の中を整理しようとした。
 事態は一応の沈静を見たが、主の容態を含め、今後のことを考えると、自分の手には余るように感じられる。
 そこで彼は、魔法医エッカルトに相談を持ちかけようと思い立った。
 魔法医の代表である男爵は、職業柄、守秘義務があることに加え、個人的にも信頼の置ける相手だった。
 彼は、急ぎ短い手紙をしたためて使い魔に持たせ、人目につかないところで渡すよう命じた。
 引退したはずのプロケル公に、タナトスの私室に呼び出されたエッカルトは、内心驚きつつも、まずはうやうやしくお辞儀をした。
「プロケル元公爵、ご無沙汰致しております。 して、内密なお話とはまた、どのようなことでございますか?」
「おお、エッカルト殿、わざわざ呼び立て致して申し訳ない、実は……」
 さっそくプロケルは、第二王子が反逆すれすれの行為に及んだことも含め、つい先ほどこの部屋で起きた、目まぐるしい出来事を詳しく話した。
 聞くうちに、エッカルトは徐々に難しい顔になり、彼の話が終わると、重々しくうなずいた。
「……なるほど。お話はよく分かりました。 まず、何はさて置き、タナトス陛下のご容態が気がかりでございます、陛下は今、どちらにおいででしょうか?」
「おそらく、ご寝所だと思うのだが」
 そこで二人は、そっとタナトスの寝室に入って行った。
 広い豪華なベッドの上には、ついさっき倒れ込んだままの格好で、タナトスとニュクスがぐっすりと眠っていた。
“どうだろうな、それがしが見たところ、さほどお弱りになっておられるようには感じられなんだが”
 彼らを起こさないよう、プロケルは念話で医師に話し掛けた。
“少々お待ち下さいませ”
 慎重に診察していたエッカルトは、やがて振り向き、心配そうな公爵に笑顔を向けた。
「ご懸念は無用でございますぞ、プロケル公。 幸いなことに、お二方共、取り立てて異常は見られませぬ。 酷使した精神を回復させるため、睡眠を取っていらっしゃるだけのようです。 この分では、数日もすれば完全に回復され、お目覚めになるでしょう」
「左様か、それは何よりだ……!」
 心から安堵してプロケルは言い、安らかな寝息を立てている二人を魔法で着替えさせ、布団をかけた。
 足音を忍ばせて元の部屋に戻ると、老公爵は切り出した。
「ところで、サマエル様について、エッカルト殿はいかに考える? いかに、兄君をお助けしたいというお心からとは申せ、先ほどの振る舞いは、あまりに過激であったと思うのだが。 ベルフェゴールの謀反の時などもそうだったが、やはりご幼少時の体験が原因で、時折あのように……その、少々度を越した行動に出なさるのであろうか……?」
 エッカルトは顔をしかめた。
「サマエル殿下につきましては、わたくしもかつてベルゼブル陛下に、僭越(せんえつ)ながらと、ご意見を申し上げたこともございました。 なれど、まったくお耳を貸して頂くことはできませんでしてな……」
「おう、エッカルト殿も、とは……」
 プロケルは悲痛な表情になり、嘆息(たんそく)した。
「何ゆえベルゼブル陛下は、サマエル様のこととなると、ああも頑(かたく)なになってしまわれるものやらな。 また、そうまでされてもなお、お父君を一心にお慕いなさっておられる殿下が、おいたわしくて、見ておられぬよ……」
「左様、サマエル殿下は、ご自分のことは、ベルゼブル陛下には何も言ってくれるなと仰っておいででしたな。 周りがあまりに強く意見すると、意地になってしまわれるという陛下の性格を、よくご存知だったのやもしれませぬが」
「あの方は、幼少の砌(みぎり)より、大層利発なお子だったゆえな。 ……そうそう、ダイアデム殿が、『まだ洗脳が解けていない』と仰せだったのだが、エッカルト殿は、心当たりがおありか?」
 プロケルの言葉に、魔法医は重々しくうなずいた。
「はい。虐待に近い行為が執拗に繰り返されれば、洗脳に近いものになってしまうことは十分に考えられまする。 されど、そのお言葉からすると、すでに“焔の眸”閣下が、解除を試みられておられるのでしょう。 さすがは長の年月、魔界の守護精霊を務められた方……こういうことにも精通しておられるようですな。 それでもやはり、洗脳から解放されるには、かなりの時間が必要と思われまする。 何しろ、サマエル殿下が魔界をお出になるまで……つまりは一万年以上もの間、みずから死を望むように仕向けられていたと申し上げていい状態が、続いていたのですからな……」
「左様か……」
 公爵は、またもため息をつき、それから気を取り直し、言った。
「ともかく、他の家臣達にも一応、今回の次第を聞かせておくとしよう。 汎魔殿では噂が広まるのは早い。尾ひれがついて収拾がつかなくなる前に、対処しておかねばならぬ。 それから、これは申すまでもないことながら、今回のサマエル様の過激な言動は伏せておいて頂きたいのだが。 テネブレを封じるため、“焔の眸”閣下と共に、手助けにいらして頂いた、とだけ……未だに殿下を王に担ぎたがっている輩(やから)に、不用意な口実を与えたくもないゆえな」
「かしこまりました。 されば、後でサマエル殿下も、内々に診察致しましょう」
「かたじけない。ではもう少々、お付き合い願うぞ、エッカルト殿」
「は、お供致します」
 そこでプロケルは、使い魔を通じ、主立った家臣達に招集をかけた。

           *       *       *

「……というわけで、陛下はあの者……“黯黒の眸”化身であるニュクスを得るため、危険なテネブレを封じる必要があったのだな。 本日、急に思い立ってそれを実行され、成功されたものの、お力を使い果たされ、お休みなっておられる」
 会議室に集まった家臣達を前にして、プロケルは大ざっぱに事の経緯を説明し、エッカルト男爵が言葉を継いだ。
「左様、わたくしの見立てでは、陛下は数日もすればお元気になられ、お目覚めになると存じます、皆様方、ご懸念は無用でございます」
 話を聞いた家臣達は顔を見合わせ、小声で意見を述べ合っていたが、パイモンが、彼らを代表するようにゆっくりと手を上げた。
「プロケル公爵殿、少々よろしいですかな」
「それがしは、もはや元公爵だが」
 パイモンは顔をしかめた。
「左様な瑣末事(さまつじ)は、この際はおいておくとしましょう。 陛下がすぐにお元気になられるとの、エッカルト殿のお見立てはよいとして。 されど……たかが、女の姿をした化身を得るために、左様な危険を冒されるとは、魔界の王にあるまじき軽率な行為でございますぞ。 第一、あの化身もまた、テネブレ同様、危険なのではありますまいか」
 会議室内にざわめきが走り、彼らが同じような考えを抱いていることが見て取れた。
 プロケルは、即座に否定の身振りをした。
「いや、ニュクスはタナトス陛下ご自身がお創りになった化身。 当然ながら陛下のお言葉にはすべて従うよう創られておる上に、今回の封印でさらに従順になったゆえ、危険などはない」
 元公爵の言葉にも、デーモン王の眼差しは疑わしそうだった。
「……まことでしょうか?」
 プロケルは胸を張り、自信たっぷりにうなずいた。
「無論。陛下がお目覚めになられたなら、ニュクスにも会ってみるがよい。 それがしの言葉に、必ずや首肯(しゅこう)して頂けることを請合おうぞ」
「左様ですか。 なれどせめて、事前に一言仰って頂けましたなら、皆がお手伝いをすることができ、お力を使い果たされるようなことはなかったのでは?」
「テネブレの封印は、神族との戦いの前に、必ずやらねばならなかったこと。 それがたまたま今日だった、ただそれだけのことだ。 何しろあの者は、結界を張る能力に長けてはおるが、気随気ままで、しかも生き物の命を軽んずる、危険極まりない化身。 あの者に、全幅の信頼を寄せることなど初めから無理だった。“黯黒の眸”に魔界の結界を、安んじて守らせるためには、封印するほか、なかったのだ」
 元公爵は、皆の者に言い聞かせるように話した。
「……ふむ。ならば、陛下のお目覚めを待つことと致しましょう……。 方々(かたがた)も、それでよろしいな」
「仕方ございますまい」
「今少し、お待ちしますか」
 彼に説得されたパイモン達家臣は、渋々ながら王の回復を待つことに同意し、プロケル元公爵は、とりあえずの責任は果たしたと、肩の荷を降ろした。
 三日後、エッカルトの言葉通り、タナトスはニュクスと共に目覚め、心配していたプロケル並びに家臣達は、あるじが元気を取り戻したことで歓喜に沸き立ち、あのパイモンまでもが多少浮かれ気味になった。
 だが、紅龍城に運び込まれた弟王子の方は、一向に目覚めなかった。
 ダイアデムが片時も離れずに、念話で必死に呼びかけ続けても反応はなく、一週間、十日と経っても、サマエルが覚醒する兆しはなかった。

 7.夢の罠(2)

 その後もサマエルは目覚めず、ひたすら眠り続けていた。
 目覚め直後は処刑してやると息巻いていたタナトスも、さすがに一月が過ぎる頃には頭も冷え、“黯黒の眸”を連れて、紅龍城へ行ってみることにした。
「ダイアデム、見舞いに来てやったぞ。 サマエルのたわけめは、まだ起きんそうだな」
「ああ、見ての通りだよ。 お前に殴られんのがヤで起きないのかも……なんて考えてもみたんだけど、さ」
 サマエルの枕元の椅子にぽつんと座っていたダイアデムは、そう冗談めかして答えたものの、声には力がなかった。
 その瞳にも、いつもの輝きはない。
 豪華なベッドに、身動きもせず横たわる美貌の第二王子は、魔法にかけられて三百年も眠り続けたという、伝説の姫君のようだった。
「まさか、そんなわけはなかろう。 そこに澄ました顔で寝ている変態は、俺に殴る蹴るされても、今まで一度も心から嫌がっているようには見えなかったぞ。 口では一応、嫌と言いながらな」
 タナトスは皮肉な笑みを浮かべつつ、眠る弟に向けて手を振った。
 ダイアデムは、ひどいしかめ面を作って見せた。
「その後で、必ずお前が可愛がってやったからだろ。 食いもんと優しさ、愛情……全部に飢えてたサマエルが、三ついっぺんにくれるてめーを拒絶できるわけ、ねーだろーがよ。 ──ったく、どっちが変態なんだか」
「ふん……」
 少し良心の呵責(かしゃく)を覚え、タナトスはそっぽを向いた。
「それはともかく、どうして起きねーんだろな。 やっぱもう、オレらといるの、飽きちまったのかな……」
 悄然(しょうぜん)とうなだれ、瞳をうるませる弟の妻の肩を、魔界王は軽くたたいた。
「ダイアデム、下らん自責の念や、非生産的な思考に溺れるな、サマエルでもあるまいし。 それよりも、どうやったらこの寝坊助をたたき起こせるか、考えた方がいい。 ああ、ついでだ、俺も呼んでみてやるか」
 タナトスが念を送るも、やはり弟からの応答はない。
「……駄目か。 エッカルトの見立てでは、肉体的にはまったく問題がないそうだが。 まあ、しばらく眠っていたところで、別段害もあるまい。 ダイアデム、貴様が気をくれてやれば死ぬこともないのだ、気長に待っておれば、そのうち目覚めるだろうさ」
 するとダイアデムは、魔界王をキッと睨んだ。
「何、呑気にほざいてやがんだ、タナトス! 相変わらずバカだな、お前! ンな風にサマエルがいつまでも寝てたら、いずれ殺さなきゃなんなくなるだろーが!」
「何だと、どういう意味だ、それに人を馬鹿呼ばわりしおって!」
 タナトスは、頬を紅潮させて宝石の化身を怒鳴りつける。
 紅毛の少年は両の拳を握り締め、眼を怒らせた。
 瞳の炎が、激しく火の粉を上げて燃え立つ。
「バカをバカっつって、何が悪りーんだよ!」
 彼は叫び返し、指を四本立て、タナトスに突きつけた。
「考えてもみろ、天界との戦にゃ“四頭の龍”が必要なんだぞ、絶対にだ! なのに、紅龍の、サマエルが寝たまんまだったら、どうなると思う! 一頭でも龍が欠けたら、天界にゃ勝てねーんだぞ! そしたら……そしたら、結局はこいつを生け贄(にえ)にして、火閃(かせん)銀龍を呼び出すしか、勝つ方法がなっちまうんじゃんかよ──!」
 紅毛の少年は、夫の眠るベッドに突っ伏して、激しく泣きじゃくり始めた。
 布団の上には彼の涙が、いくつもの紅い宝石となって煌き落ちる。
「むう……」
 タナトスには返す言葉がなかった。
 たしかにダイアデムの言う通りだった。
 もし仮に、サマエルが目覚めないこんな状態で戦が始まってしまったら、四頭の龍は揃わず、第二の予言にある、天界に勝つための条件は成立しない。
 その場合、魔界を勝利を導くためには、第一の予言に従い、自分がサマエルの心臓を食らって火閃銀龍となり、一頭で戦うしかなくなるだろう。
 それでは、せっかく新たな予言を読み解き、弟を生け贄の運命から救い出そうとしたその努力も、すべてが水の泡になってしまう。
「──ち。まったく手のかかるたわけだ。 やはり、俺に殺されてしまいたいということなのか、それとも何か他に理由があるのか? 最近はこいつも、多少前向きになって来たと思っていたのだがな。 第二の予言を大々的に宣伝し、魔族達の戦意高揚に役立ててはどうか、などと言ったりもして……」
 彼は腕組みをし、かたわらに黙してたたずむ“黯黒の眸”の化身に視線を向けた。
「ニュクス、何ゆえこやつが目覚めんのか、お前には想像がつくか?」
「そうよの、たしかにサマエルには、死を望む心持ちも強かろうが。 なれど、妾やおぬしにならともかく、“焔の眸”の呼びかけにも応じぬのは、少々解(げ)せぬな」
 美女は細い首を優雅にかしげ、少し考えた。
「ふむ……もしかしたらサマエルは、祖先らの怨念に捕らえられておるのやも知れぬ。 力を使えば使うほど、闇に取り込まれる危険性も高くなるゆえ。 その場合には、“紅龍”を封じるため、サマエルは、おのれ自身の意思で眠っておることになる。 いずれにせよ、このままでは、自力で戻ることは難しかろう。 “焔の眸”よ、おぬしが行ってやれば、サマエルが戻って来られる可能性があるやも知れぬぞ」
 それを聞いた途端、ダイアデムは泣き止み、勢いよく顔を上げた。
「──そっか! オレが中に入って、死霊どもをぶっ飛ばし、連れて帰りゃいーんだな!」
「左様。“混沌の力”の内宇宙に入り込んで呼びかければ、サマエルからの応答も受けやすかろう。 妾が道を開き、導くゆえ、それに従って行け。 いかな困難が待ち受けておろうとも、固き信念を持って進めば、必ずやサマエルの心を取り返すことができようぞ、我が兄弟」
 黒衣の美女は、紅毛の少年に微笑みかけた。
 “焔の眸”の化身は、ごしごしと涙をふき、輝くような笑顔を見せた。
「うん、分かった、オレ、行って来るよ。 そして、絶対サマエルを起こしてみせる!」
「何か、俺に手伝えることがあるか?」
 タナトスが尋ねる。
「おぬしには、二人が戻るときに手を貸してもらいたい。妾一人では、やはり心許ないゆえ」
 ニュクスが答えた。
「分かった。ダイアデム、終わったら合図を寄越せ、引っ張り出してやる。 無事に、あのたわけ者を連れ戻して来い」
「ああ、頼んだぜ」
 ニュクスは、意識のないサマエルの額に手を当て、眼を閉じた。
 ダイアデムも、反対側から同じようにした。
 しばしの後、美女は、かっと眼を明けた。
「──道は開いた。飛び込め、“焔の眸”」
「よーし、んじゃ、行ってくっから!」
 言うと同時に、ダイアデムの姿はかき消えた。
「……消えた。文字通り、サマエルの中に直接入り込んだのか」
「左様。他の者ならば非常なる危険を伴うであろうが、“焔の眸”は我が兄弟、さほど長い時間でなくば、カオスの闇の中でもおのれを見失ったりはせぬ。 なれど……呪縛されたカオスの貴公子を、先祖らの妄執(もうしゅう)より引き剥がすのは、ひどく困難な作業となろうな」
 美女は、難しい顔つきになった。
 タナトスもまた、一月前の騒動と、その時受けたひどい苦痛を思い出し、眉間(みけん)にしわを寄せた。
「たしかに、一筋縄ではいかんだろうな。 同胞を虐殺された恨み、憎しみや悲しみ……それがサマエルの中に深く根を下ろしているとは、あのときまでは想像もできなかったが、今は分かる。 俺の中にも、あのおぞましい怨念のかけらが残っていて、時折思い出したように、心を刺すからな……」
「妾自身が力を授けておいてかく言うのも何だが、生身の体に、あれほどの力を納めておけるのが、いっそ不思議なほどだ。 それも、サマエルがおのれの内に、巨大な“虚無”……心の空洞と言い換えてもよい……を抱えておるからに他ならぬ。 されどそれは両刃の剣。空洞があまりに大きくなれば、カオスの貴公子の人格は、闇に飲み込まれて消失し、“怒れる紅龍”が出現する」
「そうなれば、殺すしかなくなるわけだ。 “カオスの貴公子”は、今まで二度、そうやって殺されたのだったな、世界の破滅を防ぐために」
 黒衣の美女は、黙ったままうなずいた。
 タナトスは椅子を二つ、魔法で呼び出して彼女を座らせ、自分も座り込んだ。
「……酷い話だ。 ヤツは心身共に追い詰められ、“カオスの貴公子”となるよう仕向けられて来た。生け贄になるか、発狂して殺されるか、どちらにせよ、待っているのは死あるのみ……親父を恨むのも当然だな。 おまけに、知らんうちに、この俺までもがその片棒を担がされていたとは! ヤツの女々しい性格は気に入らんが、親父のやり口はもっと腹立たしいわ!」
 怒りに任せてタナトスは、左の拳を右の掌にたたきつけた。
「ベルゼブルは親子の情愛よりも、魔界の未来を取ったのだろう」
 ニュクスは静かに言った。
「ふん、俺も今は魔界の王、魔族の将来を切り開く義務は俺にもある。 親父と同じ立場に立ったら……いや違う、他に方法があったはずだ、絶対! ──くそっ、俺としたことが、済んだことをいつまでも……だからヤツとは関わりたくないのだ! あいつの存在は、取り返しのつかない過去につながっている気がして、苛々してくる! 全体のため一人が犠牲になるという考えも、気に食わん!」
 頭に手をやったタナトスは、思いついたように顔を上げた。
「──そうか、それで俺は今まで、妃を娶る気になれなかったのだな。 たとえ自分の子でも、可愛いがれんだろうとも思っていた。 親父と同じ轍(てつ)を踏むのを、無意識に避けたのか。 妃にしたいと思ったのは、お前を除けばジルだけで、彼女には、たしかに愛情を感じてはいた。 だが、愛というよりはむしろ、弟のものを奪い取ることに、ガキっぽい悦びを見出していただけかもしれん。 ジルはそれを察し、サマエルを選んだのだろう。 その方がよかったのだ……」
「そういうものなのか?」
 不思議そうに、美女は彼の瞳を覗き込む。
 その黒々とした瞳に踊る、摩訶(まか)不思議な黄金の輝きを見返し、タナトスは答えた。
「ああ。お前といると、色々と見えてくるものがある。 以前、テネブレに、ガキのようだと言われたのも当然だな。 かつての俺は、いかに子供じみていたことか」
 そして彼は、王妃にすると決めた女性の手を取ろうとした。
 ニュクスは微笑みながらも、それをかわした。
「今は、サマエルと“焔の眸”が心配だ」
「ちっ、そうだったな。 ……にしても、せっかく四龍がそろい、これから戦を仕掛け、先祖の仇も討てると言うときに、その怨念に龍の一人、サマエルが捕らえられているとは、まったく間抜けな話だ」
 タナトスは再び顔をしかめた。
「怨霊(おんりょう)と成り果てた亡者(もうじゃ)達に、ものの道理を説くのは容易ではない。 あまりに長き年月に渡り苦しみ抜いてきた彼等は、もはや心を失っておると言っても過言ではないゆえ。 一歩間違えば、サマエルがその仲間入りをする可能性もあった……。 おお、“焔の眸”は無事到着致したようだぞ」
 そう言うと、ニュクスはダイアデムに念話を送った。
“これから導き手を送る、その後をついてゆけ、我が兄弟”

 7.夢の罠(3)

 ダイアデムが着いた場所は、闇のただ中だった。
 どれほど暗い場所だろうと、明るく照らし出すはずの彼の輝きをもってしても、辺りを見渡すことは出来ない。
「ふーん、これが“カオスの闇”ん中かぁ。思いっきし暗いなー。 ──グリッティ!」
 呪文を唱えると手の上に、輝く球体が現れた。
 しかし周囲の闇に吸収されて、ごくわずかの範囲しか、明るくならない。
「“闇”ってのはたとえじゃなく、マジに真っ暗なトコなんだなー。 さすがだぜ、光がどこにも届かねーや」
 感心したように言う声も、周りの闇に吸い込まれ、自分が闇と同化してしまいそうな気分になって来る。
 元々独り言の多いダイアデムだが、こんな状況では尚更、何か言葉を発していないと、ぐるりを取り囲む闇そのものが襲いかかってきそうな不安感を抑えられない。
「うーぶるぶる。長居はしたくねーよな、ンなトコ。 大体、どっち行きゃいいんだか、さっぱり分かんねーし」
 肩を抱いて身震いした時、ニュクスからの念話が、心に届いた。
“これから導き手を送る、その後をついてゆけ、我が兄弟”
“えっ、導き手? ……ああ、こいつか”
 足元で、ネズミに似た形状をした、小さな光るものが跳ねていた。
 これは“黯黒の眸”の分身であり、彼らが力を合わせなければ、サマエルの心が捕らえられている場所は感知できないのだった。
「へん、オレは、ネズミを追っかける猫ってわけか。 その先にゃ、罠にかかった白蛇が一匹。 今、助けに行くぜ、待ってろよ、サマエル! 絶対連れて帰るからな!」
 ダイアデムが力強く宣言したそのとき、いきなりネズミが走り出した。
「あ、待てよっ、ネズ公!」
 彼は、大急ぎでその輝きを追いかけた。
 みずから輝く“焔の眸”でさえも、前方を跳ねながら進む白い小さな光以外には、何も見えない漆黒の闇。
 下は固い地面ではなく、未知の材質でできてでもいるかのような奇妙な感触で、気を抜くとすぐ足をとられてしまう。
 戸惑いながらも、彼はともかくサマエルを求め、でき得る限り足早に歩を進めた。
 しかし、あまりの暗さに平衡感覚も失われ、自分がまっすぐに進んでいるのかどうかもよく分からない。
 何かにぶつかってしまいそうで、彼はついつい、両手を前に突き出し、探るような歩き方になっていた。
 かなり進んだと思える頃、ダイアデムの鋭い感覚は、次第に濃くなる瘴気を捉え、我知らず鳥肌が立ち始めた。
(近づいてきやがったぜ、死霊どもの巣に。 そこに、サマエルが捕われてる……のか? でも、やっかいだよなー、死人相手に一戦交えんのかぁ。 サマエルさえ俺に気づいてくれりゃ、楽勝なんだけどな)
 死霊達に自分の存在を気づかれてはまずいと思い、心の中で彼はつぶやく。
 そのとき突然、導きのネズミが弾けるように消滅した。
 息を呑むと同時に、周囲の闇がうごめき出すのを感じ、ダイアデムのうなじの毛は一斉に逆立った。
(第一の関門、ってわけか。 そうだよなー、今まですいすい来られたのが、不思議なくらいだもん)
“何奴……”
“我らの眠りを妨げる者は……”
“帰れ……”
“引き返せ……”
“戻らぬと、闇に取り込むぞ……!”
 気味の悪い声がいくつも頭の中で響き、同時にたくさんの死霊達が、おどろおどろしい姿で立ち現れた。
 ある者は頭から血を流し、ある者は首がなく、あるいは全身が焼けただれ、恨めしい顔をしたたくさんの人々が、じりじりと彼に迫ってくる。
 一切の光がない空間だというのに、その姿はなぜか明瞭に浮かび上がって見えていた。
 だが、遥かなる太古、実際にフェレス達の殺戮(さつりく)現場にいた“焔の眸”が、その程度のことで動揺するわけもなく、彼は平気な顔で告げた。
「んじゃあ、サマエル……いや、真の名で言った方が分かりやすいか。カオスの貴公子、ルキフェルを返しな。そしたら、大人しく帰ってやるぜ」
 その名を聞いた亡霊達は、一斉にざわついた。
“ルキフェル……!”
“彼(か)の者は渡さぬ……”
“『カオスの貴公子』は我らのもの……”
“あの者は……我らの仲間になるのだ……”
“帰れ……”
“侵入者よ、帰れ……”
 “焔の眸”の化身は、カッと眼を見開いた。
 彼は深く息を吸い込み、空間を壊さんばかりに、大声を張り上げる。
「──うぜぇんだよ、亡者ども! サマエルはオレのもんだ! 大体、てめーらは、恨みを晴らして欲しくて、ンな無様なカッコさらしてんだろーが! オレ達は、てめーらのカタキとるために、これから天界と戦うんだぞ、邪魔すんじゃねー! 考えてもみろ、“紅龍”なしで、どーやって神族どもに勝てんだよ!」
 ダイアデムが叫ぶにつれて、紅い眼の奥に揺らぐ、黄金の炎が激しく燃え立つ。
 “焔の眸”の剣幕に死人達はたじろぎ、ざわめいた。
 それから彼らは口々に、怨嗟(えんさ)の念を彼にぶつけ始めた。
“我は、きゃつらに殺されたのだ……”
“きゃつらは、我が子を殺して捨てた……”
“身重の妻が殺された!”
“年老いた父母が殺された!”
 ダイアデムは、両手を振り回した。
「あー、うるせー、分かった、わめくな、それは知ってっから! オレは、その現場にいたんだからな! ──いいか、てめーら、よ〜く聞け!
 もうすぐオレ達は、恨み重なる神族どもをぶっ倒しに行くんだ! だから邪魔すんな、分かったか! とっととサマエルを返せ!」
“神族を、倒す……?”
“我らの恨みを、晴らすと言うか”
“まこと……なのか?”
 戸惑い、ざわざわとささやき交わす死霊達の声が、暗い空間を満たしてゆく。
 その中から、ひときわ強力な怨霊(おんりょう)が分離して、ダイアデムの前に立ちはだかった。
“皆の者、惑わされてはならぬぞ! 左様な世迷い言で、我らを騙(たばか)ろうとは笑止! この安らかなる闇の世界へ、虫酸(むしず)の走る光なぞを持ち込み、我らの眠りを妨げる者! おそらくは、白き翼の、悪しき者どもの手先であろう!”
 口の端から血を滴らせ、彼を指差す青ざめた死人は、貴族的な風貌をしていた。
 その理不尽な言いがかりに、魔界の至宝の化身はカンカンに腹を立てた。
「何だと、てめー! あんま長いこと、んな真っ暗いトコにい過ぎて、オレのことも分かんなくなっちまったのかよ、このとんちんかんどもが!」
 言うなり、その体が輝き出す。
『──とくと見よ! この瞳を見忘れたと申すか! 汝らが我を、“黯黒の眸”、“盲(めし)いた眸”両名と共に白亜の神殿へと奉(たてまつ)りし日を、我は、昨日のごとくに覚えておると申すに!』
 躍り出た巨大なライオンは、紅い瞳に黄金の炎をたぎらせ、体の金色の光がさらに強く輝き出した。
“おお、黄金の獅子!”
 シンハの輝きをまともに浴びた死霊は、一言叫んで退いた。
 他の亡霊達も、彼に恐れをなして右往左往し、しまいには人魂となって空中で目まぐるしく飛び交い、回転し、交差した。
『かつて、汝らが神同然に崇(あがま)いし我、“焔の眸”が、“カオスの貴公子”たる我が夫、フェレスの第二王子、ルキフェルを貰い受けに参った! 道を開けよ、亡者ども!』
 大混乱の中、シンハが朗々と響き渡る声で命じると、潮が引くように死霊達の気配が遠のいてゆく。
“静まれ、皆の者!”
 その声と同時に、新たな死人が一人、近づいて来た。
 身構えるシンハの前に進み出た死人は、胸に手を当て、軽く礼をした。
“彼らの無礼を許して欲しい、焔の獅子よ”
『ルキフェル……!?』
 燃え上がる炎の輝きに照らし出されたのは、シンハさえも思わず見間違えてしまうほど、サマエルに生き写しの青年だった。
 ただし、青年の短く刈られた髪や瞳は漆黒、肌も浅黒かったが。
 もし、ここに彼の最初の妻、ジルがいたなら、驚きに声を上げていたことだろう。
 なぜならこの青年の外見は、かつて南の島に新婚旅行へと出かけた際に、サマエルが変装した姿、そのものだったのだから。
“モト様、危のうございます”
 先ほど退いた死霊が戻って来て、青年をかばおうとする。
“大丈夫だ、この瞳をご覧、彼は『焔の眸』に宿る精霊だ。 我らに害をなすわけがない”
 青年は、かつての家臣を抑えた。
『おう、モトか』
 シンハは感慨深げに、アナテの夫にして息子、初代の紅龍を眺めた。
 モトもまた、サマエルに良く似た微笑を浮かべ、彼の揺らぐ瞳の炎を覗き込んだ。
“『焔の眸』よ、お前にやがて精霊が宿り、肉体を持つことになるということは、わが母にして妻、アナテから聞いていた。 お前はルキフェルと共に現れて、『紅龍の呪文』を覚えておくようにと、そして、わたしのそばにいるようにと言ってくれたそうだね”
 ライオンは、同意の印に大きく頭を揺すった。
 弾ける音を立てて紅い火の粉が飛び散り、緑の残像を残して消える。
『たしかに化身の一人が、夢飛行にてアナテに会った。 彼(か)のときは“フェレス”という名の女の姿であり、この風姿(ふうし)の我、シンハとは別の人格だったが』
“別の人格……フェレス……我らの種族の名を?”
 不思議そうに、モトは首をかしげる。
 そのしぐさもまた、サマエルに酷似していた。
『我が本体、“焔の眸”には現在、四人(よたり)の化身が宿っておる。 モトよ、長き年月が経った……汝が紅龍となり、アナテに討たれて死に、生き残りし者がここ、魔界に逃げ込んでのち、我らはもはや“魔族”になり果てた。 それゆえ、ルキフェル……汝の生まれ変わりは、真の種族の名を忘れたくなかったのであろう』
 モトは、周囲をぐるりと仰ぎ見た。
“そうか……この、三代目の紅龍は、我ら祖先を覚えていてくれようとしたのだな”
『そうだ。そして、我のみならず、ルキフェルの兄、現魔界王サタナエルは、弟王子を生け贄にはしたくないと考えておる。 弟と共に戦い、ウィリディスを取り戻したいと望んでおるのだ。 ルキフェルの犠牲の上に立つ勝利など、微塵(みじん)も喜ばしいとは感じられぬと』
“……そうだね。わたしもこれ以上、自分やアナテのように苦しんだり悲しんだりする者は出したくないな”
『左様に思うのであれば、ルキフェルを返してくれまいか』
 すると、モトは顔を曇らせた。
“そうしたいのは山々だが、もう手遅れかもしれない”
『それはまた、何ゆえ』
“ルキフェルは捕らえられているのだ、ある者に”
『紅龍にか?』
 青年は、否定の身振りをした。
“いや、もっと質(たち)が悪いものだ。 というより、あれはおそらく『神』に近き者……。 わたしは、道を示すことしかできないが、お前なら近づけるかもしれない。 『焔の眸』よ、お前自身も『神の如(ごと)き者』ゆえに”
 ライオンは、輝く瞳で青年を見据えた。
『……汝が近づけぬほど、力ある者ということか、モトよ』
“そうだ。 それゆえお前一人では、ルキフェルを取り戻すのは難しいかもしれない。 いずれにせよ、急がなければ”
 モトは先に立って歩き出した。

 7.夢の罠(4)

 初代の紅龍、モトが不安を口にするほど、サマエルを捕らえている相手の力は強大だというのか。
 未知なる敵に対する懸念を振り払うように、歩きながらシンハは巨体を一揺すりし、尋ねた。
『モトよ、ルキフェルがいる場所までは遠いのか』
“……姿を直接見たわけではないから、わたしもよく分からないのだよ、すまないが。 ただ、ルキフェルが、危機に陥っているのは分かる、その大体の方角も。 それゆえ、こうして案内を買って出たのだが……”
 突如、モトは言いやめて立ち止まった。
 激しい震えがその体を襲い、シンハは驚いて、彼を見つめた。
『いかが致した、モトよ』
 遥か昔に死んでしまった青年は肩を抱き、蒼白な顔で彼を見返した。
 動揺しているのは体だけではなく、瞳までもひどく震えている。
“やはり無理だ……これ以上は近づけない……すさまじい力……感じないか、シンハ?”
『むう……!』
 ライオンは空間の臭いを嗅ぎ、彼もまた、ぶるぶると体を揺すった。
 実は、シンハもすでに、その力は感じていた。
 姿も見えない相手から、これほどの脅威を感じるのは、長く存在してきた彼にとっても、初めての経験だった。
 しかし、肝心の相手がどこにいるのか、彼には感知できなかった。
 まるで周囲に張り巡らされた闇すべてが、それ自身でもあるかのように、謎の敵は異常に強い力を発散していたのだ。
『モトよ、汝の心持は分かるが、案内を急いではくれぬか。 ルキフェルの身が気がかりだ』
 シンハが懸念を口にし、促しても、モトは自分の思いに浸り込み、彼の言葉など、耳にも入っていないようだった。
“わたしは臆病者だ、生きていたときから。 アナテの後ろ盾なくしては、人々を束ねることもできなかった……。 わたしがこれほど脆弱(ぜいじゃく)でなかったら、アナテもわたし一人を、王として立てたことだろう。 あのとき……白き悪魔どもの侵略の折にも、彼女を守ることもできず……そして死んだ後も、わたしはこうして何もできないまま……こんな暗い闇の中を、目的もなく、ただ彷徨(さまよ)っているのだ、情けないことに……”
 言いながらモトは頭を抱え、ずるずるとその場にくずおれてしまった。
 その全身から、強い恐怖が匂って来る。
 困惑したシンハは、この心弱い青年をどうすれば奮(ふる)い立たせることが出来るかと、冷静に観察を開始した。
 こうしてみると、サマエルに似ているのは、外見や仕草だけのようにも思えて来る。
 こんなときサマエルなら、少なくとも目の前の危機を打破するまでは、非常に頼り甲斐のある存在でいることだろう。
 ただ、その期に乗じて、自分を抹殺するような方策を巡らしてしまうという困った癖があったが、それを除けば、敵の裏をかき、味方が優位に立つように画策するのは、得意中の得意と言ってよかった。
 だが、それも無理はなかったのかも知れない。
 あの破滅の日……天空の彼方からやって来た神族が、ウィリディスを侵略した日……まで、妻であり母であった女王アナテの庇護(ひご)の下、大勢の家臣や召使達にかしずかれて、何の苦労もなく暮らして来たモト。
 彼は、自分では何も考えず、すべてを人任せにして来たと言っていい。
 それに引き換え、生まれてすぐに母を失った上、命の危機に幾度もさらされ、さらには魔界からも追放されるなど、王子でありながら筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい辛酸(しんさん)をなめて来たサマエル。
 汎(はん)魔殿でも人界でも、彼に手を差し伸べてくれる者は皆無と言ってよく、どんな窮地に立たされようと、おのれ一人の力だけで切り抜けて来なければならなかった。
 そのために二人の危機管理能力が、天と地ほど開いてしまったとしても、仕方がないと言えた。
 彼らの相違はさて置き、サマエルもこうした状態に陥ることは、ままある。
 その場合の対処法として、一番適切だと考えられるのは……。
 心急(せ)くシンハが、苛々と思い巡らしていたとき、化身の一人が声をかけて来た。
“ねぇ、シンハ。わたくしと代わってくれない?”
“……フェレスか。なるほど、汝ならば、確実にモトを鼓舞(こぶ)出来よう”
“ええ。任せて”
“心得た”
 一声咆哮(ほうこう)し、シンハは輝き始めた。
“シンハ……!?”
 はっと我に返って、モトは顔を上げた。
 何が起こっているのか理解できずにいる彼の前で光が消え、ライオンがいたのと同じ場所に現れたのは、一人の美女だった。
 薄紫のドレスに身を包み、長い髪は赤紫色、瞳の中にはシンハ同様、黄金の炎が踊っている。
 化身が変身できることを知らなかったモトは、意外な事態に頬を赤らめ、口ごもりながら尋ねた。
“あ、あなたは……?”
 美女は、サマエルそっくりの青年に微笑みかけた。
「わたしはフェレス。“焔の眸”に宿っている化身の一人よ。 アナテが夢飛行で会ったのは、わたしなの」
“ああ、聞いていた通りだ、美しい……”
 うっとりと自分を見上げるモトの手を取り、彼女は言った。
「本当に、あなたはサマエルに似ているわ。 そう、彼の魂は、あなたと同じなのだものね」
“では彼もまた、わたしのように臆病なのだろうか……?”
「臆病というより、優し過ぎるんだわ、あなたも彼も。 サマエルときたら、兄を蹴る時だって、わざわざ裸足になってしまうのよ、靴で蹴ったら痛いだろうと」
“兄弟がいるのか、うらやましいな。 ……兄がいたなら、兄を王にして、わたしは自由になれたのに。 アナテだって、わたしなどを夫にしなくてもよかった……”
 彼は、フェレスの手を離してうなだれた。
「ねえ、モト。サマエルを助けるために、手を貸して。 道案内は、あなたにしかできないのよ、初代の紅龍のあなたが出来なければ、他の誰にも出来はしないわ。 お願い、頼れるのは、あなただけなの」
 フェレスは、祈るように手を合わせる。
“でも、わたしは……あ”
 ためらうモトに駄目押しするように、フェレスの眼から、涙がこぼれ落ちた。
 それは、落下していく間に煌きながら固まっていき、赤紫に輝く貴石となる。
“な、涙が!?”
 モトは驚愕し、急いで、落ちた涙を拾い上げた。
 彼の掌の上で、ダグリュオンは美しく輝き、辺りの闇でさえ、少し明るくなったようにさえ感じられた。
“とても綺麗だ……でも、どうして……?”
「わたくし達化身の涙は、すべてがこうした宝石になるのよ。 そのためにシンハは昔、ひどい目に遭ったりもしたけれどね。 でも、今はとても幸せよ、サマエルに救われ、彼と結ばれてから……いいえ、幸せ“だった”わ、わたくし達。 一月前、突然彼が眠りに落ち、目覚めなくなってしまうまでは……。 ああ、サマエル……このまま眠り続けていたら、生け贄にされて死ぬしかないのに……」
 フェレスは手で顔を覆い、しくしくと泣き出した。
 涙が、その白魚のような指の間から次々に滴り落ち、いくつもの美しい貴石と化して暗い空間で光を放つ。
“あ、あ、泣かないで、フェレス……だったね、分かったよ、わたしも逃げてばかりはいられないな。 立ち向っていかなくてはね、自分の運命に”
 そう言うと、モトは勇を振るって立ち上がった。
“さあ、泣きやんでおくれ、フェレス。 急ごう、サマエルを助けなければ。こっちだよ”
 モトは先に立って闇の中を進み始めた。
「ええ、お願いね」
 この青年もサマエル同様、女性に頼られると嫌とは言えないらしい。
 自分の予想が当たったことにほっとし、フェレスは急いでその後を追った。
 安堵の息をついたのは、他の化身達も同じだった。
“ま、サマエルが、お前を創ったんだしな。 やっぱモトも、お前のこと好みなんだろぜ”
 ダイアデムが言う。
 フェレスは懸命に、モトの背中を追いかけながら答えた。
“そのようね。 でも、いくら弱っていてもサマエルは『紅龍』、その彼を一月も捕え続けているなんて、一体何者なのかしらね?”
“んー……あ、気をつけろ、そろそろ着くぜ。 すっげーやばい感じが、近づいて来てやがる”
“本当、ものすごく危険な感じね。何なのかしら、これ……?”
“分かんねー。けど、マジやばいぜ、こりゃ”
 “焔の眸”の化身達は、そろって戸惑いを抑えられなかった。
 今までに一度も感じたことがない、ひどく変わった感覚に彼らは捉えられていたのだ。
 謎の敵が、掛け値なしに強大な力を持っているということだけは分かるのだが、その正体は、想像することも出来なかった。
“我と代わるがよい、フェレス。汝は攻撃力、防御力共低い。 何者か知らぬが、襲われたなら、身を守ることは難しかろうぞ”
“分かったわ”
 走りながらシンハと交替しようとしたフェレスは、いきなり足を止めた。
 その顔から、みるみる血の気が引いてゆく。
“で、できないわ、動くことさえも! わたし達、敵の力に捕らえられてしまったのよ!”
“これはしたり! ……むう、まこと、苛烈(かれつ)なる力よ”
 変化(へんげ)を阻まれ、シンハが唸(うな)る。
“くそっ、まずいことになっちまったぜ、一体どんな野郎なんだ!?”
 ダイアデムが叫んだその刹那。
 突如、爆発が起きたかのように、白い光が空間に満ちた。
「……っ!?」
 声なき叫びを上げ、反射的にフェレスは顔を覆う。
 今まで真っ暗闇の中にいただけに、突然の光は、眼に何かが突き刺さったような、鋭い痛みを感じさせた。
 同時に、あちらこちらに浮遊していた死霊達の気配が、一瞬で完全に消滅したのを、化身達は見るともなく感知した。
 とっさにフェレスは身を硬くしたものの、何かが襲いかかって来るような事態にはならなかった。
 徐々に薄目を開けて眼を明るさに慣らし、周囲の様子をうかがってみる。
 モトは、彫像のように動きを止めていたが、他の死霊達のように消えることはなく、彼女の少し前方に存在していた。
“モト、大丈夫?”
 口を利くことが出来ないので、フェレスは念話を使い、声をかけた。
“な、何とかね。 ほら、あそこをご覧。サマエルがいる。あいつに捕まっている、のだよ……”
 モトは、必死に手を伸ばし、前の方を指差した。
 さすがに初代の紅龍、彼は、ごくわずかだが、このすさまじい力に対抗して、動くことが出来るようだった。
“あいつって? 何も見えないわ”
“光でよく見えないかも知れないが、あそこにいるのは確実だ。 サマエルはぐったりしていて、もう腰から下は、あいつに飲み込まれている……さっきから呼びかけているのだが、もう意識がないようだ……”
“ええっ! サマエル、どこ!? 起きて、サマエル! 答えて!”
 フェレスは念話で呼びかけつつ、必死に眼を凝らし、モトが指差しているものを見定めようとした。

 8.光中の闇(1)

“落ち着いて。ルキフェルの存在だけに意識を集中すれば、キミにも必ず見えるはずだよ、頑張ってご覧”
 そう励ますモトの黒い瞳は、猫のように虹彩が細長くなっていた。
“分かったわ”
 フェレスは赤紫の眼を細めて意識を集中させ、眩(まばゆ)い光彩(こうさい)の中を凝視した。
“──いた! 見えたわ! サマエル!”
 網膜が焼きついてしまいそうな光の洪水の只中に、サマエルはいた。
 しかし、かろうじて見分けられたのは顔を含む上半身だけで、いくら眼を凝らしても下半身は見えない。
 飲み込まれつつあるというのは、やはり本当なのだろうか、信じたくはないが……。
 まつわりつく嫌な考えを振り払い、フェレスは念話を送った。
“サマエル、眼を覚まして! 起きてよ、サマエル!”
 祈りにも似た、悲痛な彼女の叫びが届いているのかどうか、サマエルは微動だにせず、眼を明けることもない。
 心の中に入り込み、こうして呼びかけているというのに……。
 一体何が、ここまで強く彼を呪縛しているのだろう。
 せめて、もう少し近づくことができれば、たとえ敵の正体は判明しなくとも、自分の声を、サマエルに届けることができるかも知れないのに。
 彼女が唇を噛んだそのとき、何者かの思念が、光輝の最中(さなか)から二人に届いた。
“侵入者よ、汝(なれ)は、もはや時機を失した。 餌食(えじき)たる紅龍を得て、吾(あれ)は現世へと顕現(けんげん)し、吾を次元の狭間より召喚致せし魔導師との契約は、いよいよ成就(じょうじゅ)致すのだ”
“サマエルが餌食!? お前を召喚した魔導師って……いいえ、それよりもまず、お前は一体、何者なの!? 名乗りなさい!”
 フェレスは恐怖心を押さえ、詰問した。
“此(こ)は喫驚(きっきょう)な。 汝(なれ)は、かつて吾を呼び出(い)だしたる彼(か)の魔導師に、肖似(しょうじ)致しておる……神奇(しんき)なことよ。 否(いな)、似通っておるは姿形に非(あら)ず、内面に燃ゆる炎の有り様か”
 輝きの中から、重々しい答えが届く。
“どうでもいいわ、それより早く、サマエルを自由にしなさい!”
 直視できないほど強烈な光の中にいる相手を、それでもフェレスは、睨みつけずにはいられなかった。
 謎の存在を召喚したという魔導師のことも気にはなったが、今はサマエルを取り戻すことが先決だった。
“ふむ、実際の声音(こわね)も、耳にしてみたいものだ。ならば少々……”
 直後、フェレスを抑えつけていた途方もない力がごくわずか緩み、どうにか唇だけは動かせるようになった。
「サ、サマエルを、放し、て!」
 彼女は、懸命に声を絞り出した。
 謎の存在は、笑いにも似た思念を返して来た。
“思うた通りに、良き声音よ。されど紅龍は、もはや粗方(あらかた)、吾(あ)が体内へと吸収されておるが”
「う、うるさいわ、お前が何であろうと構わない、今すぐに、サマエルを返して!」
 必死にフェレスは声を張り上げる。
“くく、活(い)きが良いの。 吾(あ)が真なる風姿を眼前にしても、左様な大口をたたけるものやら。 どれ、吾が眩耀(げんよう)の衣(きぬ)を、取りのけてくれようか”
 謎の存在がそう告げると、眼に突き刺さるようだった強烈な光が、徐々に弱まり始めた。
 そして、明るさが外の世界の昼間と同程度になったとき、フェレスの眼に真っ先に映ったのは、捜し求めていたサマエルの姿だった。
「ああ、サマエル!」
 安堵したのも束の間、彼の体がかなり高い位置にあり、しかも下半身は、ごつごつとした岩に挟まれていることに彼女は気づく。
 彼を捕らえていたのは、天を突かんばかりに巨大な岩山だったのだ。
 それは、青や銀、茶など様々な色の鉱物で構成されており、その間から時折、熾火(おきび)のような鮮紅色の煌(きらめ)きが覗いていた。
「な、何? この、山みたいな鉱物の塊(かたまり)は……!?」
“この岩山が、敵の正体なのか!?”
 自身も宝石の化身とはいえ、想像外の事態に、フェレス、そしてモトもまた、眼を見張っていた。
“吾は岩には非(あら)ず、山にも非ず。篤(とく)と見よ、吾が真の風姿を!”
 苛立った思念が、二人の頭の中に轟(とどろ)き渡る。
“くっ……!”
 とっさにモトは頭を押さえ、それから、はっと息を呑んだ。
“ああ、分かったぞ! ルキフェルを飲み込もうとしているところが、口の一つなのだ、そして……”
「口の一つ? あ、動けるわ!?」
 フェレスも痛みを感じて頭に手をやり、体の自由が利くようになったことを知った。
 輝きが薄らいだことで、彼らを拘束する力が弱まったようだった。
“相手が大き過ぎて、全体像がつかめないのだな。 フェレス、もっと距離を取れば、キミにも判別がつくはずだ”
「ええ」
 モトの言葉に従い、フェレスは足早に後ろに退いた。
「あ、ああ……龍だわ、これは大きな龍なのね!」
 あまりに巨大で、ただの岩山としか見えなかったものが、こうして全体を見渡せるところまで離れて初めて、彼女にも相手の形状が把握できた。
「でも、この龍、一体何なの? なぜ、サマエルを捕まえてるのかしら?」
“これが紅龍というのなら、まだ分かるのだが……”
 二人は困惑し、顔を見合わせた。
 紅龍はその名の通り、紅い鱗(うろこ)に覆われた龍である。
 しかし、今彼らの目の前にいる、まるで鉱物そのものが命を持ったかのような巨大な龍は、何もかもが紅龍とは異なっていた。
“……ふむ。存外、吾は知られておらぬか。 膾炙(かいしゃ)と豪語しておったは、吾が驕(おご)りであったのか”
 龍の思念が、ほんのわずか、落胆の響きを帯びる。
 しかしそれも束の間、巨大な龍は気を取り直したように、サマエルをくわえている以外の三つの首をもたげ、四対の眼を同時に明けた。
 瞳の色はすべて銀、そして頭部はそれぞれ別の色……黒、紅、朱、碧色をしていた。
「四色の頭……ま、まさか、お前は!?」
 驚きに声を詰まらせるフェレスに向けて、龍は宣言した。
“吾は、唯一無二にして全(まった)き龍、生滅変転致す現象の背後にありて、常住不変の実在! 然(しか)して、吾が名は『火閃銀龍』なり!”
「か、火閃銀龍ですって!?」
 思わず、彼女は顔色を変える。
「で、でも、なぜ、お前がサマエルの中にいるの? それに予言は変わった……もう、出番はなくなったはずだわ」
 フェレスの言葉に、モトは弾かれたように彼女を見た。
 “この龍が出て来る予言があるのか!? それが変わった……?”
 魔界王家の紋章となっている火閃銀龍は、紅龍を制御できる唯一の存在とされ、その予言は、汎魔殿の礎(いしずえ)である要石に彫り込まれていた。
『──永劫(えいごう)の刻(とき)の果て、四ツ首の火閃銀龍、覚醒したりなば、対の眼(まなこ)を瞠(みは)りて、蒼(あお)き大地にて祈りを捧げよ。 さすれば、天地(あめつち)に棲(す)まいし者、悉(ことごと)く我らが力となりて、那由多(なゆた)の刻、平安を貪(むさぼ)りし仇敵(きゅうてき)を討つ。 白き翼と黒き翼、雑(ま)じりし刻にこそ、宿願は叶い、凶(まが)つ影取り払われ、我ら呪いより解き放たれん──』
 この序文の下に、紅龍となるべき者の資格、火閃銀龍に変化(へんげ)する王の条件、儀式の方法、惑星の位置等が謎めいた文章で記されていた。
 それによると、紅龍は火閃銀龍の餌(えさ)であり、生け贄の儀式において紅龍の心臓を食らった王が、伝説の龍へと変化する。
 この無敵の龍の力により、魔族は神族との戦に勝利し、故郷ウィリディスを奪還できるとされた。
 だがこの“要石の予言”は、モトの時代には存在しなかった。
 それでも、敵による侵攻は、偉大な予知者の一人によって予知され、紅龍を呼び出す呪文も遺(のこ)されてはいたが、侵攻の時期は明確になっておらず、フェレス族が平和主義だったこともあって、アナテがその封印を解くまで、呪文は忘れ去られ、ひっそりと神殿の奥に眠っていたのだった。
「ああ、あなたは知らないのよね、モト。 ほら、紅龍を召喚すれば、味方にも被害が出てしまうでしょう? それに、神族が攻めてくるたびに、紅龍が死ななくちゃいけないのも痛いわ、王族の血筋を継承するという意味でもね。 だからあなたの子孫達は、様々な術を模索し、紅龍を制御できる存在、“火閃銀龍”を召喚する方法の発見に成功したの。 この龍さえいれば、必ず神族に勝てると言われていたわ。 でも、サマエルの母が死ぬ間際、女神の言葉として、新しい予言を伝えたのよ」
“新しい予言? ルキフェルの母君が?”
「ええ。その予言では、火閃銀龍がいなくとも、四頭の龍が力を合わせて戦えばいい、そう解釈できるのよ。 現魔界王タナトスとサマエルが、朱龍と碧龍を従えて立ち上がれば、神族との戦いに勝てるはずだと。 それだから、もう紅龍……サマエルを生け贄にする必要はないのだと思い、わたくし達はほっとしていたのに」
 そのとき、不服そうな龍が口を挟んで来た。
“気随(きずい)な真似を。 それゆえ吾が熱願(ねつがん)を伝えんと、現魔界王の赤子へと宿ったのだ。 なれど、脆弱(ぜいじゃく)なる彼(か)の赤子は、生まれ出(い)ずるやいなや、忽(たちま)ち不帰(ふき)の客となった”
「えっ、では、タナトスの子は、お前のせいで死んだと言うの!?」
 フェレスが驚くと、火閃銀龍は、否定の思念を送って来た。
“否。吾は、赤子を生かそうと試みた。 なれど、吾が力を以(も)ってしても、運命は如何(いかん)ともし難(がた)し。 彼(か)の赤子は、元より死ぬ定めであったのだ”
「そう……。 タナトスは『もはや予言など不要だと知らしめるために、あの子は生まれてきたのかもしれない』と言っていたけれど、そうではなかったのね。 でも、お願い、火閃銀龍。わたくしは……わたくし達は、サマエルを死なせたくないの。 彼を返して。そして、次元の狭間とやらへ帰って」
 フェレスは、祈るように指を組み合わせた。
 しかし返って来たのは、またも否定的な心の声だった。
“左様なわけには参らぬ。 第一、彼(か)の魔導師との契約を果たさねば、吾が帰還も叶わぬ。 今のまま実体を持つことも叶わず、幽鬼のごとく彷徨(ほうこう)するのみ。 それゆえ、吾は須(すべから)く、紅龍を食せねばならぬのだ”
「でも、女神は、予言はひずんでしまったって……それに、タナトスに関する予言は外れているし、朱龍や碧龍の存在も、要石の予言には……」
“もはやこれより先の問答は無用!”
 フェレスは新しい予言について説明しようとしたが、火閃銀龍は聞く耳を持たず、三つの口から黒と朱と碧色の光線を吐いた。
「待って、火閃銀龍!」
“危ない!”
 モトが彼女をかばい、かろうじてそれをかわす。
“フェレス、加勢を呼んでおいで。 それまでは、わたし一人で何とかするから”
「えっ、一人では無理よ」
“いいから、早く!”
「分かったわ!」
“『黯黒の眸』よ、わたくしを連れ戻して!”
 フェレスは、ニュクスに呼びかけた。

 8.光中の闇(2)

“相分かった”
 その返事と同時に、フェレスは現実世界に戻っていた。
「た、大変よ、サマエルが捕まって……」
 慌(あわただ)しく話し始めた彼女の胸元を、タナトスはつかみ、揺さぶった。
「捕まっている!? 誰にだ!」
「嫌、苦しい、放して」
 フェレスはもがく。
「我が兄弟を放せ、タナトス。それでは話も出来ぬ」
 二人の間にニュクスは割り込み、フェレスを救い出して尋ねた。
「“焔の眸”よ、サマエルを捕らえているとは何者か?」
「お、驚かないで聞いて。相手は、あの、火閃銀龍なのよ!」
 フェレスは息を弾ませ、答える。
 思いもよらない名前が出たことで、タナトスは眼を剥(む)いた。
「な、何ぃ、火閃銀龍だとぉ!? たしかか!」
「ええ、そう名乗っていたわ。それに、あんな巨大な龍が、他にいるとは思えないし」
「ふうむ、火閃銀龍とはまた、厄介な。 ともかく詳細を聞かせよ、“焔の眸”」
 冷静な兄弟石の言葉に促されて、フェレスは息を整え、話し始めた。
「まず、内部に入ったら、やはり魔族の怨霊達が現れてね。 押し問答していると、初代の紅龍モトが出て来て彼らを諌(いさ)め、サマエルのところへ案内してくれたのよ」
「……モト。アナテの息子であり、夫でもあった……彼(か)の者もまた、カオスの闇に堕(お)ちておったか」
 “黯黒の眸”の化身は、感慨深げにつぶやく。
「そんなことはどうでもいい、続きはどうした!」
 タナトスが荒々しく叫び、フェレスは急いで話を続けた。
「サマエルは、火閃銀龍に飲み込まれそうになっていたわ。 闘おうにも、すさまじい力で変化(へんげ)は阻止され、話し合おうとしても、耳を傾けるどころか、攻撃して来て。 モトは今、一人でサマエルを守ろうと頑張ってくれているわ。 だから一緒にに来て、タナトス」
 フェレスは、かつての主の手を取った。
「分かった、行ってやる」
 当然のように身を乗り出したタナトスに向け、ニュクスは言った。
「待て。おぬしのみでは対抗できまい、相手が火閃銀龍ともなれば。 他の龍、朱と碧龍も連れて行かねばなるまい」
「そうだわ、シュネの呼び声なら、サマエルを目覚めさせることができるかも知れない!」
 そう言うと、ニュクスの体は輝き出す。
 現れたのは、紅毛の少年だった。
「オレが呼びに行きゃシュネは……あ、っつっても、まだ彼女にゃ、魔族云々(うんぬん)の話はしてねーんだっけ。 びっくりするだろーし、どうすっかな」
 ダイアデムは腕組みをした。
「この際だ、すべてを聞かせておいたがよい、いずれ否応なく知ることとなるのだ。 疾(と)く碧龍を連れて参れ。事は一刻を争う」
 ニュクスの言葉に、ためらっていたダイアデムもうなずいた。
「そーだな。んじゃ、タナトス、お前はリオンを呼んで来てくれ」
「分かった。ニュクス、お前はここにいて、サマエルを見ていてくれ」
「心得た。気をつけてゆけ、二人共」
「ああ」
「じゃな!」
 ダイアデムとタナトスの姿は同時に消える。

         *        *        *

「……火閃銀龍、か」
 人界の魔法陣から出て、“焔の眸”の化身と別れたタナトスはつぶやいた。
 別れ際、ダイアデムは彼に、サマエルの精神内部での体験を見せてくれた。
 その中で火閃銀龍は、自分の願いを伝えようと、彼の子供に宿ったと言っていた。
 生かそうと試みたが、赤ん坊は死ぬ定めだった、とも。
 彼がまだ王子だった頃、クニークルスの女性、フィッダが産んだ奇形児。
 背中で融合した二つの体、頭は四つ、瞳はそれぞれ別の色……黒、紅、朱、碧(みどり)色をしていた。
 そして『父よ、我は“火閃(かせん)銀龍”の化身。予言はひずみ、生まれ出(い)ずることあたわず』、そう言い遺して、死んだのだった。
(くそ、火閃銀龍め、いくら死ぬ運命だったとしても、勝手に俺の子に宿っただと……? それにだ、ヤツは本当に、子供を生かそうとしたのか? どう見ても、あの赤ん坊の姿は火閃銀龍を具現化したようだったぞ。 あやつが宿ったせいで、俺の子は死んだのではないのか?)
 タナトスは、ぎりりと歯を食いしばった。
「……まあいい、ヤツを吊るし上げ、口を割らせればいいことだ! ──ヴェラウェハ!」
 決意を口に出すと気分も落ち着き、タナトスはファイディー城に向かった。
“おい、リオン。俺だ、タナトスだ。 サマエルが危機に陥っている、貴様の助けが必要だ。 門の前にいる、急ぎ出て来い”
 城門の前で、彼はリオンに呼びかけた。
“え、えええっ!? ちょ、ちょっと待ってて下さい、すぐ行きます!”
 焦った返事が聞こえて来て、すぐに茶髪の少年が現れた。
「タ、タナトス伯父上、父さんが危機って!?」
 サマエルを父と呼ぶことに決めてから、リオンは、タナトスを伯父と呼んでいた。
 タナトスは無言で、少年の額にいきなり指を二本、押しつけた。
「えっ、な、何……!?」
 説明が面倒になった彼は、ダイアデムに見せられたことを、面食らうリオンにそのまま送ったのだった。
「わ、分かりました、急がなくちゃ、父さんが危ないんですね」
 青ざめた顔で、リオンは言った。
 少年の腕をわしづかみにし、心急くままタナトスは呪文を唱えた。
「行くぞ、 ──ヴェラウェハ!」
 一方、魔法学院に着いたダイアデムも、頭をひねっていた。
「……っと、何て言やいーかなぁ。 “黯黒の眸”は、全部話しちまえって言ってたけど……。 あーもー、ンなトコで、うだうだしててもしょーがねー、当たって砕けろだ!」
 心を決めた彼は、シュネに念話を送った。
“シュネ、オレだ、ダイアデムだ。 サマエルがヤバいことになっててさ、キミの助けが必要なんだ、一緒に魔界へ行ってくんねーか? 門のトコにいるから、すぐ出て来てくれ”
「ダ、ダイアデム! サ、サ、サマエル様が、や、やばいって、ど、どういうこと!?」
 一瞬後、赤みがかかった金髪の女性が、彼のそばに出現していた。
 彼女は焦ると、どもってしまう癖があるのだった。
「あ、あのよ、話せば長くなっちまうんだけど……」
 ためらう彼に、シュネは緑柱石の眼を向け、不思議そうな顔をした。
「ど、どうしたの、い、急ぐんじゃ、ないの?」
「えーと……実はな、キミに、その、色々言ってないコト、あってさ……。 うー、くそ、めんどくせー、オレの記憶、見てくれ!」
 ダイアデムは彼女の手を取り、タナトス同様、まずは、サマエルの内部世界での出来事を見せた。
 それには数分を要した。
「た、大変、や、やっぱ、い、急がなきゃ!」
 叫んだシュネの手を、ダイアデムは放さず、言った。
「待ってくれ、キミにはもう一つ、見せなきゃいけねーんだ」
「え、もう一つ?」
 不審そうな彼女の眼を、“焔の眸”の化身は見返すことができずうなだれた。
「……ああ。 キミが腹立ててもしょうがねーけど、でも、それでも、一緒に来て欲しいんだ、これ見ても」
「わ、分かった。と、とにかく見せて。 は、早くしなきゃ、いけない、んでしょ」
「ああ」
 第二の記憶を見せ終わるには、数秒しかかからなかった。
 それは、シュネを魔法学院に送っていったダイアデムが帰宅した直後の、彼とサマエルの会話……そのごく一部分だった。

            *     *     *

 記憶の中で、ダイアデムは言っていた。
「けど、血筋のこと、シュネに言わなくてよかったのか? もう戻らねーかもしんねーぜ、彼女」
 サマエルは否定の仕草をした。銀の髪が、朝日を浴びて煌く。
「いや、必ず戻って来るさ。いずれ彼女も気づくだろう、自分が、普通の人間とは決定的に違うということに。 もう、薄々感じているかも知れないが」
 紅毛の少年は肩をすくめた。
「何で教えてくれなかったんだ、って恨まれちまうかもな」
「そうだね。ただ、短い間でも彼女には、普通の女性として生きて欲しかったのだ」
「でも結局は、魔界と天界との戦に巻き込んじまうことになるんだろ?そん時になって、今までの生活を捨てて戦えって、酷くねーか?」
 サマエルは眼を伏せた。
「たしかに辛いところだが、彼女が魔族として覚醒すれば、人間の中で普通に暮らすことは難しい。成長速度も、人間とは違うしね」
「たしかにな」
「彼女は、我ら魔族の幸運の女神、存在そのものが周囲の者の心を和ませ、未来に明るい希望を持たせてくれる。 真実を告げなかったのは、彼女への、ほんのささやかなお礼なのさ。 恨まれてもいい、彼女には、一つでも多く素敵な思いをさせてやりたい。 思い出すたびに心が温かくなるような思い出を、人間の中でたくさん作って欲しいから」
 ダイアデムは、にっと笑った。
「心配いらねーよ、シュネは明るくって強い。 何があっても、めげやしねーさ。お前よりもジルに似たんだな」
「そうだね。 これで念願の四龍が揃い、ついに我らは、朱の貴公子とエメラルドの貴婦人を加えた最強の力を手に入れた。 運命の時はもう、すぐそこまでやって来ている……」
 魔族の王子は、未来に思いを馳せるように遠い眼をした。
「予言通りなら、今度こそ魔族は天界に勝利できるってわけか」

           *     *     *

 そこでいきなり記憶は途切れ、シュネは現実に引き戻された。
「つまり、キミは魔族で、そんで、サマエルの子孫なんだ……リオンと同じく、さ」
 ダイアデムが、おずおずと付け加える。
 それに答えるシュネは、意外なほど冷静だった。
「へえ、そうなんだ。 まあ、何となく、そんな気はしてたんだよね……サマエル様の子孫てのは、さすがに予想外だったけど。 でも、やっぱり、もっと早く教えて欲しかったな」
「いや、だから、サマエルは、キミに幸せになって欲しいって思って……」
「うん、気持ちはうれしいんだけど。 あたし、人界じゃ、あんまりいい思いしてなくて。 この姿になっても、違和感ありまくりで……周りの人達が、急にちやほやして来んのも、何だかさ……」
 シュネは、大きなため息をついた。
 そんな彼女を、ダイアデムはちらりと見た。
「鬱陶(うっとう)しい、ってか?」
「……そう、かも。だから、あんまり人界に未練ないんだ。 それよか早く、サマエル様を助けに行こうよ」
「ああ。けど、そんなに居心地悪いんか、ここ」
 彼は学院の建物を指差す。
「居心地悪いっていうか、ここは自分の場所じゃない、って感じ? その訳がようやく分かったよ、あたし、人間じゃなかったんだ……あ、そんな顔しないで、ダイアデム。 これでもうれしいんだよ、すごく。 あたし、自分が何か分かんなくて、ずっと心細かったんだ。 けど、あたしは魔族で、しかも、サマエル様の血を引いてるんだよね。 なんかさ、すっごくうれしいよ」
 シュネは微笑み、“焔の眸”の化身は、ほっと胸をなで下ろした。
「そんじゃ、行こうか」
 ダイアデムは、手を差し出す。
「うん……キミに惹(ひ)かれたのも、そのせいだった……んだね」
 その手をそっとシュネは取り、二人は魔界へと向かった。

 8.光中の闇(3)

 碧龍シュネを連れたダイアデムが、サマエルの部屋に現れると、数分早く到着していたタナトスは、彼を睨みつけた。
「遅いぞ! 貴様、何をもたもたしておったのだ!」
「ご、ご免なさい、あたしが……」
 言いかけるシュネをかばい、ダイアデムは前に出た。
「いや、オレが悪いんだ、説明に手間取っちまってさ。 ンなコトより、早く行こうぜ」
「落ち着け、タナトス。妾(わらわ)も共に参るゆえ」
 ニュクスがなだめ、ダイアデムと一緒にその姿が輝き出す。
 一瞬後、黄金に輝く巨大なライオン、次いで夜色をした豹……双方共に、人界の獣の倍はある……が現れ、皆を驚かせた。
 シンハさえもが顔をこわばらせて、黒豹を凝視する。
「な、何だ、この豹は!? まさか、貴様、テネブレか!? どうやって封印を解いた!」
 中でも、タナトスが最も驚いていた。
 彼は、凶悪な化身であるテネブレを封じたことで安心し、これでもう“黯黒の眸”を伴侶にする上での障害は、すべて取り除かれたと思い込んでいたのだ。
 プロケル公爵の息子で、今は公爵の位を継いでいるカッツが、この獣を見たなら、恐怖に震え上がったかも知れない。
 この姿は、かつて“黯黒(あんこく)の眸”が、まだサマエルの弟子だったジルを異界に拉致(らち)したときに、カッツを脅し、従わせるために取った形態だった。
 唖然(あぜん)として、黄金のライオンと漆黒の豹を見比べているうちに、魔界王は、以前、“焔の眸”の化身が主張したことを思い出した。
 ダイアデムは、神族との戦いを目前にした今だけでも、テネブレを封じておくべきだと言い張ったのだった。
 なぜかと問い返す彼に、少年は答えた。
 モトの最初の生まれ変わりであったベリアル王は、テネブレの企みにより、殺害されてしまったのだと。
 ベリアルはシンハを寵愛(ちょうあい)し、王妃を娶(めと)ってからも、公然と寝所に連れ込んだりした。当然、王妃はそれを快く思わなかった。
 テネブレはその嫉妬心に付け込み、彼女を操って、“焔の眸”を宝物庫に戻させた。
 一旦は眠りについたシンハが異変に気づき、駆けつけたときはすでに遅く、家臣の一人と結託した王妃に、ベリアルは毒殺されてしまっていたのだった。
 そんなことまで……と驚く彼に、ダイアデムは重ねて言った。
 平和になってからも、寝首をかかれたくなかったら、テネブレは眠らせておいた方がいいのではないかと。
 そこで魔界の王は、とりあえずテネブレを封じることにしたのだった。
 だが、それがこうも早々と封印を解き、出て来られてしまうとは……。
 正式な披露(ひろう)こそまだだったものの、どうにか家臣達に“黯黒の眸”との関係を黙認させるところまで漕ぎ着けたところだったのだ。
 それなのに、テネブレにまたも封印を破られたとなれば、家臣達の反対を抑えて、“黯黒の眸”を王妃に据えることは難しくなり、またも日陰の身に戻さなければならないだろう。
 命の瀬戸際まで追い詰められた挙句、ようやく最愛の者を手に入れることができたと思ったのに、すべてが水の泡となってしまうかも知れないのだ。
 予想外の出来事に、タナトスは動揺していた。
 そんな彼の心を知ってか知らずか、紅い口をカッと開け、黒い獣は答えた。
『否。テネブレの封印は未だ解けてはおらぬ。 他人(あだびと)を機(わかつ)るテネブレとは異なり、我は、干戈(かんか)を司(つかさど)る者。 此度(こたび)、彼(か)の者が封じられたゆえ、独立した個人性を有することと相なったのだ』
(独立した個人性……戦いを司る者? シンハと同じということか? 生意気にも、テネブレごときと自分を一緒にするな、と言いたげだが。 それにしても、“黯黒の眸”の中に、まだ、こんな化身がいたとは……。 ──くそ、面倒な! 火閃銀龍と一戦交えねばならんという、危急存亡(ききゅうそんぼう)の秋(とき) に!)
 魔界王は歯ぎしりし、黒豹に指を突きつけ、シンハを睨みつけた。
「貴様は知っていたのか、こいつのことを! 何ゆえ、俺に黙っていた!」
 魔界のライオンは、否定の身振りをした。
『我もその化身は初見だ。名も知らぬ』
「何ぃ、俺に嘘をつく気か、貴様!」
 タナトスは、思わず声を荒げた。
 しかし、知っていたならシンハは正直に言うだろうし、何よりベリアル王の前例がある。
 陰謀を好むテネブレのこと、化身の一つや二つ、兄弟に隠れて所有するなど、造作(ぞうさ)もないことだろう。
 そう思い直した魔界王は、闇色の獣に向き直った。
「……まあいい、詳しくは後で聞いてやる。貴様、名は何という?」
 豹は黒い頭を横に振った。
『テネブレより分かたれしばかりの身ゆえ、我は未だ、おのれ自身の名を持つに至ってはおらぬ。我はただ、敵対する者と戦うのみ』
「何、名無しだと……?」
 タナトスはさらに驚いて、こんどこそじっくりと獣を眺めた。
 ジルをさらった当時、この豹の眼は、テネブレ同様、洞窟の闇も同然に、ひたすら暗く、不気味な雰囲気を醸(かも)し出していた。
 しかし現在は、かつての禍々(まがまが)しさは完全に消えてしまっており、眼自体も、漆黒の虹彩(こうさい)の中央部に、金色(こんじき)に輝く丸い瞳孔(どうこう)を持つように変化している。
 以前の姿を知らないタナトスは、今ここにいる獣に対して、嫌悪の情は感じなかった。
 それどころか、この黒豹の精悍(せいかん)さに惹きつけられ、好ましい感情が湧いて来るのを覚えるほどだった。
「ふん、たしかにヤツとは別の人格のようだな。ならば、俺が名をつけてやる。 そうだな……“カーラ”というのはどうだ。
 黒、暗黒、死を意味する名だ。我が妻に、ふさわしい名だろう」
『カーラか。良き名を頂き、恐悦至極(きょうえつしごく)に存ずる、我が君主サタナエルよ』
 黒い獣は、うやうやしく頭を下げた。
 魔界の君主は、豹の眼を覗き込んだ。
「それはいいとして、もう、俺に隠し事をするなよ!」
 叱責(しっせき)口調で言い捨ててから、彼は、相手が生まれ立ての化身であることに思い至り、少し抑えた口調で言い直した。
「……いや、これでもう、俺の知らん化身はおらんだろうな、“黯黒の眸”」
 黒豹は真っ直ぐに彼を見据え、淀(よど)みなく答えた。
『おらぬ。おぬしが望まぬ限りは』
「ならばよし」
 タナトスは心からほっとし、親愛の情を込めて豹の頭を軽くたたいた。
 獣はそれに応え、ごろごろと喉を鳴らしながら、彼の手に頭をこすりつける。
 その仕草は、まるっきり猫と同じと言えた。
 ニュクスでの手酷い失敗を教訓としたお陰か、今回、この化身との信頼関係の確立にはすんなりと成功したようだった。
(また一からやり直し、などはご免だからな……まあ、でかい猫を一匹飼うことにしたと思えばいいか。 テネブレよりは、飼い慣らしやすそうだ)
 タナトスはつぶやいた。
 彼らのやり取りを気遣わしげに見ていたシンハは、安堵したようにたてがみを揺すり、口を開いた。
『閑話休題(かんわきゅうだい)、相手は名(な)にし負(お)う火閃銀龍、されど、ルキフェルは、驪龍(りりょう)頷下(がんか)の珠(たま)。 皆、努々(ゆめゆめ)気を抜くでないぞ!』
 次の瞬間、二頭と三人は、サマエルの精神内部に着いていた。
「うわ、真っ暗だ……あ」
 思わずリオンは声を上げ、慌てて口を押さえる。
「ホント、何も見えないわ。……シンハ、怖いよ」
 シュネは小声で言って身震いし、ライオンにしがみついた。
「ふん、たしかに暗いな、この俺でさえ、先がまったく見通せん。 シンハがいなかったら、身動きが取れんところだな」
 森閑(しんかん)とした闇の中、常日頃豪胆(ごうたん)なタナトスでさえ、切迫するような気味悪さに、鼻を鳴らさずにはおれなかった。
 身の毛もよだつこの濃密な闇の中で、晴れやかな顔をしているのは、新しい名前をつけてもらったことで機嫌がよく、また“カオスの闇”に慣れ親み、こよなく愛しもする、“黯黒の眸”の化身だけだった。
『尸林(しりん)の如(ごと)く、欣快(きんかい)なる闇よ』
 カーラは、楽しげに喉を鳴らしていた。
『怯えるでない、ベリル。 誓って、汝(なんじ)は我らが守護致すゆえ』
 こちらも“黯黒の眸”同様、闇を恐れない“焔の眸”の化身は、シュネの頬をぺろりとなめた。
 ライオンのたてがみは、闇中に赤々と燃え上がり、彼女の眼にも反射して、明るく輝かせていた。
 それでも光が届くのは、シンハがいる周辺だけで、後は深い闇が果てしなく続くのだった。
「そんなことより、サマエルはどこだ?」
「そうだ、サマエル様はどこ?」
 タナトスとシュネが、同時に尋ねた。
『今少し進んだ先だ。なれど、我らに気づけば火閃銀龍が力を揮(ふる)い、皆、打ち揃って捕縛されてしまうやも知れぬ。 “黯黒の眸”よ、汝が隠形(おんぎょう)の術を用いて、我らの風姿を晦(くら)ますがよい』
 シンハは答え、兄弟を促す。
『心得た、“焔の眸”よ。皆、近(ちこ)う寄れ』
 金の瞳を、爛々(らんらん)と光らせてターラが言う。
 三人と一頭はその言葉に従い、身を寄せ合った。
『──シュマシャーナ! これでよし、後は黙して進め』
 黒豹は闇に溶け込み、輝くライオンに続く。
 残りの者は、その後ろについた。
 姿を見えなくする技は、“黯黒の眸”が最も得意とするところである。
 ニュクスが地下迷宮に隠れたときも、この術を使っていたため、タナトスは捜し出すことができなかったのだ。
“……む、この気配は!”
 かなり歩いたと思える頃、シンハが鼻をうごめかし、いきなり駆け出した。
 皆が追いついてみると、黄金のライオンは、倒れている人影を揺さぶっていた。
“モト、しっかり致せ”
“ふん、こいつが初代紅龍、モトか”
 ぐったりと横たわる青年の顔を見たタナトスが、つぶやく。
“へえ、父さんそっくりかも……髪の色は違うけど”
 リオンが言った。
 シンハの揺らぐ炎に浮かび上がった青年の体は、傷だらけだった。
 火閃銀龍の攻撃は容赦なく、モトの魂に傷をつけていたのだ。
“まあ、ひどい傷だわ。あたしが治してあげる。 ──フィックス!”
 シュネが治癒魔法を使うと、ようやくモトは意識を取り戻し、薄目を明けた。
“あ、ああ、シンハ……”
“モトよ、これが黔(けん)龍王タナトス、現魔界王サタナエルだ。 そして朱龍リオン、碧龍シュネ……真の名はベリル。 最後に、我が兄弟、“黯黒の眸”の化身だ”
 シンハは前足で指し示し、彼らを引き合わせた。
“なるほど……だが、龍達よ……お前達はまだ、力に目覚めていない、のだな……”
 皆を見回して弱々しく言い、モトは再び眼を閉じる。
“力に目覚める? どういう意味だ?”
 タナトスが問いかけると、モトは突如、カッと眼を見開いた。
“そうか、ようやく分かったぞ、我らが何ゆえ、未だ眠ることができずにいるのかが……! ──出ておいで、我が子達よ!”
 虚空に向かって手を差し伸べ、モトは呼びかけた。

 8.光中の闇(4)

 モトの呼びかけに答えて、二つの人影が現れた。
“このシナバリンこそが二代目紅龍、そしてこちらが姉のベリリアス。 ……弟を射る役を担(にな)った娘だ”
 初代の紅龍は、彼らをタナトス達に紹介した。
“何、二代目紅龍だと!?”
 タナトスが身を乗り出すが、彼らの顔は、闇に紛れて見えない。
 そのとき、闇の中から女性の声が聞こえて来た。
“神族が侵略して来たとき、お父様が初代紅龍となり守って下さったお陰で、わたし達はどうにか、生き残りの人達とウィリディスを脱出できたのです。 その後は、星系の最も遠い惑星に逃げ込んで、地下でひっそりと暮らしていたのですが……”
 そこまで言うと、ベリリアスは口ごもった。
 ウィリディスから最も遠い惑星とは、無論、現在の魔界のことである。
“ほっとしたのも束の間、結局、ヤツらはぼくらを見つけ出して、再び大がかりな侵攻を再開しました……。 そのとき、フェレス族を……皆を守るため、二代目の紅龍となったのが、このぼくだったんです……”
 姉の話にそう付け加えるシナバリンの声は、周囲の闇同様、暗く沈んでいた。
“さあ、子供達、もっと近くへおいで”
 モトは二人を手招きし、それから、リオンとシュネを指し示した。
“そして、ここにいる彼らをよくご覧。お前達の生まれ変わりだよ”
“えっ!?”
“生まれ変わりだって!?”
 シュネとリオンは眼を丸くして、歩み寄って来る彼らを見た。
 シンハのたてがみに照らし出された四人は、たしかに、まるで双子が二組いるかのように似通っていた。

 サマエルの精神世界に入ったことで、大人の姿になっていたリオンは、ぽかんと口を開けて先祖を見つめた。
 栗色の髪と朱色の眼……彼とシナバリンは、リオンが持つ、額の小ぶりの角と黒い翼を覗けば瓜二つだった。
 そして、驚きに眼を丸くしているシュネを、微笑んで見ているベリリアス。
 やはりこちらの二人も、顔、緑の眼、赤みがかった金髪、すべてが生き写しである。
 ただし、ベリリアスの方が髪は遥かに長く、地面に届くほどもあり、また年齢も、子孫よりやや年長のようだったが。
 物珍しそうに四人を見比べていたタナトスは、ふと我に返った。
“待て、こんなところでうだうだしている暇はないぞ! サマエルはどうした、あいつは無事なのだろうな!?”
“乱暴はよすがいい、サタナエル”
“うるさい!”
 タナトスは、先祖の襟首をつかんで無理やり立たせ、止めるシンハを払いのけた。
 モトは驚くでも怒るでもなく、されるがままになりながら、答えた。
“まだ大丈夫だ、わたしが、こうして存在しているからね。 彼が消えれば、このわたしもまた、消滅するのだから……。 しかし、今のお前達では、たとえ束になってかかっていっても、ルキフェルを救い出すことはできないぞ”
“何だと! 火閃銀龍が、どれほどのものだというのだ!”
 モトを揺さぶりながら、タナトスは吼(ほ)えた。
“……おや? お前からは、カオスの闇の気配が感じられるな。 フェレスの長(おさ)が、紅龍を兼ねている? いや、そんなことはあり得ない、第一、紅龍になってしまっては、その後の治世(ちせい)が……いや、それとも……?”
 モトはサマエル同様、タナトスの怒りにも動じずに、一人、自分の考えに没頭してゆく。
“おい、貴様、何をぶつぶつ言っている!”
 苛ついたタナトスが、モトの体をさらに揺り動かすも、当の本人は気づいている風もない。
“モトよ、聞くがよい。 サタナエルは、昨今、この『黯黒の眸』を伴侶と為(な)すことを決意致した。 そのためには、化身のうち、最も剣呑(けんのん)なる者を封ぜねばならず、やむなく闇の一部をその身に取り込んだのだ。 それゆえ汝は、サタナエルの内に、カオスの気配を感じるのであろう”
 とっさにシンハは、タナトスが闇の力を得た経緯の説明を始めた。
 こういう状態に陥ったサマエルを正気に戻すには、理性的な話をするのが一番早い……ならば、モトの場合も効き目があるだろう、彼はそう考えたのだ。
“そうなのか”
 予想通り、モトは我に返り、微笑んだ。
“貴様の生まれ変わりが、サマエルというのも納得だな。 ふん、たしかによく似ておるわ”
 タナトスは、手荒くモトを下に降ろす。
 先祖の表情や仕草だけでなく、思考回路までもが弟に酷似していることに、彼は気づき、一層忌々しさが増した。
“そうだ。私はルキフェルの前世。 彼に至るまで二度生まれ変わったが、いずれも紅龍の試練を受けることなく、しかも短命に終わった……”
“その者とは、ベリアルとディーネのことであろうな”
 シンハが尋ねる。
“その通りだ。お前には分かるのだね、『焔の眸』?”
 黄金のライオンは、同意の印に首を揺すった。
 その喉元を、モトは愛(いと)おしそうになで、シンハはゴロゴロと喉を鳴らした。
“恨みを抱いて死んだがゆえに、紅龍に吸収された人々の魂と共に、我らもカオスの闇を漂っていた。 永き時、無明(むみょう)の闇の中を無為(むい)に彷徨(ほうこう)し続けたが、火閃銀龍の登場により、それは一変した。 彼(か)の龍の登場により、突如として常夜(とこよ)の世界にもたらされた光は、我ら以外の人々を消去せしめた。 我らのみが残ったは、お前達に力を引き渡すため……龍としての真の目覚めを促すためだったのだろう……”
“力を引き渡すだと? ガキどもはともかく、俺は貴様の生まれ変わりではないぞ”
 タナトスは顔をしかめた。
“だが、お前もまた我が子孫にして、『焔の眸』に認められしフェレスの長だ。 ……それにしても、まさしく天佑(てんゆう)だな。なおさら、力の引継ぎがたやすくなる。 闇を持たぬ者が、短期間にカオスの力を受け入れるのは、至難の業(わざ)だ。 ただでさえ、黄泉(よみ)の客となる可能性の方が高いのだからね”
“つまるところ、童子らが未だ龍として覚醒せなんだは、魂魄(こんぱく)が、分かたれておったがゆえか?”
 沈黙を守っていたカーラが、口を利いたのはそのときだった。
“そうだ。我が子らが死去した後、魂(こん)のみがカオスの闇に取り込まれた。 今、ようやく時宜(じぎ)を得、魂は魄(はく)と一体となり、真に生まれ変わることができるのだ”
“一体、何の話だ。魂(こん)だの魄(はく)だのとは……?”
 タナトスは眉を寄せ、二人の話に割り込む。
“魂(こん)は精神を支える気、魄(はく)は肉体を支える気のことだ。 二つが揃うことなくしては、生物としての実在はあり得ないと言ってもいい。 ここにいる二人は、例外的に、魄しか持たずに生まれて来た。 それは、いずれこうして、魂であるシナバリンとベリリアスと一体化することとなっていたからかも知れない。 ──さあ、子供らよ、時は来た。紅龍の紋章が、お前達を導くだろう”
 モトは答え、四人の方へ手を振った。
 それに応えてベリリアスが、鮮やかなグリーンのドレスの右肩をほんの少しずらし、紅龍の紋章を見せた。
“あれ? あたしと逆……”
 シュネが慌てて、自分の左肩を確認する。
 リオンもまた、はっとして自分の左手を見直す。
 すると、シナバリンが右手を上げ、その甲を皆に見せた。
 そこにもやはり、くっきりと紅龍の紋章が刻まれていた。
 次の瞬間、四つの紋章が一斉に輝き出した。
“うっ!?”
“あっ!”
 リオンとシュネは、反射的にそれぞれの紋章を押さえるものの、光は収まるどころか、すさまじい勢いで強さを増し始めた。
 熱さと痛みさえも伴って、紅龍の紋章は光り輝き、それに引き寄せられるように、リオンとシナバリン、シュネとベリリアスが歩み寄ってゆく。
 そうして、ついに彼らの手が触れ合ったとき。
“──サングイス・ドラコニス!”
 シナバリンとベリリアスは同時に叫び、彼の姿はリオンへ、彼女はシュネの体内へと吸い込まれていく。
“うわあっ!”
“あ、ああっ!”
 リオンとシュネは、相次いで胸を押さえ、倒れた。
“童子らよ、しっかり致せ!”
 シンハが急ぎ、彼らに駆け寄る。
 うめきながら脂汗を流し、地面とも床とも呼べない場所で、のたうち回る二人を見ながら、モトがしみじみと言った。
“リオン、今からお前の真の名は、シナバリンだ。 これで二人共、完全な龍となれる……よかったな”
“それはそうと、貴様と俺の方はどうなるのだ?”
 タナトスが尋ねた。
“ああ、わたし達……ね。 ところでサタナエルよ、お前は誰の生まれ変わりか、知りたくはないか?”
“ふん。どうでもよいわ、そんなこと”
 タナトスはそっけなく言い捨てる。
 モトは、にっこりした。
“ふふ、本当は知りたいくせに。 いいよ、意地悪しないで教えてあげよう、お前はね、アナテの生まれ変わりなのだよ”
 タナトスは眼を見開いた。
“アナテだ!? たわけたことを! 彼女は今も、女神として君臨しているではないか!”
“アナテはお前の魂(こん)、つまり、お前も魄(はく)しか持っていないのさ。 本来なら、お前と一体化すれば、彼女は生身として生まれ変わることができるのだが……アナテは、それを望んではいないようだ。 でなくば、お前が生まれた直後に、そうしているだろうからね。 それゆえ、わたしが魂(こん)として合体し、お前を真の龍と為(な)してあげようと思ったのだよ”
“お、俺も、そこの二人と同じだと……? ゆえに第二形態も持たずにいた……あの女神の予言……は、そういう意味だったというのか……?”
 タナトスは、モトの話に愕然とした。
 胸に当てる手は、抑えようもなく震えている。
『第一王子サタナエルは、心を持たずして生を受けし子。彼(か)の者が王位に就(つ)くならば、同族殺しに興ずる、血塗られし君主となるであろう』
 幼い頃、図らずも聞いてしまった、父ベルゼブルの言葉……女神が下されたと言う、無慈悲な宣告……。
 それは、決して変えることのできぬ宿命として、幼いタナトスの心に深く突き刺さり、自暴自棄(じぼうじき)になった彼は、一人の少女を筆頭に、大勢のクニークルスの命を奪ってしまったのだった。
“『心を持たぬ』とは『魂(こん)を持たぬ』ということか……そしてアナテは、俺を見捨てた、のか……?”
 タナトスは頭を抱えた。
 今まで感じたこともない、名状しがたい戦慄が、全身を走り抜けてゆく。
 それでいつも自分は、見捨てられた、誰にも愛されていないという思いを抱いていたというのだろうか。
“そんなに悩まないでいい、サタナエル。 アナテ……真の名はアサンスクリタ……彼女の魄(はく)と一体となれることは、わたしにとっても喜びだ”
 モトはタナトスの首に手を回し、耳元でささやく。
“何をする、放せ……!”
 タナトスは、その手を引き剥がそうとするものの、予想外にモトの力は強く、しかもその息も眼差しも弟同様、甘く淫(みだ)らで、ただでさえ混乱している彼は、体から力が抜けるような思いを味わっていた。
“ふふ、弟に操(みさお)でも立てているのかい、サタナエル? でもね、わたしと彼は同じものなのだよ……”
 モトはくすくす笑う。

 9.龍の目覚め(1)

“貴様、いい加減にしろ、モト!”
“いいだろう、一口くらいなら”
 もみ合う二人の顔が徐々に近づき、モトが、タナトスの唇を強引に奪おうとしたとき。
“モトよ。我が良人(おっと)に対する、得手勝手(えてかって)なる所業(しょぎょう)、看過(かんか)できかねるぞ”
 カーラが彼らの間に割り込み、鋭い牙を見せながら、瞳を金色(こんじき)に光らせ唸(うな)った。
“……分かりましたよ、奥方。失礼致しました、と……”
 モトは肩をすくめ、渋々といった風でタナトスを放した。
“助かったぞ、『黯黒の眸』”
 緊張が解けた魔界王は、滑らかな黒豹の首を抱え込む。
 カーラは、その頬をざらつく舌でなめた。
“やれやれ、軽い冗談だったのに、大げさだねぇ、お前達……。 でも、詰まらないなぁ。奥方の目の前でスルと、燃えると思ったのだけれどねぇ”
 いたずらっぽく瞳を煌(きらめ)かせ、モトは小悪魔のような笑みを浮かべた。
“くそ、性質(たち)の悪い冗談はよせ、癪(しゃく)に障(さわ)る! 死人(しびと)のくせに──もう一度殺してやろうか、貴様!”
 タナトスは、忌々(いまいま)しげに先祖の青年を睨みつけた。
 いつも相手の気持ちなど考えずに強引に攻める、そんな自分のことは棚に上げて。
 彼の厳しい視線を受けたモトは、一転、沈鬱(ちんうつ)な表情になった。
“……番(つが)う相手もいない、永(なが)の年月の後で、口づけの一つくらい、構わないではないか? それにね、サタナエル。お前と同化したなら、わたしは自我を失う。 『モト』という存在は、完全に消え失せるのだ……。 その前にせめて、かつて伴侶だった女性の生まれ変わりを、一口味見するくらい、許されてもいいだろう……?”
“モト?”
 先祖の声に含まれる切実さに、タナトスは改めてその顔を見直す。
 初代の紅龍は、首を横に振った。
“ああ、気にしないでくれ、死人の戯言(たわごと)だ……”
 そう答えるモトの眼は涙で濡れ、さらに艶(なまめ)かしさを増していた。
 タナトスは眉を寄せた。
“貴様、泣いているのか?”
 弟に瓜二つの顔と仕草で誘惑してきたかと思うと、態度を豹変させ、涙まで見せるこの青年をどう扱っていいのか、タナトスは判断に迷った。
 第一、カオスの貴公子であるモトは、涙を流せないはずだった。
 子孫のサマエルに力が移ったせいか、あるいは、現実世界ではないここでは、意思の力で涙を作り出すことが可能なのかも知れないが……。
“……いや、これは汗だよ、涙などではない”
 困惑した彼の表情に気づいたモトは、顔を背け、眼をこすった。
“お前を尊敬するよ、サタナエル。 魄(はく)しか持たないその状態で、王の責務を果たして来たとは……さぞかし、苦労したことだろうね。 わたしがお前と一体化すれば、感情の制御もかなり楽になるはず。魂(こん)を得て、お前はさらによい王となれることだろう”
 タナトスは軽く肩をすくめた。
“……ふん。たしかに俺自身、王になど向いておらんと思ってはいたがな。 それよりも、話の流れからして、貴様はサマエルの魂(こん)はないのか? もしそうなら、サマエルはどうなるのだ? 魂を持たないままでは、まずいのだろう?”
“たしかにわたしは、ルキフェルの魂(こん)になるはずだった、のだが……。 彼が試練を経てカオスの貴公子となったとき、何ゆえか、わたしは同化できなかったのだよ。 今は紅龍が代わって彼の感情を支配し、わたしはただ、カオスの闇の中を漂っているだけ……。 わたしはもはや彼にとって……いや、誰にとっても、必要のない存在と成り果てた……”
 モトはうなだれた。
“同化できなかっただと? 何ゆえだ?”
“……魂魄(こんぱく)が結合した状態で、紅龍を受け入れることができたのならば、こういう事態にはならなかったのかも知れない。 こうなっては、ルキフェルからカオスの力を取り去る以外に、彼と一体化できる見込みはないな。 だが、それは無理な相談……生者から無理に魂を引き剥がせば、死に至るのは確実だろうからね……”
 悲しげに、モトは首を左右に振った。
 後ろ向きで顔は見えなかったが、彼がまたも涙を流しているように魔界の王には思え、湿っぽい話に嫌気が差した彼は、話題を変えようと尋ねた。
“……ふん。ところで、モト。貴様の真の名は何と言う?”
“真の名? ……エッセンティアだが”
 振り返ったモトの黒い瞳は、やはり涙でうるんでおり、彼の問いかけに、戸惑ったように小首をかしげる、その艶(つや)っぽい所作(しょさ)もまた、サマエルに酷似していた。
 タナトスは、思わず生唾を飲み込みそうになる。
 だが、この状況下でそれを表に出せるはずもなく、彼は思いとは逆に、舌打ちして見せた。
“ちっ、男の癖によく泣くヤツだ。 まあ、エッセンティアという名は、貴様にふさわしいとは思うが”
“そうだろうか? 少しでも、本当にそう思ってくれているのなら、時折でいい、暗愚(あんぐ)な祖先がいたことを思い出しておくれ……”
 先祖の青年は、またもうつむいた。
 雨に濡れた南国の花のような風情もまた、弟に瓜二つで。
 味見をしたい衝動を抑えつつ、魔界の王は話を続けた。
“愚かだと? どこがだ? 第一、貴様が紅龍になる運命を受け入れなかったら、フェレス族は滅び、当然、俺達も存在しておらなんだのだ。 礼を言うべき理由こそあれ、愚かだなどとは誰も微塵(みじん)も思わんぞ”
“……ありがとう、そう言ってもらうと、気が休まるよ。 さらばだ、サタナエル。お前に会えてよかった……”
 あふれそうになる再び涙をぬぐい、モトは淋しげに微笑む。
 その顔もサマエルそっくりで、この男を抱いたなら、弟とどう違うのだろうと想像したタナトスは、次第に欲望を抑えられなくなり始めた。
 そのとき、焦ったシンハの思念が、二人の会話に割り込んで来た。
“一大事だ、童子らが意識不明に陥ったぞ!”
“何っ!?”
 タナトス達が振り返ると、ついさっきまで、苦しげにうめきながら転げまわっていたリオンとシュネは固く眼を閉じ、動かなくなっていた。
 急ぎモトは彼らに近づき、かがみ込んでそれぞれの額に手を置く。
 ややあって顔を上げたとき、そこには笑みが浮かんでいた。
“大丈夫、どちらも命に別状はないよ。 長きに渡って離れていた魂魄(こんぱく)が、同化し落ち着くためには、まだ時間がかかるのだろう。 自然に目覚めるまで、このまま休ませておいた方がいいと思う”
“左様か。して、彼らが覚醒するまでに、いかほどかかるのか?”
 シンハの表情は変わらず、気遣わしげだった。
“そう、だね……”
 モトは、首をかしげて少し考えた。
“はっきりとは言えないが、少なくとも半日……そう、この調子では、丸一日かそれ以上、かかるかも知れないな”
“何と! 左様に時間がかかっては、ルキフェルが危うい! 火閃銀龍に呑まれてしまうぞ!”
 モトの答えに、ライオンは激しく身を震わせる。
 紅い火の粉が、ぱちぱちと音を立てて暗闇に弾けた。
“気を落ち着けよ、『焔の眸』。 無用に騒ぎ立てるならば、隠形(おんぎょう)の術が破れよう”
 カーラが声をかける。
“シンハ、それはないから落ち着いて”
 モトもまた、なだめるようにライオンの毛並みをなでた。
“されど!”
 たてがみは荒々しく爆(は)ぜ、シンハは地団太(じだんだ)を踏み、身もだえすることをやめられない。
 黄金の背中を優しくさすりながら、静かにモトは語りかけた。
“今までの話を総合して考えると、火閃銀龍は正式な儀式を経ないで、紅龍という、膨大なエネルギー体を吸収しようとしているのだね。
 それで、ルキフェルを半分呑み込むにも苦労して、一月以上も費やしているのだろう。
 つまり、火閃銀龍が、カオスの力をすべて吸い尽くし、さらにおのれの体に同化させるためには、さらに数ヶ月以上、要するのではないかな”
 理路整然としたモトの話し方は、サマエルを彷彿(ほうふつ)とさせ、シンハの心身の動揺を少し和らげた。
 彼は動きを止め、モトの眼を覗き込んだ。
“それはまことであろうな?”
“ああ。それに、火閃銀龍は焦ったりなどはしていない。 先ほど我らに怒りを向けたのは、単に、周囲を飛び交ううるさい羽虫を追い払ったようなものだ。 悠久(ゆうきゅう)の時を存続して来たと思われるあの龍は、我らのように、一日二日などといった短い間隔では物を考えないのだろうね”
“……左様か。ならばよいのだ”
 サマエルのものとは色こそ違え、穏やかなモトの瞳を見つめているうちに、ようやくシンハは落ち着きを取り戻し、シュネとリオンのそばに腰を下ろした。
 タナトスは鼻を鳴らした。
“ふん。つまり、しばらくは、ここでこうして暇を持て余しておらねばならんということか”
“ならば、童子らを連れて、一旦外へ出た方がよくはないか”
 提案するシンハに、モトは首を横に振った。
“いや、今は動かさない方がいい、魂魄(こんぱく)の同化に時間がかかってしまうかも知れないよ。 火閃銀龍にさえ見つからなければ、だが”
“我が隠形(おんぎょう)の術は、十全(じゅうぜん)なり。 おぬしらがいたずらに立ち騒ぐことさえなくば、彼(か)の龍に見つけらるる懸念はない”
 カーラはきっぱりと言い切る。
 そこまで聞いたタナトスは心を決め、口を開いた。
“おい、カーラ。 俺がいいと言うまで、お前は眼と耳を閉じ、何も見ず聞かずにおれ”
“相分かった”
 主に命じられた黒豹は、何の疑いも持たずにそう答え、言われた通り眼をつぶり、床に伏せると前足で耳を覆った。
 直後、タナトスは、モトのあごに手を当てて顔を上げさせ、その唇を奪った。
 モトはもがくが、タナトスはそのまま彼を床に押し倒し、さらに衣服を剥ぎ取り始めた。
“な、何をする気だ、サタナエル!?”
 驚愕したモトは叫ぶ。
“俺の味見をしたいのだろう、貴様。 半日もあれば、十二分に堪能(たんのう)させてやれるぞ”
“えっ、サタナエル、何を言い出す、お、男同士でっ!? や、やめろ、やめてくれっ!”
 必死に暴れるモトを押さえつけ、タナトスは言った。
“貴様、男相手は初めてか。ならば、少しは優しくしてやる、心配するな”
“サタナエルよ、少し慎んではどうか。汝は魔界の王であろうが”
 あきれたようなシンハの念が届いたが、タナトスは、たたきつけるように心話を返した。
“邪魔をするな、シンハ! こいつはサマエルではないのだ、貴様にどうこう言う権利などない! それに、どうせこいつはすでに死んでいるのだ、死人をどうしようと構わんだろうが!”
“む、無茶苦茶な、理屈だな……よほど、飢えているのか、は、放せ……”
 組み敷かれたモトは苦しげに、もがく。
 すでに死んでいる彼だったが、カーラの隠形(おんぎょう)術中にいる間は、幽体に戻ることはできないようだった。
 こうなってしまうと、魔力でも腕力でも上を行くタナトスに、華奢な青年は敵(かな)わない。
“大人しくしていろ。暴れると、余計に痛い目を見るぞ”
 脅すように言い、魔界の王は高まる欲望に駆られるまま、彼を抱いた。

 9.龍の目覚め(2)

“や、優しく、して、くれる、のでは、なかっ、たのか……?”
 ようやくタナトスから解放されたモトは、息も絶え絶えに横たわっていた。
 浅黒い肌も短い黒髪も汗にまみれ、頬には幾筋もの涙の痕(あと)がある。
 彼の口には、間違っても声を出さないようにと、猿ぐつわがかませられ、抵抗を封じるために、両手首は胸の前で縛られていた。
“ふん、死人(しびと)の癖に、人並みの扱いが欲しいとでも? 大体、貴様がサマエルに似ているから悪いのだ。まあ、貴様もヤツほどではないが、なかなか美味だったと言っておいてやろう。 それに、貴様も最後の方は、うれし泣きしていただろうが?”
 タナトスは平然と答えながら、それでもぱちりと指を鳴らし、彼の縛(いましめ)を解いてやる。
“くっ、サタナエル、お前は……っ!”
 今度こそ、本当に解き放たれたモトは、肘をついて半身を起こし、鋭い目つきで彼を見た。
 タナトスは、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
“その意気だ。おのれの身の不運をめそめそと嘆いてばかりいる男ごときとは、頼まれても同化などしたくないからな”
“お前に何が分かる! 最愛の子供達を、この手にかけてしまったわたしの嘆き……わたしはあの日、すべてを失ったのだ……!”
 小刻みに震える手で、モトは顔を覆った。
“子供を殺しただと? だが、あの二人はさっき、お前のお陰で、逃げられたと言っていたではないか”
 タナトスは、倒れたままのシュネとリオンに眼をやる。
 モトは顔を隠したまま、否定の身振りをした。
“ベリリアスとシナバリンのことではない、その下の息子達のことだ。 彼らを逃がすため、紅龍になることを決意したというのに……変化(へんげ)したわたしが真っ先にしたことは、幼い双子、ロムルスとレムスを手にかけることだった……。 しかも、愛する者を殺すという最大の禁忌(きんき)……それを犯す悦楽(えつらく)に浸りながら……! その後、敵味方も関係なく、目につく者すべてを殺戮(さつりく)し、最後にはアナテに討たれたのだ……”
“何……”
 その話には、さすがのタナトスも絶句した。
 それに彼もまた、一人の少女を手始めに、同族のクニークルス達を虐殺したことがあったのだ。
 当時、まだ幼かった彼は、モト同様、えも言われぬ禁忌の快楽の虜(とりこ)となり、同胞の命を奪うことを楽しみ出していた。
 シンハに諭(さと)されなければ、彼は女神の予言通り、残虐非道な王となってしまったことだろう。
 しばしの沈黙の後、魔界の王は話し始めた。
“……実はな、俺にも貴様と同じことをした覚えがある。 ガキの頃、父と叔母が言い争っているのを聞いてしまったのだ。 アナテ女神が予言として、『第一王子サタナエルは、心を持たずして生を受けし子。彼(か)の者が王位に就(つ)くならば、同族殺しに興ずる、血塗られし君主となるであろう』と告げたと……。 それで俺は、自暴自棄となり、いずれ否応なくそうなってしまうのならばと、後先も考えず同族殺しに走ってしまったのだ”
“何だって、お前も……!?”
 はっとしたようにモトは顔を上げ、うるんだ瞳で、まじまじと彼を見つめた。
“今なら分かる、アナテは、俺が、魂(こん)を持たずに生まれて来たと知っていたのだからな。その事実をただ忠実に、親父に告げただけだと言うことが。 それを真に受けた親父に、俺は見捨てられたわけだ。 ……今はこうして、王の位に就(つ)いてはいるが、な”
 タナトスは淡々と告げた。
 モトは、どうにか自力で起き上がり、自分の裸の肩を抱いた。
“お前の父上のことは、よく分からないが……でもアナテは、お前を見捨ててはいないと思うよ。 その証拠に、お前の中にアナテを感じた……おそらく彼女はお前を哀れに思い、魂を少し分けたのだろう。 それゆえ、お前はどうにか感情を制御でき、王を続けて来られたのかも知れない……”
“女神が、俺に同情しただと? ふん、『四頭の龍の予言』を成就させるために、俺、つまりこの肉体が必要だった、それだけのことだろうが”
 タナトスは唇を歪め、おのれの胸を指差した。
“狂った王として家臣や民の反感を買い、暗殺されたりしたら元も子もない、そう考えて、仕方なく魂を分けたのだろうさ”
 今にして思えば、ジルに対する欲望を抑えられたのも、アナテのお陰なのかも知れなかった。
 それまでの彼は、自分を抑えられた例(ためし)など、なかったのだから。
“それでも、アナテが、お前を気にかけていたことには違いがないよ、サタナエル。
 わたしはずっと、誰にも顧(かえり)みられはしなかったけれどね。
 ルキフェルの身を案じ、こうしてお前達がやって来るまでは、忘れられた存在と化していた……”
 そこまで言うと、モトはいきなり、彼の胸に抱きついた。
“ねぇ、サタナエル。もう一度抱いて。今度は優しくなどしなくていい。 もっとひどくしていいよ、わたしは咎人(とがびと)、永遠に許されることもないのだから……”
“お、おい……?”
 着衣を脱ぎ捨てたままでいたタナトスは、裸の胸に飛びついて来られて面食らう。
 それでも、モトの台詞は、またもサマエルが言いそうなことだった。
 シンハと眼が合い、彼は思わず苦笑を漏らす。
“……まったく、どこまでもサマエルとそっくりだな、この男は。 そう思わんか、シンハ”
 魔界のライオンは、わずかに背中を揺すった。
 風に吹かれた稲穂のように、黄金の毛並みを、震えが渡っていく。
“元々、おのれが撒(ま)いた種だ。刈り取りも汝がせよ、サタナエル。 童子らの意識が戻る気配があらば、すぐさま知らせてやろうほどに”
“ふん、途中でやめるなど無理だぞ”
 シンハは、燃え上がる瞳で彼を見返した。
“エッセンティアは、子孫である汝らとは異なり、インキュバスではない。 一度でも抱けば、かような仕儀(しぎ)と相成(あいな)ることは、火を見るより明らか。自業自得であろうが”
“……ち。まあいい。だが、カーラには黙っていろよ”
“たとえ彼(か)の化身が、汝らの交尾を眼にしたとしても、それが何を意味するものかは理解の外であろうよ、ニュクスもだ。 我らは鉱物、嫉妬などといった生き物の感情は、知識としては知り得ても、真の理解に至るまでには長の年月を要する。 先ほどカーラが、エッセンティアを威嚇(いかく)したのは、明らかに汝が彼を拒絶しておったがゆえだ”
“……なるほどな。 ともかく、『黯黒の眸』には、時間をかけて俺自身が教えてやりたい。 それゆえ、今回は見せずにおきたいのだ、分かってくれ”
“了解した。されど、『黯黒の眸』に対し誠実でありたいのならば、今回のごとき事態は、能(あと)う限り避けたがよいぞ”
 少し苛立ったように、ライオンは炎のたてがみを震わせる。
“ああ、分かった、努力する。今は黙って食わせろ。 たまには食いでのある、上質の相手が欲しかったところだ”
 タナトスはそう答え、弟に似た褐色の青年を再び抱いた。
 最近はかなり自重して、後宮の女性達を相手にすることもなく、また、ニュクスを大事に思うあまりに手をつけていなかったために、インキュバスである彼は、空腹が限界に達しかけていたのだ。

          *       *       *

 ややあって、先祖の青年から体を離したタナトスは、憮然(ぶぜん)とした表情で言った。
“おい、モト、貴様、俺のことを『アサンスクリタ』と呼んでいたな”
 それは、女神アナテがまだ生身だった頃の、真の名である。
 モトは顔を赤らめた。
“す、済まない、つい、無我夢中で……”
 タナトスは、軽く肩をすくめた。
“まあいい、そのくらいは我慢してやる。元々、俺が無理やり始めたことでもあるし。それに俺は、アナテの生まれ変わりなのだろう?”
“ああ。彼女は生きていた当時、口癖のように言っていたよ、『いつか、男に生まれ変わりたい。そうして、女に生まれたお前を妃にするから』とね……”
 自分も、遥か昔に死んでしまった青年は、悲しげに答えた。
“ふん、俺も、同じような思いをサマエルに対して持ったこともあったな。 あいつを女の体に作り変え、正妃にしようと考えたことすらあった……”
 タナトスは遠い眼をした。
“お前がルキフェルを!? ……そうか、それでわたしを……”
 モトは自分の胸に手を当てた。
“あ、サタナエル……?”
 無言のまま先祖の両手首をつかんで持ち上げ、タナトスは改めてその全身をじっくりと眺めた。
 今にして思えば、サマエルを本当に憎んでいたのか疑問だと、タナトスは思う。
 たしかに彼は最初のうち、弟を力尽くで辱(はずかし)め、楽しんでいた。
 だが、そのうち、欲望のはけ口と思っていたはずの弟を、女性体にしようとし、さらには正式な妃として娶(めと)ろうとまで考え始めたのだ。
 一時の気の迷いにせよ、心底憎んでいる相手に対して、そこまでしようとするだろうか。
 母を死なせた償(つぐな)いとして、弟を苦しめたいと望むなら、王妃にする必要はまったくない。たとえ女性に変化させたとしても、身分の低い側女(そばめ)として仕えさせ、弄(もてあそ)んでいればいい……はずなのに。
“……ふん。貴様は、あらゆる面でサマエルに似過ぎている。 やはり俺とではなく、あいつと同化した方がいいだろう。 俺は大丈夫だ。必要とあらば、女神が手を貸すはずだからな”
“放してくれ、サタナエル。 そうしたいのは山々だが、何度試みても、上手くいかなかったのだよ……”
 タナトスの腕から逃れて、モトは地面に両手をつき、がくりとうなだれた。
 二人の会話が途切れると、シンハはモトに語りかけた。
“エッセンティアよ。 汝が発する、言(こと)の葉の端々からは、強い罪悪感が匂って来るぞ。 我にはそれが、ルキフェルとの一体化を阻(はば)んでおるように思えるのだが”
“……罪悪感が阻んでいる? そうかも知れないが……シンハ、わたしを真の名では呼ばないでくれないか。 その名は立派過ぎて、わたしにはそぐわな……ああっ、この声は!”
 話の途中でモトは突如叫び、頭を抱えた。
“少しでも心が安らいだりすると、彼らが現れる……! あああ……やはりわたしは、決して許されることのない、罪人(つみびと)なのだ……!”
“落ち着くがよい、モト。何者が汝を苦しめるのか?”
 シンハは首をかしげた。
“あれだ……あの声が聞こえないのか?”
 固く眼をつぶり、モトはうめくように答える。
 そのとき、か細い声が、闇の中から届いた。
“父様……痛いよ”
“どこ? 父様……”
“──誰だ!?”
 タナトスが勢いよく身を起こし、眼を凝(こ)らす。
 小さな人影が二つ、近づいて来ていた。
“疾(と)くカーラを目覚めさせよ、サタナエル。 隠形の術を張ったままでは、童子らが父親に会うことができぬ”
 一早くその影の主を見極めた“焔の眸”が、重々しい声で告げた。
“……父? ということは、こやつらは”
 はっとして、タナトスは、近づきつつある人影を指差す。
“そう、ロムルスとレムス……わたしの子供達だ”
 モトが言った刹那、ついに子供らの姿が、シンハのたてがみの明かりに浮かび上がった。

 9.龍の目覚め(3)

“こ、こいつらは……”
 タナトスは、思わず息を呑む。
 ようやく皆が目の当たりにしたロムルスとレムスの姿は、無残を極めたものだった。
 紅龍によってつけられたと思(おぼ)しい、惨(むご)たらしく噛み裂かれた傷は未だに生々しく、まだ血が流れ続けている。
 永遠に癒えない龍の爪痕(つめあと)を幼い体に刻みつけた状態で、彼らは、この闇の中を彷徨(さまよ)い続けていたのだろうか……自分達が遥かな昔に、死んでしまっていることにも気づかずに。
 シンハは鼻にしわを寄せ、歯を剥き出して、恐ろしい顔つきになる。
 見るに耐えないほど痛々しい傷跡のせいで、自身ともう一人の化身、ゼーンの悲惨な体験を思い出したのだ。
“……酷いものよ。 何はともあれ、サタナエルよ、疾(と)く『黯黒の眸』を呼ぶがいい”
 彼は、頭を小刻みに揺すって不快な思いを押しやり、再びタナトスを促した。
“む、いかん、その前に──ストーラ!”
 我に返ったタナトスは急ぎ呪文を唱え、自分とモトに服を着せつけてから、伴侶の頭に触れ、声をかけた。
“カーラ、もういい、眼を覚ませ。 そして隠形の術を……いや、術を解かずに、モトだけを外に出せるか? すぐそこに、モトの息子達が来ているのだが”
“左様。是非共、親子の対面させてやりたく思うのだ。 モトは元来、このカオスの闇に住まう者。出て行ったとしても、火閃銀龍は、さほど疑念を抱(いだ)くまい。 もしくは、其処(そこ)な童子らを、中に取り込むがよいか?”
 ライオンは、前足で子供達を指し示す。
 目覚めたカーラは、彼らの話を反芻(はんすう)する間、幾度か瞬(またた)きをし、それから答えた。
“隠形の術は、単に内部の者の気配を消すのみ。及ぼす範囲も、我が身の丈(たけ)の二倍ほど。 それより出(い)ずるならば、おのずと、他人(あだびと)の眼に触れることとなる。逆もまた真なり”
“つまるところ、出るも入るも同等に容易ということか、ならば……”
“や、やめてくれ、『眸』達!息子達はわたしを恨んでいる、憎んでいるのだ、わたしが彼らを殺したのだから……! どれほど謝罪を繰り返しても、過去は戻らない。 もはやわたしは、罪を贖(あがな)うこともできないのだ……!”
 モトは叫び、頭をかきむしった。
“うるさいぞ、モト、うだうだ言いおって! 貴様が罪を犯したと言うなら、それと向き合え、逃げるな! 逃げれば、いつまでも貴様を追いかけて来るぞ、それこそ永遠にだ!”
 タナトスは眼を怒らせ、先祖を怒鳴りつけた。
“う……し、しかし、わたしは……”
 モトの額から、汗が滴り落ちる。
“この、軟弱者めが!”
“うわっ!”
 激したタナトスは、拳を振り上げ、モトを殴り倒した。
 シンハは、その巨体で前に出、倒れた青年をかばう。
“やめよ、サタナエル。 いかに汝が暴力に訴えようとも、他人の心は意のままにはならぬぞ”
“──黙れ! こういう軟弱者は、力尽くで思い知らせてやらねば、分からんのだ!”
“やめよと申すに”
 再び伸ばされたタナトスの腕を、ライオンは前足で軽く払いのけた。
“貴様、まだ邪魔するか!”
 烈火のごとき魔界の王の怒りを、柳に風と受け流して、シンハはモトを振り返り、重々しい口調で述べた。
“モトよ。汝の息子らは、恨みを晴らすがために、汝を捜していたのではないように、我には思えるのだがな”
 モトは眼を見張る。
“えっ、では、何ゆえ、ああしてわたしを……”
“むしろ逆に、汝を慕(した)い、親の温もりを求めて彷徨っておるのではないか? 相手は幼(いとけ)ない童子、人を恨み憎む心など、持ち合わせておらぬように思えるが”
 これほど近くにいるとは知らず、父親を呼び、捜し続けている子供達。
 それとも、ここに現れたのは、隠形の術を超え、父親の気配を感じ取ったためだろうか。
 痛々しい双子達に向けて、魔界のライオンは、再び前足を振った。
“見よ。かくのごとき風姿を眼前にしても、憐憫(れんびん)の情を催(もよお)さぬのか、汝は? 疾(と)く、彼らを受け入れてやるがよい、エッセンティア。本質たる者よ”
 魔界の王は、さも軽蔑したように鼻を鳴らした。
“ふん、親の温もりだと? 下らんな、そんなもの”
 そんな彼を、シンハは燃え上がる瞳で見据えた。
“何を申すか、サタナエル。汝にも覚えがあろうが。 篤(とく)と、幼き頃を想起(そうき)致してみよ”
“貴様こそ何を言う、俺はそんなもの、欲しがったことなど……”
 言いかけてタナトスは、思い出した。
 母が、弟を産んですぐ亡くなった後。
 胸にぽっかりと穴が開いたような淋しさ……一人でいることにいたたまれず、叔母や父親を捜し、汎魔殿中をさ迷い歩いたことを。
 そして、二人の会話を……運命の予言を聞いてしまったのだった。
“……むう。たしかに俺も、母を亡くしたとき、すぐには、サマエルに対する恨みなどは感じなかったな。 あのときはただ、親の温もりを求めていた気がする……。 今さらだが、あの日、親父が、『予言など信じない』とでも言ってくれたら。 魂(こん)を持たんという俺でも、同胞の殺戮(さつりく)といった、極端な行動に走ることはなかっただろう。 ……サマエルにも、もう少し優しく接することができたかも知れんな”
 そこでタナトスも、哀れな子供達を指し示した。
“俺の場合はもう手遅れだが、貴様の息子どもは、すぐそこにいる。 貴様が後悔に溺れておれば、こいつらは、いつまでもこんな姿で彷徨うのだぞ、その方が、よほど不憫(ふびん)だとは思わんか、モト。 許す許されるは二の次、おのれの罪と向き合う時がきたのではないのか”
 うなだれて話を聞いていたモトは、ようやく意を決し、口を開いた。
“お前の言う通りだな、サタナエル……”
“ふん、やっとその気になったか。 さあ、さっさとガキどもに頭を下げて来い、たわけめ”
 タナトスは乱暴に腕を引き、モトを立たせてやる。
“……ああ……でも、息子達は、わたしを許してはくれないだろう……。 それでも、ちゃんと彼らの恨みつらみを聞いてやらなければ……それが親としての義務だろうからね……”
 モトは噛み締めるように答え、ぎくしゃくとした足取りで、子供達の方へと歩き出す。
 それを見たタナトスは、ライオンの眼を捉え、闇に向けて顎(あご)をしゃくって見せた。
 シンハは了解の印にうなずき、モトの後についていく。
 さらにタナトスは、まだ意識が戻らないシュネとリオンの体を魔法で持ち上げ、黒豹の頭に触れた。
“俺達も行くぞ、カーラ”
“心得た”
“父様だ!”
“父様ぁ!”
 そのとき、少年達が歓喜の声を上げたのが聞こえ、タナトス達が急いでそばまで行ってみると、双子達は父親に抱きつき、キスの雨を降らしていて、モトはただ、彼らを抱きしめ涙にくれていた。
 少年達の肌の色はモトと違って褐色ではなく、闇の中に浮き上がって見えるほど白かった。
“父様がいつも泣いてるから、僕ら、心配で……”
“でも、僕らが行くと、父様は余計泣いちゃうし……”
 双子達がそう言っている声が聞こえて来る。
“え?”
“だから、父様の気分がよさそうなときに、会いに行こうとしたけど……”
“やっぱり、父様、僕らを見ると逃げちゃうし……”
“済まなかった……わたしは、お前達が、わたしを憎んでいると思っていたから……”
“え? どうして?”
 驚いて、双子の一人が顔を上げる。
 その眼は右が緑、左が紫、そして、シンハのたてがみの光を受けて輝く、三つ編みされた髪は銀色をしていた。
 モトは、ぎゅっと眼を閉じ、答えた。
“……なぜなら、ロムルス。 わたしは、お前達を……殺してしまった、からだよ……”
 双子の兄は、首をかしげた。
“え? 違うよ、父様。僕達を殺したのは……”
“うん、父様じゃない。真っ赤で、大きな怪物だったよ”
 同じく銀髪で、左右の眼の色は兄と逆になっている、レムスが言葉を継いだ。
 モトは眼をつぶったまま、大きく息を吸い込み、意を決したように言った。
“レムス、その紅い怪物こそ、わたしが変身した姿だったのだよ。 お前達を、フェレス族を守るには、『紅龍』になるしかないと……なのに、わたしは、カオスの力を制御できなかった……! 済まない、レムス、済まない、ロムルス……!”
“そ、そんな……違うよ、父様は悪くない、だって……”
“うん、僕らを助けようとしてくれたんだもの!”
 レムスとロムルスが、口々に父をかばう。
“しかし、……”
“父様、大好き!”
 まだ何か言おうとしたモトに、ロムルスは力を込めて抱きついた。
 レムスも兄の真似をする。
“僕も! ずっとずっと会いたかった!”
 息子達に、揃ってそんな風に言われてしまうと、モトにはもう、返す言葉もなかった。
“ロムルス……レムス……ああ! わたしもだ、わたしも、お前達のことが……忘れたことはなかった、ずっと、ずっと会いたくて、謝りたくて……!”
 モトが二人を抱きしめた瞬間、彼らの体がぱあっと輝き、傷が消えた。
“案ずるより産むが安し、とはまさしくこのこと”
 シンハは、ゆっくりと首を振る。
 タナトスも肩をすくめた。
“まったくだな。 貴様、そいつらのどこをどうを見て、憎まれているなどと思い込んだのだ? さっぱり分からん”
 モトは、あふれる涙をそのままに、言った。
“サタナエル、シンハ、それにカーラ……皆、本当に、本当に、ありがとう。 永き年月の末、ようやくわたしは救われた……! どれほど礼を言っても、言い足りないくらいだ……!”
“俺達は何もしておらん。貴様が勝手に勘違いしていただけだろう”
 タナトスはそっけなく答えたものの、まんざらではなさそうだった。
“いかなるときも、親子の情愛とは良きものかな。 これにて、汝の罪悪感も払拭(ふっしょく)されたであろう、モトよ”
 シンハも満足げに言う。
“……ふむ。これが親子の情愛、と申すものか”
 興味深げに、黒豹は瞳を光らせる。
 その後しばらくの間、ひたすら息子達を抱き締めて、涙を流し続けていたモトは、ふと我に返ってタナトスを見た。
 そして、二人にだけ聞こえるように言った。
“ロムルス、レムス。 ほら、そこの黒髪の男性がサタナエル、母上の生まれ変わりだよ。 中に入ってみるかい、母上がいらっしゃるから”
“え、母様に会えるの!”
“母様に会えるんだぁ!”
 双子達は顔を上げ、期待に眼を輝かせて、タナトスを見る。
 モトは、さらに続けた。
“彼の内に入る呪文は、『アナムネーシス』だ”
 何も知らないタナトス目がけ、双子達は飛びついてゆく。
““──アナムネーシス!””
“な、何だ!? やめろっ!”
 驚き、振り払おうとする腕をすり抜けて、子供達は彼の体内に吸い込まれていった。
“ぐっ……!?”
 事態を把握できないまま、タナトスは胸を押さえ、ひざをつく。
“我が王!”
“サタナエル!”
 “黯黒の眸”と“焔の眸”の化身もまた、何が起こったのか分からず、ただ声を上げてタナトスに駆け寄った。

 9.龍の目覚め(4)

“だ、大丈夫だ、カーラ、シンハ。大した、ことは、ない。 前の、経験のお陰で、耐性でも、できたのだろう、さ……”
 平然を装おうとしても、息苦しさと胸の痛みに襲われているタナトスの呼吸はどうしても荒くなっていく。
 それでも、今感じている苦痛は、以前、カオスの力を受け入れたときの、凄(すさ)まじかったものとは比較にならないほど軽かったが。
 主が無事と見極めがつくと、カーラはさっとモトに向き直り、牙を剥き出し、体中の毛を逆立てた。
 テネブレとは一味違った、紫のオーラが全身から立ち昇り、眼全体を黄金の威嚇色(いかくしょく)が覆う。
“モト! おぬし何ゆえ、かようなことを致した!”
 するとモトは、さっと片ひざをつき、王に対する正式な礼をした。あたかもサマエルが、兄に対してするように。
 さらに、そういう態度を取るときサマエルが使う口調そっくりに、彼は話し始めた。
“お願い致します、現魔界王、サタナエル。どうぞ、ロムルスとレムスを受け入れてやって下さい。 アナテは、女神の座から降りる気はないように思われます……そうなれば、息子達は、幾度生まれ変わっても、母親に会うことはできません。 あなたの中にいれば、彼らの淋しさも少しの間は紛れるでしょう……。 わたしはあなたの仰る通り、自分の魄(はく)と一体化致します。 罪悪感も消えた今のわたしなら、おそらく、ルキフェルと一緒になれると思われますから”
“貴様……! そ、そういうことは、前もって言え、不意打ちとは、卑怯だろうが……!”
 顔を歪め、脂汗を流しながら、タナトスは抗議した。
“お返しですよ。先に仕掛けていらしたのは、そちらの方ですからね”
 モトはにっこりした。
“ちっ……! その後、貴様は俺に抱かれるのを望み、俺も可愛がってやったではないか!”
 言い返したものの、相手の笑みに怒りが隠されていることに、気づかないほどタナトスは鈍くはなかった。
 モトは、かつてフェレス族の長であり、今は女神となったアナテの、息子にして配偶者である。
 そしてタナトスは、アナテの生まれ変わりだった。
 だが、いくら前世で愛し合っていた仲とはいえ、性格も弟そっくりと思われる先祖のこと、子孫にとっては愛情表現だと言われても、受けた屈辱を、そう簡単に水に流すとも思えなかった。
 敬(うやま)うべき先祖にひどい行為をしてしまった自分に、タナトスは腹を立てたものの、それも自業自得だった。
 元々感情のままに行動することが多かった彼も、王となってからは、それを抑えるよう努力して来たのだが、本気の弟を抱いて以降、欲情の抑制がひどく困難となってしまっていたのだ。
 仕方なく、彼は再度謝った。
“いや、弁解はよそう、たしかに、あれは俺が悪かった、済まなかったな”
 モトは、頭(かぶり)を振った。
“いえ、わたしも……何というか、慣れておりませんでしたのでね”
(くそ、俺が理性的に振舞うことができんのは、やはり魄(はく)……肉体に宿る気、のみで動いているためなのか? そう考えれば、辻褄(つじつま)は合うが……)
 タナトスは唇を噛み、改めて尋ねた。
“今さらだが、魂(こん)や魄(はく)の話は、本当のこと、なのだろうな……? いや、真実だと、仮定してもだ、お前が言うように、前世の者……アナテと、俺が、魂を分かち合う……などといったことが、本当に、可能なのか……? あるいは、他人の魂を……しかも、二人も受け入れることなど、できるのか……? 貴様はただ、仕返しのために……俺を苦しめる目的で、ロムルスとレムスとやらを、俺の中に、入れたのでは、ないのか……?”
 息をするにも苦しく、タナトスは自分の喉に手を当て、途切れ途切れに念話を送った。
 モトは、すぐに首を左右に振った。
“まさか、そんなことはありませんよ、第一それでは、大事な息子達も不幸になってしまいますからね。 最初の予言で、あなたは紅龍を食らい、『火閃銀龍』になるはずだった……それほど大きな器をお持ちならば、息子達を受け入れることも容易と思いましてね。 予想通り、あなたは二つもの魂(こん)を体内に入れても、未だ意識を保っておられる……普通の場合、自分自身の魂が戻っただけでも一時的に失神すると思われるのですが。あんな風に”
 モトは、すぐそばに横たわるシュネとリオンを指差す。
 隠形の術から出てしまわないようにと、タナトスが二人を連れて来ていたのだった。
 そのときシンハが、ぶるんと体を揺すり、話に加わってきた。
“ふむ。それを考えれば、たしかにサタナエルは、他人の魂(こん)を受け入れる余地があると思われるな。 されど、モトよ。 今ならば、ルキフェルと一体化できる可能性は高いであろうが、万が一、しくじるようなことがあれば……”
 その言葉が終わらぬうちに、モトはライオンの首に抱きついた。
“ありがとう、シンハ。でも心配はいらないよ。 万一失敗しても、もうわたしに苦しみはない、また次の機会を気長に待つさ。 それに、二度と生まれ変われなくとも、別に構わない……淋しくもないよ、また、子供達の誰かが戻って来るかも知れないしね”
 その頃になってカーラはようやく、モトに害意がないと判断して威嚇の構えを解き、振り返って主の顔を覗き込んだ。
“大事無いか、サタナエルよ”
“……ふ、案ずるな、カーラ。 この程度の、こと、どうということも、ない……心配、いらん”
 本当のところ、意識を保つのもやっとだったが、タナトスは虚勢を張り、無理に笑顔を作ってみせた。
“されど、かように汗が……生き物が発汗するのは、病(やまい)のときなのであろう?”
 カーラは、なおも心配そうにタナトスの臭いを嗅ぎ、こめかみ辺りから流れ落ちる塩辛い汗を、紅い舌でなめ取る。
“いや、病気ではない。 魂が、俺に同化し、落ち着き所を見つけるまで、少々……その、暴れている、といったところだろう、やんちゃそうな、ガキどもだったからな。 こら、大人しくしろ、ロムルス、レムス! ……そう、そうだ、いいぞ……”
 タナトスは、大きく息をつく。
 ちょうどそのとき、双子達は彼の内部で居場所を見つけたらしく、潮が引くように苦痛が治まったのだ。
 彼らがタナトスとの同化を完了すると同時に、シュネとリオンが正気づき、眼を明ける。
“うーん”
“あれ……?”
“気づいたね、お前達。 これで三人共、龍への変化ができるようになっているはずだ。 あとはわたしが、ルキフェルの中に入ることができさえすれば、四頭の龍が揃い、火閃銀龍にも対抗できるだろう……”
 そう話すモトは、どこか物言いたげな顔でタナトスを見る。
“何だ? まだ何か、文句でもあるのか、モト”
 苛ついた表情を、タナトスは浮かべた。
“いや、文句を言いたいわけでは……その、わたしは……”
 モトは眼を伏せた。
 ためらう彼と、タナトスにだけ聞こえるように、シンハは念話を送った。
“モトよ。サタナエルはいずれ、弟王子を抱くこともあろう。 首尾よく、汝がルキフェルと同化できた暁には、汝も再び、彼に抱かれることが叶うのだ”
“い、いや、わたしは、そんなつもりでは……”
 しどろもどろに答えるモトの頬は、真っ赤になっていた。
(……ち、仕返しだのなんだのと言っておきながら、結局は俺の虜(とりこ)になっているではないか。 ……まったく。『心』などというものは、しち面倒だな。 “黯黒の眸”が、生き物の複雑な感情を理解できんのも無理はない……先が思いやられるわ)
 タナトスは額に手をやってため息をつき、“焔の眸”の化身と、自分の伴侶とを見比べた。
 長期に渡り魔族に仕えてきたシンハと、元は人間だったダイアデムもいるお陰なのだろう、“焔の眸”は、相手の感情を汲み取ることに、さほど不自由はしていない……少なくとも、タナトスにはそう思えた。
 それに引き換え“黯黒の眸”には、生き物の不条理さについて、一から十まで教えてやらなければならないのだ。
 だが、現時点でも子供程度の理解力はあるようだし、“焔の眸”という先例もある、忍耐深く教え込んでいけば何とかなるだろうと、タナトスは楽天的に考えることにした。
 それにしても、なぜ自分はこの宝石に、ここまで惹かれてしまうのか。
 “黯黒の眸”の方も、彼のことを気に入っているようだが。
 タナトスは首をひねり、改めて黒豹を観察してみたが、自分達が惹かれ合う理由は分からなかった。
 彼は頭を切り替え、先祖に話しかけた。
“ともかく、弟を頼むぞ、モト。 お前と一体になれば、少しはあの男も、前向きになれるだろう”
 モトは少し悲しそうな顔をした。
“確約はできないよ。わたしの生まれ変わり……ベリアルとディーネは二人共、結局は自滅の道を歩んでしまったからね”
“ディーネはともかく、ベリアルは違おうぞ。 彼(か)の王は、妃の裏切りにより、殺害されたのであろう”
 シンハが口を挟む。
 モトは否定の仕草をした。
“いや、彼も、みずから殺されるように仕向けたのさ……わざと妃をぞんざいに扱って。ああ、もちろん、お前のことは愛していたとは思うけれど。 彼らは、みずから選んだのだよ、天寿を全(まっと)うしない生き方をね……。 それゆえ、自分を責めることはない、シンハ。彼らの自滅的性格は、わたしのせいなのだから”
“ならば尚のこと、汝が同化に成功致した暁(あかつき)には、ルキフェルの破滅思考は影を潜(ひそ)めるのではないのか?”
 ライオンはさらに尋ねた。
“……そうだとよいのだが、ね。 ともかく今は、力を合わせて、彼を現実世界に連れ帰るのが先決だ”
 モトはそう言い、ちょうどそのとき立ち上がったシュネとリオンを、抱き締めた。
“ベリリアス、シナバリン、幸せになるのだよ。苦労してきた分だけ、お前達には幸福になる権利がある”
“……お父様!”
“父上!”
 シュネとリオンもまた、彼に強く抱きつく。
“さ、もうお別れだ”
 ややあってモトは名残惜しげに二人を放し、タナトスと向かい合った。
“では、わたしは行くよ。 光が満ちあふれたら、ルキフェルが目覚めた証だ。もう隠形の術は必要ない。 堂々と姿を現し、偉大なる龍と対峙するがいい。 さらばだ、サタナエル……アナテの生まれ変わりよ。 子供達は、必ずやお前達の役に立つことだろう”
 モトは素早くタナトスに口づけ、カーラが怒りを露(あらわ)にするより早く、空中に浮き上がった。
“火閃銀龍を倒すことのできる者は存在しないと言われているが、お前達なら……。 ここでは、あの龍も無闇に暴れることはできないはず……すべてを吸収する前にルキフェルが壊れてしまったら、元も子もないからね。 健闘を祈る”
 そう言い遺し、先祖は闇の中へと消えていく。
“待て、俺達は、どうやったら龍に変化できるのだ?”
 タナトスの問いかけに、かすかな思念が応えた。
“子供達は、すでに答えを知っている……”

 10.龍の邂逅(かいこう)(1)

“『子供達』ということは、貴様らは知っているということか、龍への変化(へんげ)の仕方を”
 タナトスは、シュネとリオンの方へ手を振った。
“え……あたし、分かんないけど。リオン兄さんはどう?”
“いや、ぼくも分からないな”
 顔を見合わせていた二人が、揃って首を横に振ると、タナトスは舌打ちした。
“ち、役に立たんガキどもだ”
 顔をしかめる魔界の王に、シンハが問いかける。
“ならば、サタナエルよ、汝はいかに。
 モトの申した『子供達』とは、ロムルスとレムスの両名をも、含んでおるのではないのか?”
“俺も? ……なるほど、そうか”
 早速タナトスは、自分の心の中を探ってみた。
 しかし、いくらやっても、何も思い浮かばなかった。
(──おい、ロムルスとレムス! どうすればいいのだ、教えろ!)
 おのれと融合した少年達に尋ねてみても、やはり答えは返って来ない。
“くそ、モトめ、いい加減なことを言いおって! これでは、たとえサマエルが目覚めても、火閃銀龍に対抗できんではないか!”
 今にもかんしゃくを爆発させそうな彼をなだめるため、魔界のライオンは急いで言った。
“モトと同化したルキフェルならば、当然知っていよう。 逸(はや)る心持ちを抑え、静寂を友とせよ、サタナエル”
“……むう、そうか。そろそろヤツが覚醒してもよい頃合だな”
 タナトスはうなずき、怒りを収めた。
“あやつが起きれば、どうにかなるだろう。 火閃銀龍の弱点なども知っているかも知れんしな”
“左様。しばしの辛抱だ”
 安堵したように、シンハはたてがみを震わせる。
 ロムルスとレムス、二つもの魂(こん)が同化したというのに、タナトスの性急さは相変わらずだった。
 それでも、自重(じちょう)できるようになった分だけ、前より増しになったと言えるかも知れなかった。

          *       *       *

 その後、皆は気を張り詰めて、周囲が明るくなるのを待った。
 だが、いくら経っても辺りは暗いままで、サマエルが目覚めた気配はなく、かといって、火閃銀龍が攻撃を仕掛けてくる様子もない。
 タナトスの例を見ても、サマエルとモトが同化するのに、それほど時間がかかるとは思えなかったのだが。
“……くそ、モトのヤツ、失敗したのか? まったく、口ほどにもない”
 初めこそ大人しく待っていたものの、とうとうタナトスはしびれを切らし、ぶつぶつつぶやきながら、苛々と歩き回り始めた。
 彼が何かしでかさないうちにと、すかさずシンハは釘を刺す。
“サタナエル、軽挙(けいきょ)は慎(つつし)むがよいぞ”
“ふん、分かっておるわ、心配せずとも、単独で飛び出して行ったりはせん。 だが、この後、どうするのだ? サマエルが起きんことには何も始まらんし、俺達がどうやって龍になるかも、分からんのだぞ。 八方塞(ふさがり)とはこのことだ……くそっ、忌々(いまいま)しい!”
 タナトスは闇を睨みつけ、悪態をついた。
 黄金のライオンは顔を上げ、探るように空間の匂いを嗅いだ。
 周囲を取り囲む闇は、相も変わらず深い静寂に包まれており、何の気配も思念も伝わっては来ない。
“……ふむ。幸いなことに、未だ我らの侵入を、火閃銀龍に悟られてはおらぬようだな、ならば……”
 そうつぶやくと、彼はシュネに話しかけた。
“ベリルよ、ルキフェルに呼びかけてみよ。 モトが融合できたかどうかは不明なれど、汝の呼び声ならば、彼を目覚めさせることができるやも知れぬ”
“そうか、元々、そのために連れて来たのだしな。 早速やってみろ、ベリルとやら”
 動きを止めて、タナトスも彼女を促す。
“は、はい。じゃあ、やってみます、ね”
 シュネはうなずき、祈るように指を組み合わせると、この空間のどこかで眠っているはずのサマエル……その精神に向かって、呼びかけを始めた。
“え、えっと……サ、サマエル様! あたし、シュネです! 眼を覚まして下さい! シンハやリオン兄さんや、あなたのお兄さんのタナトスさんも、ここに来てます、皆、あなたのことを心配してますよ! 早く起きて下さい、お願いします!”
 シュネ……本名ベリルの特殊な呼び声は、次元さえも超えて、相手に届く。
 人界にいながら、汎魔殿で宝物庫の門番をしていた魔物を呼び寄せたことさえある。
 それこそが、ジルの血を色濃く継いでいる印であり、ましてサマエルの子孫でもある彼女の声が、届かないはずはない、そう思われたのだが……。
 どれほど待っても何の反応もなく、周囲の闇は、水を打ったように静まり返っているばかり。
“何だ、届いておらんのか? サマエルが起きた様子はないぞ”
 眉をしかめ、タナトスはシュネをじろりと見た。
“え、あ、あの……じゃ、じゃあ、も、もう一度呼んでみます……! サ、サマエル様! お、起きて下さい! あ、あなたが、お、起きてくれないと、皆、こ、困るんです! お、お願いします、め、目を、さ、覚まして下さいってば!”
 焦ったシュネが、少々どもりながら呼びかける。
 心の声なのだから、どもる必要がないと思われたが、癖というものは中々抜けないようだった。
 その後、全員が耳を澄ますも、やはりどこからも応答はない。
“……ち、どいつもこいつも、物の役に立たんヤツばかりだな!”
 タナトスは激しく舌打ちし、シュネは、穴があったら入りたいような風情で、うつむいた。
“ご、ごめんなさい……あ、あたし、や、役立たずで……”
“キミのせいじゃないよ、シュネ。 お父さんを押さえつけてる力の方が、キミの声より強いんだ、きっと”
 リオンは彼女を慰め、それからタナトスに言った。
“こうなったら、ぼくら全員で、一斉に呼びかけてみましょうよ。 ぼくらは皆、サマエルには深い関わりがあるんですから。 一人じゃ駄目でも、皆一緒なら聞こえるんじゃ?”
“シナバリンよ、よくぞ申した”
 ライオンは大きく全身を振り、賛意を示す。
“たしかに、ここに集(つど)いしはすべて、ルキフェルとは浅からぬ縁(えにし)のある者。 いわんや、伝説の『四色の龍』である汝らの声が、ルキフェルに届かぬはずはあるまい”
“ふん……まあ、やってみても損はあるまい。どうせ、他に手段も考え付かんしな”
 タナトスも渋々同意する。
“……サタナエルよ。我も、その呼びかけに加わるべきか?”
 それまで、ただ成り行きを見守っていたカーラが尋ねて来た。
“無論だ、カーラ。 お前、すなわち“黯黒の眸”は、ヤツに『カオスの力』を分け与えたのだし、テネブレに至っては、『息子』と言っていたくらいだぞ”
“相分かった”
 黒豹は居住まいを正した。
“さあ、皆、用意はいいな。 いくぞ! ──目覚めろ、サマエル!”
“ルキフェル、目覚めよ!”
“起きて、サマエル様!”
“お父さん、起きて!”
“覚醒せよ、ルキフェル”
 タナトスの号令一下、シンハが、シュネが、リオンが、カーラが、一斉にサマエルに向けて呼び声を放った。
 途端に、周囲がぱあっと明るくなる。
 その眩しさに、皆は顔を覆い、あるいは固く眼を閉じた。
 再び彼らが眼を明けたとき、すぐそばに、巨大な壁がそびえ立っていた。
 意外にも彼らはすでに、目的地へ到着していたのだ。
 そして、火閃銀龍に飲み込まれつつあった第二王子の目蓋が、彼らの声に応じてかすかに動き、ついに開いた。
「誰……? 私を呼ぶのは……ジル、かい? まさか、ね……彼女は、もう……。 ああ、誰でもいい……私は眠りたいのだ、起こさないでくれ……」
 だが、せっかく目覚めたというのに、サマエルはすぐに眼を閉じてしまった。
“駄目、サマエル様、起きて! あなたは、あたしのご先祖様なんでしょう!? ちゃんと会ってお話したいよ!”
 思わず、シュネが声を上げた。
“あたし、ずっとずっと、サマエル様が、ホントのお父さんだったらいいのにって思ってた……! ねえ、起きて、遠い遠いお父さん! ちゃんと僕を見てよ!”
 しまいに彼女は、かつてサマエルの弟子として屋敷にいたときのように、自分のことを“僕”と言ってしまっていた。
 再びゆるやかに眼を明き、サマエルは答えた。
「その声は……シュネ、かい……? どうしてキミが……? そう、キミは、私とジルの子孫……そういう意味では、キミにとって、私は、父親に近しいもの、なのかも知れないが……」
 シュネに手を伸ばそうとして、彼は、身動きが取れないことに気づき、周囲を見回す。
「おや、どうして……それにここは……? ああ、そうだった、あの龍……伝説の火閃銀龍が現れて、そして……」
“ねぇ、どうやったら、あなたを助け出せるの!? そんなところから早く出て、帰って来てよ、お願い!”
 シュネは必死の思いで叫ぶ。
「……助ける? そう、火閃銀龍だけが、私を救えるのだよ。 私は、生け贄として死ぬためだけに生まれ、生きて来たのに……今頃になって皆が、死ぬ必要などないと言い出すから……どうすればいいか分からなくなって……。 火閃銀龍は、ただ眠っていればいいと……目覚めなければいい、眠っている間に、すべて済んでいるからと……苦しくもないからと……言ってくれた……。 素敵だろう? シュネ。眠っている間に……夢の中にいるうちに、すべてから解放されるなんて……」
 うっとりとした眼差しで、サマエルは天を仰いだ。
“駄目、駄目だよ、死ぬなんて言わないで! シンハは、ダイアデムはどうするの、それに、フェレスは!? 取り残されて、悲しい思いをするよ! 皆、サマエル様のことが大好きなのに! あたしだって悲しいし、お兄さんだって、きっとそう思ってる、死んじゃ嫌だよ!”
 シュネの緑の眼から、涙がこぼれ始めた。
 その彼女の肩を抱き、リオンも言葉を添える。
“お父さん、リオンです……あなたが死んだら、ぼくも悲しい……せっかく,お父さんができたのに。 死なないで、お願いです……!”
「リオン、シュネ……お前達の気持ちは、うれしいが……」
 サマエルは、わずかに首を横に振った。
「だが、“焔の眸”は私を……本当に、愛してくれているのだろうか……。 タナトスもだ……彼らは単に自責の念に駆られ、私を生かしておくことで、罪滅ぼしをしようとしている……それだけのことではないのか……? 何だか私には、そう思えて仕方がないのだよ……」
「──こ、このたわけ者め!」
 たまりかねたタナトスは大声を上げ、隠形の術の範囲からずかずかと歩み出ると、サマエルを見上げた。
「たしかに、そういう側面もないではない、贖罪(しょくざい)の念から、貴様を真っ当にしてやろう、とも思ったりな! だが、さっき、モトとのやり取りで気づいたのだ、俺は、貴様を……」
「タナトス、お前……いつの間に?」
 兄の突然の出現に驚き、サマエルが身を乗り出した、そのとき。
“まことに乱(ろう)がわしきことよ。 ルキフェルを目覚めさせたは、何奴か”
 ついに火閃銀龍が目覚め、四つの首を一斉に持ち上げた。

 10.龍の邂逅(2)

「僕らもいるよ、それに、ほら、シンハも!」
 タナトスに続き、シュネとリオンが隠形術から出て行く。
 さらに黄金のライオンが、のそりと現れると、サマエルの声は意識せずに震えた。
「ああ……シンハ……来たのか……」
 直後、兄の陰から出て来た夜色の豹に眼を止め、彼は問いかけた。
「おや、その黒豹は……?」
 タナトスは、カーラの頭を一なでし、誇らしげに答えた。
「こいつは“黯黒の眸”の化身、カーラだ。俺が名づけた」
「お前、また、性懲(しょうこ)りもなく……」
 思わず、サマエルは眉をひそめる。
「勘違いするな、俺が創ったわけではないぞ。
 こいつは、俺達の知らないところで、以前から存在していたのだ。
 それが、ここに来るとき、戦闘用の化身として現れた。
 テネブレと分離したばかりで名無しだと言うのでな、俺がつけてやったまでのことだ」
“閑寂(かんじゃく)たる闇を乱す、浅ましき虫螻(むしけら)共めが! まったくもって、姦(かしま)しきこと、この上なし!”
 そのとき、伝説の龍の忌々しげな思念が割り込んで来て、サマエルを除いた全員が、さっと身構えた。
“然(しか)れども、何匹が湧(わ)いて出ようと、吾(あ)が敵には非(あら)ず。 速(すみ)やかに退治てくれよう。 ──いざ!”
 言うが早いか火閃銀龍は、四つの頭をもたげ、黒い色の口をかっと開けた。
「──まずい、散れっ!」
 タナトスが叫び、皆はさっと四方に散った。
 直後、漆黒の光線が発射されて激しい爆発が起こり、息が止まるほどの熱風が周囲に吹き荒れた。
 さすがは、魔界の救世主と謳(うた)われる火閃銀龍だけあって、発せられる光の束の威力は、すさまじいものがある。
 さらに龍は、サマエルを捕らえている紅以外の口から、それぞれと同色の光線を彼らめがけて吐き出し始めた。
 タナトスは避けつつも時折反撃するが、小山のような火閃銀龍のどこに攻撃が当たっても、思ったようなダメージは与えられない。
 少量の煙が上がる程度だった。
 それを見たリオンやシュネ、そしてシンハやカーラも、それぞれに魔法で攻撃を加え始めた。
 だが、やはり龍の巨体は、大した損傷を受けない。
 それにまた、あまりに強力な魔法を使うと、サマエルに影響が出る恐れもある。
 ならばと、うねうねとうごめく首や、弱そうな眼に攻撃を集中させてみても、龍はそれを平気な顔で受け流し、小石が当たったほどにも感じていないようだった。
 それでも、相手の比較的動作が緩やかなため、光線を避けることは、さほど難しいことではなく、これなら時間を稼ぎつつ、弟を取り戻せるかも知れないと、タナトスが思ったのも束の間。
「──うっ、あ、ああ、くっ……!」
 彼は、サマエルが苦悶の表情を浮かべ、うめき声を漏らしていることに気づいた。
 さらには、弟の体の、火閃銀龍にまだ飲まれていない部分に、火傷に似た跡までが次々と現れ出したことにも。
「何だ、サマエル、どうした!?」
 タナトスが叫んだことで、全員がそれに気づいた。
『まさか……ルキフェル!』
 シンハが、何かを悟ったように眼を見開いたのはそのときだった。
「どうしたのだ!? サマエルは、何ゆえ苦しんでいる? あの跡は一体何だ、火閃銀龍が、何かしているのか!?」
 焦って弟を指差すタナトスに、ライオンは苦々しげな視線を向けた。
『ここはルキフェルの内部。 ゆえに、我らが光線を避ければ、彼に命中したも同然となる。 先ほど、モトがあれほど傷を負っていたのも道理、避ければルキフェルが負傷致すゆえ、その身に受けるしかなかったのであろうよ』
「ふん、ならば結界を張ればいいだろうが! ──」
 頭に血が上り、勢いで結界を張ろうとした彼を、シンハは冷静に止めた。
『待つがいい、サタナエルよ。 弾き返した魔力は、何処(いずこ)へ参ると思うておる?』
 結界が跳ね返した光線……それは言うまでもなく、サマエルを傷つけるに決まっていた。
「──くそっ、それでは、俺達はやられているしかないということか!?」
 タナトスは、苛立たしげに拳を振り回す。
 シンハは、捕らえられて苦しげにもがくサマエルから、片時も眼を放せない様子で答えた。
『……口惜(くちお)しいが、今のまま方策を見出せねば、やはり一旦、退(ひ)かねばなるまい。 さもなくば、救いに参ったはずの我らが、ルキフェルの……死の使いとも成りかねぬ……』
「何、今さら尻尾を巻いて逃げるだと!? そんなことができるか!」
 タナトスは言い返すが、その間にも、苦しげな声と共に、サマエルの傷跡は増えていく。
 火閃銀龍は、わざと彼らを外して乱射しているようにも思え、彼は地団太(じだんだ)を踏んだ。
「くそう、ここまで来て、みすみす……!」
「お、伯父さん、ぼくら、どうすればいいんですか!?」
 リオンは、ただおろおろしていた。
 サマエルを守りたいのは山々だったが、相手は伝説の龍である。
 その魔力の強さは、言語(げんご)に絶するものだろうということは、容易に想像がつく。
 下手をすれば命を落とすかも知れないと思うと、うかつに攻撃を受けることはできなかった。
「や、やっぱり外に出ましょう! こ、このままじゃ、サマエル様が死んじゃうよ! あたし達だって、無事じゃいられない!」
 シュネが振り向いて叫んだとき、その隙を狙いすましたように、光線が彼女目がけて発射された。
「──危ない! うわっ!」
 彼女をかばったリオンは、光線をまともに浴びて、跳ね飛ばされてしまった。
「きゃあ! リオン兄さん! しっかりして!」
「き、来ちゃ駄目だ、大丈夫……かすった、だけ、だから……うっ!」
 唇から血を滴らせながらも強がって見せ、駆け寄ろうとするシュネを、手を上げて止める。
 しかし、想像以上に火閃銀龍の攻撃は強力で、全身に鋭い痛みが走り、起き上がることさえできずにいた。
 その彼に向けて、龍は、容赦なく追い討ちをかける。
「──うわあっ!」
 リオンは、転げ回って必死に攻撃を避けた。
 だが、そのことでますます、サマエルは窮地に追い込まれていくのだった。
「だ、誰か、助けて! 兄さんが……サマエル様も、どっちも死んじゃう……死んじゃうわ!」
 シュネはどうすることもできずに、頭を抱えてその場にうずくまる。
 だが彼女も、無事では済まなかった。
「きゃああっ!」
 直撃はしなかったものの、シュネは爆風で吹き飛ばされ、ぐったりとなった。
「──シュネ!」
 リオンは叫ぶが、自分の身を守るだけで精一杯で、彼女に近寄ることもできない。
『“黯黒の眸”よ、リオンをサタナエルの許(もと)へ! 我はシュネを連れてゆく!』
 シンハは兄弟石に指令を出し、一飛びでシュネのところへ行き、彼女に触れ、呪文を唱える。
『──ムーヴ!』
「心得た」
 カーラもまた、逃げ回るリオンのそばへ降り立つと、主の許へと運んだ。
 爆風のせいで獲物が逃げたことに気づかないのか、火閃銀龍は、二人がいた辺りに、まだ攻撃を加えていた。
 その隙にと、ライオンは、ぐったりとしたシュネに回復呪文をかける。
 黒豹も同様に、リオンを回復させた。
 それが終わると、シンハは魔界の王に声をかけた。
『サタナエルよ。特殊結界を張るがいい。 黔龍(けんりゅう)たる汝が焦点となれば、強靭(きょうじん)なる楯(たて)となろう』
「……特殊結界とは何だ? それに、結界を張るなと言ったのは貴様だろう」
 不審そうなタナトスの腕に触れて、シンハは一瞬で理由を説明した。
「なるほどな。 ──ネガー・スクータム!」
 タナトスは、間(かん)髪(はつ)を容(い)れず結界を張り、それから声を張り上げた。
「どこを狙っている、火閃銀龍! 俺達はここだ、全員此処に集まっているぞ!」
“其処(そこ)におったか虫螻(むしけら)共!”
 火閃銀龍は、一斉に首を回し、今度はタナトスの張った結界に攻撃を集中し始めた。
 シンハが伝えたこの結界は、相手の魔力を跳ね返さずに吸収するという特殊なものだった。
 吸い取った魔力を結界の維持に回し、ほぼ無限に継続できるのはいいのだが、結界内からは攻撃できないため、実用的でないとして、近年では使用されることがなくなっており、タナトスは習っていなかったのだ。
 そしてまた、無限に張っていられるはずのこの結界も、相対するのが無敵の龍ともなると、話は別のようだった。
 四色の閃光が、半球状の結界表面を縦横無尽に行き交い、内部は帯電し、皆の髪や体毛はぱちぱちと音を立てて逆立って、結界自体も不安定に揺らいでいる。
 結界を支えるタナトスもまた、鈍い頭痛に襲われ続け、顔をしかめて、こめかみを押さえていた。
「ちっ、火閃銀龍め、さすがは、名にし負う伝説の龍、忌々しいほど強力だな。 まだ実体化もしておらん癖に!」
『さて、サタナエルよ。これでようよう落ち着いて話ができるな。 ……何としてもルキフェルを救い出したきは山々なれど、左様な有様では、汝の結界も長くは持つまい。 断腸の思いで、此度(こたび)は一旦退(しりぞ)き、機会を改めて……』
 苦渋の表情で切り出すシンハの言葉を、タナトスは否定した。
「いや、それでは手遅れになりかねん。 俺達のことを知ったからには、取り戻される前にと、サマエルを飲み込む速度を上げるに決まっているからな、こやつは」
 彼は火閃銀龍の方へ、顎(あご)をしゃくって見せる。
『なれど、今のままでは……!』
 黄金のライオンは、苛立たしげに全身を震わせる。
 そのとき。
「少しの間、攻撃をやめてもらえないか、火閃銀龍よ」
 聞き覚えのある涼(すず)やかな声が、空間に響いた。
“何と、吾(あれ)を呼び出(いだ)したは、汝(なれ)ではないか。 この期(ご)に及んで、変心(へんしん)したと申すか!”
 火閃銀龍は、黒い頭をサマエルに近づけ、大きく口を開けて威嚇する。
「そうではないよ、このままでは共倒れになってしまって、誰も得をしないと思うからだ。 お前も、私を……紅龍を飲む込む前に、私に死なれては困るのだろう? 直接話して帰らせるから、私を彼らのそばに近づけてくれないかな」
 傷つきながらもサマエルは、静かな口調、落ち着いた眼差しで伝説の龍を説得にかかる。
“……むう”
 火閃銀龍は、しばしの間、彼を捕らえた紅の頭に、他の頭を寄せて考えていた。
「この、のろまめ! さっさと話をさせろ!  いや、早くサマエルを返せ、解放しろ!」
 しびれを切らしたタナトスが叫ぶ。
“何と。此(こ)の吾(あれ)を愚鈍(ぐどん)と申すか!”
 龍が激昂(げっこう)しかけるのを、サマエルは冷静に諭(さと)す。
「落ち着くがいい、火閃銀龍。 お前は伝説に謳われた偉大な龍、たかが土龍(もぐら)の囀(さえず)りなど、聞き流しているがいい」
「も、土龍の囀りだとぉ……!?」
 こちらも憤激しかけるタナトスを、目顔でシンハが抑える。
“……ふむ。 汝(なれ)が左様に申すのであれば、一度だけ機会を与えてやろう”
 心を決めた火閃銀龍はそう答え、サマエルをくわえた黒い頭を、ゆっくりとタナトス達の方へと下ろし始めた。

 10.龍の邂逅(3)

『ルキフェル!』
「ああ、シンハ……!」
 飛び立つような勢いで駆け寄って来た黄金のライオンを、サマエルは思い切り抱きしめた。
『戻って参れ、現実世界へ。我が許へ』
 願いを込め、シンハもまた彼にしがみつく。
 サマエルは身を固くし、それから、ささやくように答えた。
「それはできない。私はもう、選んでしまった……自己の消滅を……おのれの死を……」
『何ゆえ? 我をこうして抱(いだ)く、温かき腕(かいな)をも消し去ると?』
 シンハの悲しげな問いかけに、暗い眼差しでサマエルは答える。
「私は……安息を得ることは許されないのか……お前達は、それほど私が憎いのか……?」
『まさか、左様なことはない』
「私はただ、自由になりたいだけなのに。 死ぬことが唯一、私にとっての救いなのだから……」
「死んじゃ駄目だよ、お父さん!」
「死んじゃわないで、サマエル様!」
 シンハの後ろにいた、リオンとシュネが同時に叫ぶ。
「どけ、俺に話をさせろ、貴様らでは埒(らち)が明かん」
 タナトスが話に割り込み、皆を押しのける。
 ライオンは仕方なく場所を譲り、サマエルから離れた。
「お前が何を言おうと無駄だよ、タナトス。 皆が口をそろえて言う……『幸せになれ』と。 そこで私は考えてみたのだよ、一番の幸福とは何かと……考えに考え抜いて、たどり着いた結論は……死ぬこと、だった。 完膚(かんぷ)なきまでの自己破壊、私という存在の滅却(めっきゃく)、それが答えだ……お前に分かるか、タナトス」
「分かるか、そんなもの!」
 憮然(ぶぜん)としてタナトスは言い捨てる。
 しかし、それが耳に入った様子もなく、サマエルは続けた。
「見ての通り、私は火閃銀龍に飲み込まれつつある……こうしてくわえ込まれた部分から少しずつ溶かされ、吸収されていっているのだ。 とても苦しい……例えるなら、大きな岩に体を挟まれ、さらに、重しをかけられて、じりじりと潰されていくような感覚……とでも言えばいいか……。 だが、一方で、とても気持ちがいいのだよ……」
 第二王子は、脂汗をにじませつつも、微笑んだ。
「……苦しいのに気持ちがいい? 何だそれは?」
 タナトスは眉を寄せた。
「少しずつ“私”が消えていく……さながら、かつての私……ごく幼かった頃の、自分の意思すべてが黙殺されていた頃と同じ……とても痛くて、悲しくて、苦しくて、それでいて……その状態が心地よくなり、もっと続けて欲しいと願うようになっていき……。 もうすぐ火閃銀龍は、私の鼻や口を覆う……すべて飲み込まれるその前に、息が詰まるだろうね……そして私は、空気を求めてもがき、苦しむ……龍の口の中をかきむしって爪が剥がれ、血だらけになり、それでも龍は私を解放することはないだろう……。 やがて私は気が遠くなり、視界は暗くなって、死という名の、永遠の安息が訪れる……それを考えるとね、今まで感じた、どんな快楽よりも上を行くような気がして、今から楽しみなのだよ……」
 話し続けるにつれ、サマエルは恍惚(こうこつ)状態となり、うっとりとした眼差しで、あらぬ方を見ていた。
「貴様、苦しみもがきながらの死が、楽しみだと……!?」
 タナトスは、歯を食いしばった。
 そんな病的な考えは、完全に彼の思考の外だった。
 このまま正気を失うかと思えたサマエルは、いきなり真っ直ぐに彼を見た。
「……こんな風に、私の心は壊れている。 私はもはや、苦痛を与え続けられなければ、生きてはいけない体なのだ。 こんな私を生き長らえさせたところで、意味がない……私を生かしておくには、常に拷問にかけ続ける必要があるのだからね。 ふふ……タナトス。お前にそれができるのかい……?」
 サマエルは、兄の頬に手を当てた。
「くっ……!」
 その冷たさだけでなく、自分を見る弟の目つきの異常さに、思わずタナトスは身震いする。
「ねえ、お優しいお兄様? 心を入れ替えたから、私に優しくする、だって? 白々しい……何を今さら! 今頃になってそんなことを言い出すのなら、なぜ私が完全に壊れてしまう前に、助けてくれなかった?」
 そこまで言うとサマエルは、両の拳を握り締め、兄の肩をたたき始めた。
「どうして、どうしてだ! 今になって、今になって、今になって! 私が、こんなに、取り返しがつかなくなるまで壊れてしまった後で、何ゆえ、救おうなどとっ!」
 語気の荒さとは裏腹に、拳にはさほど力は入っておらず、本気でたたいているとは思えない。
 それでも、この弟が怒りを露(あらわ)にすること自体が珍しく、タナトスは、面食らったようにサマエルを見つめた。
 しばしの後、やっと気が済んだのか、サマエルは手を止めた。
 うつむくその顔は、タナトスには見えなかったが、肩に押し付けられた弟の拳はかすかに震え、懸命に涙をこらえているように、彼には思えた。
「……サマエル。 たしかに俺は昔、弟のお前に、鬼畜(きちく)と思われても仕方がないことを仕出かしてしまった……それは弁解の余地はない。 だからといって、間違いを正すのに遅過ぎるということもないだろう。 二度とは言わん、よっく聞け。 俺は……今頃になって気づいたのだ……お前を愛していると言うことにな。 それに気づくのが遅過ぎて……お前をこんなにしてしまった……それは、すべてではないにしろ、俺の責任だ……。 それゆえ俺は、償いをしようと思う。 お前に魔界王の位を譲る。俺は王になど向いてはおらんし、“黯黒の眸”さえおればそれでいい」
 言うなりタナトスは、弟の顔を強引に上げさせ、口づけた。
「……!?」
 サマエルは眼を見開き、体を硬直させたがそれも一瞬で、すぐに兄の体にむしゃぶりついた。
 その体が紫に輝く。
「何だ!?」
 驚いたタナトスが唇を離すと、サマエルは子供……人族で言うと七、八歳くらいの姿へと変わっていた。
「き、貴様!?」
 面食らうタナトスに向けて、少年のサマエルは紅い眼をうるませ、悲痛な声を上げた。
「兄様、ご免なさい! もし兄様が、本気でそう言ってくれてるんだとしても、僕、王様にはなれない! だって僕は、ベルゼブル陛下の血は、引いてないんだから! あいつが言ったんだよ、本当の父親は自分だって!」
 タナトスは眼を剥き、吼えた。
「何ぃ、貴様の本当の父親だと!? 誰だそれは!?」
 その剣幕に怯えたサマエルは、震えながら首を横に振った。
「わ、分かんない、んだ。僕、忘れちゃった、から……」
「忘れただと!? そんなわけがあるか!」
「誰かが言ったんだ……悪い夢だから、忘れなさいって……だから僕、忘れてたんだけど、少しずつ思い出して……」
「シンハ、貴様が忘れさせたのか!?」
 タナトスは血相を変えて詰め寄るが、ライオンは頭を左右に振った。
『我は知らぬ。……汝に心当たりはあるか、“黯黒の眸”』
 シンハは兄弟に尋ねてみた。
「否。テネブレの仕業ではない」
 カーラもまた、関与を否定した。
「くそ、では、どこのどいつだ!? それに、こいつの真の父親……!?」
 戸惑う彼らを尻目に、サマエルは話し続けた。
「でね、僕、やっと分かったんだ……陛下が、僕の眼を見て下さらなかったわけ……。 母様が死んじゃったのは僕のせいで、その僕は、あの方の子供じゃない……。 ずっと忘れてたかったのに、思い出しちゃって……僕、もう、消えてしまいたいって思った……。 だから、兄様に殺してもらおうと思ったのに、それもうまくいかなくて……」
 タナトスは、眼をカッと見開いた。
「貴様、それであんなことを……!?」
「……ご免なさい。 兄様を怒らせたら、全部、終わりにできるって思ったの……」
 サマエルは鼻をすすった。
「この、たわけ!」
 子供の姿の弟を怒鳴りつけ、拳を振り上げたところで、タナトスは動作を止めた。
 彼の行動に反応した火閃銀龍の三つの首が近づき、牙を剥いて威嚇したのだ。
「ご免なさい、ご免なさい……っ!」
 幼いサマエルの紅い眼から、現実世界では決して流すことのできない涙があふれ出て、頬を濡らし、彼を捕らえている龍の頭にこぼれ落ちてゆく。
『もうよい、ルキフェル。サタナエルも、心底では汝を許しておるゆえ』
 黄金のライオンは、泣きじゃくる少年の頬をなめた。
「──ち。それで今度は、火閃銀龍を呼び出しおったというわけか。 まったく面倒なことを……!」
 拳を下ろし、タナトスは天を仰いだ。
 彼らの眼前には、巨大な壁のごとく、伝説の龍が立ちはだかっていた。
 三つ首は、皆からやや離れたところで、くねりながら監視を続けている。
『して、ルキフェルよ。 汝はいかにして、彼(か)の龍を呼び出(いだ)したのか? 何者も知らぬはずの召喚の呪文を、いかにして汝は知ったのであろうな?』
 優しくシンハは尋ねた。
 この第二王子が本当に幼かった頃、話しかけていたときのように。
 すると、ようやくサマエルは泣きやみ、頭(かぶり)を振った。
「……ううん、僕が呼んだんじゃないの。 僕が泣いてたら、急にこの龍が現れて、びっくりしてる僕に言ったんだ。 そんなに消えたいなら、お前を食べてやろう、って。 お前を食べたら、この夢の中から出ることができる……命をもらう代わりに、お前の望みを叶えてやる、って……」
「……まったく。こいつときたら、今もってこの通り、ガキの精神のまま、マイナス思考の塊だからな。火閃銀龍も、それに吸い寄せられたのだろう」
 タナトスは肩をすくめる。
 黄金のライオンは、それを否定するように大きく体を揺すった。
『ルキフェル一人の力に、ではなかろう。紅龍……混沌の力に惹きつけられたのやも知れぬ』
「まあいい。それからどうしたのだ、サマエル?」
 幾分語気を和らげ、タナトスは続きを促す。
「それで……僕、大昔に戻って、攻めてくる前に神族を滅ぼして来てって、お願いしたの。 でも火閃銀龍は、今の僕に、直接関係あることじゃなきゃ駄目だって……。 だから、僕が生まれて来なかったことにして、って頼んだの。 そしたら、母様も死なずに済むし、兄様もベルゼブル陛下も……皆、幸せでいられるでしょう?」
 銀髪の少年は、泣きはらした眼でにっこりした。
「そ、そんな! あなたがいなくなったら、ぼくとシュネも生まれて来れないよ!」
 思わずリオンが叫ぶと、少年のサマエルは眼を丸くした。
「え、キミは誰?」
「お父さん、ぼくが分からないの!?」
「お、お父さん……!?」
 きょとんとして、サマエルは彼を見返す。
『リオンよ、見ての通りルキフェルは、幼少期に退行致してしまっておるゆえ、汝らに関する記憶はないのだ』
 そう言うと、シンハはリオン達を指し示した。
『ルキフェル。このリオンと、隣におるシュネは、汝と人族の娘との子孫だ。 汝が存在せぬとなれば、彼らもまた消滅致し、この世に生まれ出(いず)ることすら叶わぬのだぞ』

 10.龍の邂逅(4)

「そんなに生まれて来たいの? キミ達、幸せなんだねぇ、消えたくないなんて……。 お母さんにお父さん、兄弟や友達もいて、楽しく暮らしてて……だから、そんな風に思えるんだろう。 ……いいなぁ……」
 サマエルは眼をうるませ、心底うらやましそうにリオンとシュネを見た。
 いきなり連れて来られて、予想もしない出来事の連続、その上、サマエルまでが子供に戻ってしまった……シュネは混乱し、先祖をまじまじと凝視したまま、声も出ない。
 リオンも、子供姿のサマエルを、あっけにとられて見つめていた。
 一年ほどサマエルと生活を共にしていたシュネとは違い、彼はこの先祖の経歴についてはあまり多くを知らない。
 だが、家庭の温かさを知らずに育って来たのだろう。
 記憶までもが退行してしまった先祖を痛ましく思いつつ、話を続けるためにも、自分達のことを説明しておこうと彼は考えた。
「えっと……ぼくもシュネも親や兄弟はいないんですよ、小さい頃に死んじゃって。 特にぼくは、母さんが死んでからずっと一人でいたから、友達もいないし。 たしかに辛いこともたくさんあって、幸せとは言えないかも知れないけど、やっぱり消えちゃうのは嫌かな。 いつかは絶対幸せになるんだ、そのために生きてるんだって思ってるから。 自分で未来は変えられるはずなんだ、そう思わない?」
 いつしかリオンは、小さな子供に言い聞かせるような口調になっていた。
「そっか、キミには希望があるんだね、それもうらやましいよ。 僕には何もないんだもの……。 ……じゃあ、どうすればいいのかな。 嫌なのに、消しちゃうのは可哀想だものね……」
 幼い頃から、自分より他人を優先して考える子供だったサマエルは、小首をかしげて考え込んだ。
「あ、あのぉ、サマエル様……?」
 ようやく我に返り、話しかけようとするシュネに、リオンは念話を送った。
“ちょっと待って、シュネ。まず、彼の考えを聞いてみようよ。 子供に戻ってるんだし、大人のときと違う考え方をするかも知れない。 それを聞いてみてから、また話をしよう”
“あ、それはいいかもね”
“ふん……無駄なことだとは思うが、待ってやるか”
 タナトスも同意し、貴石の化身達は、黙っていることで賛意を示した。
 火閃銀龍も、時間をかけることについて、取り立てて異議は唱えなかった。
 ややあって銀髪の少年は、ぱっと顔を輝かせると一人うなずき、口を開いた。
「それじゃ、キミ達を、兄様の子供に生まれ変わらせてもらおう! 兄様はホントは優しいんだよ、怖いときもあるけど。 お父さんが本当に王様の、王子と王女に生まれたら、絶対幸せになれるよ! ね! これならいいでしょ!」
「ええっ、あたしが王女!?」
「何、俺の子だと!?」
 意外な答えに、シュネだけではなく、タナトスも面食らった。
「そ、そうじゃなくてね、ええと、何て言えばいいんだろ、その……」
 無邪気な先祖に何と答えればいいのか、リオンは困惑して口ごもった。
 シンハが、一声高く咆哮(ほうこう)したのはそのときだった。
 皆の視線が自分に集中していることにも気づかない風で、黄金のライオンは、苛立ちが頂点に達したように足を踏み鳴らした。
『ルキフェルよ! 汝がおらねば、我らは久遠(くおん)に隷属(れいぞく)の身分より、解き放たれることが叶わぬのだぞ!』
「大っきいにゃんこ……」
 サマエルは、真実幼かった頃と同じ呼び方で彼を呼び、その眼はみるみる涙で一杯になっていく。
『……!』
 シンハは思わずびくりとし、動きを止めた。
「お前は僕のことなんか、好きじゃないんだろう? 僕が何度も、一生懸命お願いしても、朝まで一緒にいてくれたことなんかないし、噛みついたりもするし……」
『ルキフェル、それは……』
 弁解しようとするライオンの鼻面を、銀髪の少年は、小さな掌を広げて押しやり、首を振った。
「いいよ、もう、何も聞きたくない。僕は絶対、王様にはなれないんだから。 お前だって、こんな泣き虫の僕なんかより、強い兄様の方を選びたいんだよね? 分かってる、皆、僕が嫌いで、生まれて来なきゃよかったのにって思ってるんだ。僕、知ってるよ。 だから、もう終わりにしたいのに、そのつもりだったのに、なんで邪魔するのさ……?」
 現実世界では禁じられた涙が、紅い瞳から再び、堰(せき)を切ったようにあふれ出し始める。
 それはまるで、紅龍……カオスの貴公子になって以来、溜め込んで来た膨大な量を一気に放出したかのようだった。
 流れ落ちる涙は、龍の頭部を構成する鉱物に含まれた宝石の表面を洗い清め、時折、ちかりと光らせる。
 それだけの勢いで泣いているのに、サマエルは声も出さなかった。
 涙だけが静かに火閃銀龍に滴り、染み込んでゆく。
 時が逆行してしまった伴侶を前にしたシンハは、痛ましい顔で、返すべき言葉さえ見失っていた。
 それは、残りの者達にとっても同じことで。
 さすがのタナトスも、もはやこの哀れな弟を怒鳴りつけたり、殴ったりする気にはなれなかった。
 気まずい沈黙の中、再びシンハの体が紅く輝き始めた。
 またもはっとする皆の前で、ライオンは黒髪の少年へと変化を遂げた。
 年は人間の十五歳くらい、浅黒い肌をし、白いシルクの襟つきシャツと、黒いベルベットのベスト、同素材の、七分丈で裾が絞られたズボンを身につけ、白いハイソックスと黒い羊革の靴を履いている。
 突如現れた見知らぬ美少年に、リオンとシュネは揃って息を呑んだ。
「キミは誰……?」
「だ、誰なの、キミ……?」
「何だ、貴様は!?」
 タナトスも、当惑して指を突きつける。
 この化身のことが、すぐ分からなかったのも無理はない。
 たった一度会ったきり、しかもその後サマエルによって救われ、以前とは別人のようになっていたのだから。
 ゼーンは周囲の驚きには構わず、涙ながらに訴えた。
「サマエル様! それでは、僕はどうなるのですか!? あなたが解放して下さらなければ、僕はあの惨めな姿のまま、果てしなく続く苦痛を受けなくてはなりません……! 僕は、あなたなしには救われない……ああ、どうか、どうか、僕を見捨てないで下さい!」
 彼の頬を滴り落ち、床に転がる貴石……それは、かつて盲目だったときのヘマタイト(赤鉄鉱=せきてっこう)ではなく、ダイアデムが流すものと同じ、深紅(しんく)の宝石、ダグリュオンになっていた。
 少年のサマエルは、初めただ呆然として、“焔の眸”の化身と彼が生み出す紅い輝きを見ているだけだった。
「サマエル様、お願いです、僕を忘れないで! 思い出して下さい!」
 しかし、ゼーンの浅黒い手が肩に触れると、全身に戦慄が走り抜け、サマエルは頭を抱えた。
「ううっ、あああっ!」
 叫びと共に、体が紫の光に包まれる。
 次の瞬間、大人に戻ったサマエルは、両腕を大きく開いた。
「では、おいで、ゼーン! 私と共に!」
「──はい!」
 ゼーンは何のためらいもなく、彼の胸に飛び込んでいく。
「火閃銀龍、上げてくれ! そして、すべてを私の望み通りに!」
“委細(いさい)承知”
 サマエルの合図を待ちかねていた火閃銀龍は即答し、黒い首が勢いよく上空へと持ち上げられていった。
「待て、火閃銀龍! 話はまだ終わっておらんぞ、サマエルを戻せ!」
 拳を振り上げて叫ぶタナトスを無視し、火閃銀龍の三つ首は巨大な口を開け、仮借(かしゃく)ない攻撃を再開した。
「……くっ!」
 彼は“黯黒の眸”をかばいながら、第一波をかろうじて避けた。
「ああっ!」
「うわっ!」
 だが、不意を突かれたシュネとリオンは、相次いで直撃を受けてしまった。
「カーラ、二人を頼む! ──ネガー・スクータム!」
 気を失った彼らを、黒豹は大急ぎで引き寄せ、直後にタナトスは再び特殊結界を張った。
「サマエルのたわけめが、“焔の眸”を手に入れた途端に豹変しおって! くそっ、どうしたら……」
 歯噛みするタナトスの頭上では、結界にせき止められた火閃銀龍の光線が、色とりどりに眩い輝きを放っていた。
 光線が表面で弾けるたびに圧力が加わり、結界はみしみしときしみながら、エネルギーを吸収し続ける。
 それに伴い、タナトスの頭の痛みも、加速度的に強さを増していく。
 このままではいずれ意識を失い、サマエルの精神世界から放り出されてしまうだろう。
 そして、気がついたときには、すべてが終わっているに違いない。
 弟は火閃銀龍に飲み込まれて消滅し、生まれて来なかったことになってしまうのだ……。
「くそう、いくら忌まわしい過去とはいえ、白紙に戻して、何もなかったことにしていいのか、サマエル! 俺は嫌だ! 覚えていたい、貴様のことを! 忘れたくなど、ないのだ!」
 届かないと知りながら、タナトスは遥か頭上にいる弟に手を差し伸べていた。
 その、とき。
“……サ、タナエル、よ……”
 かすかな思念が、彼の脳内に届いた。
「だ、誰だ?」
“わたし、だ……モト、だ……よ”
“モト!? 貴様、どこにいる!? サマエルとの合体に失敗しおって!”
 タナトスは頭を押さえながら、念を送り返した。
“いや、わたしは、すでに……ルキフェル……と一体化し……彼の中にいる……。 だが、火閃、銀龍の、力が、強過ぎて……。 り、龍が……彼の、悲しみ、と狂気を、煽(あお)って、いる、のだ……”
 火閃銀龍に阻まれているのだろう、モトの念話は途切れがちで、激しい頭痛に襲われているタナトスには、聞き取るのが難しかった。
“こいつが煽っているだと!? 何とかならんのか!”
 片手を頭から離し、タナトスは、火閃銀龍に向かって指を振り立てた。
“内部、からは……どうしようも、ない……だが、銀龍の、弱点と……言えるか、どうか……一つ、見つけた……”
“弱点だ!? 何でもいい、教えろ!”
“こ、この状態は、長く保てない……も、もう……意識が……”
“しっかりしろ、モト! 貴様が意識を失ったら、サマエルはもう仕舞いだぞ!”
 タナトスは叫ぶ。だが、モトの声はそこで途切れてしまった。
“──起きろ、モト! 意識を保て! 弱点を教えろ!”
 焦った彼が、心の声を最大にして呼びかけると、ようやく、かすかな返答が戻って来た。
“こ、子守、唄だ……それ、を……それが、龍、を……”
“子守唄がどうした、モト!?”
 彼は尋ね返したが、先祖の思念はもう消えてしまっていた。
「……子守唄だと? そんなもの、俺は知らんぞ。 それに、唄ごときで、本当にこいつを倒せるのか、こんなデカブツを……」
 タナトスが、巨大な龍を振り仰いだ刹那だった。
「うわああっ!」
 すさまじい衝撃が、彼の全身を貫いたのは。
 光線の効果がないことに業(ごう)を煮やした火閃銀龍が、堅固な岩石でできた頭部を、直接、結界に打ちつけて来たのだ。
 魔力ならどれほど強くとも、一時にせよ無効化できる特殊結界も、物理的な力の行使には無力だった。
 結界はガラスのようにもろくも砕け散り、最初の打撃により半ば失神状態に陥っていたタナトスは、激しく下にたたきつけられた。

 11.龍の唄(1)

「サタナエル!」
 唯一無事だった“黯黒の眸”の化身は、倒れた主に駆け寄り、素早く背中に乗せた。
「──ムーヴ!」
 それから移動呪文を唱え、火閃銀龍のさらなる攻撃を回避する。
 カーラがいなかったらタナトスは、外の世界に放り出されるどころか、この場で消滅の憂(う)き目に遭っていたかも知れない。
 それでも、危機は完全に去ったわけではなかった。
 今や火閃銀龍は分別をなくし、サマエルが傷つき、死ぬ可能性があることさえも忘れたかのように、見境なく光線を乱射し始めていたのだ。
 龍の攻撃をかわしつつ、一刻も早く主を目覚めさせなければと考えたカーラは、心の声を最大にして、タナトスに呼びかけた。
“──覚醒せよ、サタナエル! 我が主よ!”
「う……く、くそ、不覚……! まったく、忌々しい龍め……!」
 幸いにも、タナトスはすぐに失神状態から回復し、意識をはっきりさせようと、頭を振った。
「サタナエル、大事無いか」
「案ずるな、カーラ。今少し、背中を借りるぞ」
 不安げな化身の背を軽くたたいて落ち着かせてから、タナトスは再度、モトと連絡を取ろうと試みた。
“モト! どんな子守唄だ! それを唄えば、本当にヤツを倒せるのだな!?”
 たが、応答はない。
“聞こえんのか、くそっ!”
 悪態をついて呼びかけを打ち切り、しなやかに龍の攻撃をかいくぐり続けている豹の上で、タナトスは伸び上がった。
 彼の視線の遥か先で、龍にくわえられているサマエルは、顔を歪めて苦しげにあえぎ、身悶えていた。
 しっかりと胸に抱きしめた黒髪の少年に、時折、何事かささやく。
 唇の動きで、『もう少しだ、あと少しで終わる。この苦しみさえ乗り越えれば、私達は救われるのだ』などと話しているのが分かり、タナトスは、険しい表情になった。
「ちっ、何が『救われる』だ、たわけめ! 苦痛を受けるのが快感だと……どこがだ。 どう見てもあいつは、苦悶しているようにしか見えんわ!」
 タナトスは忌々しげに吐き捨て、またも先祖に呼びかけた。
“モト、モト! 答えろ! 聞こえんのか、どうしたのだ!”
 いくら呼んでも、やはり応えはない。
 おそらく、完全にサマエルと融合してしまったのだろう。
(……む、たしか、同化してしまえば、『モト』という人格は消えてしまう……そう言っていたな)
 タナトスはつぶやき、先祖との通信に見切りをつけて、黒豹に声をかけた。
「まあいい、カーラ、ガキどもを拾いに行くぞ! ──ムーヴ!」
 倒れているシュネ達のそばに到着し、化身の背中から滑り降りたタナトスは、通常の結界を張ることにした。
「──セーブル・ヴェイル!」
 特殊結界は、もう役には立たない。
 どうせサマエルは、今のままでも、火閃銀龍の滅茶苦茶な攻撃で傷つく。
 普通の結界で光線を跳ね返しても、その傷つき具合に大差はないだろうと、判断したのだ。
 彼が結界を張っている間に、“黯黒の眸”の化身は、素早くシュネ達の容態を診た。
「……ふむ。幸い、命に関わるほど酷くはやられておらぬ」
 龍が的を定めずに光線を乱射していたお陰で、一旦気絶した後、二人にはそれ以上の攻撃が当たっていないようだった。
 安堵したカーラは、彼らに回復呪文をかけた。
「──フィックス!」
「あ、痛ててて……」
「う〜ん……あたし……?」
 すぐさま効果は現れて、彼らは起き上がった。
「おい、貴様ら。子守唄を歌え。 よくは分からんが、子守唄があの龍の弱点らしい。モトがそう言っていた」
 目覚めた途端、思ってみないことを命じられたリオンは、話がよく呑み込めず、ぽかんとタナトスを見返す。
「え……えっ、子守唄、って……?」
「ど、どんなのでも、いいんですか? ……っていうか、ホ、ホントに、子守唄なんかが……こ、これの弱点なの?」
 シュネは、目の前にそびえ立つ、巨大な龍を見上げた。
 タナトスは、渋い顔で腕組みをした。
「それが、よく分からんのだ。 モトは、サマエルとの同化を果たしたようで、詳しくは聞けずじまいだった。 ……どの道、俺は子守唄など覚えておらん。 幼い頃に聞いたかも知れんが、母が亡くなったのは、もう一万年以上も前だからな」
 ようやく彼の話を理解したリオンは、小首をかしげた。
「子守唄……どんなだったかなぁ。 ぼくも、小さい頃に母を亡くしてますから……」
「待って。あたし、覚えてるかも。 最近記憶が戻ったから、子供の頃のことも、きっと思い出せてるはずです」
 シュネが勢い込んで言った。
「ふん、ならば歌ってみろ」
 タナトスは横柄に答える。
「は、はい。ええと……出だしは……」
 可能だとは言ったものの、シュネは、なかなか思い出すことができなかった。
 何しろ、今のこの状況と、子守唄……この二つほど、そぐわない組み合わせもないと言ってもよかったのだから。
 結界のすぐ外は巨大な龍が暴れ狂って、まるで戦場のような惨状を呈しており、いくら眼を閉じ、耳をふさいでも、閃光は目蓋(まぶた)を透過して、くぐもった爆発音や振動も伝わって来る。
 そんな中にあって、幼子の心を和(なご)まし、眠りにつかせる優しい旋律を、記憶の底から甦(よみがえ)らせなければならない……それはかなり困難な作業だった。
「ふむ……この有様では、童子も意識の集中が難しかろう。 サタナエル、ここを遮蔽(しゃへい)しては如何(いかが)だ」
 カーラが提案する。
「ふん、うるさいことは確かだな」
 タナトスは、ぱちりと指を鳴らす。
 刹那、結界内は闇に閉ざされ、音もぴたりとやんだ。
「えっ?」
 いきなり静かになったことに気づいて眼を明けたシュネは、暗闇でも皆の姿が見えることに、さらに驚いた。
「み、見える……な、なんで……!? こ、こんな真っ暗なのに……!?」
「キミが、サマエルの子孫だからさ」
 リオンが言い、タナトスが続ける。
「魔族は夜行性だ。闇夜に行動できんと不便だからな。 それより、子守唄は思い出せたのか?」
「あ、いえ、まだです、え、ええっと……」
 慌ててシュネは、記憶を手繰(たぐ)る作業を再開した。
 最近記憶を取り戻した彼女にとっては、まるで昨日のような、過去。
 思い返すことが辛くないと言えば嘘になるが、今はそんなことを気にかけている余裕はなかった。
「子守唄……お母さんの……いつ聞いたっけ……ええと……」
 ぶつぶつつぶやくうち、徐々にシュネの体が半透明になっていく。
「シュネ!?」
 リオンは思わず、彼女の腕をつかむ。
 途端に、二人の姿はかき消えた。
「む、どうしたのだ、あやつらは!?」
 慌てて辺りを見回すタナトスを制するように、黒豹が言った。
「夢飛行だな。目的の物を見つけたなら、いずれ戻るであろうよ」
「こんなときにか!」
「それが最も早く、確実な方法と思えるが」
「……ふむ、そうかも知れんな」
 タナトスは闇の中で肩をすくめ、再び指を鳴らす。
 またもや喧騒(けんそう)が戻って来たが、騒々しい外を見ている方がまだ、待つ間の退屈をしのぎやすいと彼は思った。

           *       *       *

 シュネ自身は、何をしたのか、まったく分かっていなかった。
 夢飛行の存在を知らず、また、自分にそんなことが可能だとも思っていなかったのだ。
「あ、あれ……ここどこ? 皆は……?」
 驚いて周囲を見回す彼女が立っていたのは、見覚えのある部屋だった。
 揺りかごに赤ん坊が寝かされ、そばに母親らしき女性が座って、あやしている。
「お、お母さんだ……お母さん!」
 思わずシュネは、状況も忘れて抱きつこうとしたが、体は母親をすり抜けてしまう。
「あれっ、ど、どうなってるの? ね、ねえ、お母さん! あたし、シュ……ううん、ベリルよ! ほら、こっちを見て、ねえ!」
 その上、何度声をかけても聞こえている様子がなく、母親の前に手を出してみても、まったく見えていないようだった。
 ようやく彼女は、どうしてこうなったのか分からないものの、自分が過去の記憶に紛れ込んでしまったらしいと気づいた。
「そっか……お母さんはもう、死んじゃってるんだもんね。 それにあたしは、子守唄を捜しに来ただけし……」
 彼女は悲しげにつぶやき、母親を見つめた。
 そして、この母が、記憶にある、死ぬ間際の母よりも若いことに気づいた。
「え、じゃ……ひょっとして、こ、この赤ちゃん、あ、あたしなんじゃ!?」
 急いで揺りかごを覗き込む。
 次の瞬間、シュネは、過去の自分と眼を合わせていた。
「きゃっきゃっ」
 赤ん坊は、うれしそうな笑い声を立てた。
「え……もしかして、あたしが見えてる?」
 ためしに手を振ってみると、赤ん坊は満面の笑顔で、小さな拳を振り返して来る。
「ばぶばぶばぶ!」
 そのはしゃぐ様子は、未来から来た自分自身を歓迎しているかのようだった。
「あらあら、どうしたの、ご機嫌ねー。でももう、ねんねの時間よ」
 そんなこととは知らない母親は優しく赤ん坊をあやし、子守唄を歌い始めた。
「あ、覚えてる……この、唄……」
 シュネは眼をつぶり、耳を澄ませた。
 心に染み入るような母の歌声、決して戻っては来ない、遠い過去……。
 固く閉じたシュネの目蓋から、抑えようもなく涙が流れ落ちる。
 しばらくの間、子守唄に聞き入っていた彼女は、歌声がやんだことで眼を明けた。
 育児疲れからか、母は揺りかごにもたれかかり、寝入ってしまっていた。
 涙をぬぐい、そばにあった毛布をかけてあげようとしても、指がすり抜けてしまい、持ち上げることもできない。
「ああ……お母さん、ご免なさい……! あたしに優しくしないで、あやしたりしないで、お母さん……だってあたし、あたし……大きくなったら、お母さんを殺しちゃうんだよ……!」
 彼女が顔を覆った、そのとき。
 扉が静かに開き、滑るように部屋の中に入って来る姿があった。
「サ、サマエル様……あ、ち、違うわ、この人は……!」
 シュネは思わず息を呑む。
 優しい緑の瞳、長い銀髪を後ろで束ね、いつも笑みを絶やさず、魔法に長(た)け、この町一番の魔術師として、皆の尊敬を一身に集めていた……。
 その人物は、シュネに眼を留めると、はっと息を呑んだ。
「あんたは誰じゃ? いつの間に部屋の中に?」
 母には見えなかった自分の姿が、この人物には見えている。
 我知らず、シュネは訊き返していた。
「お、お祖父ちゃん、あたしが見えるの!?」
「お祖父ちゃん、じゃと!? ……ということは、まさか……!?」
 シュネの祖父は、揺りかごの中を急ぎ確認し、それから再び、彼女に視線を戻す。
 だがその眉は、不審そうにひそめられていた。
「髪も眼の色も、この子とは違うようじゃが……」
「でも、あたしはベリルなのよ、お祖父ちゃん。 信じられないかもしれないけど、大きくなると、こんな風に変わってしまうの……」
 シュネは、自分の胸に手を当て訴える。
 その緑の瞳からは、またも涙が流れ始めていた。

 11.龍の唄(2)

 考えをまとめるように、しばらく無言でいた老人は、やがて微笑んだ。
 その穏やかな笑みは、どことなく、サマエルを思い出させた。
「……たしかにお前さんは、わしの孫じゃな。
 わしもそうじゃった。成長に従い、さなぎが脱皮するように、髪や眼の色が変化し、外見がまったく変わってしまったのじゃ。 我がパッサート家の者には、時折、そのような不思議が起こるのじゃよ」
「えっ、そうなの!?」
 シュネは、祖父譲りの緑の眼を見張る。
「それをお前に話す前に、わしの寿命は尽きたのじゃな」
「う、うん……」
 シュネは口ごもる。祖父の死の数年後、何が起きたか……は、口が裂けても言いたくないことだった。
「それはともかく、立派になったな、ベリルよ。 夢飛行で飛んで来たのじゃろう? それほどの魔法使いになっておるとは」
 祖父はしみじみと言ったが、シュネにはその意味が分からず、首をかしげた。
「え、何それ……? あたしはただ、子守唄を歌わなきゃならなくなって、頑張って思い出そうとしてたら、いつの間にか、ここに来てたんだけど……」
 すると、祖父の顔色がさっと変わった。
 「な、何も知らずに来たじゃと!? なんとしたことだ、元の“時”に戻れねば、命はないのじゃぞ! 夢飛行は、超上級者向けの、非常に高度な技なのじゃ!」
「え、ええっ、も、戻れないと、し、死んじゃうの!? ど、どうしよう……!」
 青ざめたとき、後ろから肩をたたかれて、シュネは驚きのあまり飛び上がった。
「きゃっ!?」
「安心しなよ、ぼくが、キミをちゃんと元の世界に連れて帰るから」
「えっ!?」
 その声に振り返ると、栗色の髪と朱色の眼をした青年が立っていた。
「リ、リオン兄さん!? い、いつからそこに!?」
 シュネは眼を丸くした。
「キミが夢飛行をしそうになのに気づいて、とっさに腕をつかんだら、一緒に飛んで来てしまったんだ。 気づかなかった?」
 こちらもまた、サマエルにどこか似ている笑みを、リオンは浮かべた。
「うん、ぜ、全然……」
「兄さん、じゃと? この子に兄はおらんぞ」
 揺りかごを手で示す老人の瞳に、再び猜疑心(さいぎしん)が宿る。
「あ……えと、あ、あのね、リ、リオン兄さんは、ホントの兄弟じゃなくて、ええと……その、……」
 どう話していいものか、迷ったシュネが言葉に詰まると、リオンが助け舟を出した。
「ああ、ぼくらは賢者サマエルの弟子、なんですよ。 ぼくは兄弟子なんで、彼女はぼくを……」
「なんと、お前さん達、サマエルの弟子じゃと!?」
 シュネの祖父は、彼に最後まで言わせなかった。
 その勢いには、リオンの方が驚いた。
「え……ええ、信じてもらえないかもしれませんが、ぼくらは本当に……」
「──それでは、ベリル、賢者殿は、お前の血筋について、何か言っておらなんだか!?」
 さらに勢い込んで、老人は尋ねた。
「えっ、お、お祖父ちゃん、ど、どうしてそれを……?」
「やはりそうじゃったか……。 それでお前は、人嫌いで有名な、賢者の弟子にしてもらえたのじゃな」
 シュネの祖父は一人うなずき、それからリオンを見た。
「では、リオン殿とやら、お前さんも……賢者の血を引いているのじゃろうな?」
「はい、そうです。でも、なぜそれをご存知なのですか?」
 不思議そうに、リオンは訊いた。
「……ふむ。実はな、我が家に代々伝わる古文書には、こういう一節が繰り返し出て来るのじゃよ。『我らは龍の一族。サマエルの血筋に連なる者』と……。 この“サマエル”が、賢者のことなのかどうか、かなり論議されておったのじゃが、現在に至るまで、結論は出なかったのじゃ。 何しろ、賢者は大の人嫌い、誰も会った者がおらんのじゃからな。 ……そうか、やはり我が一族は、賢者サマエルの子孫であったか……」
 感慨深げに、シュネの祖父は言った。
「そんな古文書が家にあったの、全然知らなかった。 でも、あたしもついさっき、その話を聞いたばかりなのよ、お祖父ちゃん。 それでね、まだちょっと混乱してるところに、大至急、解決しなきゃならないことができちゃって、えっと、それっていうのが……」
 もっと詳しく言った方がいいかどうか迷い、シュネはちらりとリオンを見た。
 彼は首をかすかに横に振り、念話を送って来た。
“サマエルが魔族……なんてことは、話さない方がいいと思うよ。 きっと、びっくりしちゃうと思うし、それにややこしくて話が長くなる。 前にぼくが夢飛行を習ったとき、飛んで行った先には長居しないようにって言われたんだ。 ずっといると、元いたところの印象が薄くなって、正確に思い出せなくなるから”
“……ふうん、そうなんだ”
 彼女はうなずき、祖父との会話を続けた。
「えっと、詳しくは省くけど、その解決しなきゃならないことにね、子守唄が関係してるみたいなの。 それであたし、思い出そうと頑張ってたら、どういうわけか、その……夢飛行? で飛んで来ちゃった、らしくて……さっきお母さんの子守唄聞いたけど、これでいいのかもよく分かんないの」
 孫のたどたどしい説明を聞いた老人は、あごに手をかけ考え込んだ。
「……ふむう、子守唄か……。 もしかして、あの書が関係しているのでは……」
「あの書? 何かご存知なのですか?」
 リオンが尋ねると、老人は顔を上げた。
「いや……子守唄、ではないのじゃが、我が一族には、“龍の唄”と記された古文書が伝承されておっての。 しかも厳重に封印が施されており、いまだかつてそれを解いた者はおらん。 これもまた、我が一族の謎とされておる書物なのじゃが」
「へえ……封印された古文書か」
「どっちにも“唄”がついてる……わね?」
 二人は顔を見合わせ、リオンが口を開いた。
「彼女がわざわざ“この時”に飛んで来たのには、何か意味がある気がします。 その本、見せてもらえないでしょうか」
「分かった、案内しよう、こちらへ……おう、その前に」
 祖父はぱちんと指を鳴らし、うたた寝をしているシュネの母に毛布をかけると、ドアを開けた。
 その後に、リオンが続く。
 自分も続こうとして、ふとシュネは立ち止まり、眠る母の姿を見つめた。
「……お母さん……」
 もう、遠い昔に死んでしまった母……自分のせいで。
 万感の思いが、胸に迫って来る。
 瞳が再び熱くなるのを、彼女は感じた。
「どうしたのじゃ、ベリル? 早くおいで」
 部屋の外から、祖父の声が自分を招く。
「あ、はい、今行くから……!」
 母から視線をもぎ放し、涙をぬぐうと、急いで彼女は二人を追った。
「わぁ! 懐かしい……!」
 中に入るなり、シュネは祈るように指を組み合わせ、声を上げた。
 今はもう存在しない、たくさんの書棚にびっしりと本が並んだ祖父の部屋。
 幼い頃、彼女はよくここに来て、書を読む祖父の膝に乗ったものだった……。
「──カンジュア!」
 感傷に浸る彼女を尻目に、祖父は棚の一番高いところから、一冊の書物を魔法で取り寄せた。
「そら、これじゃよ」
 それは、大人の顔ほどもある、分厚い本だった。
 色も大きさも様々な宝石に彩られた表紙は革製で、装飾の一部のようにも見える、金で箔(はく)押しされた題名は、現在人界で使われている文字ではないため、普通の人間には読むことができない。
「ご覧、ここに、“龍の唄”と書いてあるのじゃよ」
 祖父が二人に、表紙の文字を示したそのとき、突如、書物が、眩(まばゆ)い緑の光を発し始めた。
 老人は驚き、危うく本を取り落とすところだった。
「ど、どうしたことじゃ、これは……!?」
「や、やっぱりこれ、子守唄と、なんか関係があるんだわ!」
 シュネが叫ぶと、ひときわ強く、書物が緑色に輝いた。
「そうかも知れぬの。この文字は、かなり古い時代のものでな、色々な文献を調べ、近年ようやく解読できたのじゃが。 おそらくこれは、お前さん達のために、長年……一説には、千年とも、千二百年とも言われておる……我が一族に伝承されて来たのじゃろう。 さあ、持っておいき。お前ならきっと、封印も解くことができるはずじゃ」
 祖父は古文書を差し出す。
 シュネは掌を広げて、本を押し戻すような仕草をした。
「あ、駄目、無理よ、すり抜けちゃうわ。 さっき、お母さんに毛布かけてあげようとしたけど、持てなかったもの」
「いいや、本当にお前が必要とするものならば、そんなことはないはずじゃ」
 祖父は、孫の手に書を乗せた。
「あ、待っ、おじいちゃ……!」
 慌ててつかもうとする彼女の手の中に、ちゃんと書物は残り、光も消えた。
「あ、あれれ……?」
「そら、わしが言った通りじゃろう」
 老人は、にっこりした。
「ホントだね。この本は、キミか、それとも……誰か必要とする人が、夢飛行で過去に飛んで来ることを想定して、キミの家に代々伝えられて来たんだよ」
 リオンが言い、シュネは大きく息を吐く。
「……そうみたいね……」
 持つことができないはずの過去の物体が、こうして彼女の手の上にある。
 それには、特別な理由があるに決まっていた。
「ともあれ、大きくなったお前の姿を見ることができてよかった。 あとどれくらい生きられるか、大人になったお前を眼にすることはできまいと諦めておったからの」
 老人は例の、サマエルを思い起こさせる優しい笑みを、またも浮かべた。
「お祖父ちゃん!」
 シュネは抱きつこうとするが、やはり体はすり抜けてしまうのだった。
「……ああ、お祖父ちゃん……」
 シュネは思わず、小さな子供のようにべそをかいた。
「ベリルや、いい年頃の娘が、そんなみっともない顔をしてはならんぞ。 さあ、もうお帰り。リオン殿……でしたな、ベリルを頼みましたぞ」
「はい、お任せ下さい」
 リオンは軽く頭を下げた。
「でも、どうやって帰るの?」
「念じるんだ、元いたところに帰りたいって。思い浮かべるんだ、元の世界を。 強く、強く!」
「う、うん、分かった。 さよならね、お祖父ちゃん……」
 淋しげに、シュネは祖父に手を差し伸べる。
 老人も手を伸ばし、二人のそれは重なったものの、やはり触れ合うことはできないのだった。
「ああ……」
 再びシュネが泣きそうになると、祖父は穏やかに言った。
「嘆くことはないのじゃよ、ベリルや。 お前にとっては別れじゃが、わしにとっては、そうでもないのじゃからな」
 それを聞いたシュネは、揺りかごで眠る自分を思い出した。
「そ、そっか。 あたしは、これから大きくなるんだもんね……子供のあたしとはまだ、一緒にいられるんだよね」
「そうじゃ、その間わしは、少しずつ成長するお前と過ごせるのじゃから、心配はいらんよ。 お前はお前の、今の世界で達者で暮らせばよい、ベリル。 賢者サマエルによろしくな、しっかり修行するのじゃぞ」
「う、うん。じゃあね、お祖父ちゃん」
 シュネはようやく微笑み、祖父に手を振った。
 そのサマエルが大変なことになっていて、彼を火閃銀龍から救い出すため、子守唄を捜しに来たのだ……とは、もちろん彼女は、祖父には告げることができなかった。

 11.龍の唄(3)

 一方その頃、タナトスは。
 張った結界は早々に破られてしまい、彼は再び黒豹の背に乗って、弾幕にも似た火閃銀龍の攻撃を、かわし続ける羽目になっていた。
 それも無理からぬことだった。相手は、宇宙を破滅に導くという紅龍すらも凌駕(りょうが)するほどの力の持ち主なのだから。
 それでも、タナトスが龍に変身できたなら、万に一つの確率で、勝てる可能性もあったかも知れない。
 しかし、魔族の第二形態すら持っていない、今の彼にできるのは、ひたすら逃げ回ることだけだった。
「くそ、くそ、くそ……っ! こんなにも……こんなにも、俺は無力なのか!? たった一人の弟を助けることすら、俺にはできんというのか!」
 彼は屈辱と歯がゆさに頬を紅潮させ、火閃銀龍の口中にて、今や息も絶え絶えに死を待つのみとなっている弟を見上げる。
“サタナエルよ”
 そんな折、“黯黒の眸”が背中の彼に、念話を送って来た。
 火閃銀龍の攻撃による爆発がもたらす、すさまじい音や爆風のさなかでは、これほど近くにいても通常の会話は難しかったのだ。
“ああ、済まんな、カーラ。だが、今回ばかりはさすがに俺も……”
“いや、たった今、『焔の眸』の心を捉えることができたのでな。 龍と唄に関する『禁呪の書』があれば、この場をどうにか収められるのだが、と考えているようだ。 当然だが我が兄弟も、伴侶を死なせたくはないのだろう”
 軽々と光線を避けながら、カーラは、ゼーンの方へあごをしゃくった。
 サマエルに抱きしめられた黒髪の少年は、血の気が失せた顔に涙を浮かべ、しきりに首を左右に振っている。
“……禁呪の書か。たしかにまだ三冊あったはずだが、書名など知らんぞ”
 顔をしかめて、タナトスは答えた。
 封じられていた書の一つを使い、ベルフェゴール叔父がサマエルを操って謀反を起こそうとしたことは、まだ記憶に新しかった。
 直後、彼の父、当時の魔界王ベルゼブルは、魔界に残る他の書を処分しようとしたが、封印された状態では破壊できず、さらには解呪の法も発見できなかったことから、結局、そのままにされていたのだ。
“それよりも、本当にそんな書一つで、この修羅場を切り抜けられるというのか? モトもだが、唄やら書物やらで、こんな巨大な龍相手にどうせよと……”
 タナトスは、火閃銀龍を仰ぎ見る。
 今日はもう、何度そうしたか分からないほどだったが、やはり見ずにはいられなかったのだ。
“……分からぬ。 兄弟の心は千々(ちぢ)に乱れており、思考を正確に追尾するのは困難だ”
 魔界の王の問いに答える黒豹の思念もまた、困惑気味だった。
“では、直接聞いてみるがいい”
 するとカーラは、否定の念を返して来た。
“いや、それはやめた方がよかろう。 『焔の眸』は、ただちに心を閉ざすであろうし、よしんばそうせずとも、火閃銀龍が我らの会話に気づき、再び遮蔽(しゃへい)してしまうやも知れぬ。 今は、漏れ聞こえる心の声から、密かに有用な情報を拾い集める方が、よいと思われるが”
“ち、まだるっこしいが、仕方ないか。 俺までが、この場を離れるわけにはいかんしな”
 タナトスが渋々同意したとき、火閃銀龍の攻撃がぴたりとやんだ。
 いきなり訪れた静寂の中、驚いたような龍の思念が、空間に轟(とどろ)く。
“まこと、其(そ)れで良いのか、ルキフェルよ!”
「……む、何だ、どうしたのだ?」
 タナトスが急いで顔を上げると、龍は首をすべて紅い頭に寄せており、そのためサマエルの姿は隠れていたが、火閃銀龍に答える弟の静かな声は、彼の耳にも届いた。
「無論だ、偉大なる龍よ。 もう猶予(ゆうよ)はない……こう邪魔が入っては、じわじわと時間をかけて、というわけにもいかないだろう。 今すぐ私を殺せ。一つの口で私の頭を、一つで喉笛を、そして最後の一つで心臓を食い破って、私を死に至らしめるがいい。 そうすれば私の全身を飲み込むより早く、お前は私の夢から解放される。“紅龍”の力を手に入れ、お前は全(まった)き龍となるのだ……!」
「な、何をほざいているのだ、あのたわけは!」
 タナトスは、我知らず青ざめていた。
 自分だけでなく、子孫達も必死になってサマエルを助けようとしているのに、どうして弟は、これほど死に急ぐのか。
 彼にはまったく理解できなかった。
「ともかく、行くしかあるまい! ──ムーヴ!」
 タナトスは呪文を唱え、黒豹に乗ったまま、サマエルのそばへ移動する。
「火閃銀龍、貴様にサマエルは食わせんぞ!」
 彼はカーラから飛び降り、弟に迫る牙を防ぐ楯となろうとするも、それまでも太刀打ちできずにいたものを、いきなり対抗できるようになるわけもなく。
「うわっ!」
 あえなく火閃銀龍に跳ね飛ばされて、地に這(は)いつくばる羽目となる。
「サタナエル!」
「──くっ、俺は大丈夫だ! それよりカーラ、サマエルを守れ!」
 空中で向きを変え、降りて来ようとする黒豹を、タナトスは手を振って追い返す。
“なれど、我には荷が勝ち過ぎる……”
 主の命令に従いたくとも、彼より攻撃力の劣る“黯黒の眸”の化身が、偉大な龍に敵(かな)うはずもなく、カーラは火閃銀龍の首をサマエルに近づけないよう、周囲を飛び回るくらいのことしかできない。
“愚昧(ぐまい)なる奴ばらめが、障(ささわ)りにもならぬわ! 火閃銀龍は気勢を上げ、首を振り回し続けていた。
「気をつけろ、カーラ! 待っていろ、今行く!」
 タナトスが、今度は自分で飛び上がろうと翼を広げたときだった。
 彼の目の前の空間が、明るく輝き始めたのだ。
 白い輝きは徐々に強くなり、やがて二つの人影となる。
「……ふん、ようやく戻って来たか」
 翼をたたんだ彼のつぶやきには、抑え切れない安堵の念が含まれていた。
 光が消え、現れた二人は、言わずと知れたシュネとリオンだった。
「あ、ここって、元のところよね?」
 シュネはきょろきょろ辺りを見回し、リオンは彼女に笑みを向けた。
「うん、火閃銀龍もいるしね。ともかく、無事に戻れてよかった」
「ホントね」
 彼らはほっとして、硬く握り合っていた手を離した。
 タナトスは、そんな二人を急かした。
「待たせおって。さあ、さっさと子守唄を歌え、貴様ら」
「は、はい、ええっと……」
 シュネは、祖父にもらった本を抱きしめ、過去で母が歌っていた子守唄を歌い出した。
「……緑滴る沃野(よくや)、麗(うるわ)しの野よ、優しき御(み)腕に嬰児(みどりご)を抱(いだ)く。いとけなき子よ、眠れ。母なる星の御胸に……」
 すると、書物が再び、緑の光を発し始めた。
「え、ま、また!?」
 驚くシュネの手を離れて、本は宙に浮き上がり、ばっと開いた。
「ふ、封印が解けた!?」
 眼を見張るリオンの胸倉をつかみ、タナトスは詰め寄った。
「あれは禁呪の書か!? あんなものを、一体どこから持って来たのだ!」
「あ、あの……シュネのお祖父さんが、先祖代々伝わる古文書だって……彼女なら封印も解けるだろうって、くれたんです……」
 リオンの説明を聞いたタナトスは、眼を剥いた。
「何だと!? 過去からは何も持って来られんぞ、夢飛行で飛んで行くのは、使い手の精神だけなのだからな!」
「ええ、それは習いましたけど、でも、何でだかあの本は……」
「でももくそもあるか!」
「や、やめて下さい……!」
 二人が言い合っている間にも、本は、風に煽(あお)られたようにばらばらとめくれていき、やがてとあるページが開いてシュネの手に戻った。
「あ、ここ、読めるわ。ええと……」
「──やめろ! そいつは禁呪の書、ろくでもない呪文に決まっている!」
 タナトスはリオンを放り出し、シュネを止めようとしたが、時すでに遅く、彼女はもう、その文章を読み上げ出していた。
「──悪夢を司る月よ、夜を支配する者よ、我は汝に帰依(きえ)し、その力を以(もっ)て闇を支配せん! 我が真の名はベリリアス・ブーネ、その名の許に“碧龍の封印”を解く! ──カウダ・ドラコニス! ……え、何、今の?」
 声高く詠唱してしまってから、シュネは口を押さえた。
 自分の意思とは関係なく、呪文を唱えていたのだ。
 そして次の瞬間。
 彼女の全身が、眩(まばゆ)い緑の光輝(こうき)を発し始めた。
「きゃっ、な、何、どうしたの!? か、体が……熱い、燃えちゃいそう……!」
「だから言ったではないか!」
 タナトスが、シュネの手から禁呪の書をたたき落とすも、輝きは強くなりさえすれ、収まる様子はまったくなかった。
「ち、遅かったか! いや、封印が解けた今なら、破壊できるはずだ! ──」
 タナトスは、下に落ちてからも緑に発光し続ける書物に向けて、呪文を唱えようとする。
 リオンは、慌てて彼をさえぎった。
「ちょ、ちょっと待って下さい、壊しちゃう気ですか!? 今、“碧龍の封印を解く”って言ってましたよ、ひょっとするとこれ、龍に変身するための本なんじゃ……?」
「何、龍に変化するだと!?」
 眼を見張る彼らの前で、シュネの輝きは強さを増し、その体は徐々に大きくなっていく。
「い、嫌、な、何!? 何なの、これぇ!? こ、怖いよぉ!」
 光の中から届くシュネの声は、悲鳴に近かった。
「大丈夫だよ、シュネ。落ち着いて聞いて。 キミは今、龍に変身してるところなんだ……サマエルを救うためには必要なことなんだよ」
 どうにか心を静めたリオンが、優しく話しかける。
「り、龍……!? あ、あたし、が!? な、何それ、ど、どうして……!?」
 シュネは涙声になっていた。
「心配しないで。ぼくも朱色の龍になるから。 サマエル父さんは紅い龍、タナトス伯父さんは、黒い龍になるんだよ。 ぼくら四人は、魔族を救う救世主……四色の龍、なんだってさ」
「ええっ!?」
 シュネは絶句する。
 ダイアデムに見せられた記憶の中に、四頭の龍のこともたしかに出ては来たが、まさか自分がそれだとは、思いもしなかったのだ。
「急だし、びっくりしただろ? 後で、ゆっくり説明してあげるから。 でも、さっきの呪文には、ベリリアスの名前も入ってたし、彼女がキミをお祖父さんのところへ連れて行ったんだろうね。 あそこに“龍の唄”の書がある、って知ってたんだよ」
「そ、そっか……」
 彼女の声は、幾分落ち着きを取り戻した。
 タナトスは、まだ輝きを失わずにいる本を拾い上げた。
「モトが言っていたのはこのことか。 子守唄が、封印を解く鍵だったとはな。 だが、これはあくまでも碧龍……あの娘のための呪文だ……」
“ならば、残りの書にあるのではないのか、黒と朱の呪文が”
 “黯黒の眸”の思念が届く。
 カーラはまだ、サマエルを守ろうと奮闘していた。
“ふむ……よし、カーラ、もう少し踏ん張っていてくれ”
“心得た”
 それからタナトスは、声に出して言った。
「リオン、魔界にも書がある、俺が取って来る間、カーラの加勢をしろ。 サマエルを守れ! いいな!」
「分かりました、やってみます!」
 リオンは、さっと胸に手を当てた。

 11.龍の唄(4)

 タナトスは、サマエルの部屋で目覚めていた。
 弟の内部に入っていたのは、彼の精神だけだった。
 意識をはっきりさせるようと頭を振ったところに、うめき声が聞こえ、彼は飛び起きた。
「ううう……苦し……ああ……」
 弟が、ベッドでもだえ苦しんでいた。
 白銀の髪は乱れ、いつも以上に蒼白な顔の、痛々しい傷やあざが、見る間に数を増していく。
 額には玉の汗、噛み破ったと思(おぼ)しい唇は血まみれで、口の端からは一筋、血が滴っていた。
 タナトスは、額の汗をそっとぬぐうと弟に口づけ、精気を少し送り込んでやった。
「待っていろ、サマエル。必ず目覚めさせてやるからな。 ──ムーヴ!」
 そして次の瞬間、ようやく彼は宝物庫の地下、“禁呪の幽室(ゆうしつ)”と呼ばれる部屋に立っていた。
 一説には、ここに幽閉された王族が、自分を陥(おとしい)れた者達への恨みを込めて、禁呪の書を記したのだとも言われる。
 以前は、王族の許しがあれば誰でも入れたが、ベルフェゴールの謀反以降、ベルゼブルが、王のみが入室できるようにしてしまっため、タナトスみずから、書を取りに来るしかなかったのだ。
 部屋には窓一つなく、さらには扉自体存在しないため、底冷えする室内は闇に閉ざされ、かび臭さが鼻を突く。
 それでも辛うじて見分けられる、部屋の壁一面に備えつけられた本棚には、かつて、びっしりと禁呪の書が収められていたと言う。
 だが今は、すべての棚がほこりにまみれてがらんとし、どこに残りの書があるのか、まったく分からない。
「……ち、こんなことなら、書のありかぐらい、親父に聞いて来ればよかったな」
 舌打ちするも、最近のベルゼブル前王は体が弱り、眠ってばかりいるようになっており、緊急事態だからといって、すぐに起こして話ができるかどうかは分からなかった。
 あれほど嫌って来た父親だったが、王としてはきちんと勤めを果たして来たのだし、それに、ごく小さな頃……母親が生きていた当時には、彼にも優しく、時には頭をなでてくれたり、笑いかけてもくれていたことを、彼は記憶していた。
 そのため、せめて、いつもの口喧嘩ができる程度には元気にしてやりたい、とは思っていたのだ。
 それはさておき、こう暗くては、本を探すどころではない。
 灯りをつけようと、彼はぱちんと指を鳴らす。
 目の前に小さな鬼火が現れた瞬間、それとは別のかすかな光が、棚の片隅に、ぽっと燃え上がったことに彼は気づいた。
「あれは!」
 彼は、そこを目がけて駆け出し、暗い光を発する一冊の本を、ひったくるように棚から取った。
「“龍の唄”。たしかにこれだな。……む?」
 彼は、金箔で打ち出された題名の下に並ぶ、小さな文字に眼を留めた。
 それは、遥かな昔、魔族がまだフェレス族だった時代の、もはや使われなくなった文字であり、今は魔界王家のみに伝わる物だった。
 彼はそれを読み上げてみた。
「“奥底(おうてい)に封ぜらるる者よ、寂滅(じゃくめつ)を謡(うた)え。恐れを知らず、慈愛(じあい)を知らず、また涕涙(ているい)をも知らぬ驪龍(りりょう)よ”、か。 ……俺は封じられてなどおらんが、やはり、これは俺の書だろうな」
 すると、書物は彼のつぶやきに応えるように輝き、手から浮き上がって自然に開き、呪文のページを開くと降りて来た。
「こ、こんなに簡単に、封印が解けるもの……なのか?」
 タナトスは面食らい、そこに書かれている呪文を、うさん臭そうに指でなぞった。
「まあいい、変身するのは戻ってからだ。 あとは、これか。リオンの書……ならばいいが」
 自分の書の隣にあった本を、彼は取り出す。
 彼が触れても、書物は何の反応も見せない。
 その表紙にも、彼のと同様“龍の唄”とあり、下にはやはり小さな字で、何事か書いてあった。
「“水多き星、恵み滴る緑陰に、安らかに眠る対の嬰児(みどりご)。朱(あけ)の龍よ、朝(あした)に、宵(よい)に謡(うた)え、新たなる陽(ひ)を、月を”」
 声に出して読んでみても、何も起きない。
 そこで、彼は本を開こうとしたが、糊付けされているかのように、びくともしなかった。
「開かんな。……ふん、どうやら、“資格ある者”がこれを読まねば、封印は解けんものらしい。まあ、無闇に解けても困るからな。 さてと……む、そういえば」
 ずしりと重い、かさばる二つの書を抱え、移動呪文を唱えようとしてタナトスは、禁呪の書が、もう一冊あったはずだということを思い出した。
 鬼火を掲げ、さらにあちこち探してみると、同じ段の少し離れたところに、本が横倒しになっていた。
(……残るはこれか? だが、今回は関係なかろう)
 そう思ったものの、一応、題名だけでも見ておこうと、彼は息を吹きかけて厚く積もったほこりを払ってみた。
「何っ、これも“龍の唄”だと!?」
 慌てて彼は、その本を取ろうとしたが、無理だった。
 今手にしている二冊とは違い、倒れている書物はぼろぼろで、持ったが最後、崩れて塵(ちり)になってしまいそうだったのだ。
 この本がサマエルのものだとしたら、崩壊しかけているのは、すでに封印が解けたためか、それとも、弟が死にかけているためなのだろうか。
 どちらにせよ、この書は、もう役目を終えつつある。
 そうタナトスには思えた。
 そしてこれにも、題名の下に何か書いてあった。
 彼は鬼火を近づけて、消えかかった文字を読もうとした。
「むう、かすれて見にくいな。れい、めい……? ああ、黎明(れいめい)か。 “黎明の龍は……光と闇とを包含し……ゆえに……双(ふた)つの名を持つ……玉響(たまゆら)の……心地に負けじと……” 後は読めんな。 しかし、二つの名とは何のことだ? 魔族はすべて、通称と真の名を持っているはず。サマエルだけが特別と言うのではあるまいに」
 彼は首をかしげたが、今は時間がなかった。
「ともかく急がねば。謎解きはまた後だ」
 タナトスは二冊の書を抱え直し、後ろ髪を引かれる思いで呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
 サマエルの部屋に戻ってみると、行くときは気づかなかったが、ベッドのそばに倒れているシュネの腕には、彼が取って来たものとそっくりな禁呪の書が抱えられていた。
 タイトルの下には、やはり文字が書かれいる。
 “緑滴る沃野(よくや)、麗(うるわ)しの野よ、優しき御(み)腕に嬰児(みどりご)を抱(いだ)く。いとけなき子よ、眠れ。母なる星の御胸に”
「ふん……子守唄、か」
 タナトスはつぶやき、横たわるリオンの腕に、書物をはさんだ。
「これでいい。今頃、これが現れているはずだ」
 そして彼は自分の本を手に、元いたところで横になり、再び弟の精神内部に入るため、眼を閉じた。
 眼を明けると、彼は龍同士の、壮絶な戦いの真っ只中にいた。
 シュネは、巨大な……といっても、伝説の龍の前では、かなり小ぶりに見える、緑色の龍へと変身を遂げ、必死に火閃銀龍と闘っている。
「わあっ、こ、これ、何!?」
 直後、彼のすぐそばにいたリオンが、いきなり手の中に現れた禁呪の書に、驚きの声を上げた。
「それが貴様の書だ。表紙の下の文字が読めるか?」
 タナトスが声をかけると、リオンは真剣に表紙を眺め、それから否定の身振りをした。
「駄目です、全然読めません……。 魔法文字は母さんから習ってたんですけど、これは見たこともないや……」
「“水多き星、恵み滴る緑陰に、安らかに眠る対の嬰児(みどりご)。朱(あけ)の龍よ、朝(あした)に、宵(よい)に謡(うた)え、新たなる陽(ひ)を、月を”だ。言ってみろ」
「え? ええっと……水多き? えと、何でしたっけ、緑……?」
 リオンは首をひねり、口ごもる。
「違う、よく聞け、たわけ者!」
 タナトスは、苛立たしげに文章を繰り返してやる。
「あ、す、済みません」
 恐縮しながらリオンが復唱した途端、禁呪の書が朱色に輝き、勢いよく開いた。
「ひゃっ!?」
 驚くリオンの手を離れ、本は自動的にページを繰っていき、目的の呪文の場所が来ると、静かに降りて来た。
「それを唱えてみろ、変身できるはずだ。 俺も書を見つけた、三頭でかかれば、何とかなるだろう」
 タナトスは、自分の本を持ち上げてみせる。
「は、はい。ええと……あ、今度は読めます。 何でだろう、さっきは全然、分かんなかったのに……封印が解けたからかな。 へぇ、やっぱりシュネのときと同じ、ぼくの名前もあるや」
 ほっとしたようにリオンは言い、呪文を唱え始めた。
「──狂気を司る月よ、夜を支配する者よ、我は汝に帰依し、その力を以て闇を支配せん! 我が真の名はシナバリン・マステマ、その名の許に“朱龍の封印”を解く! ──カプト・ドラコニス!」
 刹那、リオンの体を、朱色の光が包み込む。
「な、何、うわ、うわあっ!?」
 変身するのだと分かっていたはずなのに、彼はパニックに陥り、本を放り投げた。
「落ち着くがいい、シナバリン。ベリリアスの変化を見ておったのであろう」
 そのとき、黒豹が彼のそばに降り立ち、声をかけて来た。
「おう、カーラ、首尾はどうだ」
 タナトスが尋ねると、“黯黒の眸”は、頭を横に振った。
「碧龍一頭では、やはり歯が立たぬ。疾(と)く加勢が必要だ、サタナエルよ」
「そうか。だがもう大丈夫だ、まずはこいつが龍になる」
 彼はリオンを指差す。
「う、うわ、か、体が、すごく、あ、熱いです、体が……全部、バラバラになっちゃいそうだ……! うううっ!」
 歯を食いしばるリオンの肉体は、そう話す間にも、みしみしと音を立てて、変わっていくのだった。
「ふん、体組成が変化しているのだ、それくらいの苦痛、あってしかるべきだろう。貴様も魔界の王族の端くれ、耐えられんでどうする。 どれ、俺も唱えてみるか」
 タナトスは本を開いた。
 禁呪の書はうれしそうに輝きながら、ぱらぱらと羊皮紙を繰り、変身の呪文を彼に示した。
「……よし。 ──夜を纏(まと)いし暗黒の魂よ、昏(くら)き闇に眠り、光を知らぬ者よ、目覚め、疾(と)く来たりて我に力を与えよ! 我が真の名はサタナエル・アサンスクリタ、その名の許に、“黔(けん)龍の封印”を解く! ──グヴァ・チネス!」
 シュネとリオンの呪文が似通っているのに対して、これは少し違っているなと思う間もなく、タナトスの体も変化を始めた。
「……くっ、こ、これは……」
 魔界の王は、歯を食いしばった。
 リオンが言った通り、彼もまた、体中が痛み、内臓がすべてばらけてしまいそうな苦痛に襲われ始めた。
 だが彼は、最近、弟から半ば強制的にカオスの力を分け与えられたりして、体の苦痛にはかなり慣れて来ていた。
 さらには、これに成功すれば、ついに念願の第二形態を手に入れられるのだ。
 魔族ならば、ほとんど誰もが持っているはずなのに、人間との混血だったがゆえか、魔界王となった今でも、タナトスは変化ができずにいた。
 それでも、今回得られるのが“龍”ともなれば、魔界を統(す)べる君主の第二形態としてこれ以上はなく、今まで常に感じ続けていた劣等意識を補ってあまりあるものだと彼は考えていた。

 12.龍の死闘(1)

(……む? 終わったのか? 痛みがなくなったぞ。体も軽い)
 苦痛から解放されたタナトスは、力がみなぎって来る感じがして、急いで自分の体を見回した。
 五本の指には、黒光りする鋭い鉤(かぎ)爪がずらりと並び、体には、黒曜石のように黒光りする鱗(うろこ)が生えている。
(ふん。どうやらうまくいったようだな)
 彼は、漆黒の体の中で唯一、紅い眼を光らせて一人うなずくと、コウモリに似た背中の翼を羽ばたかせてみる。
 変身は完全に成功し、火閃銀龍の足元にも及ばないとはいえ、彼は、人型だったときのおよそ五倍もの大きさの、黒い龍となっていた。
“タ、タナトス伯父上……”
 心細げな念話に振り返ると、そこにはもう一頭、龍がいた。
 彼よりも一回り小ぶりで、全身、鮮やかな朱色の鱗に覆われた龍だった。
“おう、リオンか。貴様も、変化(へんげ)はうまくいったようだな”
“はい、そうみたいですけど……こ、声が出ないんです、どうしちゃったんだろう……”
 朱龍となったリオンは、朱色の爪の生えた手で喉を押さえた。
 じれったげに、地面にたたきつける尾も朱色。
 背中でばたつかせているコウモリ状の翼だけが、すべてが朱色をした体の中で、黒色をしている。
 その巨体に似合わぬ、つぶらな朱色の眼が、うるんでいるように見えた。
 タナトスも、普段通りに話そうとして口を開いたが、声は出なかった。
“なるほど、会話は無理らしいな。 まあ、そんなことはどうでもいい、シュネの助太刀に行くぞ!”
 彼は、今も闘い続けている二頭の龍を指差した。
“は、はい!”
「サタナエルよ、黔(けん)龍への変化、見事なり!」
 そのとき、黒豹が彼の肩に飛び乗って来た。
 漆黒の毛並みが、龍の体色に溶け込み、同化する。
 その中で金色に輝く瞳だけが、“黯黒の眸”の存在を知らせていた。
“カーラ、お前は『焔の眸』と共に結界を張り、サマエルを守れ。 俺達の攻撃が、直接あいつに当たってしまっては、元も子もないからな”
「心得た」
 こうして、黔龍となったタナトスは、弟を救うべく朱龍リオンを従え、碧龍シュネの加勢に向かった。
 たった一頭で、必死に戦っていたシュネは、彼らの帰還に気づく余裕もなかった。
“シュネ、来たよ、ぼくだ、リオンだ! タナトス伯父上もいるよ!”
 その声に彼女は振り返り、緑色の眼を見張った。
“えっ、も、もしかして……リオン、兄さん? と、タナトス、さん……?”
 朱色と黒、二頭の龍を、彼女は指差す。
 美しい緑色の龍となっていたシュネの鱗は、所々真紅の血に染まっていた。
“待たせたな、一人でよく頑張った。 ──フィックス! さ、これでよかろう”
 タナトスは彼女をねぎらい、傷を回復させた。
“あ、ありがとうございます……よかった、戻って来てくれて”
 ほっとしたシュネは、思わず涙ぐみ、慌てて眼をぬぐった。
“泣くのはまだ早いぞ、次はサマエルだ。 何としても、ヤツを現実世界に連れ戻すのだ!
“は、はい、そ、そうです、ね”
 そしてタナトスは、弟を捕らえている火閃銀龍に向けて黒い前足を突きつけ、宣戦布告をした。
“さあ、火閃銀龍! 弟を返してもらいに来たぞ! こうして龍となったからには、貴様を倒すことなど造作ないわ!”
“汝(なれ)ごときの虫螻(けら)が、吾(あれ)を倒すと……? 笑止な。 そもそも、ルキフェルは、救済なぞ欲してはおらぬ。 彼(か)の者は、おのれ自身の所望(しょもう)により、吾(あ)が物となる道を選んだゆえにな”
 火閃銀龍はせせら笑い、挑発するように、紅い頭を一際高く、上空へと突き上げた。
「う、がはっ……!」
 いきなり重力がかかったために、サマエルは、さらなる苦痛に顔を歪め、口からは血しぶきが吐き出された。
「や、やめてくれ、火閃銀龍! これ以上、サマエル様を苦しめるのは!」
 サマエルの腕に抱かれたゼーンが、叫ぶ。
「火閃銀龍、覚悟!」
 次の瞬間、飛び移って来たカーラが、思い切り紅い頭に噛みついたが、火閃銀龍は、虫に刺されたほども感じていない様子で、無視した。
“黙れ、生け贄(にえ)となるよう、サマエルを焚(た)きつけたのは、貴様だろうが!”
 タナトスは、伝説の龍に指を突きつけた。
“大体、二言目には死ぬ死ぬと言っているが、その実、サマエルこそが一番死を恐れ、生にしがみついているのだ! 本当に死にたいわけではないわ!”
 魔界の王は吼え、伝説の龍目がけて、飛びかかっていった。
“ぼくも行きます!”
“あ、あたしも!”
 同時にリオンとシュネもまた、火閃銀龍に向かっていく。
 三人がかりなら、例え倒せなくとも、サマエルを救い出すことはできるかも知れないという思いは、共通していた。
 たしかに龍へ変身したお陰で、防御力がかなり増強されて、火閃銀龍の攻撃を直接受けても、さほど痛手をこうむることがなくなっている。
 さらには、攻撃力も格段に上昇したことが、彼らの自信を後押しした。
“よし、いけるぞ! 貴様ら、手を休めるな!”
 タナトスは手ごたえを感じ、二頭の龍達に声をかける。
“はい! 疲れてるだろうけど、頑張って、シュネ!”
“ええ、大丈夫!”
 リオンとシュネも彼に応え、さらに攻撃を加えていく。
 しかし、生き物ではない火閃銀龍は、疲れというものをまったく知らず、それに引き換え、龍への変化を遂げたばかりのタナトス達は、力の制御がよく分かっていないためもあってか疲労が目立ち、徐々に押され始めて行く。
 どれほどの時が経ったのだろうか、サマエルの内部世界では、時間の観念は消失してしまっていたが、果てしなく続く戦いに終止符を打つように、火閃銀龍は宣言した。
“まったくもって、陋劣(ろうれつ)なる輩(やから)めが! されどもはや、虫螻を追い退(の)けるも厭(あ)いたわ、かくなる上は、吾が究竟(きゅうきょう)の呪文を、喰らわせてくれよう! 喩(たと)え是(これ)にて、ルキフェルが死に至ろうとも、心の臓さえ喰らえば、力の大方は吾(あ)が物と為すことができようほどにな!”
“何だとぉ、死んだサマエル心臓を食らうだと!?”
 タナトスは、おのれ自身の心臓に鋭い牙を立てられたような痛みを感じて、思わず胸に手を当てた。
“サマエルを!? 何てひどいヤツだ!”
“そんなことさせないわ!”
 朱龍と碧龍も怒りを露(あらわ)にする。
“おお、吼えるわ、吼えるわ。幾匹の土龍(もぐら)が何と囀(さえず)ろうと、吾が力の足許にも及ぶまい。 さても、吾が『メグワ』を受けて安泰でいられる者なぞ、おらぬであろうぞ”
 火閃銀龍は、三つの首をカッと開け、高圧的な口ぶりで言ってのけた。
「何と! ルキフェルの内で、あれを使う気か!」
 サマエルを守ろうと結界を張っていた黒豹が、全身の毛を逆立てる。
「そんな……そんな……メグワなんて」
 共に結界を張っていたゼーンは、はらはらと涙をこぼし、顔を手で覆った。
 彼らの狼狽(ろうばい)振りに、ただならぬものを感じたタナトスは、急ぎ尋ねた。
“カーラ、メグワとは何だ、それほど強力な呪文なのか!?”
「当時は、邪術(じゃじゅつ)とも呼ばれておった……超古代の忌(い)むべき遺産とも言えよう。 あれを知る者は、もはや存在してはおるまいと思っておったが。 こやつが本気であれを使う気ならば、残念ながら、我らに勝機はない。 この場を去るが得策、やも知れぬな」
 鼻にしわを寄せ、カーラは答えた。
“何だと、敵に後ろを見せろと言うのか、この俺に! しかも、サマエルを置いて、だと!”
 黒い龍は地団太を踏んだ。
「左様。ルキフェルは諦めよ、サタナエル……」
「そう、仕方ない、です、皆さんのお命が大事です、から。 ありがとうございました……皆さん、そして“黯黒の眸”。 会ったばかりの方も……さようなら。お元気で……。
 カーラはがっくりと肩を落とし、ゼーンは深々と頭を下げて、別れの言葉を口にする。
“くそっ、諦めるな、俺はまだ負けておらんぞ!”
 タナトスは、自分の胸をたたく。
 そんな彼に向け、からかうように火閃銀龍が言った。
“くく、左様、左様。逐電(ちくでん)致すのならば、今の内ぞ、止めはせぬ”
“こ、この……くそ龍が! くたばれ!”
“其(そ)の台詞、悉(ことごと)く、汝(なれ)に返してくれよう、黒き土龍(もぐら)よ”
“何ぃ……!?”
 激昂(げっこう)しかけたタナトスに、シュネが声をかけた。
“落ち着いて下さい、タナトスさん。 今は、子供みたいな言い合いなんか、してる場合じゃないでしょ”
“そうですよ、叔父上、どうします……?”
 リオンは、不安気な顔で問いかける。
“誰が逃げるか! メグワだか馬糞(まぐそ)だか知らんが、ハッタリだ、そんなもの!”
 タナトスは言い切り、攻撃を続けようとした。
 その刹那、火閃銀龍が唱えた。
“──吾(あれ)に根を張る、大地の力よ、草木(そうもく)のメグワ!”
 途端に伝説の龍の体から、無数の植物のつるが伸びていき、タナトス達に絡みつき始めた。
“くっ、何だこれは! 千切れん!”
“駄目です、切れない!”
 タナトスとリオンはもがくものの、つるを切ることができない。
“待ってて、こんなの、燃やしちゃえばいい!”
 一人逃れたシュネは火炎を吐くが、くすぶるばかりで一向に火はつかない。
「草木の……やはり、ルキフェルを殺すのは最終手段と言うわけか。 すべての力を取り込みたいのだろうな、あやつも」
 ほっとしたように、カーラがつぶやく。
「でも、危険です。 あのつるは、彼らの生命力を吸い尽くすまで離れませんよ……あ!」
 ゼーンは、自分が捕らえられたかのように身を震わせる。
 逃げ回っていたシュネが、ついに捕まってしまったのだ。
“嫌、放してよ、苦し……!”
 いくら暴れても、つるは碧龍を解放しない。
「ルキフェルよ、おぬしは、火閃銀龍の弱点を知っておるのであろう? このままでは、サタナエルもおぬしの子孫も、全員死んでしまう……教えてくれ、この通りだ」
 “黯黒の眸”の化身は、サマエルに頭を下げた。
「え、サマエル様が、弱点を……?」
 ゼーンは眼を丸くした。
「わ、私は、何も、知らない、よ……」
 苦しい息の下、薄く眼を明けて、サマエルは否定した。
「いや、おぬしは知っておるはずだ。 頼む、我にできることなら何でもするゆえ、彼を……サタナエルを……」
 カーラは必死に、サマエルに哀願した。
 その金色の虹彩から、黒い貴石が煌き落ちる。
「サマエル様、教えて下さい。 ほら、あの方は……まだあんなに若い、美しい女性なのに、もう、死んでしまわなくてはいけないのですか?」
 “焔の眸”は、碧龍を指差した。
「それにあなたは、僕に、ゼーン……生きるという名をつけて下さいました。 本当は僕……僕、死にたくないんです、あなたも死なせたくありません。 サマエル様と一緒に、生きていたいんです……!」
 ゼーンは顔を覆い、再び泣き始めた。
 指の間から、紅い宝石が、いくつもいくつもこぼれ落ちていく。

 12.龍の死闘(2)

 サマエルは、しばらく口を利かず、泣きじゃくるゼーンと、つるに締めつけられ、苦しみもがくタナトスやリオン、そしてシュネとの間に、視線をさ迷わせていた。
 その後、彼は一つ息をつき、口を開いた。
「……済まない、ゼーン、カーラ。 私の我がままで、お前達まで振り回してしまったね」
「では、サマエル様!」
 期待を込めて、ゼーンは顔を上げる。
 サマエルは、首を横に振った。
「いや、よく聞いてくれ。火閃銀龍は、我々のいる世界には属していない。 それゆえ、どんな強力な魔法をもってしても、倒すことはできないのだよ……この世の理(ことわり)の外にある存在なのだから。 三人のことは諦めてもらうしかないね、お前達には済まないが」
 彼は少年の頬に口づけ、黒豹の頭にも触れた。
 そして再び目蓋(まぶた)を閉ざし、ぐったりとした状態に戻ってしまった。
「そ、そんな、サマエル様……」
 青ざめたゼーンが声をかけても、サマエルは微動だにしない。
「このままではサタナエルが……!」
 涙を溜めた瞳で、苦悶し続けるタナトスを見つめていたカーラは、足下の火閃銀龍の紅い頭を、腹立ち紛れに前足でかきむしった。
「このっ、このっ、このっ!」
 しかし伝説の龍は、引っかかれてもまったく反応せず、つるで捕らえた三人に意識を集中させている様子だった。
 説得を続ける気力も失せた貴石の化身達は、呆然と黙り込んでしまった。
 カーラは、サマエルが駄目なら自力で主を助けようと思い立ち、紅い首から飛び降りるため身構えた。
 そのときサマエルが、眼を閉じたまま、念を使って二人に話しかけて来た。
“ゼーン、カーラ、感づかれないよう動かずに聞いてくれ、大事な話がある。
 火閃銀龍は今、三人にかかり切りで、私達にまで気が回らないようだ”
“はい、何でしょうか、大事なお話って?”
 ゼーンも念話で、不思議そうに返事をした。
 一瞬躊躇(ちゅうしょ)したカーラも、とりあえず話を聞いておこうと、その場に座り直す。
“二人共、気を落とさなくていい。 火閃銀龍を倒せないのは事実だが、封印することは可能だから。 今までも眠っていたのだよ、私の嘆きが、彼を起こしてしまうまではね”
“何、あやつを封印できると言うのか!?”
 ばっと振り向きたいのを我慢して、黒豹は尋ねる。
 ゼーンも体を動かさず、心の声だけは勢い込んで、訊いた。
“と、どうやって眠らせたらいいんですか!?”
 かすかに微笑むと、サマエルは答えた。
“簡単なことさ、子守唄で、寝かしつければいいのだよ”
“えっ、子守唄で寝かす!?”
 ゼーンは眼を見張り、その瞳の炎が激しく揺れた。
 黒豹は、ゆっくりと頭を振り、飛び移るのを断念したように見せかけて方向転換すると、何気なさそうに彼の方を見た。
 その態度とは裏腹に、金色の瞳が熱っぽく光っている。
“……というと、ベリリアスが持ち帰ったあれか?”
“いや。あれだけではなく、私のを含めて四冊分の表紙にある文章を、全部つなげなければいけない。 さっき彼女は、タナトスと火閃銀龍の言い争いを、『子供のケンカ』と評していたけれど、言い得(え)て妙(みょう)だね。 火閃銀龍は、幼い子供なのだよ。子守唄で眠ってしまうほどの、ね……”
“こ、こんなでっかいのに、まだ子供なんですか……!?”
 ゼーンは面食らい、小山のように巨大な龍を見上げる。
 サマエルは、わずかに首を振った。
“大きさではない、精神年齢が、ということさ。 遥かなる太古、彼が魔術師に召喚され、使役される羽目に陥ったのも、まだ経験が浅い子供だったからだろう。
 彼がいつ生誕したのかは、正確には分からないが……ひょっとしたら、この宇宙の誕生よりも昔かも知れない。
 そして彼が成熟し大人になるのは、さらに何十億、何百億年も先なのだと思うよ”
“す、すごい……”
 彼自身、超がつくほど長く存在している“焔の眸”の化身も、壮大な時間に思いを馳(は)せ、気が遠くなりそうな顔をした。
“されど、誰がそれを歌うのだ?”
 龍と化した彼らは歌えぬぞ。声が出ぬと言っておった”
 カーラが口を挟む。
 それを聴いたサマエルは、初めて眼を明け、貴石の化身達に視線を向けた。
“私が歌おう、火閃銀龍の心の中で、完全な歌詞も旋律も見つけたから。 今回のことは、すべて私の責任だからね。 お前達には色々と辛い思いをさせた、許しておくれ……” 彼は頭を下げた。
“それにてサタナエルが助かるのであれば、すべてを水に流そう”
 “黯黒の眸”の化身は、重々しくうなずいた。
“ああ、サマエル様! 生きて下さるんですね、僕と!”
 喜びのあまり、ゼーンは彼に抱きついた。
 サマエルは眼を伏せ、そっと抱擁(ほうよう)を返した。
“……そうだね。私にはまだ、生きてやらなければならないことがあるようだ……さあ、ゼーン、手を貸しておくれ”
“はい!”
 少年に手助けされて身を起こしたサマエルは、背筋をぴんと伸ばして、歌い始めた。
「緑滴る沃野(よくや)、麗(うるわ)しの野よー」
 澄んだ歌声が、空間に流れていく。
“お、おのれ、ルキフェル、やはり寝返りおったか!”
 火閃銀龍は、八つの眼をカッと見開き、怒りの念話を轟(とどろ)かせると、三つの首で一斉に、彼目がけて襲いかかろうとした。
 しかし、“焔の眸”と“黯黒の眸”が張った結界に阻まれてしまう。
“おのれ、おのれ、おのれ!”
 火閃銀龍は怒りの形相もものすごく、結界越しに彼を睨みつけた。
「優しき御(み)腕に嬰児(みどりご)を抱くー」
 サマエルは顔色一つ変えず、揺るぎない声で歌い続けた。
 歌うに連れて、紅を除く三つの首の動きが、緩慢になっていく。
 タナトス達に巻きつき、高々と持ち上げていたつるもまた緩み始め、三頭の龍の重さを支え切れなくなったのか、徐々に下がっていった。
“や、やめよ、吾(あれ)は未だ、就眠(しゅうみん)しとうない、厭(いや)じゃ……!”
 古めかしい言い回しのせいもあって、あれほど威厳があった火閃銀龍の口調は、今はまるで、小さな子供が駄々をこねているかのようになっていた。
「水多き星、恵み滴る緑陰に、安らかに眠る対の嬰児ー」
 なおも彼は続ける。
“厭じゃと申しておるに……”
 すると、口では抵抗しつつも、火閃銀龍の目つきはとろんとし、三つ首は、歌に合わせてゆらりゆらりと揺れ始めた。
「奥底(おうてい)に封ぜらるる者よ、寂滅(じゃくめつ)を謡えー」
 さらに、サマエルの歌は続いた。
 火閃銀龍はもう、抗議の声も上げることができない様子だった。
 つるはタナトス達を下に降ろすと、するすると縮み、火閃銀龍の中に戻っていった。
 そして、最後の旋律が消えると同時に火閃銀龍の眼はすべて閉じられ、首も全部、だらりと垂れ下がってしまった。
 それでも龍は、まだしっかりと、サマエルを口にくわえ込んでいたが。
「やりましたね、サマエル様!」
 ゼーンが再び、彼に抱きつく。
「いや、まだ全部は終わっていないよ」
 サマエルは否定の仕草をした。
「えっ!?」
“サマエル!”
“お父さん!”
“サマエル様!”
 そのとき、つるから解放された龍達が駆け寄って来た。
 途中で三頭の体は輝き、龍から人型へと戻る。
「サタナエル、よくぞ無事で!」
 カーラはタナトスに飛びつき、顔をなめまくった。
「こ、こら、落ち着け、カーラ!」
 熱烈な歓迎にタナトスは驚き、黒豹の頭を手荒くなで回す。
「い、今歌っていたの、あたしの子守唄ですよね?」
「ぼくのもあったみたいですけど?」
 勢い込んで訊いて来る二人の子孫に、サマエルは答えた。
「さあ、お前達も歌って。 火閃銀龍を倒すことはできないが、眠らすことができれば、封印が可能なのだよ」
「えっ!?」
「子守唄で封印!?」
 シュネとリオンは驚きの声を上げる。
「そ、それは本当か!?」
 タナトスが、勇んで訊いた。
「本当だとも。だが今はまだ、まどろんでいる状態だ、すぐに眼が覚めてしまう。 シュネ、まずはキミから歌って」
「は、はい、で、でも、あ、あの歌って、変身のためだけじゃなく、封印の呪文も兼ねてたんですね?」
 シュネがそう尋ねた時、“書”が、輝きながら彼女の胸元へと飛び込んで来た。
「わっ、び、びっくりしたぁ……!」
「おっ!」
「わあ、ぼくのも来た!」
 彼女が受け止めたと同時に、光を発しながら、残りの二冊も持ち主目がけてやって来て、それぞれの手の中に納まった。
「そう。本に選ばれた者が歌うことで、封印はさらに強固なものとなるのだよ。 最初がシュネ、次はリオン、その次がタナトス、そして最後が私だ。 四人が順番に歌う、これを繰り返すのだ、さあ、シュネ」
「え、あ、は、はい……!」
 再度サマエルに促されたシュネは、大きく息を吸い込むと、本をぎゅっと抱きしめて、子守唄を歌い始めた。
「緑滴る沃野(よくや)、麗(うるわ)しの野よー優しき御(み)腕に嬰児(みどりご)を抱くー。いとけなき子よ、眠れ。母なる星の御胸にー」
 サマエルが合図し、続けてリオンが歌う。
「水多き星、恵み滴る緑陰に、安らかに眠る対の嬰児。朱の龍よ、朝に宵に謡(うた)え、新たなる陽を、月をー」
 緊張のため音程が少々不安定で、声もか細く震えているが、それは仕方ないことだった。
「奥底(おうてい)に封ぜらるる者よ、寂滅(じゃくめつ)を謡え。恐れを知らず、慈愛(じあい)を知らず、また涕涙(ているい)をも知らぬ驪龍(りりょう)よー」
 次は、タナトスが自分のパートを歌った。
 渋々ながらの参加にしては音程も外さず、なかなかいい声である。
 それから再び、サマエルが歌う。
「黎明(れいめい)の龍は光と闇を包含し、ゆえに双(ふた)つの名を持つ。 玉響(たまゆら)の心地に負けじと、命の賛歌を謡え、光を齎(もたら)す者よー」
 彼は知るよしもなかったが、禁呪の幽室に置き忘れられた彼の書も、歌声に合わせて紅い光を発していた。
 その後も、四人は代わる代わる、懸命に歌い続けた。
 これが現実世界なら、とっくに声が枯れてしまっていたことだろう。
 彼らが歌うにつれ、火閃銀龍の巨体は、暖かい海域へ到達した氷山が海水へ溶け込んでいくように、徐々に縮んでいった。
 そしてとうとう、サマエルをくわえ込んでいる紅い頭だけが残った。
「さすがにしぶといな……」
 タナトスがつぶやく。
「よし、今度は皆で、最初から歌おう。お前達もだよ」
 サマエルが化身達を示すと、ゼーンとカーラの体が輝いた。
 現れたフェレスとニュクスを加え、全員が心を合わせて子守唄を歌い始めた。
 眼を閉じて幸せそうな表情を浮かべ、それに聞き入っているようにも見える紅い頭は、ますます小さくなっていく。
 最後のフレーズが響き終わったとき、火閃銀龍の頭は完全に消え失せ、サマエルはついに、束縛から解き放たれた。

 12.龍の死闘(3)

 次の瞬間、タナトスは、見覚えのある部屋で覚醒していた。
「……ふう。ようやく終わったな」
 頭を振って起き上がり、ベッドを覗くとサマエルも目覚めており、やつれた顔に笑みを浮かべて彼をねぎらった。
「お疲れ様」
「くっ、何がお疲れ様だ、この!」
 かっとなり、思わず殴ろうとした彼の腕をかいくぐり、ダイアデムが弟に飛びついた。
「サマエル、よかった、よかったよぉ……!
 やっと、やっと戻って来たぁ……!」
「済まなかったね、ダイアデム、心配をかけた」
 泣きじゃくる少年の紅い髪を、優しくサマエルはなでる。
「ふん……!」
 腕組みをし、タナトスはそっぽを向いた。
 リオンとシュネも立ち上がり、微笑み合ったちょうどそのとき、日が沈み、夕闇が部屋を覆い始めた。
「まだこんな時間か。もっと長い間、戦っていた気がするが。 時の流れ方が違ったのかも知れんな」
 タナトスはつぶやき、指を鳴らして燭台に火を入れる。
 安堵の空気が流れる中、サマエルはベッドに伏せったまま、わずかに頭を下げた。
「皆、ありがとう……どれほど礼を述べても足りないくらいだ」
「ふん、まったく、手数をかけさせおって」
 腕組みしたまま、タナトスは顔をしかめた。
「あ、すいません、サマエル様、お疲れのところ。 で、でも、あの、あたし……」
 おずおずと、シュネが切り出す。
「そうだね、色々と聞きたいだろう、黙っていて済まなかった、シュネ。 後で機会を見つけて、ちゃんと説明するつもりでいたのだが」
 サマエルは再び、頭を下げた。
「そ、そうなんですか? ホント、知りたいことがたくさんあって、何から聞いたらいいか……。 あ、リオン兄さんは、いつからあたしのことを?」
 シュネは、隣のリオンを見た。
「あの祭りのときさ。けど、父さんが、後で自分で教えたいって言うから。 でも、四色の龍の話を聞いたのは最近で、ぼくもびっくりしたけどね」
 そのとき、ぐうという音が聞こえ、彼女は顔を赤らめて腹を押さえた。
「あ、い、嫌だぁ、恥ずかし……」
 サマエルは、にっこりした。
「お腹が減っているようだね、シュネ。リオンとキッチンで食事を……そうだ、ダイアデム。お前も一緒に行って、彼女に色々と説明してくれないか? その間、私は、タナトスと二人だけで話がしたいから」
「え、でも、やっと帰って来れたのに……!」
 死んでも離れまいとする妻を、サマエルはなだめた。
「大丈夫だよ、それほどかからない。終わったらすぐに呼ぶから。ね?」
 しかし、ダイアデムは彼にしがみついたまま、激しく首を横に振った。
「やだ! また何かあったら、どうすんだよ!」
「ふん、俺がついているのだぞ、何も起こるわけがなかろう」
 タナトスはあごを突き出し、尊大な台詞を吐く。
 紅毛の少年は、鼻にしわを寄せた。
「お前が一緒だから、余計に心配なんじゃねーか」
「何だと!」
「ダイアデム、後で」
 有無を言わせぬ口調でサマエルが言い、少年は渋々同意する。
「ちぇっ、分かったよ」
 すると、今度はニュクスが心細げに尋ねた。
「タナトス……妾(わらわ)も行かねばならぬのか? ようやくおぬしが戻って来たというのに」
 その手を取って口づけ、タナトスは言い聞かせた。
「もちろん、お前とも後でちゃんと話をする。今は、こいつと話させてくれ」
「相分かった……」
 三人と一頭が部屋を後にし、気配が完全に消えてから、タナトスは弟に問いかけた。
「それで? 話とは何だ。王位のことか?」
 サマエルは眼を伏せた。
「……まあね。私は魔界の王位には就(つ)けない……」
「血筋のことなら、黙っておればよかろう。 宮廷雀どもには、勝手に憶測させておけばいい。 どうせ本当のことなど、誰にも分からんのだからな」
 現在の魔界王は、肩をすくめた。
「いや、私が王になれない理由は……これだよ」
 言うなり第二王子は、掛け布団を跳ねのけた。
「……!」
 タナトスは息を呑んだ。
 彼が驚いたのは、弟が一糸まとわぬ裸だったから……ではない。
 サマエルの、火閃銀龍にくわえられていたところから下の部分が、半透明の白い石に変わっていたからだった。
 サマエルは、石化した体をそっとなでた。
「滑らかで、ひんやりしている……アラバスターかな。 雪花石膏(せっかせっこう)の名の通り、綺麗な石だね。 少し汚れてしまったのが残念だが……」
 石となった部分には、火閃銀龍の牙による傷から流れ出た血が、紅い染みをつけていた。
「石の名などどうでもいい、一体どうしたのだ、その体は!? そうか、火閃銀龍の仕業か、ヤツの残した呪いだな!」
 タナトスは、拳を握り締めた。
 サマエルは否定の身振りをした。
「いや、呪いというより、むしろ祝福、かも知れないな」
「何が祝福だ! 負けた癖にいじましく呪いを残すなど、伝説の龍が聞いてあきれるわ! こんなもの、今すぐ解いてくれる! ──リプレイス!」
 叫ぶようにタナトスは唱えたが、効果は現れなかった。
「な、何ゆえ解呪できんのだ!?」
「魔法で石に変えたわけではないからね、呪文では治せないだろう」
 それを予期していたかのように、サマエルは静かに答えた。
「な、何を呑気な! 見ろ、今も進行しているのだぞ!」
 タナトスは、石に変化した部分と、普通の肌との境界を指差した。
 彼の言葉通り、石化は、じわじわとだが確実にサマエルの肉体を犯し、その領域を広げつつあった。
 だが、焦る兄王とは対照的に、弟王子は微笑さえ浮かべていた。
「火閃銀龍は最初に現れたとき、約束してくれていたのだよ。 墓がないと嘆くな、お前の夢から解放されたなら、お前の体を美しい石に変え、戦勝記念の像“名もなき英雄”として、城の前庭に飾ってやるから、と。 そうすれば、お前を覚えている者はおらずとも、人々は像の前で戦勝の喜びに浸り、また、像を眺めて憩(いこ)うだろう。 詣(もう)でる者もない忘れられた墓に眠るより、よほどいいはずだ、とね……」
「ヤツが、そんな約束を……」
 タナトスは、信じられない気分で首を振った。
「あの龍なりに、私のことを考えてくれていたのだよ。 ……こういうわけで、私は王にはなれない……もうすぐ死ぬのだから。 石化はやがて心臓に達するだろう。ようやく私にも死が訪れるのだな」
 それからサマエルは、ひじをついて無理に上半身を引き起こし、どうにか頭を下げた。
「済まない。せっかくお前を始め、皆が私を生かそうとしてくれたのに、こんな結果になってしまって……」
「い、いや、これは貴様のせいではない、だが、くそっ、どうしたら……!」
 頭をかきむしっていたタナトスは、はっと手を止めた。
「そうだ、“焔の眸”なら!」
 途端にサマエルは、必死の眼差しになった。
「やめてくれ。魔力で解呪できないものを眸達が治せるとは思えないし、一旦死んだ私を彼らの力で蘇らせたところで、この石化は解けまい。 たとえ意識は戻っても動くことはできず、生ける石像と化してしまうだろう。 お願いだ、誰も呼ばないでくれ、これ以上、皆に辛い思いをさせたくない」
「く、くそっ、何かないのか、助かる方法がー!」
 タナトスの声は絶叫に近かった。
 するとサマエルは、またも笑みを浮かべた。
「一つ、あるよ」
「何!?」
「石化する前に、私の胸を切り開き、心臓を取り出して食らえばいい。 そうすれば、火閃銀龍がお前に宿り、私の死は無駄にならない」
「ふざけるな! 俺は、貴様を生かす方法がないかと問うているのだぞ!」
 弟に指を突きつけ、タナトスは興奮のあまり、ぜいぜいと息を弾ませた。
 そんな兄の様子を冷静に見ながら、サマエルは他人事のように言った。
「ふむ……お前がそこまで言うなら、もう少し知恵を絞ってみようか。 ……そうだな。魔法医なら、あるいは」
「魔法医だと!?」
 タナトスは、血走った眼で弟を見た。
「そう、彼らは体に作用する魔法の専門家だ。 一般には知られていない、特殊な解呪の方法を知っている可能性も……」
「そうか、待っていろ! 今すぐ呼んで来てやる! ──ムーヴ!」
 弟の話を最後まで聞かず、タナトスは移動呪文を唱えた。
「い、一体、何事でございますか……!?」
 患者を診察中だった魔法医は、理由も告げられずにいきなり連れて来られて、眼を白黒させていた。
「何でもいい、さっさとこいつを診ろ!」
 タナトスは、医者を弟の前に突き出す。
「こ、これは……!?」
 さすがにエッカルトは、一目で尋常でないことを悟った。
「し、失礼致しますぞ、サマエル様」
 彼は早速、第二王子の脈を確かめ、石になってしまった部分を診察する。
 それから、魔界の君主を振り返った。
「……このご様子では、リプレイスの呪文では駄目だったということでしょうな?」
「当たり前のことを聞くな。解呪できておれば、貴様など呼ばんわ」
 横柄に、タナトスは答える。
「……ふむう。それに致しましても、何ゆえかような事態に……? まずは経緯を説明して頂けませぬと、治療法も確定出来かねまするが……」
「火閃銀龍の呪いだ」
 吐き捨てるように、彼は答えた。
「か、火閃銀龍……伝説の、でございますか!? それが何ゆえ!?」
 エッカルトは、気が遠くなりそうな眼になった。
「ヤツは、自分の出番がなくなることを恐れ、儀式なしにこの世界に出て来るために、サマエルを利用しようとしたのだ。 それを、俺や貴石達がどうにか阻止したのだが、こんな置き土産を残していきおって!」
 ごく簡潔に説明した魔界王は、忌々しそうに鼻にしわを寄せた。
「なるほど、お話は分かり申した。 ……ふうむ、それでは一筋縄ではいきますまいな、相手があの火閃銀龍となれば。 はてさて……如何(いかが)したものか……」
 エッカルトは難しい顔をし、額に手を当てた。
 タナトスは彼に詰め寄り、襟首をつかんだ。
「貴様、魔法医の癖に、石化ごときを解呪できんというのか!」
「およし、タナトス。誰にだって、できないことはあるよ」
 サマエルが口を挟んだ。
「い、いえ……文献を探せば、あるいは。 おう、そう申せば、昔、何かの文献で見た覚えがございます。 お放し下され、タナトス様」
 魔法医は、毅然とした態度で君主を振り払い、呪文を唱えた。
「──リブロ!」
 その手の中に、一冊の書物が現れる。
「机をお借りしますぞ。 ──レクティオ!」
 分厚い本を広げ、呪文を唱えると、ページが自動的にめくられ始めた。
「むう……遺憾(いかん)ながら、これではありませんな」
 ややあって彼はつぶやき、別な本を呼び出した。
「これでもない、これも違う……! はて、面妖(めんよう)な、たしかに……何処(いずこ)かで見かけた覚えはあるのだが……」
 ぶつぶつとつぶやき、魔法医は懸命に探し続けるが、なかなか目的の物を発見できない。
 机の横には、魔法で呼び出された本が、うず高く積み重ねられていく。

 12.龍の死闘(4)

 タナトスは息を殺し、魔法医の手元を凝視していた。
 本当は、怒鳴りつけてでも急がせたくて仕方がなかったのだが、そんなことをしても邪魔になるだけだろうと、自分を抑える分別はあった。
 サマエルもまた、胸の上で拳を固く握り締め、息を凝(こ)らしていた。
 医者の作業を見守ると言うよりも、体が徐々に石に変わっていく苦痛に耐えているようだとタナトスは思い、念話で声をかけた。
“おい、痛むのか?”
 サマエルは首を横に振った。
“いや、平気だよ、大したことはない”
“嘘をつけ。苦しそうだぞ”
“私にとって、苦痛は最大の喜びだからね”
“……変態め”
 彼の言葉に、サマエルは何も答えず微笑んだ。
 そのとき、エッカルトが膝を打った。
「そう、思い出しましたぞ、たしか、あれに載っていたのだった……! ──リブロ!」
 彼は今までのものよりも、遥かに古びている書物の一群を呼び出した。
 それらを机に乗せ、次々ページを繰って行くが、目当ての物にはまだたどり着けない。
 タナトスは、急かせたいのを懸命にこらえ、魔法医の動きをただ見つめていた。
 そうして、息詰まる時間がどれほど経っただろうか。
 突如、エッカルトは弾かれたように顔を上げた。
「おう、これだ、“呪文で解けぬ石化の解呪法”……あり申した、これですぞ!」
「何、あったか!」
 脱兎(だっと)のごとくタナトスは机に駆け寄り、開かれた本を覗いた。
 しかし、その眼に飛び込んで来たのは、様々な記号や図形の羅列で、彼は眉をしかめて魔法医を見た。
「何だ、これは? わけも分からん妙な符号が、書き連ねてあるだけではないか。まったく読めんぞ」
「いえ、これは、我が男爵家に代々伝わる覚書のようなものでございまして、内容はすべて、暗号で記されておるのでございます。 悪用されては困るような事例や、貴族、ことに王族の方々の名誉に関わる事柄も、多々ございますれば」
「御託(ごたく)はいい、さっさと読め! サマエルが死んでもいいのか!」
 医者の長い説明に苛ついたタナトスは、ついに声を荒げた。
「も、申し訳ございませぬ」
 急ぎエッカルトは、大昔の先祖が遺した暗号に眼を凝らした。
「ええ……これを解読致しますと。『患者の血縁者が、石化部分に精気を吹き込むと解呪できる場合がある、ただし、大量の魔力を必要とするため、力弱い者がこれを行えば、命を落とす危険もある』、とのことでございます」
「精気を吹き込む……なんだ、そんな簡単なことか」
 並大抵の手段では、弟の特殊な石化を解呪するのは無理だと思い、身構えていたタナトスは、拍子抜けしてつぶやいた。
 魔法医は厳しい表情で、否定的に答えた。
「いえ、お言葉ほど容易なこととは思えませぬ。 実はこの下にはいくつか、別な書き手の註約がついておりましてな。 成功したのはごく狭い範囲の石化、それも数例のみで、患者のみならず、術者までもが死亡した事例があると……。 お力あるタナトス様と言えども、かなり難しいこととなられまするは必定(ひつじょう)。 ことにサマエル様の場合、患部が広範囲に渡っておられますゆえ」
「ふん、火閃銀龍に勝ち目のない戦いを挑んでいたときの、先の見えない気分よりは遥かにましだ。 聞いたか、サマエル。割と簡単なことで治るらしいぞ」
「無理をするな、タナトス。お前にもし、何かあったら……」
「何もあるわけがなかろう、すぐに治してやる、大船に乗ったつもりでいるがいい」
 自信満々で自分の胸をたたくと、タナトスは、弟の心臓目がけて侵食を続ける石化部分の先端に口づけた。
「あっ」
 サマエルの体が、びくりとする。
「どうした? 痛むのか?」
「い、いや……」
「おお、ご覧下され、お二方。石化が解けておりますぞ!」
 エッカルトが声を上げた。
 その言葉通り、彼が口づけた辺りが、サマエル本来の肌に戻っていた。
「よし、続けるぞ」
「……ああ、うっ」
 夢中になって続けるうち、タナトスは、自分が口づけるたびに弟が体を動かし、声を上げる理由に気づいた。
「ははぁ、貴様、感じているのだな? 俺はただ、石化を解こうとしているだけだぞ?」
 からかうように彼が言うと、サマエルは頬を赤らめ、そっぽを向いた。
「くく、恥じる必要はあるまいい、俺が教えたのだ、俺に反応するのは当然だろうが?」
 笑いながら、タナトスはさらに精気を与え続ける。
「ち、違……くうっ!」
 サマエルは否定しつつ歯を食いしばるが、体はどうしても、兄に反応してしまう。
「ふん、貴様はいつもそうだ、口よりも体の方が正直なのだからな。 それほど俺に抱かれたいか? ならば……」
 タナトスはマントを外し、人目もはばからず服を脱ぎ始めた。
 もう石化はほとんど解けてしまっていたし、彼も空腹だったのだ。
「や、やめろ!」
「そういえば、貴様の中で二度モトを抱いたが、あいつもまだ名残惜しそうだったな」
「やめろと言うのに! エッカルトもいるのだぞ!」
 サマエルは彼を押しのけようともがくが、腕の力だけでは無理だった。
 石化が解けたばかりの足はまだ言うことを聞かず、頼みの魔力は火閃銀龍に吸い取られて、簡単な呪文も使うのは難しかった。
 そんな弟の手を押さえつけ、タナトスはにやりとした。
「くく、今まで試したことはなかったが、貴様だったら、誰かに見られている方が感じるのではないか?」
 サマエルの顔から血の気が引いた。
「え、い、嫌だ、そんな……!」
「エー、ゴホン、ゴホン」
 男爵位も持つエッカルトは幾度か咳払いをしてみせたが、一向にタナトスが態度を改めないのをみると、声に威厳を込め、主を諌(いさ)めた。
「タナトス様、お戯(たわむ)れも大概になさいませ。 弟君はまだ、お体が完全ではございませぬ、今無理をすれば、どんな反動があるか知れませぬぞ」
 しかし、命令されることが何より嫌いなタナトスは、カッと眼を怒らせた。
「黙れ、エッカルト! 男爵ごときの分際で俺に逆らうなら、この場で息の根を止めてやるぞ!」
 魔法医もまた、怒りを露(あらわ)にした。
「いいえ、黙りませぬ、わたくしにも、患者を守る義務がございますゆえ!」
「もういいよ、エッカルト。私が言うことを聞けばいいのだから。 代々魔界王家に仕え、今また私の命を救い……そんな大事な家臣を、私のために死なすわけにはいかない。 さあ、兄上、どうぞご随意(ずいい)に」
 サマエルはそう言い、抵抗をやめた。
「ふん、初めから大人しくしておればいいのだ。 エッカルト、聞いたか。こいつも同意している。 貴様は隣室に下がっておれ、後でまた呼ぶ」
 タナトスは、手で追い払う仕草をした。
「それでは、失礼致します」
 不服そうな魔法医が足音も高く退出するやいなや、魔界の王は部屋に結界を張り、弟に覆いかぶさっていった。
 それでも、さすがのタナトスも、大量の精気をサマエルに与えて疲れており、また弟の体調をも気遣って、いつもほど激しくはしなかった。
 隣に横たわるサマエルの、汗に濡れた絹糸のような髪をなで、彼は言った。
「やはり貴様は極上だな。モトとは比べ物にならん……ずっとこうしていたいくらいだ」
「……やはりこうして私をもてあそぶために、魔界に残って王になれ、などと言っているのだな、お前……」
 虚ろな眼を宙に彷徨わせる、サマエルの声はささやきに近かった。
「いや。たしかに俺はお前にそばにいて欲しいと思っている、だが、強要する気はない。
 それに、貴様が王になったら、俺が付け入る隙はなくなるぞ。
 魔封じの塔に俺を幽閉して、拷問することも可能だ……あるいは、処刑することもな」
 タナトスは、自分の首を斬る真似をした。
「お前、そこまで考えて……?」
 思わずサマエルは、視線を兄に注ぐ。
「どの道、俺が貴様を抱くのはこれで最後だろう。“焔の眸”が文句たらたらだからな。 それはさておき、俺はずっと……どうすれば、俺が今まで貴様にして来たことの償(つぐな)いができるかを、考えていたのだ……。 貴様が女だったなら、子を孕(はら)ませて既成事実と押し通し、王妃に据えるという手が使えたのだが、な」
「それは無理だ。同母兄妹で結婚、まして王妃などとは。誰も納得しないよ」
 第二王子はきっぱりと言った。
「ふん、アナテはモトを夫にしていたぞ」
「大昔のことだし、私達とは条件が違う。
 魔力こそ強かったものの、アナテは王家の血を引かず、王亡き後、彼女と結婚できる王族は他にいなかった……女王であり続けるためには、息子を夫にするしかなかったのさ」
「では、貴様はどうあっても、王になる気はないというのか、それでは……」
「待ってくれ」
 さらに話を続けようとする彼を、サマエルはさえぎった。
「先に、エッカルトを呼んでくれないか」
「……ああ、貴様の体を診せる必要があるな」
 魔法で二人の体を清め、タナトスは服を着る。
 指を鳴らして結界を解くと、彼は隣室に向かって声を張り上げた。
「おい、エッカルト! 戻って来て、サマエルを診ろ!」
「失礼致します」
 仏頂面(ぶっちょうづら)で入室して来たエッカルトは、わざと重々しく主君に向かってお辞儀をした。
 それから第二王子の脈を取り、全身くまなく調べ始めた。
「どうだ?」
 タナトスは、ぶっきら棒に訊く。
「わたくしが診ますところ、石化は完全に解けておりますが。 いかがでしょう、サマエル様、どこか、痛みなどはございましょうか?」
 エッカルトは心配そうに尋ねた。
「いや、ないよ。強制リハビリのお陰で、血の巡りがよくなったからかな」
 皮肉っぽく、サマエルは返した。
「それはようございました」
 心から安堵し、魔法医は笑顔になった。
「では、貴様に用はないな、帰っていいぞ」
 タナトスが手を振ったとき。
 サマエルが口を開いた。
「いや、まだエッカルトには用がある。
 ああ、タナトス。その前に礼を言っておこう、お前のお陰で思い出せたよ、すべてを、ね」
「思い出せた? 何をだ?」
 タナトスは、けげんそうな顔をした。
「ねぇ、エッカルト、本当に酷い夜だったな……。 知らずにいれば……私の運命も、今より少しはましになっていたかも知れない……そんな気がするよ……」
 サマエルは、悲しげに自分の肩を抱き、首を横に振った。
 そのとき、タナトスは、魔法医が青ざめていることに気づいた。
「貴様、何か知っているのか?」
「は、はて、わたくしめには、何のことやら、さっぱり。 ご、御用がなければ、わたくしはこれにて」
 そそくさと退出しようとした魔法医の首に、いきなりサマエルが抱きついたのはそのときだった。
「逃がさないよ、エッカルト」
「サ、サマエル様!?」
 眼を剥くエッカルトの顔に、第二王子は頬をすり寄せる。
「もう隠していても無駄だよ、エッカルト。私は思い出したのだから。 今こそ真実を告白するときだ。お前だったのだね、私の……」
「何ぃ、こいつが、貴様の実の父親だと!?」
 思わずタナトスは、叫んでしまっていた。

 13.父親の名は(1)

「わ、わたくしが、サマエル様の!? め、滅相もございませぬ、さ、左様なこと、あ、あるわけが……」
 滝のような汗を流しながら、腕を振り回し、エッカルトは否定する。
「そうだよ、タナトス。エッカルトが私の父親だなんて、誰が言った?」
 サマエルは、あきれたように頭を振った。
「しかし貴様、こいつに、真実を告白しろと迫ったではないか」
 タナトスは、魔法医を指差す。
「あれはね、悪い夢だから忘れなさいと、子供の私に暗示をかけたのがエッカルトだった、それを白状するようにと言ったのさ。 私が子供に戻ったとき話したことを、覚えていないのか?」
「……むう、言ったか、そんなこと?」
 額に手を当てて考えているうち、タナトスは、火閃銀龍に捕えられていた弟が、いきなり少年の姿へ変わったときのことを思い出した。
 あの時サマエルは、たしかにこう言っていた。
『わ、分かんない、んだ。僕、忘れちゃった、から……。 誰かが言ったんだ……悪い夢だから、忘れなさいって……。 だから僕、忘れてたんだけど、少しずつ思い出して……』と。
「ふん、そうだったな。 ……それはともかく、貴様の父親というのは結局、一体誰なのだ?」
 彼が再び尋ねたとき。
「まーた、お前らもめてんのかよ、こりねーな」
 突如ドアが開き、紅毛の少年が顔を出した。
 タナトスは顔をしかめた。
「何だ貴様、ガキ共といたのではないのか」
「あー、あいつら寝ちまったんだ、腹一杯食ったらさ。疲れてたんだろな。 んで、ベッドに放り込んで戻って来たのさ、オレ達」
 ダイアデムが示す先には、黒髪の女性のほっそりした姿もあった。
「す、済まぬ、タナトス……邪魔ならば戻る……」
 ニュクスは、消え入りそうな声を出した。
「気にするな、ニュクス。入って来い。 お前達も、知っておいた方がいいかも知れんしな」
「何をだよ……って、何でエッカルトまでいるんだ?」
 部屋に入りながら、ダイアデムは可愛らしく小首をかしげた。
 タナトスは、サマエルを指差した。
「こいつの父親の話だ。 前々から、父親が違うと疑念を抱かれていただろう、それで……」
 そのとき、エッカルトが口を挟んだ。
「お言葉ですが、タナトス様。 あの御仁(ごじん)は決して、サマエル様のお父君などではございませぬ。 わたくしはそう確信致しておりまする。左様なことはあり得ませぬ」
「ずいぶん自信があるのだね、エッカルト。根拠は何かな?」
 サマエルが尋ねた。
「それはですな……」
「待て。まず、その男が誰なのか言え。続きはそれからだ」
 タナトスは、医師の言葉をさえぎった。
「ならば、私が初めから話そう。 その方が、皆にも分かりやすいのではないか?」
 サマエルが言った。
「では、さっさと話せ」
 タナトスは腕組みをした。
「あれは、お前に首を絞められたあげく、初めて相手をさせられた晩のことだったな……その直後、私は別の男にも暴行されてしまってね」
「なにぃ!?」
「何だとぉ!?」
 サマエルは淡々と話し出したが、いきなりの展開に、タナトスだけでなく、ダイアデムも顔色を変えた。
 ニュクスは黙って小首をかしげ、エッカルトの顔は紙のように白くなる。
 彼らの驚きをよそに、弟王子の表情は、薄笑いが張り付いた仮面さながらに動かなかった。
「これがそもそもの始まりで、私が精神に異常を来たした最大の理由……。カオスの力は、それを後押ししたに過ぎない。 モトが闇を祓(はら)ってくれたお陰で、今はこうして、狂うこともなく人に話せるようになったけれどね」
「あの夜……俺と別れた後、一体何があったというのだ……?」
 タナトスは、彼にしては珍しい、おずおずとした口調で訊いた。
「そう……あの後、すすり泣きながら自室に戻る途中、人っ子一人いないと思えた回廊で、あの男に行き合ったのだ……。 あいつは、私の涙と破れた服を見ると、何が起こったか、瞬時に察知した。 そして甘い言葉で、私を空き部屋に誘い込んだのだ。 しかし初めの優しい顔は偽りで、すぐにヤツは正体を現した……またもや私は、力ずくで……」
 辛い記憶をたどるにつれて、闇の名残りがサマエルの紅い瞳を覆っていき、その色を夕暮れの紫へと変化させてゆく。
「その後、どうやって自分の部屋に帰り着いたのか、まるで覚えていないが……運の悪いことに、翌日は十年に一度の大礼式だった……。 当時の私は、再生能力すら人族並だったから、何をするにも体に激痛が走り……その上、儀式用の正装は、子供一人で着られるものではなかったのに、魔法が使えない上、女官達は手伝ってはくれず……。 歯を食いしばり、やっとの思いで着用したものの、遅刻してしまった……。 顔も体もアザだらけ、縛られた跡はあるしで、私がどういう目に遭ったのか、一目瞭然だったと思うのだけれど、ベルゼブル陛下は……。 そう……お前達も聞いただろう、吐き捨てるように一言、『魔界の王子たる資格もない』と……。 それが限界だった。張りつめていた糸がぷつんと切れたように、目の前が暗く……」
 不意に、サマエルは言葉を切った。
 慣例として一切式典に出席しない“黯黒の眸”以外の全員が、その情景を思い出していた。
 息を整えていた第二王子は、彼らの沈黙に促されるように、再び話し始めた。
「……そして、気づいた時は、医務室のベッドに寝かされていたのだが。 私の顔を覗き込んでいたのは、魔法医ではなく、あの男だった……。 あいつは医師の不在をいいことに、意識のない私の衣服を剥ぎ取り裸にして、散々楽しんでいたのだ……!」
 ついに、平静を装う仮面は外れ、サマエルは両手で顔を覆った。
「お、おい、大丈夫か?」
 タナトスは弟を気遣う。
「……ああ、平気だよ」
 サマエルは微笑み、続けた。
「そのとき、ヤツは言ったのだ……お前の父親はベルゼブルではなく、本当は自分だ、と。だから、これは父親としての愛情表現だ、ともね……。 奈落の底に突き落とされたような絶望の中……男のなすがまま、ひたすら慰み者にされる時が過ぎていき……。 これは夢だ、いつも見る悪夢なのだと、必死に自分に言い聞かせていた……。 やがてエッカルトが戻って来てヤツを追い払い、傷を癒してくれ、陛下に報らせようと言ったが、私はそれを止めた……。 私は、あの方の子ではないのだからと……。 それを聞いたお前は、泣きじゃくる私の頭に手を置いたね……」
 第二王子は、真っ直ぐに魔法医を見た。
 額の汗をぬぐい、エッカルトは、意を決したようにうなずいた。
「左様、たしかにこのわたくしが、あなた様に暗示をかけたのです。 あなた様のお父上は、ベルゼブル陛下に違いございませぬ。お忘れなされ、これはすべて悪い夢でございます、と……。 兄君とのことは存じ上げませなんだが、あの御仁の非道な振る舞い、そして真っ赤な嘘が、あなた様を心身共に傷つけ、追い詰め……放置致せばおそらく、狂ってしまわれたことでしょうから」
「いっそのこと、狂ってしまえばよかった……。 そうすれば、ベルゼブル陛下も、私をどこかに幽閉して扉を塗りこめ、そのまま忘れて下さったかも知れない……。 私は、誰からも忘れられた存在として、地の底深く、今も安らかに眠っていられたのだろうに……」
 悲しげに、サマエルはうつむいた。
「そ、そんで誰なんだよ、そのくそ野郎は! タナトスは反省してっからまだいいけど、オレのもんに一度ならず手ぇ出しやがって、八つ裂きにしてやる!」
 とうとう耐えられなくなり、ダイアデムは声を上げていた。
 どうせなら、すべてを吐き出させた方がいいだろうと、それまで黙って聞いていたのだが。
 愛する者を酷い目に遭わせた男に対する怒りが、紅い眼を熱く燃え上がらせ、金の炎は今にも火の粉を噴いて、飛び散るかとさえ思われた。
 その熱さが翳りを溶かし、サマエルは心からの笑みを浮かべた。
「ありがとう、ダイアデム。 でもその必要はないよ、そいつはもう死んでいるからね。 知らぬこととは言え、シンハが仇を討ってくれていたのだよ」
 ダイアデムは眼を丸くした。
「えっ、シンハがそいつを……? あ……じゃ、じゃあ、お前にンなコトしやがったのは、ベルフェゴールの野郎だったんだな!?」
「ちぃっ! あの出来損ないの屑伯父め、実子でないとはいえ、娘をあんな風にし、大逆罪を犯しただけでは飽き足らず、俺のものにまで手を出していたのか!」
 タナトスは拳を固め、すでに死んでしまっている男を殴る真似をした。
「あの頃からすでに、陛下とお前を亡き者にし、私を傀儡(くぐつ)の王に仕立てる計画を温めていたのだろうな。 そのため、私を手なずけようとしたが、リリスと同じようにはいかなかった、というところか」
 サマエルは肩をすくめた。
「わたくしが、しっかりと釘を刺しておきましたからな。 これ以上、サマエル様に手出しをなさる気なら、反逆の意思ありとして、ベルゼブル陛下に事の次第を報告致しますぞと。 それでしばらく、鳴りを潜めておったのでしょうが……」
 エッカルトは、首を左右に振った。
「畜生、あのくそ野郎! そうと知ってりゃ、もっと念入りに、嬲(なぶり)り殺してやるんだった!」
 ダイアデムは華奢な手を握り締め、ギリギリと歯がみした。
「そんなことをしたら、もっとライラに恨まれてしまったと思うが」
 サマエルは言った。
 ベルフェゴールは、当時ファイディー国王だったライラの弟、アンドラスに憑依(ひょうい)し、操っていたのだ。
「ふん、ンなコト慣れっこさ。オレはどーせ、女に憎まれる運命なんだ。 あ、それであん時、お前にしちゃ珍しく、ベルフェゴールを自分で殺ろうとしたんか?」
「そうだね。なぜか、自分で手を下したくて仕方がなかった。 原形を留めないほど粉砕して、冥土の道連れにしてやる気でいたよ」
 サマエルは、凄艶(せいえん)な笑みを浮かべた。
「……止めといてよかった」
 ダイアデムはつぶやいた。
「それはそうと、タナトス、たしかに初めての時は辛かった……だが、父上を始め城中の者が皆、私をいない者同然に扱う中、お前だけが私を真正面から見、触れて来た。 私は、抱きしめられてキスされたことも、ほとんどなかったから、憎しみから私をもてあそんだのだと分かっていても、少しうれしかった……触れてもらえたのが、ね。 お前は、私が女性を渡り歩くと文句を言うけれど、それも、抱いてくれる者がいなかったせい……自分から誰かを抱くしかなかったのだよ」
 そこまで言うとサマエルは、兄に向かって微笑みかけた。
「伯父などより、お前の方が遙かに優しかったな。 終わった後、傷を治してくれたものね。 殴ったりしたときの傷は放っておくのに、どうしてあの時は癒してくれたのだい?」
 恨みも憎しみも感じられない、ただ、ほんの少しの好奇心と、もう一つの感情に縁取られた、弟の透明な笑みは、タナトスを沈黙させた。
 サマエルは、それ以上追求しなかった。

 13.父親の名は(2)

「ところで、先ほどから気になっているのだが。 エッカルト、おぬしは何ゆえ、それほどの確信を込めて、サマエルの父親がベルフェゴールでない、と言い切れるのだ?」
 沈黙を破って問いかけたのは、ニュクスだった。
 ダイアデムがそれに便乗した。
「そうだそうだ! 理由言えよ、エッカルト! オレやシンハがいくら頑張っても、サマエルの出自(しゅつじ)は分からなかったんだからな!」
「何、おぬしにも分からぬと……?」
 “黯黒の眸”は眼を丸くした。
 紅毛の少年は眉を寄せ、鼻をうごめかせた。
「ああ。分かってりゃ、とっくにこいつの悩みを取り除いてやってるさ。 タナトスもだけど、人族との混血ってのは、ただでさえ嗅ぎ分けんのが難しーし、しかもアイシスも……どうやら祖先に神族がいるらしくってよ、匂いもめっちゃ混じっちまってて。 サマエルが誰の血引いてんだかは、どうしても分かんなかったんだ……」
「母上が神族の血を……だと? なるほど、だから、俺達には聖魔法が効かなかったわけか? ふん……それも知っていた顔だな、まあいい、こうなったら、何もかも綺麗に白状しろ、エッカルト」
 タナトスは、家臣に向けてぞんざいに手を振る。
「……は」
 魔法医は君主に頭を下げ、口を開いた。
「ではまず、王妃殿下が、神族の血を引いておられたことについて、でございますが。 このことは、ご婚姻以前に、ベルゼブル陛下もご存知でございましたので、何も問題はございませぬ」
「ふん、知っていたのか。……で?」
 タナトスは、顎をしゃくって話を促す。
 会釈(えしゃく)を返し、エッカルトは続けた。
「は……実はわたくしには、年の離れた双子の妹達がおりまして。 その妹達が、王妃様ご存命の頃、専属の侍女だった……それが、ベルフェゴール殿が、サマエル様の父君ではない理由なのでございますよ」
 タナトスは顔をしかめた。
「何だ、そんなことか。そやつらが、母上は浮気はしていなかったと申し立てたのだな? 侍女と言っても、母上と常に一緒にいられたわけもあるまいし、それに、口裏を合わせることもできるだろうが。 第一、俺は双子の侍女など、母上のそばで見た覚えがないぞ」
「それは当然でございます、妹達は、気配を消す術に長(た)けておりましてな。 ベルゼブル陛下直々の御命により、妃殿下にもお知らせせず、常時姿を消して、交代で見張に立っておりましたのです。 夜は危険度が増すとの理由で、ことさら厳重に、決してお独りにさせぬように致しておりました。 そして、サマエル様が陛下のお種でないなどという噂が、まことしやかにささやかれるようになった際、わたくしは陛下のお許しを得て、妹達の記憶を読み取ってみました。 その結果、王妃様は潔白であらせられました」
 魔法医はきっぱりと言い切った。
「つまり私は、実の父親にとことん疎(うと)まれていた、ということだね、エッカルト。 食事も与えられず、最後には生け贄にと……どの道、救われないねぇ、私は……」
 悲しげに、サマエルは首を横に振った。
「そ、それは……」
 エッカルトは言葉に詰まった。
「ふん、あのくそ豚の種でなかったことだけでも感謝しておくがいい、サマエル」
 タナトスはそっけなく言った。
「まあいいさ、これで決心がついたよ」
 そんな兄をじろりと見て、サマエルは答えた。
「決心? 何のだ?」
「お前は私に、散々生きろと言っていたな。 だから私は生きようと思う。ただし魔界で、ではなく、人界でだ。 そして、私は相手が誰であろうと戦いたくない。 それゆえ今度の戦い、すなわち天界との戦争には、私は参加しない」
 意外な台詞に、タナトスはあっけに取られた。
「何……!? し、しかし、それでは、四龍の予言が……」
「予言など知ったことか。 大体、その予言自体、あいまいというか、揺れ動いているではないか。 それに、いつまでも迷信にしがみついているのは愚かしい、そう言ったのは、お前だろう、タナトス」
 サマエルは、兄の胸を小突いた。
 その手を払いのけ、タナトスは声を荒げた。
「昔俺が言ったことなど、この際どうでもいい! 貴様がおらねば、魔界は天界に勝てんのだぞ!」
「お前に生きろと言われて気づいたよ。なぜ私が、魔界……魔族のために犠牲にならなければならないのだ? まったく守ってもくれなかった連中のために、火閃銀龍に食われてまで。 ──馬鹿馬鹿しい。 私は魔界を出る。そしてもう二度と戻って来るつもりはない、戦が始まっても。魔界など滅びてしまえばいい……誰も彼も皆、死んでしまえばいいのだ」
 冷ややかに、サマエルは言い捨てた。
「貴様……」
 今までの弟なら決して言わなかった台詞に、さすがのタナトスも言葉を失う。
「皆を生かすために、私は死ななければならないと思っていた。 ならば、私を生かすためには皆が死ねばいい……逆転の発想だ、素晴らしいだろう? そこをどけ、タナトス。 私は人界へ帰り、妻と共に静かに暮らすことにする」
 紅い眼の中に闇の炎を宿らせてそう宣言し、サマエルは、紅毛の少年に手を差し伸べた。
「さ、おいで、“焔の眸”。それとも、こんな男とは共にいられないか?」
「い、行くよ、もちろん! お前がいれば、オレは、どこにだって!」
 ダイアデムは、夫に飛びついた。
「さて、これで永遠におさらば致しますよ、タナトス兄上。 ……それとも、裏切り者として、この場で私を処刑しますか? 散々生きろ生きろとうるさく仰っていた、お優しいあなたが……くくく」
 第二王子は妻を胸に抱き、歪んだ笑みを浮かべて、兄である魔界王を見つめた。
「サマエル! せっかくタナトスが、命がけでお前を助けたと言うに、裏切るとは!」
 悲痛な声を上げるニュクスを、サマエルは暗い目つきで見返す。
「……“黯黒の眸”。私の気持ちなど、お前には分からないよ。 なぜ私が、二つの貴石のうち、お前ではなく“焔の眸”を選んだか、それも分からないのだろう?」
「それは……たしかに分からないが」
「お前は言ったな、闇をくれると。一緒に闇に堕ちようと。 だが、私が欲しかったのは闇ではなく、光だ。どんなに弱い光でもよかったのに……それをくれたのはお前ではなく、シンハだったよ。 私にとっての光は、魔界には存在しないのだ。戻って来るたびそう思う。 ここにあるのは、悲しみと憎しみと狂気……私は魔界では生きられない……少なくとも正常な状態では、ね」
 そして彼は、扉に歩み寄っていく。
「待て、サマエル」
 再びニュクスが声をかけるが、第二王子は振り向きもしなかった。
「お前は私の伴侶ではない。妻にしなくてよかったと、今さらながら思うよ。 私が言うのも何だが、お前は……そう、どこか歪んでいる……その歪みが、私をさらに狂わせてしまうのだ」
 サマエルはドアノブに手をかける。
 扉が開いた瞬間、貴石の片割れが、部屋の中に残された者達に向かって、小さく手を振った。
 二人は出て行き、その後ろでドアが静かに閉まった。
「……止めずともよいのか?」
 “黯黒の眸”の化身は、心配そうに主を見たが、タナトスは黙って首を横に振った。
「さ、されど……紅龍がおらずば、魔界の勝利は危うかろう……せっかく四頭の龍が揃ったと言うのに……」
 おろおろとニュクスが言葉を継ぐ。
 扉を見つめたまま、タナトスはつぶやくように答えた。
「ニュクス、お前は聞いていなかったのか? ……信じられん……初めてだ。サマエルが、自分から『生きたい』と言うなど」
「生きる希望を持ってくれたのは、たしかに喜ばしいが……」
 言いながら、主の顔を覗き込んだニュクスは、仰天した。
「タナトス、おぬし、泣いておるのか!?」
「泣いてなどおらん。これは汗だ」
 そっけなく言い、タナトスは顔を背けて眼をこすった。
 それまで黙っていた魔法医が、いたわるように口を挟む。
「まあ、落ち着きなされ、“黯黒の眸”殿。 サマエル様に冷静さを取り戻して頂くためにも、少々お時間を差し上げてはいかがですかな。 タナトス様も、そうお考えなのでございましょう? 弟君が本気で魔界を裏切ることなどないと?」
「妾(わらわ)のせいで、魔界に味方するのをやめたのか、“カオスの貴公子”は……。頭が冷えれば、戻って来てくれるのであろうか……」
 “黯黒の眸”はうなだれてしまった。
 タナトスは我に返り、彼女の肩に手を置いた。
「いや、お前のせいではない。気にするな、さっきのは単なる八つ当たりだ。 それに、あいつは嘘つきだからな。 あきれたことに、自分自身にさえ嘘をつくのだぞ、ヤツは」
「されど、タナトス……」
 切なげなニュクスの表情に、タナトスは周囲を見回した。
「おう、ちょうどいいものがあった」
 彼は、ついさっきまで弟が寝ていたベッドの枕元から一本の髪の毛を拾い上げ、ふっと息を吹き込んだ。
 それは光を発しながら徐々に膨らみ、しまいに親指ほどの太さの蛇へと変化して、掌の上でとぐろを巻いた。
 サマエルの髪の右生え際に、紫に輝く一房があるが、この蛇は、そこから抜け落ちた毛でできているらしく、同じ色をしていた。
「おい、蛇。貴様の本体は、一体何を考えているのだ? どうせまた、ろくでもないことを企んでいるのだろう、吐け」
 タナトスに命じられた小蛇は、サマエルそっくりの鮮紅色の眼を明け、鎌首を持ち上げて彼と目線を合わせた。
 そして、これもまた弟によく似た仕草で小首をかしげ、何か考えているかのように、二股に分かれた濃い紫の舌を出し入れしていた。
 のんびりした仕草にタナトスは苛立ち、小蛇の首をつかんだ。
「早く吐け、吐かんと、こうだぞ!」
「これタナトス、そんな乱暴をしたら、答えようにも答えられぬぞ」
 ニュクスが、彼の腕に手を添える。
「む……そうだな」
 タナトスは渋々、手を離した。
『話シタトシテモ、結局ソウヤッテ、我ガ命ヲ絶ツノデアロウ、無慈悲ナル魔界ノ王ヨ』
 解放された小蛇は苦しげに息をつき、恨めしげに彼を見上げた。
 タナトスに代わって、ニュクスが優しく声をかける。
「左様なことはせぬ、ぞんざいには扱わぬゆえ、おぬしの本体の真意を我らに教えてはくれぬか、蛇よ。 我らは、サマエルのことを心配している、彼の力になりたいのだ……のう、タナトス、そうであろう?」
「ああ、まあな」
 仕方なく、タナトスもそう言った。
 薄紫の鱗が美しい蛇は、小首をかしげて再度思考を巡らした。
 タナトスがまたもや苛々し始めたとき、蛇はするりと彼の手を逃れて机の上に降りた。
「貴様、逃げるか!」
 捕らえようとする彼の手を巧みによけて、蛇は舌をひらひらさせた。
『逃ゲル気ハナイ、ココガ最適ノ場所ユエ移ッタマデ。 サア、見ルガイイ。 チョウド今、我ガ本体ト“焔ノ眸”ハ、人界ノ屋敷ニ戻ッタトコロダ。 彼ラノ会話ヲ聞ケバ、オノズトソノ真意ハ知レルデアロウ』
 蛇の両眼から、二つの丸い光が壁に向かって投影された。
 光の中に映し出されたのは、蛇が言った通りの情景だった。

 13.父親の名は(3)

 部屋を出た後、サマエルは、お気に入りの青いシャツと黒いズボンをまとって人界に向かった。
 使い魔タィフィンの歓迎を受けた後、ダイアデムを連れて自室に落ち着いた彼は、輝かしい銀髪を振り、ため息をついた。
「ああ……何だか疲れたよ。ここも、随分久しぶりに感じる……」
「んじゃあ、寝ちまったらどうだ?」
 ダイアデムは、彼のベッドを指差す。
 サマエルは笑みを返した。
「ついさっきまで、一月以上も眠っていたというのに、かい?」
「はん、そーだっけな。 ……あ、フェレスがお前と話したいってさ。いいか?」
「もちろんだとも。出ておいで、フェレス」
 サマエルが同意すると、少年の姿が輝く。
「ああ、サマエル! わたくし、心配で、心配で……! よかったわ、戻って来てくれて!」
 現れるなり、赤紫の髪の女性は彼に抱きつき、キスの雨を降らせた。
「済まない、フェレス」
 サマエルは、彼女を固く抱きしめた。
「わたくしこそ、何の役にも立たなくて……」
 フェレスは涙ぐんだ。
 その涙を優しくぬぐい、彼は穏やかに言った。
「そんなことはないよ、フェレス。 あのとき、一緒に歌ってくれただろう? だから、こうして戻って来れたのだよ、現実世界に」
「本当?」
 すがるように、彼女はサマエルを見上げる。
「もちろんだとも。……それよりもお前、私に付いて来てよかったのかい?」
「え?」
 フェレスは、不思議そうに小首をかしげた。
「私は……魔界を裏切ったのだよ。 お前……“焔の眸”は、よりよい王を選び、代々王家に仕えて来た……。 そうやって、長い年月をかけて大事に育てて来た、お前にとっては子供も同然の魔族達……そんな彼らを裏切り、味方をしないと決めた私などに……」
 彼は再びうなだれた。
「何か訳があるのでしょう? あなたはいつもそう。一人で抱え込まないで、理由を教えて。 わたくし達に隠し事はしないって、約束したわよね?」
 フェレスは夫の顔を覗き込む。
 うつむいたまま、サマエルは答えた。
「……済まない。癖になっているのだよ、今まで何もかも、独りで切り抜けて来たから……。 戦に加わらないと決めた理由は……そうだね、一言で言うなら、『私が紅龍だから』、かな……」
 フェレスは、赤紫の眼を見開いた。
「どういうこと?」
「四色の龍が揃えば、魔界は天界に勝てる、そう予言では言われているね」
 つぶやくように、彼は続けた。
「ええ、そうね」
「だが、他の三頭はいざ知らず、私……“紅龍”は、世界の破壊者なのだよ。 お前はいなかったから知らないだろうが、以前変身したとき、私は理性を失い、破壊神の権化(ごんげ)と化した……。 ライラのお陰で正気に戻れたけれど、いつもうまくいくとは限らない。 単純なタナトスは、予言を一途に信じているようだが……もしウィリディスを取り戻すことができたとしても、私が狂ってしまったら、どうなるだろうね……? そう……神族を皆殺しにした後、魔族をも襲い始めるのだよ……? さらには……せっかく奪回した故郷を破壊し……それだけに留まらず、魔界、そして人界さえも……」
 サマエルは身震いし、頭を抱えた。
「同族殺し……ああ、でも、私は、魔族でさえないかも知れない……半分は人族、では、もう半分は……? 私は一体、何なのだろうね……情けない、自分が何なのかも分からないなんて……」
「あなたは魔族よ、さっきエッカルトも言っていたでしょう?」
 優しい妻の言葉……だが、今ばかりは、胸に突き刺さるような気がした。
 サマエルは勢いよく顔を上げ、高ぶる感情のままに言い返してしまった。
「分かるものか、あんな証言! 口裏合わせなんていくらでもできる、それこそ、当てになるわけがない!」
「落ち着いて、サマエル。 わたくし、もう一度調べてみるわ、あなたが魔族だという証拠……あなたが完全に納得できる証(あかし)を、今度こそ見つけてみせるから。 それにね、予言の通りなら、変身しても狂わないで済むんじゃないかしら。きっとそうよ、ね?」
 フェレスは、常になく興奮している彼をなだめようとする。
 サマエルは、妻の眼を真っ直ぐに見た。
「それは甘いよ。実際、狂ってしまったらどうするのだ? 暴れ出して、どうやっても正気に戻せなかったら?」
 そして、自分の眉間(みけん)を指差す。
「イシュタル叔母上を呼び出して、ここを射抜いてもらうのかい?」
「……!」
 フェレスは、思わず口に手を当てた。
 サマエルは、暗い表情で話を続けた。
「前もって試すことはできない……かといって、ぶっつけ本番で、戦の現場で変身してみるというのも、リスクが高過ぎる……。 大体、父親が不明な今、叔母上と私が本当に血縁なのかも怪しいものだ……。 他の親族の女性と言えばシュネだが、トラウマを持つ彼女が、私を殺すのはまず無理だろう。 もし……叔母上もシュネも私を滅することができないとなれば、当然、誰も紅龍を止められない。私は暴走し続け、宇宙を破壊尽くしてしまうだろう……。 私……紅龍は、宇宙を強制的に初期化する装置のようなものだ……。 そして、一旦始動したら最後、実行の取り消しは決してできない……ああ」
 彼は、自分の想像に耐えられなくなり、顔を覆った。
「だから、魔族を見捨てても、戦いを避けようと思ったのね? 宇宙全部を壊してしまうよりは、ましだから……?」
 フェレスは優しく、彼の背中をさすった。
「……ああ。それに私が戦いに加わらなくとも、万に一つの確率で、魔界が勝つ可能性もあるだろう? その暁には、きっと……タナトスが意気揚々と、私を裏切り者として処刑に来るだろうけれどね」
「たとえ勝っても、タナトスは、そんなことはしないと思うけど」
 フェレスの言葉は、彼の耳には届いていないようだった。
「そして、魔族が滅んでしまったら……その恨みつらみや怨念は、カオスの闇に力を与え、さらに私を苦しめることとなるだろう……。 私はなるべく長くそれに耐え、この宇宙の終焉(しゅうえん)を、一日でも先延ばしするよう努力しなければならない……それはきっと、耐えがたい苦痛だろうな……日夜、寝ても覚めても、頭の中で、裏切り者と責めさいなまれるのだ……。 だからこそ、何度も死のうとしたのに……タナトスにも殺してもらおうとしたのに……! そうすれば、何もかもうまくいくはずだったのだ、私も魔族も救われて……! あああ、私にはもう、狂う自由すらもない……!」
 とうとう彼はベッドに身を投げた。
「サマエル、落ち着いて……」
「本当に馬鹿だ、タナトスは。 こんな私と、本来あいつが守ってしかるべき、何十万もの同胞達を天秤(てんびん)にかけたあげく、虫けら同然の私の方を選ぶなんて……!」
 彼は拳で、布団を殴った。
「それだけタナトスは、あなたを愛してるってことね」
 夫の気持ちを静めようと、フェレスは優しく言う。
 だが、サマエルは、激しく頭を左右に振った。
「あいつの愛なんか、いらない! タナトスは、ずっと私を嫌い、憎み……殺すことに喜びを感じてさえいてくれればよかったのだ! さっき抱かれたとき、心が流れ込んで来ていたよ、あいつは、心の底から私を……! なのにその愛は私を苦しめ、傷つける……タナトスはもう、私を殺してはくれない……うう……」
 サマエルは枕に顔を埋(うず)め、肩を震わせる。
「サマエル……」
「愛などいらない、慈(いつく)しみも、優しさも。 私は無価値な存在なのだから……ああ、生まれてなど、来たくなかった!」
 枕に顔を押し付けたまま、くぐもった声で、彼は言った。
 いっそのこと、号泣できれば少しは楽になれたかも知れないが、彼は泣くこともできないのだった。
 苦悶する彼の耳元で、フェレスはささやいた。
「……じゃあ、わたくし達の愛もいらないのかしら?」
「そ、そんな! お前がいなかったら私は……!」
 思わず顔を上げたサマエルは、紅い中に金の炎が悲しげに揺れる、妻の瞳を覗き込んでいた。
「あなたが欲しいのは、生き物の愛でしょう? 母親の、父親の、兄の。 ……わたくしじゃなくてね」
 サマエルは、飛び起きて妻の手を取った。
「違う! お前がいなかったら、とっくに狂ってしまっていたよ、私は! それに私はもう、“物”しか愛せなくなっている気がする。 生物は短命過ぎるから……いくら愛を注いでも、すぐに私の前から消えて行ってしまうから。 そのたびに私は、胸をかきむしられる思いをして来たのだよ……」
「……ジルのこと?」
 彼女の言葉は、疑問と言うより単なる確認のようだったが、サマエルは眼を伏せた。
「それだけでは……いや、済まない、前の妻の話など……」
 フェレスは頭(かぶり)を振った。
「気にしなくていいわ。それは、シンハも感じていたことだもの。 どれほど愛したとしても、生き物は必ず死ぬわ……思い出だけを残して……。 すべてをありありと……昨日のことのように覚えているのに、当の相手は消えてしまっている……。 ねえ、あなた達は死んだ後、どこへ行ってしまうの?」
 “焔の眸”の化身は、目頭を押さえた。
「フェレス……」
「まあその代わり、波長の合わない王を立てなければならないときでも、数万年間我慢すればいいって、シンハは割り切っていたみたいだったけれど、ね」
 眼をうるませたながらも彼女は肩をすくめ、微笑んだ。
 サマエルも笑みを返した。
「……お前達には、そういう心配はまったくないね」
「あなたにもね。だからわたくし達、喜んであなたに付いて来たのよ。 ああ、これからはずっと一緒にいられるのね。 そうよ、これでもうあなたは、儀式を受けて死んでしまうこともないんだわ、うれしい!」
 言うなりフェレスは勢いよく彼に口づけ、二人はベッドに倒れ込んだ。

         *        *        *

「もういい! こんなときにいちゃつきおって!」
 自分のことは完全に棚に上げ、タナトスは眼を怒らせて叫び、白蛇の頭を思い切り引っぱたいた。
 転げ落ちそうになった蛇はどうにか踏み止まり、机の端で悲しげに彼を見た。
「我ヲ燃ヤセ、王ヨ。本体ニ成リ代ワリ、我ガ一条ノ煙トナッテ、空ニ昇ル」
「うるさい、貴様の処遇は俺が決める、口出しするな!」
 実のところ、用が終わればそうするつもりだったのだが、天邪鬼(あまのじゃく)なタナトスは、言われた途端にやる気が失せた。
「されど、サマエルの言うことにも一理あるぞ。 のう、蛇よ」
 ニュクスが、かばうように手を差し出す。
「左様ですぞ、もし……」
『──くわっくわっくわっ!』
 エッカルトが話し始めるのと時を同じくして、木がきしるような、奇妙な笑いが室内に響き渡った。
「……!?」
 魔法医は面食らい、タナトスも慌てて周囲を見回す。
「誰だ!?」
『くくく、たしかに今のままでは、ルキフェルの申す通り、“紅龍”はすべてを破壊し尽くすであろうよ』
「何だと……まさか……」
 魔界の王は自分の眼と耳を疑った。その不気味な声は、最愛の妃の口から発せられていたのだ。

 14.究竟(くきょう)の光(1)

「──また貴様かっ!」
 タナトスは歯軋(はぎし)りした。
 もちろん彼は、その声に覚えがあった。
『久しいな、魔界の君主よ』
 邪悪そのものといった感じの笑みを浮かべ、別人と化したニュクスは答える。
 今や彼女は完全にテネブレに支配され、その眼もまた、深い洞窟の暗さを湛(たた)えていた。
「貴様、性懲(しょうこ)りもなく! ニュクスの体から出て行け!」
 カッとなり、殴りかかりそうになったタナトスは、どうにか自制し、腕を振るだけに留めた。
『左様に声を荒げたとて、詮方(せんかた)ないぞ、サタナエル。 せっかくこの我が、闇ではなく、光の紅龍へと変化する歌を授けてやろうとわざわざ出て参ったと申すに』
「光の紅龍だ? ……貴様また、そんな口から出任せを……」
 彼は顔をしかめた。
「左様、タナトス様、こやつの申すことなど、一言(いちごん)たりとも信用なさってはいけませぬぞ! 人の心の隙間につけ込み、堕落、あるいは狂わせて死に至らしめる……魔法医ギルド代々の覚書にも、左様な例が多数、出て参りまする。 この怪物は、甘言(かんげん)を弄(ろう)するのが、習い性(しょう)となっておるのでございますからな!」
 エッカルトが二人の間に割り込み、“黯黒の眸”をなじる。
 以前のタナトスなら、魔法医に言われるまでもなく、さらに強力な呪文でテネブレを封じ込めていたことだろう。
 しかし、今の彼は、そうする気にはなれなかった。
「口出し無用だ、エッカルト。 テネブレ、とりあえず話は聞いてやる。貴様も俺の妃の一部分なのだし、無下(むげ)にはせん」
『ならば、まずは我を解放してもらおうか。今のままでは、親密な語らいも、し難い。 おぬしも不快であろう、愛する女の口から、かような声が聞こえて来るというのは……くくく』
 ニュクスに取り憑(つ)いたテネブレは、歪んだ笑みを唇に貼り付けたまま、胸に手を当てた。
 たしかにそれは、かなり違和感のある光景ではあった。
 美しい女性の口から、外見にまったくそぐわない、しわがれた不気味な声が響いて来るのだから。
「いけませぬ、タナトス様! こやつ、何を企んでおるのか、分かりませぬぞ!」
 エッカルトは、必死に君主を止めようとする。
「貴様も心配性だな、話を聞くだけだぞ。その後で判断すればいい。 無論、厳重に結界の中に入れて、だがな。どうだ? テネブレ、不服か」
『差し支えない。耳を傾けてもらえるのであれば』
 「よし」
 タナトスはうなずき、早速、貴石の化身の周囲に魔法陣を描いた。
 それから、解呪の文言(もんごん)を口にする。
「──汝、封じられし者よ、“黯黒の眸”が化身、テネブレ。 我が真名、サタナエルの名に於(おい)て、汝の封印を解く! エクストリコ!」
 直後、黒い煙が立ち昇り、見慣れた禍々(まがまが)しい姿が、淡く青白く光る魔法陣の中央に立ち現れた。
 暗黒に覆われた瞳、曲がりくねった二本の角、乱れた黒髪……漆黒のローブをまとい、五本の足指にはすべて、尖った鉤爪(かぎづめ)がついている。
「おお……久方ぶりの灯りは、熱いな……」
 鋭い爪が生えた両の掌を燭台に向けてかざし、テネブレは感慨深げにつぶやく。
「それで、光の紅龍とは何だ、さっさと説明しろ」
 “黯黒の眸”の感動などお構いなしに、タナトスは急かした。
 暗い視線を彼に注ぐと、貴石の化身は話し始めた。
「……サタナエルよ、おぬしは幽室で見たであろう、紅龍を呼び出す書の表紙の語句を。 紅龍は他の龍とは異なり、光と闇、両方の性質を帯びておる。それゆえ、変化の呪文も二種あるのだ」
 テネブレは、指を二本、立てて見せた。
「以前、我が授けたは闇の呪文……ゆえにルキフェルは狂い、世界は滅亡の危機に陥ったのだがな」
「ふん……光の呪文の方を使えば、破滅を回避できると分かっていたのなら、なぜ最初から教えなかった? いや、そもそもあの書は、選ばれた者以外は開くことができん。無論読めるはずもない。なのになぜ、貴様は呪文を知っていたのだ、テネブレ!」
 タナトスは、“黯黒の眸”に指を突きつけた。
「そ、それは……そ、そう、忘れたか、サタナエル。 も、申したではないか、アナテ女神が、わ、我に、授けたのだと……」
 しどろもどろに答えるテネブレに、魔界王は詰め寄っていく。
「ああ、たしかに聞いた。あのときは疑問にも思わなかったが、よく考えれば妙なことだ。 サマエルはカオス神殿の神官、女神自身が直接伝える機会など、いくらでもあったはずではないか! ──さあ、洗いざらい吐いてしまえ、テネブレ! 貴様、一体何を隠している!」
 魔界の至宝の片割れは、肩を落とし、語り始めた。
「やむを得まい……こうなったからには、もはや隠匿(いんとく)はできぬ、包み隠さず述べるとしよう……。 有体(ありてい)に申せばな。かつて我は、おぬしらと同じ、魔界王家の系譜(けいふ)に連なる者……王子と呼ばれておったのだよ」
「き、貴様が王子だっただとぉ……!?」
 タナトスは眼を剥(む)いた。
 エッカルトは、焦ったように手を振り回し、話に割り込んだ。
「いやいや、お待ち下され、タナトス様。 それはあり得ませぬ、到底、真(まこと)のこととは思えませぬぞ。 わたくしは以前、王家の系図を詳細に調べたことがございます。 されど、“テネブレ”などという名の王子はおりませなんだ、これは確実でございますぞ!」
「ああ、それは知っている、俺も、好奇心で家系図を漁(あさ)ったことがあるからな」
 こともなげにタナトスは言い、確認するように問いかけた。
「だが、時折、大罪を犯したりして名を削られる王族もいる、貴様もそうだと言うつもりか、テネブレよ?」
 “黯黒の眸”は否定の身振りをし、親指で自分の胸を示した。
「いや、そもそも“テネブレ”と申すは我が名でなく、また、これ自体第二形態であり、我が真の風姿(ふうし)ではないのだ」
「真の名、姿ではない、だと……!? しかしカーラは、もう別な化身はおらんと言っていたぞ、俺に嘘をついていたのか!」
 タナトスは険しい顔つきになった。
 “黯黒の眸”は慌てて抗弁した。
「いや、偽りなどでは決してない。彼(か)の豹は、『おぬしが望まぬ限りは』と申したはず……。 また、第二形態へと変化したとしても、中身までは変わらぬであろう? おぬしだとて、黔(けん)龍へと変化した折、別の人格とはならなんだであろうが? ……たしかに第二形態の方が、好戦的になる傾向があるやも知れぬが、な。 それに本来、三代目の紅龍となるは、我だったはずなのだ」
「何だと、貴様が本来の紅龍……!? それで、禁呪の書も読むことができたと言うのか、しかし……」
 タナトスは、半信半疑な顔色だった。
 エッカルトの眼差しからも、疑いの色が消えない。
「左様、仮にその話が真実だと致しても、何ゆえ、サマエル様に光の呪文を伝えなかったのやら。 その理由が明確にならぬうちは、今の話にも、信憑(しんぴょう)性があるとは申せませぬぞ」
 すると、テネブレは、額に手を当てて大きく息をつき、眼を閉じた。
「……おぬしらには、決して理解できまいよ……。 遥かな昔、我は幽室に監禁され、あげく命を絶たれた……その恨みと憎しみの残滓(ざんし)が、未だ我が心を蝕(むしば)んでおる……。 ルキフェルが我を、“歪んでいる”と称したのは、それがためでもあろうな……」
「ほう? 幽閉された王族が、自分を陥(おとしい)れた者達への恨みを込めて、禁呪の書を遺(のこ)したと聞いたことがあるが、その説話が本当だったとは驚きだな」
 タナトスは肩をすくめた。
 “黯黒の眸”は、頭(かぶり)を振った。
「いや、我が、書を記したわけではない。 物心ついた頃には、すでに禁呪の書は存在しており、我は王子として、何不自由なく暮らしておった……幽室に封じ込められた、あのときまでは……。 飢えと渇きに苦しめられ、死を迎える間際、“龍の歌”の書が、輝きながら現れたのだ……。 どうにか封印を解くことはできた、そして呪文を唱えれば生き延びることができる、それも分かっておった。 されど、その結果、待っておるのは世界の破滅……迷った末に、我はおのれの死を選んだ……」
 エッカルトは眉をしかめた。
「これはまた、殊勝(しゅしょう)なことを。 耳触りのよい言葉など、口に出すだけならいくらでもできようぞ、“黯黒の眸”」
 貴石の化身は、じろりと彼を見た。
「偽りと思うのならば、幽室に赴(おもむ)いてみるがよい、魔法医よ。 壁には、我が死に物狂いでかきむしった痕と、剥がれた爪より流れ出た血が、未だ残されておるはずだ……歴然と、な」
 そして、テネブレはタナトスに視線を移し、哀願するように言った。
「のう、サタナエル。女神アナテに誓って、光の呪文を知ったは、ごく最近のことなのだ。 負の感情に囚(とら)われた者には、例え紅龍の資格があろうとも、光の呪文は読めぬのだと女神は申された……アナテ神殿にて託宣(たくせん)を受ければ、我が言葉が真実であると証明されよう」
「ふん、そこまで言うのなら信じてやるか。後で確認すればいいのだしな。 それよりも、なぜ、貴様は幽閉されたのだ?」
 タナトスの問いかけに、貴石の化身は、ぎくりと身を固くした。
「い、いや、それは……」
 うろたえるその様子を見たエッカルトは、肩をすくめた。
「訊くまでもございませぬ、どうせ、罪を犯したゆえでございましょうぞ、タナトス様。おそらく、生前も今同様の……」
「──違う!」
 彼の言葉を、テネブレは激しくさえぎった。
「我は罠にはめられ、幽室に閉じ込められたのだ! おのれの父親によってな!」
「何と!?」
 魔法医は眼を見開く。
「我が何をした……何をしたと言うのだ、ただ、第二次性長期に至り、肉体が醜く変貌(へんぼう)を遂(と)げた、それだけのことで……!」
 “黯黒の眸”は頭を抱え、がくりと床に膝をついた。
「おい、どうした……」
「我に触れるな!」
 結界を超えて差し伸べられたタナトスの手を、化身は払いのけた。
 この結界は内側からは出ることができないが、外からなら、何であろうと抵抗なく通過できる。
「忘れもせぬ、一万五千歳の誕生日のあくる朝、全身の違和感で目覚めると、我は……我が肉体は、すでに変容しておった……この世の者とは思われぬほどに……。 頭の中が真っ白になり、我が周囲の世界もまた、一変した……。 変わり果てた我が身を眼にして、母は気を失い、父は……」
 震える手を、テネブレは目蓋にあてがい、その眼からは涙がこぼれ落ちた。
 それは床で黒曜石へと変化する。
 魔界の王は、以前にも、同様の情景を見たことを思い出した。
 それはゼーンの涙……当時は名前すらなかった、“焔の眸”の傷つけられた化身と同じだったのだ。
(俺とサマエルはアストロツイン……運命を分け合う者。 本当に、俺達の人生が同調しているのなら、テネブレの心を癒してやれば、俺のそばにいるようになるのか? “焔の眸”が、あいつに寄り添っているように……)
 彼はつぶやく。

 14.究竟(くきょう)の光(2)

「辛かったのだな、テネブレ。 この際だ、お前が今まで溜め込んできた思いを、今ここで、俺にすべてぶつけてみろ」
「サタナエル……?」
 優しい言葉をかけられた貴石の化身は、面食らったように、涙で濡れた顔を上げた。
「俺は、お前のことを、何も知らなかった……いや、知ろうともしなかった。 ガキの頃から、親父や家臣共に聞かされて来た話をただ鵜呑(うの)みにし、お前自身から直接聞くことを怠(おこた)っていた……済まなかったな」
 魔法陣の前に片膝をつき、タナトスは、髪が床につくほど深々と頭(こうべ)を垂れた。
「や、やめよ、サタナエル。疾(と)く面(おもて)を上げよ、魔界の君主たる者が左様な真似を……! 我が今日(こんにち)まで重ねて来た、数多(あまた)の悪行(あくぎょう)を思えば、おぬしの父バアル・ゼブルを始め、皆が我を悪(あ)し様(ざま)にののしるは至極(しごく)もっともな道理……あっ」
 タナトスに向かって差し伸べられた“黯黒の眸”の手は、結界に弾かれてしまった。
「大丈夫か!」
 さっと結界に腕を差し入れ、タナトスは傷ついた化身の手を取った。
「いや、何のこれしき。 それにつけても、かような話、耳に入れたとて何の益もない、おぬしが、不快な心持ちになるのみだぞ」
 テネブレはもがいたが、彼は手を離そうとはしなかった。
「出自(しゅつじ)はともあれ、“黯黒の眸”は、“焔の眸”と双璧(そうへき)を成す魔界の至宝。言うなれば、魔族の守護神たるべき存在だ。 なのにテネブレ、中でもお前だけが、禍津日神(まがつひのかみ)でもあるかのごとく振舞うようになってしまったのはなぜだ? その理由を知り、お前の罪をちゃんと清算して、妻に迎えたいのだ!」
 魔界の王は、化身の手をにぎったまま、眼を見つめて宣言した。
 ニュクスとのやりとり、また“焔の眸”の忠告から、彼は、“黯黒の眸”に自分の意思を伝えるには、明瞭さが必要不可欠だということを学んだのだった。
「か、かような邪悪な者までを、お妃にと仰(おっしゃ)る!? い、いけませぬ、タナトス様、ご再考を!」
 仰天した魔法医は、思わず大声を上げる。
「黙れ、今度何かほざいたら、殺すぞ」
 タナトスは、家臣を睨み低い声で脅しつけ、エッカルトは仕方なく口をつぐんだ。
「……この、我をも、妻に、と……!? 獣(けだもの)や女、だけでなく……!?」
 信じられない様子で、彼を凝視していたテネブレの暗い瞳から、再び涙がぼろぼろとこぼれ始める。
「おお……おお……我は……あのまま、見捨てられると思うておった……! かつて闇に封じ込められ……飢えて衰え死んだ、あのときと同じく……」
「済まん、勘違いさせてしまったな。大事の前ゆえ、念のためにと一時的に封じていただけだったのだが。 俺はな、天界との戦に勝利してから、じっくり時間をかけて話し合おうと思っていたのだ。そうすれば、お前とも必ず分かり合えるだろうと。 くそ親父や、家臣共のことは気にせんでいい、どうせ口だけだし、俺が責任を持って説得する、大船に乗った気でいろ」
 タナトスは、“黯黒の眸”に微笑みかける。
 口を開きかけたエッカルトは、君主の険しい視線に会って、言葉を飲み込むしかなかった。
 “黯黒の眸”の化身は、居住まいを正した。
「……相分かった。左様に申してくれるのであれば、語るとしよう。 我が、幽囚(ゆうしゅう)の身と成り果て、あげく息絶える羽目に陥ったその経緯(いきさつ)を……。 生まれし時より、我は次代の王として期待され、ケテル、すなわち“王冠”と名づけられた。 絵に描いたような幸福とは、あのようなことを申すのであろうな。 日々、光と笑いに満ちあふれた暮らし……それが永遠に続くものと思うておった、されど……」
 テネブレは不意に言葉を切り、天を仰いだ。
「一万五千歳の誕生日のあくる日、だったな?」
 タナトスが優しく促す。
 化身は視線を彼に戻し、気が重そうに続けた。
「左様……我が肉体は……筆舌(ひつぜつ)に尽(つ)くし難い、とある変容を遂げており……我が精神は……暗い奈落の底へと突き落とされるに至ったのだ……」
「ふむ。一体、どんな姿になったというのだ?」
 タナトスは軽い好奇心から尋ねたのだが、テネブレの顔色は紙のように白くなり、わなわなと唇を震わせた。
「そ、それは、口が裂けても言えぬ。 万が一にもおぬしが眼にしたならば、我をも妻になどと、二度と口にする気にもなれぬであろうよ……」
 悲しげにうなだれる化身を見た彼は、それ以上の追究をやめた。
「それで、その姿が気に入らず、父親はお前を殺そうとしたのか。 薄情なものだ……初見は多少気味が悪くとも、見慣れればどうにでもなると思うがな」
 “黯黒の眸”の顎に手を添え、その禍々しい顔を覗き込んだ刹那、彼は、はっと息を呑んだ。
 この化身は常に、黒いローブで全身を覆っている。
 そのため、こうやって、顔を身近でまじまじと見たのは初めてと言ってもいいくらいだったのだが、本来テネブレの眼球があるべきところには、ただ暗黒の空洞がぽかりと口を開けているのみだった。
「……そうか、俺は勘違いしていた、お前の眼球には白目がなく、すべて黒いのだと……お前、眼が見えておらんのだな?」
 魔界の王の問いかけに、化身はうなずいた。
「我が眼窩(がんか)には眼球が存在せず、よって、通常の視力と呼ばれるものもない。周囲の気配を読み取り、透視するゆえ不要なのだ。 く、加えて……わ、我が真の風姿は……お、おぬしが想像致しておるよりも、遥かに醜く……み、見慣れるはずも、ないほど……。 う……こ、この世のものとは、と、とても、思えぬ……ううっ、くうっ」
 声を詰まらせながらもどうにか話し続けていたテネブレは、しまいに嗚咽(おえつ)し始めてしまった。
「おい、泣くな、落ち着け」
 タナトスはそっと、化身の背中をさする。
 そのとき、彼らの後ろで、エッカルトがつぶやいた。
「ケテル王子……光の申し子と呼ばれたお方、ですな」
「知っているのか、貴様」
 魔界王が振り向くと、魔法医はうなずいた。
「王家の歴史を紐解(ひもと)いた折、“悲劇の王子”との記述を眼に致しました……されど“黯黒の眸”ならば、どの王子の名を騙(かた)るも容易、ではございますな」
 わざとらしく付け加えられた台詞に激昂(げっこう)したテネブレは、自分の胸をたたいた。
「誰が騙りか! 真実この我が、当の王子だ!」
 タナトスも眼を怒らせ、結界から腕を引き抜くと、魔法医の胸倉をつかんだ。
「貴様、死にたいか、いい加減にしろ!」
 君主に揺さぶられながらも、エッカルトは言いやめようとはしなかった。
「タ、タナトス様、お眼をお覚まし下され……あ、あなた様のお体は、もはや、あなた様お一人のもの、では、ございませぬ……! か、かような輩(やから)にたぶらかされ、と、取り返しのつかぬことになりでもしたら、い、一大事で、ございまするぞ……! た……たった一匹の、化け物のために、魔界の未来が、閉ざされてしまう、左様なことだけは、ぜ、絶対に、避けねば……!」
「黙れ、黙れ、黙れ!」
 聞く耳を持とうとしない彼に、魔法医は念話に切り替え、話しかけて来た。
“お静まり下され、タナトス様。 この者を故意に怒らせ、真実を語らせるよい機会と心得ます、将来に禍根(かこん)を残さぬためにも、どうか、わたくしの進言をお聞き入れ下さいませ……”
「うるさい! 貴様や家臣共が何と言おうと、俺はもう決めたのだ!” いくら諭(さと)しても耳を貸そうとはしない君主に、エッカルトは、意を決したように心の声を強めた。“それでは申し上げまするが! わたくしの弟と息子は、彼(か)のトリニティーとの戦にて、戦死致しました、先の戦は、何者の差し金(がね)でございましたでしょうな!?”
“……!”
 タナトスはぎくりとし、動きを止めた。
 人界の王セリンが、版図(はんと)を広げる野望に駆られ、魔界に対し一方的に宣戦布告して来た……トリニティーとの戦争の発端は、当初はそう思われていた。
 だが実際は、テネブレがセリンを操り、引き起こしたものだった。
 それが判明して以降、元々低かった“黯黒の眸”の評判は、完全に地に落ちたと言ってよかった。
「……お分かりでございまするか? “黯黒の眸”、否(いな)、正確にはこのテネブレのことを、よく思わぬ者は、わたくしだけではございませぬ。 彼らを得心(とくしん)させるためにも、しっかりと見極めねばなりませぬぞ、この者の言葉が、真実か否かを」
 主君の眼を見つめながら、エッカルトは今度は声に出し、きっぱりと言ってのけた。
「くっ……」
 当事者である家臣にここまで言われてしまうと、さすがのタナトスも黙るしかなかった。
 その様子を見ていたテネブレは、唇を噛んだ。
「……化け物、か。たしかに、我は二目と見られぬおぞましき怪物だ。 それほど我が言質(げんち)を取ることを望むならば、とくと見るがよい、実の父に、存在の抹消を決意させるほど嫌悪を催(もよお)させた、我が第一形態を!」
 化身は叫び、体が眩(まばゆ)い光に包まれた。
 直後、魔法陣の中に現れたのは、第二形態でいたときと同じ、黒のローブ姿だった。
 ただし、背はかなり小柄になり、タナトスよりも頭一つ分ほど、低くなっている。
 固唾(かたず)を呑んで見守る二人の前で、“黯黒の眸”はゆっくりとフードを外し、その顔を露(あらわ)にした。
 一瞬の間を置き、タナトスが、拍子抜けしたようにつぶやく。
「……何だ、さほど妙なところはないではないか……?」
 遥かな昔、魔族の王子だったと自称するこの化身……その第一形態の容貌は、醜いどころか、サマエルにも負けず劣らず美しかったのだ。
 女性のようにも見えるほっそりとした顔立ち、染み一つない純白の肌、肩にかかる巻き毛もまた真っ白で、背中の翼だけが黒かった。
 見た目の年齢は人間で言えば十五、六歳くらいだが、幼いようでいて、老成した感じも受けるのは、計り知れない年月を経て来た証(あかし)だろうか。
 中でも特徴的なのは、その眼だった。
 フェレス族ゆかりの猫眼(びょうがん)自体は、現在の魔族にも受け継がれているため、さほど珍しいものではない。
 しかし、この化身は左右の瞳の色が違い、右眼が金、左が青みがかった銀色をしていたのだ。
「醜貌(しゅうぼう)が聞いてあきれる。やはり虚言(きょげん)であったな」
 エッカルトは、我に返ると首を横に振った。
「顔面は生来(せいらい)のもの、変化したのは肉体のみだ」
 魔法医に鋭い視線を注ぎ、ケテルは胸に手を当てる。
 その声も、テネブレでいるときとはまったく異なり、少女のように澄んだ美声だった。
「……さあ、見るがいい、これが……」
 かつての王子は大きく息を吸い、震える手で闇色のローブをつかむ。
「我が真の姿だ!」
 そうして、剥ぎ取るように脱ぎ捨てた。

 14.究竟(くきょう)の光(3)

 タナトスとエッカルトは、唖然(あぜん)としていた。
 彼らの視線の前にむき出しになったケテルの裸体は、色々と想像を巡らし、思い浮かべていた姿とは、これ以上ないと言うほど、かけ離れていたのだ。
「……お前、気は確かなのか? それとも、俺がおかしいのか……」
 タナトスは目蓋(まぶた)をこすり、首を振って化身の体を見直し、それから再び口を開いた。
「やはり、俺の眼や頭が変なわけではないな。 おい、ケテル。鏡を出してやるか? 自分の体をよく見てみるがいい、どこが醜いと言うのだ」
「まったく、そのなりで不器量(ぶきりょう)などと……一体、いかなるつもりで左様な戯言(ざれごと)を!」
 エッカルトも声を荒(あら)らげた。
 仮に、この少年が醜悪な外見をしていたのなら、彼らもさほど面食らわずに済んだことだろう。
 たとえば、全身が触ることもできないほど膿(う)み崩れていたり、あるいは、汚らしいかさぶたに覆われているとか、それとも、水死体のように色変わりし、ぶくぶくに膨れ上がっている、などといった状態だったなら……。
 だが、高温で焼き上げられた磁器のごとく、白く滑らかな肌をしたテケルの均整の取れた肉体は、“光の申し子”という通り名に見合う美しさを持って彼らの前に立っており、そのことが一層、二人の混乱に拍車をかけていた。
「……これを見ても、そう言えるのか、おぬしらは」
 化身は彼らを睨みつけながら、胸の前で組んでいた腕を解いた。
 その下から現れたのは、女性のような丸い乳房だった。
「お、お前、女、だったのか……む、いや……!?」
 タナトスは思わず声を上げる。ケテルの下半身は、男性のものだった。
 エッカルトは難しい顔になった。
「むむ……なるほど、半陰陽(はんいんよう)でおられたか……。 されど、それは、美醜とは違う話でございましょうに」
「こいつの言う通りだ。 半分男で半分が女、それのどこが醜いのだか、俺にはさっぱり分からんぞ」
 タナトスは首をかしげる。
 ケテルは、さらにきつい視線を彼らに向けた。
「生まれてこの方、おのれを男子と思うており、周囲も左様に見ていたものを、ある日突然、半分女だなぞと言われて、おぬしらは承服できるのか!? 突如、胸が膨らみ、月経さえもが始まり……その惑乱(わくらん)から抜け出す暇(いとま)も与えられぬまま、父親に忌(い)み嫌われて幽閉され、斃(たお)れた身ともなってみるがいい!」
「何、月経!?」
 魔界の王は眼を剥いた。
 彼の驚愕には構わず、ケテルは独り言のように続けた。
「今にして思えば、我の眼……瞳の金と銀はこのことを……我が“ふたなり”であるということを示していたのかと……。 金眼銀眼(きんめぎんめ)は幸福の証、などと煽(おだ)てられ、無邪気にそれを信じ込んでいた……何と愚かなことよ……」
 ケテルは目蓋に手を当てた。
 こぼれ落ちる涙は床に触れ、透明な中に虹色が煌く、世にも稀(まれ)な貴石となる。
 それを拾い上げ、“黯黒の眸”の化身は、誰にともなくつぶやいた。
「我は男にも女にも非(あら)ず……あまつさえ、生き物でもなくなってしまった……」
「ケテル」
 魔界の王に声をかけられた、かつての王子は顔を上げると、美しい顔に、淋しげな笑みを浮かべた。
「……正体を突き止められてしまったな。これにて、隠れ鬼も終わりか……。 我本来の寿命は疾(と)うの昔に尽きておる……いよいよ、消える時が参ったのだな」
「消えるだとか、寿命だとか、詰まらんことを言うな。 たとえお前が何だろうと、俺は」
 手を差し伸べるタナトスを拒むように、ケテルは後ずさった。
「生にしがみつきし我が妄執(もうしゅう)が、テネブレという闇の怪物を生み、守護すべき魔族を逆に苦しめた……トリニティーとの戦が、その際たるもの。 そこな魔法医もまた、被害をこうむりし者の一人であろう?」
「お前、俺達の会話を聞いていたのか?」
 化身は、頭を横に振った。
「否、我は、流れ来る負の感情に感応(かんのう)するのみ……。 おぬしが創りし女が一人でいるのを嫌い、おぬしのそばにいることを望んだのも、闇……すなわちテネブレに、飲み込まれるのを恐れたゆえだ。 我は闇の怪物と化して、実の父を殺(あや)め……その咎(とが)により、地下深く封じられた……。 闇の中にて、死の瞬間の苦しみを繰り返し味わい……狂っていき……おのれ同様、憎しみと恨みに満ちた者に取り憑(つ)き、操り、一層罪深き者となった……。 ここにて終わりにせねば、我は、さらに罪を重ねることとなろう」
「そんなことはない。テネブレだとて心を入れ替えたはずだ、先ほども涙を見せていたくらいで……」
「泣き落としに惑わされるでない。 サタナエルよ、おぬしの名の意味する通り、闇とは敵対せねばなるまいぞ。 同化なぞ、もっての外(ほか)だ」
「いや、俺は、お前達と敵対はせん」
「……!」
 自分の言葉を否定し続ける王に苛立ったように、ケテルは歯を食いしばると、いきなり結界に向けて身を投げた。
 すさまじい光と共に、激しい衝撃波が辺りを揺るがす。
「我と同化せよ、サタナエル。さすればもはや何があろうと、我と引き離されることもあるまい……くくく」
 光が消えると同時に、タナトスの首をつかんだのはテネブレだった。
 結界を突き破った“黯黒の眸”の化身は、白から闇の姿へと変化していたのだ。
「ぐっ、き、貴様……!?」
「タナトス様!」
 エッカルトが慌てて引き離そうとするが、闇の化身は、ものすごい力で、もがく魔界王の首を締め上げ続ける。
「くそっ、や、やめろ、テネブレ……!」
 そのとき、小蛇が魔法医の体に飛び乗リ、素早く耳元まで這(は)って来て、ささやいた。
『慌テルナ。ヤツノ後頭部ニ、雷撃ヲ食ラワセヨ』
「何!? そうか──トニトルス!」
 エッカルトは、言われた通りに呪文を唱える。
「ぎゃっ!」
 青紫の電撃が走り、テネブレは悲鳴を上げて倒れた。
「タナトス様、ご無事で!」
 エッカルトは、化身と一緒に倒れた君主を助け起こそうと駆け寄る。
「くっ、だ、大丈夫、だ……ふう」
 手を振って助勢を断り、タナトスは自力で起き上がって、椅子に座り込んだ。
『魔封具ヲ着ケヨ! てねぶれガ目覚メヌウチニ、早ク!』
 小蛇は、さらに促す。
「おお、魔封具とな。 ──カンジュア! ……お?」
 魔法の手枷(てかせ)を取り出し、急ぎテネブレに装着させようとしたエッカルトは、眼を見張った。
 ぐったりと正体なく横たわる化身の姿は、再び白い王子の姿になっていた。
 魔族は意識を失うと、通常の場合、変身が解けて元に戻る。
「……むう。たしかに、第一形態と申すはまことのようだな」
 魔法医は一人うなずき、手枷でケテルを拘束した。
 その魔封具は、鎖で両手首をつなぐものではあったが、黄金製で、一見すると幅の広い腕輪のようだった。
 優美な形状をしていたのは、無意識のうちに、相手を王子として認めていたからかも知れない。
『ソノ上デ、今一度、魔法陣デ封ジルノダ。 コレデ、コヤツモモウ、結界ヲ破ルコトハデキマイ』
「なるほど、さすがはサマエル様の分身……そなたは頭が切れるな」
 感心しながらエッカルトは、気絶した化身の周りにせっせと魔法陣を描いた。
「……よし、これにて完成だ」
 ほっと額の汗をぬぐうエッカルトから、紫の蛇は机に飛び移り、息を整えているタナトスの顔を覗き込んだ。
『魔界王ヨ。ヤハリ、コノ者ハ、消スベキダト思ウゾ。 一番イイノハ、公開処刑ニスルコトダガ』
 それを聞いたタナトスは、喉の痛みも忘れて立ち上がり、細長い体をむんずとつかんだ。
「何だと、貴様!」
『“黯黒ノ眸”ヲ、妃ニト、望ムノナラ、闇ハ、不要ダ。 皆ヲ、納得サセ、婚姻ヲ、認メサセル、ニハ、てねぶれ、スナワチ、けてるノ処刑ガ、最善ノ、策、ダ……』
 小蛇は苦しげに身をくねらせながら、語り続ける。
「くそ、処刑だと!? 貴様、少し甘い顔を見せれば付け上がりおって、死ね!」
 タナトスはその頭と尾をつかみ、力任せに引き千切ろうとした。
「やめよ、サタナエル」
 その澄んだ声に、彼がはっと振り返ると、ケテルが目覚めたところだった。
「蛇にとって、おぬしは創造主……言わば親のごとき者だ。 親に殺される悲しみを、我は知っている……それゆえ、我に免じて……」
 貴石の化身はひじをついて半身を起こし、頭を下げる。
 手首の鎖が、かちゃりと鳴った。
「それに、その蛇の提案は、すこぶる妙案だと思う……」
「お前まで何を言うか」
 タナトスは顔をしかめ、それでも蛇を引き裂くのはやめて、放り出した。
 蛇は声もなく、ぐたりと床に伸びた。
「“黯黒の眸”の化身のうち、咎(とが)ある我……テネブレを消去し、おぬしが創り上げた女を妻にするとなれば、苦情を述べる者は、もはやおるまい。 ……そうであろう? エッカルトよ」
 かつての王子は、初めて名を呼び、魔法医に視線を移す。
「えー、ごほん、左様……」
 急に話を振られたエッカルトは、咳払いをして一呼吸置き、答えた。
「わたくしめには異存はございませぬ、皆も同様だと存じまするぞ」
「何だとぉ、貴様!」
 タナトスは吼え、魔法医に殴りかかる。
「お、お静まり下され、タナトス様!」
「たわけ、これが落ち着いていられるか!」
 二人はそのまましばしの間、もみ合った。
 そうやって、家臣とつかみ合いを演じていた魔界王は、床に投げ捨てた小蛇が、意識を取り戻したことに気づかなかった。
 ケテルが、その紅い眼を捉えたことにも。
 鎌首をもたげた蛇は小首をかしげ、白い王子の色違いの瞳を見返す。
 ケテルは顔を曇らせ、それから小さくうなずいた。
 するとエッカルトもまた、一瞬だが動きを止めて、何事かに聞き耳を澄ませる様子だった。
「……む?」
 タナトスが気づいたときには、もう遅かった。
「ご無礼仕(つかまつ)る!」
 それまで身を守ることに徹していた魔法医が、突如魔力を使い、彼をベッドに投げ飛ばしたのだ。
「くっ、き、貴様!」
 柔らかい布団の上に投げ出され、起きようともがくタナトスの手首に、蛇が絡みつき、彼をベッドに拘束する。
『今ダ、えっかると、たなとすヲ封ジヨ!』
 蛇が叫ぶ。
「何だと、貴様ら!」
「ええい、致し方ない!」
 魔法医は半ば自棄(やけ)気味に声を上げ、ベッドの周りに手早く魔法陣を描いて、魔界王の力をすべて封じてしまった。
「……うまくいったな、光をもたらす者の化身よ」
 ケテルが言った。
「う、うぬ……貴様ら、グルか!? 俺をどうする気だ!」
 タナトスは暴れたが、蛇は強力な拘束具でもあるかのように彼を捕縛し、自由に動かせるのは足だけだった。
『少シ頭ヲ冷ヤセ、たなとす。ソンナニ感情的ニナッテハ、話モデキナイ』
「こんなことを仕出かしておいて、頭を冷やせだと!」
『けてるハ、我ニ尋ネタ。 オ前ヲ静メ、オノレヲ消スト言ウ、我ノ提案ヲ受諾サセルニハ、ドウスレバヨイカ、ト。 ソコデ、コウシタノダ。ソレニハ、えっかるとノ助力ガ、必要ダッタ。 二人共、気ガ進マナイト言ッタガ、我ガ押シ通シタ』
 彼の耳元で、紫の蛇が冷静にささやく。

 14.究竟(くきょう)の光(4)

「誰が何と言おうと、俺はお前を諦める気はないぞ! 俺はもう決めたのだ、必ず妃にするからな!」
 身体は拘束されても、心の自由までは奪われまいと、タナトスは声を張り上げる。
 ケテルは、ため息をついた。
「……そこまでおぬしは、我に執着するか。 よんどころない、蛇よ、あれを創るとしよう」
 蛇はうなずいた。
『えっかると、王ノ髪ヲ一本取レ。 てねぶれノ処刑ノ段取リヲツケルタメ、複製ヲ創ルノダ』
「詮方(せんかた)あるまい……タナトス様、ご無礼の段、平にご容赦」
 エッカルトは、気の進まない様子で結界に手を差し入れ、君主の黒髪を抜き取った。
「ふ、ふざけるな、貴様ら! 大人しくしておれば、たわけたことを! 今すぐ俺を解放しろ! いや、こんな縛(いまし)めごとき、引き千切ってくれるわ!」
 言うが早いかタナトスは、拘束を解こうと腕に力を込め始めた。
 筋肉が盛り上がり、額に青筋が立つ。
 しかし、いくら力を入れても、蛇は平然としのいでいた。
「く、くそ、なぜだ! さ、っきは、今にも、千切れ、そうだった、というのに……!」
 タナトスの息が上がって来ても、細長い体はびくともしない。
 それどころか、蛇の胴体は、紫に輝きながら徐々に太さを増し、縛る力も強くなっていくようだった。
『ソレハ、コレガ我が本体……さまえるノ寝台ダカラダ』
 蛇は答えた。
「何、どういうことだ!」
『コノ寝台ニハ、本体ノ悲シミヤ苦悩、ソシテ、オ前ニ対スル複雑ナ思イガ、今モ残留思念トシテ、強ク残ッテイル。 ソレガ、オ前ヲ縛リ、カツ我ニモ、力ヲ与エテイルノダ』
「サ、サマエルの思念だと……くそっ!」
 タナトスは、歯を食いしばる。
「……サタナエル。我が消えても女は残る。豹もな。 それで足りねば、何か別の……左様、おぬし好みの新しき化身を、創れば済むことではないか」
 ケテルは、淋しげな微笑を浮かべた。
「お前、それでいいのか!」
「……我は、おのれの罪を贖(あがな)わねば……。 有体(ありてい)に申せば、無論、生き続けて……いや、もはや生きておらぬ身ではあるが、それでも、おぬしと共にいられることを望んではいたよ。 されど、許されまい……左様なことは」
 化身はうなだれた。
「諦めるな、俺が必ず……!」
 身をよじり、縛めから抜け出そうともがきながら、タナトスは叫ぶ。
「いや、テネブレがいる限り、我に対する魔族達の恨みつらみは消えず、その念により、またもや我は、闇の化身へと変化してしまうだろう、今までもそうであったように……。 強い恨みと憎しみを持つ者の念、その誘惑はいかんともし難く……我はテネブレを抑えられぬ……ああ」
 ケテルは頭を抱えた。
「だから、簡単に諦めるな!」
「サタナエル、要石の間に封じられていた折、おぬしが会いに来てくれるたび、心が弾んだよ。 封印を解かれ、さらに新しき姿と名をも与えられ、天にも昇る心持ちだった……。 おぬしが我を遠ざけるようになったときには……ああ、しくじってしまったかと……深き奈落の底に突き落とされたごとく……わらにもすがる思いで、“焔の眸”に、いかが致せばよいか尋ねた……。 おぬしが、我を好いていると知らされたときにも、安易には信じられず……永久(とわ)に闇中で過ごそうと心に決め、みずから地下迷宮へと……。 その後、おぬし自身が迎えに来てくれ、妃にと……夢見心地でそれを聞いたというに……!」
 両膝を抱え、ケテルは肩を震わせた。
 食いしばった歯の間から嗚咽(おえつ)が漏れ、見る間に、床が輝く貴石で覆われていく。
「ケテル、泣くな。済まなかった。 あのときは、自分でもおのの気持ちがよく分からなかったのだ」
 タナトスは暴れるのをやめ、優しく声をかけた。
「……相済まぬ。おぬしは悪くない」
 化身は手の甲で涙をぬぐった。
「我が表に出て、話をするのは久方ぶり……いや、肉体が滅んでのち、初めてのことやも知れぬ。 それゆえ、感情の制御もようできぬ……女々(めめ)しき者よと蔑(さげす)まれるも、詮方(せんかた)なきこと……」
「軽蔑などはせん、それこそ仕方がないことだ。 何があろうと、俺がお前を守ってや……」
「──蛇よ、サタナエルを眠らせよ!」
 突如、ケテルは耳に手を当て、叫んだ。
「その後、我をも眠らせれば、テネブレも眠りにつく! さすれば、もはや妨げる者はなく、手はずは整えられよう!」
「な、何を言っている、俺の話を聞け、ケテル! 蛇、俺を眠らせたりしたら、承知せんぞ!」
 タナトスは足をばたつかせるも、空しい努力だった。
『イイ考エダ。イツ結界ガ破ラレルカト、気ヲモム必要モナイ』
 蛇は言い、その瞳が妖しい紅い光を帯びて輝くたびに、睡魔が襲いかかり、タナトスの意思とは裏腹に、動きも徐々に緩慢(かんまん)になっていく。
「く、くそぉっ! 俺は眠りたくなどない! サマエル! 貴様、この蛇を何とかしろ!」
 自分で創り出したというのに、魔界王はそう叫び、眠りに落ちる寸前、思った。
(サマエル、“焔の眸”を破壊したあの時、こんな気持ちだったのか? ああ……おのれの半身が引き千切られるようだ……!)

           *    *    *

 そうして、タナトスが完全に眠り込んでしまうと、蛇は縛めを解き、彼の枕元でとぐろを巻いた。
「……眠ったな。蛇よ、手数をかけた。 あとは、これをサタナエルに渡してくれぬか、我の形見として。 幻虹金剛石(げんこうこんごうせき)と名づけられし、この石を」
 ケテルは、宝石と化した涙の中から、最も美しく大きい一粒を手に取り、差し出した。
「おう、何と美麗な石であろうか、例えようもない、この、虹色の輝き……」
 受け取ったエッカルトは、あまりの美しさに、思わず灯りに透かし見た。
 それから、君主の掌に滑り込ませる。
 タナトスは眠ったまま微笑み、胎児のように体を丸めて、さらに深い眠りへと落ち込んでいった。
『チョウドイイ。アレヲ、オ前トたなとすノ夢ヲツナグ媒体トシヨウ』
 蛇は、舌をちょろちょろと動かした。
「……同じ夢を見させてくれるのか?」
『アア。短イ間ダガ、夢ノ中デ共ニ暮ラスガイイ』
「礼の言葉もない」
 蛇に頭を下げたケテルは、魔法医に向き直った。
「準備には、いかほどの期間かかるだろうか」
「左様、おそらく、半月ほどもあれば……」
 言いかけたエッカルトは、元王子と眼が合い、小さく咳払いした。
「……こほん。いや、一月は必要であろうかと」
「かたじけない、エッカルト。一月の間、おぬしの君主を借り受ける。 それから……我、すなわちテネブレが滅した後、王が創りし新しい化身……ニュクスとして、そばに侍(はべ)るのを許してもらえようか。 妃の位などいらぬ、召使いか使い魔でよいのだ……」
 化身は、深々と頭を下げた。
「面(おもて)を上げなされ、ケテル。 自分は、そなたの処遇を云々(うんぬん)する立場にはない、すべては陛下がお決めなさることだ。 されど、ニュクスには含むところは何もない、陛下が妃にと所望(しょもう)なされるならば、喜んで仕えようと思うておるよ」
 エッカルトは優しく微笑んだ。
「……ありがたい……」
 かつての王子は、額を床にすりつけた。
「サタナエルが目覚めて、万が一おぬし達に怒りを向けても、我が……いや、ニュクスがきっと取り成し、決しておぬしらに罰など与えぬように致すゆえ、後顧(こうこ)の憂(うれ)いなく、我が処刑の準備に勤(いそ)しんでもらいたい……」
「いやいや、仕置きなどなさらぬよ、このお方は。 それより、いつまでもそなたを裸でおくのも気の毒だ。 ──ストーラ!」
 エッカルトは魔法で、少年に服を着せた。
 白いシャツ、濃紺の上着と七分丈のズボン、白いソックスに、革の短靴……王子にふさわししい、すべてがシルクでできた豪華な衣装だった。
「こ、これは……!?」
 化身は飛び起き、着衣に触れる。
「そなたの肖像画を見たのでな。たしか、かような服装であったと記憶して……」
「これは我が最も好んだ衣装……そして、死した折にも身につけておったものだ……」
 化身は、はらはらと涙をこぼした。
「おお、それは済まぬ、別なものと取り替えよう」
 魔法医は慌てて提案する。
 ケテルは否定の仕草をした。
「いや、肉体が滅んだ砌(みぎり)の身なりにて、今度こそ、我は真の死を死ぬ……死に装束(しょうぞく)として、これ以上ふさわしき物はなかろう。 それから……ついでと申しては何だが、あと一つ、頼まれてはもらえまいか?」
「構わぬが、何かな?」
「実を申せば、我が亡骸(なきがら)は未だ弔(とむら)われず、幽室にあるのだよ」
 エッカルトは驚きのあまり、のけぞった。
「何と!? さ、されど、王室の墓地にはそなたの墓が……」
 化身は微笑んだ。
「我に興味を持って、色々調べてくれていたようだな。 墓は空だ。我が死した場所を知る者はおらず、幽室も数世代の間、閉ざされておったゆえ」
「……遺体なしで葬儀を執(と)り行ったか。 反逆者に謀殺(ぼうさつ)された、との名目で」
 エッカルトは、一人うなずく。
 王家に伝わる古文書には、そう記してあったのだ。
「左様。我はと申せば、生への執着を断ち切ることができず、肉体が腐りゆくのを、ただ眺めておったものだよ……。 嘔吐を催す腐臭が漂う中、うじが湧(わ)き、どろどろに溶けていく我が身。 やがて、洗われたごとくに白き骨ばかりとなり、致し方なく幽室を後にした……。 もはやすべてが塵(ちり)と化しておろうが、骨の一片なりと残っておれば、墓に収めてはもらえまいか? 無論、手が空いたときでよいが」
「必ずやそなたの遺骸(いがい)、埋葬致すと誓おう。 今は眠るがよい、王と共に。この蛇が、特上の夢を見せてくれよう」
 エッカルトは、真摯()しんんじsな態度で答えた。
「かたじけない。おぬしらには、返す返すも厚く礼を述べねば」
 化身は再び床に頭をつけた。
『ヨイ夢ヲ編モウ。我ガ眼ヲ見ヨ、けてる』
 蛇の瞳がまたも紅く輝くと、ケテルの目蓋はゆっくりと閉じていった。
「さて……あとは複製を作らねばな」
 魔法医は、手の中の髪に視線を落とした。
『婚礼モ一緒ニ、挙ゲテハドウカ? 我ハ王ノ怒リヲ買ッタ。千切ラレ、踏ミツケラレ、燃ヤサレルダロウ……。 最期ニ、美シイ物ヲ見テオキタイ……』
 蛇は悲しげに言った。
「いや、タナトス様には、落ち着いて頂く時間が必要だ。 それに、無体なことはなさるまいよ」
 エッカルトは、優しく蛇の頭をなでた。
 蛇は小首をかしげる。
『ナゼ、我ナドニ慈悲深クスル?』
「長年医者をやっておると、いかにしても救えぬ命というのもあるゆえ、な」
 魔法医は、結界の中で横たわる、かつての王子をちらりと見た。
『てねぶれヲ、憎ンデイルノデハナイノカ』
「それよ。憎悪(ぞうお)なぞ、自分には最も縁遠いものと思うておった。
 先ほどの怒りも、陛下を心配するあまりだと。
 されどケテルは、『憎しみに感応』したと申した。
 生にも死にも執着するは愚かと思うが、自分も修行が足りぬと、つくづく思うてな……」
 エッカルトは嘆息(たんそく)した。

 15.光の紅龍(1)

 不意に、ベッドの中でサマエルは顔を上げた。
「どうしたの?」
 驚いて、フェレスが尋ねる。
「いや……呼ばれたような気がして。 まさか、ね。 まあ、タナトスのことだ、私の悪口を並べ立てているのかも……」
 考え込みかける彼の首に腕を回し、フェレスは甘くささやく。
「ねぇ……続けて」
「そうだね。もう私には関係ないし」
 彼は妻に口づけた。
 そうやって夢中で愛し合ううち、四日ほどが経った。
「これ、もう一度、受け取って下さる……?」
 ようやく一息入れたとき、フェレスが差し出したのは、ウズラの卵ほどの大きさをした宝石だった。
 紅い液体を水に落としたときにできるようなマーブル模様が、透明な石の中に浮かび上がっている。
「もちろんだとも、ありがとう。 またこれを手にできるなんて、私は果報者だ」
 うやうやしく貴石を受け取った彼は、掌の上に乗せてじっくりと眺めた。
 これはウィルゴと呼ばれる石で、授けられた者を強力に守護する力がある。
 以前、フェレスが創り出した彼との愛の結晶は、“焔の眸”を復活させるために使用され、失われていた。
「いつ見ても美しいね、フェレス」
 そう言って彼が顔を上げたとき、妻の眼は閉じられていた。
「……フェレス? どうしたの?」
 揺すってみたが、彼女はぐっすり眠り込んでいて、眼を覚ます気配もない。
 睡眠を必要としない宝石の精霊にしては、珍しいことと言えた。
「疲れたのか……無理させ過ぎたな」
 彼は照れ笑いを浮かべた。
 いくら彼女が生身ではなく、精力もサッキュバス並に強いからといって、やはり、夢魔の王子である彼には敵(かな)わないのだろう。
 それでも、一人の相手とこれほど続けて愛し合ったのは初めてだったので、彼はとても満足していた。
 今まで女性を相手にするときは、極度に気を遣わなければならなかった……狂わせてしまわないように。
 イシュタルだけにはその心配はなかったものの、独占することは許されなかった。
 実父かどうか定かではなかったが、ともかく自分の父親ということになっている男の、愛人だったのだから。
「お休み、フェレス。キミはとても美しいよ」
 光の中で輝いて見える妻に口づけ、ウィルゴを宝石箱にしまおうとして、彼はもう少し、そばに置いておきたくなった。
 サイドテーブルに白いヴェルベットの布を敷き、貴石にキスして乗せる。
 そして、彼女の隣で眼を閉じた。
 目覚めると、ベッドの横は空だった。
 太陽の位置がほぼ同じということは、丸一日眠っていたのだろう。
 フェレスの姿を求めて周囲を見回したとき、外から、少年のはしゃぐ声が聞こえて来た。
「あははは、ケルベロス、そら、そらっ!」
 サマエルはガウンを羽織り、バルコニーに出てみた。
 明るい初夏の日差しを受けて、中庭でじゃれ合っていたのは、浅黒い肌を持つ黒髪の少年と、銀色の毛並みをした魔狼だった。
「あれは……ゼーンか?」
 彼は額に手をかざし、つぶやく。
 一人と一頭は彼には気づかず、歓声を上げて、噴水の水をかけ合っている。
 ゼーンが全裸だと気づいたサマエルは息を呑み、その心には、どす黒い感情が湧き上がって来た。
 それに突き動かされるままに、彼は中庭へ出、ずかずかと魔狼に近づく。
「ケルベロス。これはどういうことだ!」
 その声は冷たく尖っていた。
“オ、オ館様……”
 ケルベロスは、頭を低くし尾を胴体の下に入れ、怯(おび)えたように後ずさる。
「サマエル様?」
 不思議そうなゼーンを無視して、サマエルは狼の首根っこを押さえつけた。
「お前は、いつ、私の妻に、馴れ馴れしくするほど、偉く、なったのだ?」
“オ、オ館様、ゴ勘弁ヲ……”
 眼を白黒させ、狼は苦しげに許しを請(こ)う。
 ゼーンは彼に取りすがった。
「やめて下さい、サマエル様。 ケルベロスは悪くありません、僕がいけないんです。 彼は門の外で待つって言ったのに、僕が無理に引っ張って来たから……」
「お前が?」
 サマエルは手を止めた。
「はい。フェレスも他の皆も、サマエル様もぐっすり寝てたし、今だけなら、“僕”になってもいいかな、って思って……。 化身になってからお外に出たことなかったし、お日様を浴びたくなってお庭に出たら、ケルベロスが来て……そしたら昔、飼犬と遊んでた記憶が蘇(よみがえ)って、つい騒いじゃって……。 僕もう出て来ません、ずっと石の中にいます……お休みの邪魔して、本当に済みませんでした」
 宝石の化身は深々と頭を下げ、うなだれたまま、部屋に戻りかける。
「待ちなさい、ゼーン。 済まない、私としたことが、つい感情的になってしまった。 ケルベロスも、許しておくれ」
 サマエルは魔狼を解放した。
“イ、イエ……我ノ方コソ、分モワキマエズ、申シ訳ゴザイマセン……”
 ケルベロスは、乱暴に取り押さえられたことよりも、いつもは優しい主人の激しい怒りに衝撃を受け、身を震わせていた。
「本当に済まない……楽しそうなお前達を見ていたら、急に……。 私は、あんな風に外で誰かとたわむれたこともなく、ましてや家族団らんなど望むべくもなかったから、妬(ねた)ましくてね……」
 魔界の王子は、伏目がちに言った。
「えっ、妬ましい!?」
 ゼーンは眼を丸くした。
「そう。子供の頃、ベルゼブル陛下とイシュタル叔母上、タナトスがごくたまにだが、談笑している場面に出くわすと、途端に陛下はそっぽを向かれるし、叔母上は何だかばつが悪そうで、タナトスは私を睨んで来るといった具合でね。 ……気づかれないうちに、そっと立ち去るようになったよ。 だから、今のことは忘れておくれ、ゼーン、ケルベロスも」
 サマエルは微笑み、狼の頭を優しくなでた。
 魔狼は悲しげに鼻を鳴らし、主人の頬をなめる。
「サマエル様……」
 複雑な表情で彼を見ていたゼーンは、ややあって決意したようにうなずいた。
「じゃあ、これから一杯、団らんをしましょう。 僕らとケルベロス、タィフィン、それにリオンにシュネ……皆あなたの家族ですから」
 サマエルは、かすかにうなずく。
「ああ、これからすればいいのだね……」
「そうですよ、じゃあ、今日は水遊びをしましょう! やってみたかったんでしょう、ね?」
 ゼーンは、にっこりした。
「えっ、水遊び!?」
 今度はサマエルが驚く番だった。
「じゃ、行きますよ、そらっ!」
 少年は叫び、いきなり水をかけた。
「な、ゼーン、つ、冷たいよ、や、やめ……」
 サマエルは思わず手で顔をかばうが、化身はお構いなしに、水をすくっては彼に浴びせる。
 さらにゼーンは、まだうずくまっていた魔狼の背中をたたいた。
「ほら、ケルベロスも。遊ぼ、ほら、立って。遊ぼってば!」
「ガウッ!」
 気を取り直して起き上がったケルベロスは、自棄(やけ)気味で勢いをつけ、思い切り噴水に飛び込んで、二人に頭から水しぶきを浴びせた。
「わあっ!」
「ああ……これはひどいな」
 魔狼を叱ろうとしたサマエルは、同じように全身から雫を垂らしたゼーンと眼が合うと、思わず笑い出してしまった。
「ははっ、ゼーン、お前、濡れねずみだよ」
「あはは、サマエル様もですよ!」
「よぉし、今度は私からお返しだ! それ!」
 サマエルは、濡れて絡みつくガウンを脱ぎ捨て、少年と、噴水から上がって来た魔狼に水をかけ始めた。
「わっ、僕じゃないのにー!」
 ゼーンは頭を抱えて逃げ惑い、ケルベロスは楽しげに尾を振りながら、主人達の周りを駆け回る。
 そうやってしばらくの間、二人と一頭は夢中になって遊んだ。
 特にサマエルは、生まれて初めてといっていいこの体験を、心から楽しんでいた。
 やがて日が翳(かげ)り始めた。
 初夏といっても高い山の上のこと、夕方になると風は冷たい。
 ケルベロスがくしゃみをすると、そろそろ潮時だと、サマエルは気づいた。
「さて、今日はとても楽しかったが、もう日が沈む。そろそろ終わりにして屋敷に入ろう。 ケルベロス、お前もどうだい?」
 ぶるぶると体を揺らして水を切っていた魔狼は、動きを止め、答えた。
“イエ、妻ガ待ッテオリマスノデ、モウ戻リマス”
「そうか、引き止めるのは野暮だね、ぜひまたおいで」
「じゃあね、ケルベロス。また遊ぼう」
 ゼーンは手を振る。
“ハイ。オ館様、並ビニ奥方様。
 本日ハ、楽シイ時ヲ過ゴサセテ頂キ、アリガトウゴザイマシタ”
 ケルベロスはうやうやしく頭を下げ、帰路に着いた。
「ああー、お庭が水浸しだ、済みません、どうしよう……!」
 周囲の惨状に改めて気づいたゼーンが頭を抱えると、サマエルは微笑んだ。
「気にすることはないよ。 ──ホルトゥス!」
 彼の呪文で、あっという間に庭園は元の姿を取り戻した。
「さあ、これでいい。中に戻ろう、寒いだろう?」
「いえ、僕はもう、生き物じゃないので。 サマエル様こそ、お寒いのじゃないですか?」
 そっと彼の体に触れた途端、ゼーンは声を上げた。
「わ、冷たい! 早く温めないと、お風邪を召しますよ!」
「大丈夫だよ、私は蛇だから、常にこんな感じでね。 温かくなるのは、入浴したとき……くらいかな」
 ベッドで……と続けそうになって、彼はやめた。
 だが、まるでそれが聞こえたかのように、ゼーンは顔を赤らめた。
「あ、あの、サマエル様……ぼ、僕を、その……だ、抱いてくれませんか?」
「え?」
 虚を突かれ、彼は少年を見た。
「わ、分かってます、サマエル様が、女性をお好みだってことは。 でも、一度だけでいいんです、お願いします! あとはこんなこと、ねだったりしませんから……!」
 熱い思いを揺らぐ炎の瞳に込めて、ゼーンは彼を見返す。
 サマエルは苦笑した。
「いや、取り立てて、こだわっているわけではないのだがね。 男に無理矢理、という場合が多かったものだから。 そういえば、少年を相手にしたことはなかったな。 ダイアデムは、キスくらいはしてくれるけれど、それ以上のことは……。 やはり私は、嫌われているのだろうね……」
 彼は眼を伏せた。
「そ、そんなことないと思いますけど。 だって彼は、いつもサマエル様のことばかり……」
「ああ、ゼーン。その“様”というのはやめてくれるかい? 私達は夫婦なのだよ。そうしてくれたら……」
「よろしいんですか!?」
 少年の瞳の奥の炎が、ぱっと燃え上がった。
「もちろん。お前も私の妻だ」
 サマエルは答え、ゼーンを引き寄せ口づける。
 横たわると、芝生は太陽の熱を含んでまだ温かかった。
「ウィルゴ……って呼んでいいんでしょうか、これ。 僕、創るの初めてで……受け取って頂けますか?」
 終わった後に、ゼーンはおずおずと手を差し出す。
 掌の上で輝いていたのは、漆黒の中に様々な遊色(ゆうしょく)が踊っている、卵形の貴石だった。
「ありがとう。美しいね。女性だけが創ると思っていたが。 フェレスのとはやはり違う……ブラックオパールに近いかな? 見ていると、情熱がかき立てられるよ」
「えっ? あ」
 宝石を手にしたサマエルは、少年を抱き上げ、ベッドに向かった。

 15.光の紅龍(2)

 サマエルは、サイドテーブルに二つ目の石を置き、黒髪の少年をベッドに降ろした。
「あの……?」
 きょとんと見上げる化身に、夢魔の王子は、白い歯を見せて微笑みかける。
「インキュバスの私に、たった一回で終わりにしろとは殺生(せっしょう)だよ、ゼーン」
「ああ、サマエル……!」
 ゼーンは彼にしがみつき、二人はベッドに倒れ込んだ。
 フェレスとのことを踏まえて手加減するつもりだった彼も、化身の情熱にほだされる形で、またもや休みなしの四日間が経ってしまった。
 サマエルの腕の中で、ゼーンはほとんど失神に近い形で眠りについた。
「……やれやれ、我ながら進歩がないな」
 ため息混じりに言いつつも、彼は喜びを隠し切れず笑みを浮かべ、幸せな気分で横になった。
 頬に当たる涼しい風に、目覚めたときは夜だった。
 脇を見ると、黒髪の少年はいない。
「ゼーン? また外かな」
 サマエルはガウンを羽織り、バルコニーへ向かう。
 揺れるカーテンの向こうにいたのは一人の少年……ただし、その髪は黒ではなく、燃え上がるような紅をしていた。
「悪かったな、ゼーンじゃなくて」
 腰掛けていた手すりから飛び降り、少年は腕組みをした。
 月のない夜、瞳に宿る炎が一際明るく輝いている。
 サマエルは、ぎくりと足を止めた。
「ダイアデム……いや、私はただ……」
「ゼーンもフェレスもまだ寝てるぜ、生憎と」
「そ、そう……」
 予想もしていない事態に、どぎまぎしてサマエルは答え、歩み寄ろうとして思い留まる。
「来て見ろよ、星が綺麗だぜ」
 だが意外にも、ダイアデムは彼を手招いた。
「え、いいのかい?」
 恐る恐る近寄ったサマエルは、思わず感嘆の声を上げた。
「本当だ、なんて美しい……!」
 二人の頭上には、無数に煌(きらめ)く宝石のような欠片で覆われた漆黒の天空が広がっていた。
「ああ……降るような星空とは、こういうことを言うのだね。 ここしばらく、夜空などゆっくり眺める余裕もなかったから、心に染みるようだ……」
 感慨に浸る彼の背中に少年がしがみついて来たのは、そのときだった。
「生きててよかったろ、サマエル。 星とか空とか見れんのも、風を感じれんのも水で遊べんのだってよ、生きてればこそなんだぜ」
「お前に触ることができるのも、だね」
 彼はそっと、ダイアデムの手を握る。
「喜びを感じんのも、だろ?」
 握り返して来るその手に同意を感じ取って、サマエルは化身を抱き上げた。
「ああ、ダイアデム……!」
「お前、マジに男でもよかったんだな……」
 紅毛の少年はささやく。
 紅い瞳の中で、黄金の炎が誘(いざな)うように揺れていた。
「先にゼーンを相手にしたことなら謝……」
 言いかけるサマエルの唇に人差し指を当て、ダイアデムは黙らせた。
「それはいい。お前の相手は女じゃなきゃって思い込んで、勝手にオレが一人で辛くなってただけなんだから。 フェレスに譲って、ずっと引っ込んでようかとも思ったけど、やっぱ無理……。 でも出て来たら来たで、お前に触られたり、キスされると辛くてさ……。 それ以上のことなんか、してくれるわけねーって思って……」
「そうだったのか。でも、それはお前の思い違いだよ。 私はてっきり、お前の方が私を嫌っているのだと思っていた……」
「ああ、勘違いさせるようなことした、オレが悪りーんだよな。 ゼーンみたく、思い切ってぶつかっていきゃよかったんだ。 けど怖くて……だって、いつも逃げてばっかだったし、今さら何だって言われそうでさ……」
 うなだれる紅毛の少年を心底愛しく思い、サマエルは、紅サンゴ色をした唇に口づけた。
 ダイアデムは、初めて抵抗せずにそれを受け入れた。
 さらには、みずから進んで、彼の背中に手を回しさえしたのだ。
 サマエルは唐突に悟った。
(ああ……ダイアデムはこんなに私を好いていてくれたのに、私自身の心……考え方や行動が、彼を遠ざけていたのだな)
“そりゃそうさ。死ぬことばっか考えてるヤツに、誰が寄りつくもんか。 ンなヤローに本気で惚(ほ)れるなんざ、大バカのやるこったろ? ま、その大バカが、ここにいるんだけどよ”
 少年は、彼と唇を合わせたまま、その手に力を込める。
“ありがとう……信じておくれ、私はもう、死ぬのはやめたから。 そして私の一番はお前だよ、ダイアデム”
“ああ、信じてやるよ”
 ひとしきり愛し合った後で、サマエルは、再び化身をベッドまで運んだ。
 その後のダイアデムは、今までのよそよそしさが嘘のように彼を放さず、四日どころか五日が経ってしまった。
 途中でペースを落とそうとした夢魔の王子も、ゼーン以上に激しいこの化身の熱情に押し切られた……というのは表面上で、実際は彼自身も、ダイアデムを手放すことができなかったのだった。
 意識を失った化身を、愛(いと)おしげにシーツへと抱き下ろしたとき、サマエルは、サイドテーブルの輝きに眼を止めた。
「……おや? 石が増えている、いつの間に」
 横に並ぶ二つよりも一回り大きな、三番目の貴石を彼は手に取った。
 おそらくダイアデムが創り出し、こっそり置いたものなのだろう、紅い光輝を発する石の内部には様々な色合いが、爆発するかのように躍動していた。
「……直接渡してくれたらよかったのに」
 サマエルはつぶやくが、同時に彼らしいとも思って微笑んだ。
 口は達者だが、意外に照れ屋なのだ、彼は。
「それにしてもすごいな、まるで太陽のフレアのようだ。 見ていると熱気さえ感じられる……なのに、触ると冷たい。 不思議な石だ……ファイア・オパールに近いようだが」
 たぎる熱情、ほとばしる情熱……烈火の炎で生成された、まさしく激情の石……“愛こそがすべてを変える”という言葉を具現化したような。
 それは見る者の心身に、あふれ出す活力と、無限の高揚感を同時に与える、神秘的な宝玉だった。
「これは、全身全霊をかけ、彼が私を愛してくれているという証……。 私も愛そう、“焔の眸”よ……お前は私を、私自身の王国の王としてくれる……自分こそが、自身の人生の主役だと……」
 サマエルは貴石に口づけて元に戻し、もう一度ダイアデムにキスしてから、一眠りしようと横になった。
 次に眼が覚めたときは昼間で、少年はまだ隣で眠り続けていた。
 タィフィンに魔法で運ばせた軽食を摂る間も、食事の盆を厨房へ送り返してからも、化身はまったく動かず、覚醒する兆しもない。
(私が眠っていたときも、彼は、こんな思いを抱いていたのだろうか……)
 王子が、後悔と淋しさを感じ始めていたとき。
「好きだぁ、サマエル……」
 声が聞こえ、急いでベッドを覗き込むも、少年は眠ったままだった。
「ダイアデム、私もだよ」
 手を取り耳元でささやくと、化身はにっこりして手を握り返すものの、目覚めには至らず、力が抜けて指が滑り落ちてゆく。
 前の二人よりも無理をさせてしまったこともあり、起きるのは当分先だろうと考えたサマエルは、ふと、久々に入浴して時間を潰そうと思い立った。
 体は魔法で簡単に清潔にできるし、彼もここ数週間、そうして来た。
 しかし、本物志向の魔界の王族達にとって、食事同様、魔法を使わず直接体を洗うというのは、最高の贅沢なのだった。
 黄金製の獅子の口から勢いよく流れ落ちる温泉、もうもうと上がる湯気、独特の匂い……泳げるほど大きな岩風呂にたった一人、サマエルは大きく息を吐く。
「ふうー。本当に久しぶりだな、風呂なんて……」
 彼は手を一振りし、壁を透明にした。
 折しも夕日が沈んだところだった。
 浴室が闇に沈んでいき、星々が瞬き始める。
 灯りをつけようか、今のままが風流でいいかと迷っていたとき、不意に室内が明るくなった。
 壁に映る巨大な影に振り返ると、扉近くに一頭のライオンがたたずんでいた。
「シンハ!?」
『思索(しさく)の妨げになるのであれば、戻る』
 厳粛な面持(おもも)ちで、ライオンは話しかけて来た。
 湯気に煙る黄金の毛並み、たてがみは浴室に充満する湿気にも負けず、常と変わらぬ勢いで燃え盛っている。
「構わないよ、ぼうっとしていただけだから」
 サマエルは両手を広げ、歓迎の意を表した。
 音もなくそばに来たライオンの鼻に、彼はキスして尋ねた。
「どうしたのだい、わざわざ。 たてがみに、もし飛沫(しぶき)がかかったら……」
『心配無用。我が炎は、水中にても消えはせぬ』
「そう。入浴したことがあるのだね?」
『いや』
 否定の仕草と共に火の粉が湯に飛び、弾けた。
「なら、せっかく来たのだし、洗ってあげようか。 気持ちがいいよ。石けんを使うと、いい匂いもするし」
『ならば、頼むとしよう』
 シンハは重々しく同意する。
 一通り洗い流した後、サマエルは言ってみた。
「お湯にも入ってみるかい?」
『それもよかろう』
 ライオンは、後ろ足から、しずしずと温泉に巨体を沈める。
 その様子を微笑ましく見ながら、彼は訊(き)いた。
「どう? 初めて入浴した気分は」
 シンハは首をかしげ、少し考えてから口を開いた。
『ふむ、熱いものだな。湯の動きで毛が揺れるのが、何ともこそばゆい』
「ふふ、そう?」
 サマエルは、湯面に映り揺らぐ炎に魅せられ、金色の海草のように波打つ、豪華な毛並みに指を這(は)わせた。
 ライオンは背中をもぞもぞさせ、すぐに風呂から出てしまった。
「あ、済まない……」
『汝のせいではない、熱さのゆえだ。 今次(こんじ)は我が、汝を洗ってやろう』
「ああ、では」
 サマエルが湯から上がると、ライオンは前足で器用に石けんを泡立て、彼の体を洗浄し始めた。
「あッ、く、くすぐったい、やめ……」
 柔らかな肉球で、体中をなで回されて、彼は身をよじった。
 しかし、シンハは猫がじゃれるように、逃れようとする彼を執拗(しつよう)にもてあそぶ。
「そ、そこは駄目、あッ、そ、そんな風に……ああッ、シンハ、そんな半端は嫌……いっそ、抱いて、あ……」
 我知らず口をついて出た言葉に、王子は真っ赤になり、ともかく体の火照りを冷まそうと、浴室の端の冷たい風呂へ飛び込んだ。
 のぼせ防止用に湧き水を引き、円形にしつらえたそこは、さほど広くはないが、満々と水を湛(たた)えて深い。
(恥ずかしいことを言ってしまった……)
 彼が、まだ熱い頬を押さえ水面を見上げたとき、水が激しく揺れ、爆(は)ぜる音と眩(まばゆ)い光とが水中にあふれた。
 シンハが頭を突っ込み、彼の腕をくわえたのだ。
“ルキフェル、戯(たわむ)れが過ぎた、許せ。
 だしぬけに冷水に浸かると、心の臓が止まるやも知れぬぞ”
“平気だよ、私は蛇だから。 昔、人界へ来たばかりの頃、住処(すみか)の泉によく飛び込んだものさ。 でも、お前は本当に水も平気なのだね。 水中の花火のように、ぱちぱち、しゅうしゅうすごいことになって……”
“左様なことより、疾(と)く水より出でよ”
 引き上げられるままに水面へ出ると、彼は髪の雫を払い、ライオンを睨む真似をした。
「シンハ。こうなったら、責任を取ってもらうよ」

 15.光の紅龍(3)

『そもそも、何の任責か。戯(たわむ)れが過ぎたことを許せぬと?』
 シンハは首をかしげる。
「違うよ。インキュバスの私を、こんな気分にさせた責任さ……!」
 彼は冷泉から腕を伸ばしてライオンを抱き寄せ、夢魔特有の、とろけるようなキスを与えた。
『さ、されど、我にはディーネの呪いが……』
 狼狽したように頭を振って、シンハは身を引こうとする。
 唇は離れたものの、逃がすまいと腕を絡ませたまま、ライオンの耳に口を寄せ、夢魔の王子は甘くささやく。
「前にも言ったが、私は男だよ。 ねぇ、シンハ、駄目? 幼い頃から、お前に抱かれることを、ずっと夢見ていたのだよ……口には出せなかったけれど、ね……」
 シンハには、ディーネとの辛い思い出がある。
 十中八九(じっちゅうはっく)、拒絶されるだろうと思いつつも、サマエルは一縷(いちる)の望みを賭けて、求めずにはいられなかった。
 しばし、考えるように無言でいた魔界王家の守護精霊は、何の前触れもなく行動を起こした。
 サマエルがいる冷たい風呂の中へ、飛び込んで来たのだ。
 激しく上がる水しぶき、たてがみの熱で湯気となり、水が蒸発する。
「わ、シンハ、何を……!?」
 その中で面食らう王子を、ライオンはたくましい前足で捕らえ、答えた。
『望みを叶えよう、ルキフェル』
「えっ、こ、ここで……?」
『冷水中にても、痛痒(つうよう)は感じぬと汝は申したではないか』
 シンハは、事もなげに言ってのける。
「そ、それは……あ、んん……!」
 さらに口づけで抗議をふさがれ、あまり広くない風呂の中、王子はそのまま、ライオンに抱かれる。
 一区切りがついて。
「はぁ、はぁ……シンハ、お前……すごい、な。 ディーネが……自制、できなく、なる、わけだよ……」
 サマエルは、風呂のふちに体を預け、息を弾ませていた。
 一足先に水から上がり、ご馳走様とでも言いたげに、猫めいた仕草で顔を洗っていたシンハは、前足を止めると彼の頬をなめた。
『汝は比類なき者、彼(か)の女王より美味だ』
 思わずサマエルは頬を染め、それから尋ねた。
「ひょっとして、ベリアル王にも、こうやって……?」
『いかにも』
 ライオンは、至極当然という顔でうなずいた。
「なるほど……彼が王妃に見向きもしなかったのも、無理はないな。 お前に毎晩、こんな風にされていたら……」
『されど、それは君主の命によるもの。我が本意ではない』
 シンハは、ぶるぶると大きく体を震わせ、毛皮の水を切る。
 それは否定の身振りも兼ねていた。
「そう……では、今のは? 私は魔界の君主ではないし、命令ではなく、お願いしただけだよ」
 サマエルは、自分の胸に手を当てる。
 ライオンは黙って前足を振り、水の中を示した。
「え? 何かあるのかい? ──ディアファナム!」
 呪文を唱え、自分達のせいで濁ってしまった水を透明に戻す。
 すると、揺らめく水底に、赤を基調とした色合いで輝く石が一つ、沈んでいるのが見て取れた。
「あれは……」
『我が創ったものだ』
 サマエルは急ぎ潜って、それを拾って来た。
 しかし水から上げた途端、貴石は白く濁って色が消え、ひびが入ったかと思うと、粉々に砕けてしまった。
「ああ、もったいない……」
『水中にて生み出されたがゆえの宿命。大気中にては形を留められぬ』
「そうか、普通のオパールでも、乾くとひびが入ったりするからね。 水を吸って色変わりする……ということは、ハイドロフェーン・オパール……ミステリアス・オパールなどとも呼ばれる石に近いのかな」
『ともかく、今一度それを中へ』
 サマエルは、言われた通り、石の破片を冷泉に浸(ひた)す。
 シンハは、前足でなでるような仕草をして元に戻すと同時に、ガラスの球体を呼び出し、それに水を張って宝石を封じた。
『これでよい。汝に献(けん)じよう、何者にも捧(ささ)げたことのない、この貴珠……我が赤誠(せきせい)を。 水、すわなち愛が満ちておれば、永久(とわ)に砕けはせぬ』
「ありがとう、うれしいよ、シンハ。 ああ、美しい……水の中で燃える火のようだ……!」
 ガラス球を水から引き上げて口づけ、あちこちと向きを変えてはうっとりと貴石を眺めていたサマエルは、やがて、上目遣いに問いかけた。
「満ちると言えば、今日は、これでおしまいなのかい……? 私はまだ、満たされてはいない、のだが……」
 シンハは、そんな彼を横目で見た。
『水面(みなも)より半身を現し、宝珠を愛(め)でておるところは、さしずめ、男を魅惑し湖に引きずり込んで精を食らう、美麗なる水妖か』
「逸(はぐ)らかす気? ……ずるいよ」
 すねたように彼が口を尖らすと、シンハは大げさに息をついた。
『艶(なまめ)かしき風情(ふぜい)に胸が騒ぐ、と申しておるのだ。 耽溺(たんでき)は不都合であろうかと、迷う心持もある……。 されど、足らぬのであれば致し方あるまい、寝台にて仕切り直すか?』
「いいのかい!?」
 喜び勇んでサマエルは水から体を引き上げ、指を鳴らして二人の体を乾かす。
 ゆったりとした歩みで浴室を出る炎の獅子と、それに寄り添う魔界の王子は、さながら一幅(いっぷく)の絵画のようだった。
 そうして二人が寝室へ着き、サマエルがサイドテーブルに宝石の球を置くやいなや、シンハは、それまでの悠然とした態度をかなぐり捨てて彼に飛びかり、ベッドに押し倒した。
「うわっ、シンハ!?」
『我とてこの日を、いかに待ちわびたことか……!』
 ライオンの瞳の炎は赤々と燃え上がり、熱い息が彼の顔にかかる。
 尾までもが広く円弧を描き、勢いよく振られていた。
「えっ!? ま、待って……」
 戸惑ったサマエルは、思わずもがく。
 しかし、柔らかい黄金の毛並みが、さわさわと素肌をなぶっていく感触は、えもいわれぬ心地よさで、彼もすぐにシンハを迎え入れた。
「もう、せっかちだね。 いいよ、好きにして。お前に滅茶苦茶にされたい……!」
 そのまま夢のような五日ほどが過ぎ、サマエルもしまいには、力なくベッドに横たわることとなった。
 その横で、ライオンは大きく伸びをした。
『もはや戦闘不能か?』
 からかうようなその言葉に、サマエルは悔しげに頬を赤らめた。
「……いや、まだ終わりにはしたくないのだけれど……」
 そうは言ったが、人界の獣の倍もある巨大な獅子が相手、しかも、その前に三人の化身達とも愛を交わした後である。
 夢魔の王子も、さすがに疲労の色が濃かった。
『無理をするでない、ルキフェル。 機会は、これより数多(あまた)あろうが』
 シンハは彼の頬を、ざらざらの舌でなめる。
「……たしかに、時間だけはたっぷりあるしね。 それに、夢魔の君主さえも惑わす、傾城(けいせい)ならぬ美獣(びじゅう)が相方では、いくら私でも、休息を入れなければ身が持たないか……」
『傾国(けいこく)とは汝であろう、淫魔の王子よ』
「ふふ、お前にそう言ってもらえるとは光栄だよ、シンハ」
 サマエルは、ライオンの首に抱きつき、鼻にキスした。
 そうして、彼らは一緒に眠りについた。
 サマエルが目覚めたときは、夜明け前だった。
 辺りは闇に沈んでしんと静まり返り、寝床の隣にいた獅子の姿はない。
 代わってベッドの上に浮き上がり、輝きながらゆっくりと回転していたのは、巨大な紅い宝石だった。
 内部には、黄金の炎がめらめらと燃え上がっている。
 化身達が全員眠ってしまったために、本体に戻ったのだろう。
「ああ……“焔の眸”!」
 差し伸べる手に、魔界の至宝は静かに下りて来る。
 この類稀(たぐいまれ)な美しい貴石、そして四つの化身がすべて自分のものなのだと考えると、かつてないほどの幸福感に満たされ、彼は“焔の眸”を抱き締めた。
 どれほどの間、そうやって、紅い輝きを胸に抱いていたものか。
 寝具に入れて一緒に眠ろうかとまで思ったサマエルだったが、やはり宝物は大事にしまっておいた方がいいと考え直し、指を鳴らして母の形見を呼び出す。
 精緻(せいち)な模様が彫り込まれた、大きな黒檀(こくたん)の宝石箱は、母が人界から嫁入り道具として持って来たものだと言う。
 蓋を開け、母が遺した香りの中へ“焔の眸”を入れてみると、見事にうまく収まった。
「あつらえたようにぴったりだな。……おや?」
 そのとき彼は、内張りされた紺のビロードの四隅にある、浅いくぼみに眼を留めた。
 元からあったものだが、大して気にしていなかったのだ。
 もしやと思い、サイドテーブルに並んだ四つの石を手に取る。
 これもまた寸分違わず、はめ込むことができた。
「もしかして……母上は、これを予知しておられたのか? 私が“焔の眸”と結ばれ……化身達とも愛を交わすと……! ああ、母上、“焔の眸”!」
 サマエルは感極まって、宝石箱をひしと抱き締めた。
 泣くことができない彼の心の中を、熱いものが流れ落ちていく。
 しかし、魔族の王子が、至福に浸っていられたのもごくわずかの時だった。
 突如、彼の頭上の空間が切り裂かれ、何かが飛び出して来たのだ。
「うわ!?」
 とっさにサマエルは宝石箱をかばい、それを払い落とす。
 紅く発光しながら飛んで来たのは、一冊のぼろぼろの書物だった。
 床に落ちた本は、まるで死にかけた蛾でもあるかのようにページをばたつかせて再び舞い上がると、再び彼目がけて滑空して来た。
「なぜ本などが……くっ、──イグニス!」
 襲撃される理由が分からないまま、彼は炎の魔法を唱えた。
 その一撃で簡単に焼失すると思えた書物は、炎に巻かれても燃え上がることもなく、彼の目前で静止し、ページを開いた。
「……襲って来たのではないのか。この本は一体……?」
 彼は首をかしげ、ともかく書物を手に取った。
 表紙を見てみる。
「……ん? 龍……の、唄? こ、これは“紅龍の書”ではないか!」
 思わず彼は本を放り出した。
 サマエルは知らなかったが、その書は、汎魔殿にある“禁呪の間”に、長い間置き忘れられていたものだった。
 書物は、なぜ捨てられるのか分からないといった様子で、またも彼の元へと戻って来る。
「あああ……どうして!? このまま“焔の眸”と、静かに暮らせるものと思っていたのに! 私は、もう死にたくないのに……!」
 ベッドから飛び降り、逃げる王子の後を、禁呪の書は追いかけていく。
「ああ……せっかく“焔の眸”と愛し合えたのに……ようやく平安を手に入れたと思ったのに……! 私はやはり“紅龍”へと変化して、世界を破滅に導くのか……それとも、火閃銀龍の餌として……兄に食われ、死んでいくのか……。 ううう……」
 部屋の隅に追い詰められたサマエルは、頭を抱えて固く眼をつぶり、うずくまってしまった。

 15.光の紅龍(4)

 消えていて欲しいと願いつつ、サマエルはそっと顔を上げる。
 だが、紅龍の書は宙に浮いたまま、辛抱強く彼を待っていた。
「お前……どうして、私のところへ来たのだ?」
 暗澹(あんたん)たる思いで、彼は声をかけた。
 禁呪の書は何も答えない。
 仕方なく、彼は再び本を手にした。
 分厚い書籍はずしりと重く、かつては鮮やかな紅色をしていたらしい革表紙からは、破片がぱらぱらと落ちて来る。
「……可哀想に、四冊のうち、お前だけが忌(い)み嫌われて。 ぼろぼろなのもそのせいか? ──フィックス!」
 自分を見ているようだと思った彼は、本を修復し、改めて表紙の文言に眼を通す。
「“黎明(れいめい)の龍は光と闇を包含し、ゆえに双つの名を持つ。玉響(たまゆら)の心地に負けじと、命の賛歌を謡(うた)え、光を齎(もたら)す者よ”……。 この状態で……誰が、命の賛歌など……!」
 読んでいるうち、込み上げて来る感情を抑えられなくなった彼は、書物を壁に投げつけようとしたが、できなかった。
 力が抜けて書はぽろりと床に落ち、彼は顔を覆った。
 ややあって、魔界の王子はゆっくりと眼を明けた。
 そこには、ここしばらく完全に鳴りを潜めていた、暗い影が宿っていた。
「そうだ、タナトスや叔母上の前で紅龍になれば、彼らは私を殺すしか……」
 彼は自分が発した言葉にはっとし、膝の上の宝石箱に視線を落とした。
「いや、駄目だ、“焔の眸”と一緒に生きると決めたのに。
 だが……」
 床の書物に視線を移した彼は、がくりと肩を落とした。
「結局、運命からは逃れられない、か……。 それなら、“焔の眸”が目覚めないようにしてしまおう……眠ったままなら、私の死を悲しむこともない……。 母上、“焔の眸”をよろしくお願いします、優しい眠りに閉じ込めて、」
 不意にサマエルは言葉を切った。
 あれほど輝いていた“焔の眸”の光が次第に色褪せ、書物の紅い輝きさえもが徐々に小さくなって、すべてが闇に包まれていく。
「……おかしい。周りが暗くなっていく。 妙だな、涙で眼がかすむと言うが、私は涙など……」
 目蓋をこすっていた彼は、急に耳鳴りと痛みを感じて耳を押さえた。
「痛っ、今度は耳か、本当にどうし……何だ、どうした!?」
 彼は顔色を変えた。自分の声が聞こえなかったのだ。
「一体何だ、どうしたのだ、聞こえてくれー!」
 叫ぶその声も、まったく耳には届かない。
 それは、彼の視力と聴力が失われた瞬間だった。
 幸福の絶頂から絶望のどん底へ……あまりにも激しい感情の落差……感覚器官はそれについていけず、感じることを拒否してしまったのだ。
 彼の心に去来(きょらい)したのは、ただ諦めだけだった。
(いいか、別に。どうせ私は死ぬ身。叔母上の悲しむ顔も、タナトスが私を呼ぶ声も、見聞きできない方が辛くないし。 どうせ紅龍になれば、声も出せない。静まり返った闇の中、私は一人ぼっちで死んでいく……。 ああ、でも、せめてもう一度、お前の輝きを眼にしたかったよ、“焔の眸”……)
 王子は手探りで、魔界の至宝の滑らかな表面に触れ、化身が創った石達にも、順番に触れていった。
 後ろ髪を引かれる思いで宝石箱の蓋を閉め、金の鍵で錠をかけるその手が、抑えようもなく震える。
 彼は少し考えてから、指の先を犬歯で傷つけ、鍵穴にその血を滴らせて、封印を施した。
 そうしておいて、床に額(ぬか)づき女神に祈りを捧げる。
(女神アナテ、希(こいねが)わくは、来世、私と“焔の眸”が添い遂げられられんことを……! 何とぞお願い申し上げます、今世の私は、生け贄として果てる覚悟を決めておりますゆえ、わずかでもこの私を不憫(ふびん)と思って下さるなら、来世の私に御加護(ごかご)を給(たま)わらんことを……伏して御(おん)願い奉(たてまつ)ります……!)
 一心に願いを捧げても反応はなかったが、驚くには当たらなかった。
 カオス神殿の祭祀(さいし)でありながら、彼自身は直接女神と言葉を交わしたことはなかったし、慈悲を賜(たまわ)ることができるのなら喜ばしいが、そうでないなら、“焔の眸”は、眠ったままにしておけばいいのだから。
 サマエルは震える足を踏ん張り、壁を支えに立ち上がった。
 手探りでよろめき戻る彼の後ろから、飼い主を慕(した)うペットのように、禁呪の書が、ふわふわと飛んでついて行く。
(お休み、“焔の眸”。よい夢を。 来世でまた会えたらいいね……カオスの闇に堕ちた私は、生まれ変わることが許されないかも知れないけれど)
 彼はベッドに置いた宝石箱に、名残惜しげに頬を寄せた。
(行かなくては。魔界に。そして……)
 やがて意を決し、箱にキスして起き上がった彼の手に、紅龍の書が、待ちかねたように滑り込んで来る。
 本を握り締め、移動呪文を唱えようと口を開いた刹那、頭の中で声が響いた。
“我が声が聞こえるか、ルキフェル”
“アナテ女神様!?”
 彼の心に希望の灯が点る。
“否。『禁呪の書』がおぬしの手へ渡ったゆえ、我との会話が可能となったと考えよ”
“……誰だ、お前は”
 がっかりして尋ねると、謎の人物は言った。
“ルキフェルよ、よく聞け。その書こそ、おぬしの希望の源。 書に記されし呪文を唱えれば、たちどころに……”
“宇宙を滅ぼす邪悪なる龍が覚醒する。今、そんなことをしてたまるか。 お前は一体何者だ、たしかに私は紅龍に変化し、叔母に討たれようと思っていた、だが、世界の滅亡など望んではいない!”
 サマエルが鋭く言い返すと、相手の声は苛立ちの響きを帯びた。
“左様なことではない。 聞くがよい、これはアナテ女神より、おぬしへの言伝(ことづて)だ”
“……女神からの伝言……?”
 彼は、いかにも不審そうに言った。
“左様。紅龍の変化の呪文には二種ある。 おぬしが知り得しものは、闇の呪文。此度(こたび)はおぬしに、光の呪文を唱える資格が生じたゆえ、書がおぬしの元へと参ったのだ。 光の紅龍は、強大なる力と共に、理性の保持が叶(かな)う……すなわち、おぬしが生け贄にならずとも、故郷の奪還が可能になるということ”
“何だって……!?”
 第二王子は絶句した。
 ややあって、湧き上がる希望を押さえつけるように、彼は頭を横に振った。
“嘘だろう……信じられない……”
“女神のお言葉を疑うと申すか。運命を捻じ曲げてでも、おぬしを救いたいと慮(おもんぱか)っておられるのに”
 サマエルは、見えない眼を見開いた。
“まさか……女神が、そこまで……?”
“おぬしは、女神の伴侶にして息子、モトの生まれ変わり。 かてて加えて、『焔の眸』と共に過去へ飛翔し、女神となる以前のアナテに助言を与え、それにより魔族は滅亡を免れた。 その功績を以(も)って、特例と為(な)すとな”
 以前、サマエルは、女性の化身であるフェレス……当初は名はなく、性格等もほぼダイアデムのまま……を創った際、夢飛行で過去へ飛び、生身だった頃のアナテに会っている。
 その飛行は意図したものではなく、おそらく、未来に対するアナテの懸念と、新しく生まれた化身の不安とが呼応し合い、過去へ引き寄せられたものと考えられた。
 そしてたしかにあのとき、フェレスは彼女に告げた……ダイアデムの口調で。
『紅龍を呼び出す呪文を復習しとけ、アナテ。近い将来、必ず使うことになっちまうから』と。
 神族の侵攻以前、紅龍は単なる伝説と考えられており、呪文の書も禁呪とはされておらず、変化の条件もさほど厳密なものではなかった。
 しかし、初代も二代目も闇の紅龍であり、光の呪文があることは知られずにいたために、天界に対する抑止力とされながらも、一方で危険で禍々(まがまが)しいものとして、長い間封じられて来たのだった。
“なるほど……あの一言が先祖、延(ひ)いては魔族を救ったということになるわけか”
 サマエルは警戒を解いた。
 自分達以外には知るはずがない女神との因縁を、これほど詳しく知っているということは、真実、女神の命を受けていると判断してよいだろう。
“要石に刻まれし碑文は、闇の紅龍へ変化する条件と申してよい。 それを満たした者がさらに真の愛を見出せば、光の呪文を読む資格が得られるのだ。 されど永きに渡り、適格者は現われず……そうしてついにおぬしの誕生……女神は、母堂(ぼどう)の宝石箱を通じて、気づきを促そうと考えた”
 そこまで言うと、相手は急に、語調を変えた。
“……実はな、サタナエルは母堂の形見を何一つ、譲り受けてはおらぬのだ”
“ええっ、まさか。 以前あいつは、お前より良い物をもらったと、自慢げに……”
 言いかけて、サマエルは気づいた。
 あの意地っ張りの兄が、何ももらえなかったなどと話すわけがない。
 さぞかし、弟が持つ母の形見が妬(ねた)ましかったろう。
 実際、殴り倒されて宝石箱を奪われたことが一度だけある。
 てっきり壊されたか持ち去られたと思ったが、意識を取り戻したときに兄はおらず、体にも、おもちゃにされた形跡はなかった。
 箱だけが、ぽつんとその場に残されていた。
 もしかしたら、あのときタナトスは、ほんの少し、母の思い出を抱き締めていたかっただけだったのかも知れない。
“では、タナトスは、母上の死に目に会えなかったのか?”
“左様。今際(いまわ)の際(きわ)の言葉として、バアル・ゼブルに告げられたそうだ、『弟を可愛がり、また、与えられた命は大切にするように』と”
“えっ? まだ小さい自分の子に、そんな言葉だけ? あ、ひょっとして、母上も女神の予言を……”
 幼いタナトスに下された託宣(たくせん)は、ひどく禍々しいものだった。
『第一王子サタナエルは、心を持たずして生を受けし子。彼(か)の者が王位に就(つ)くならば、同族殺しに興ずる、血塗られし君主となるであろう』
 もし、母が死の床でこれを聞いたとしたら……?
 考え込んでいる彼に、相手は言った。
“のう、ルキフェル、“焔の眸”と光の紅龍、二つの輝かしき宝を得たおぬしに、ぜひとも頼みたきことがある。 我が消えれば、サタナエルが嘆(なげ)くは必至(ひっし)、生まれ立ての女や豹のみで、心の隙間を埋められるかは疑問だ。 それゆえ、何とぞサタナエルを、我が主をよしなに頼む、これ、この通り”
 謎の人物は、深々と頭を下げる映像を、彼の心に投影して来た。
“タナトスが嘆く……生まれ立ての女や豹? では、お前は”
 ここに至ってサマエルは、ようやく相手の正体に気づいた。
“左様、我が名はテケル、真の名は、アイン・ソフ・オウル。 “黯黒の眸”テネブレが第一形態にして、かつて魔界の王子でありし者!”
 宣言と共に彼の脳裏に映し出された闇の化身は、次の瞬間、眩しいまでに白い、光の化身へと変化を遂げた。
“テ、テネブレの第一形態!? 王子だって!? アイン・ソフ・オウル……たしか無限光と……あ、眩し……!”
 その刹那、窓から朝日が射してサマエルの瞳に光が戻り、同時に、小鳥達のにぎやかなさえずりが、まるで祝福のファンファーレのように耳に届いた。

 16.処刑場の貴石(1)

「……どこだ? どこにいる、テケル! ついさっきまで一緒だったのに……一体どこへ……返事をしろ、テケル!」
 タナトスは懸命に捜し続けていた。
 白皙(はくせき)の美貌、よく笑い、ときにはすねて見せ、あるいは泣き……表情豊かな、少年とも少女ともつかぬ、最愛の人を。
「我はここにいるぞ、おぬしのそばに。目覚めよ、サタナエル」
 その声に彼が眼を明けると、テケルと眼が合った。
「ああ、いたのか、どこかへ行ってしまったかと……ん?」
 腕を伸ばして触れようとして、タナトスは、自分が縛られていることに気づいた。
「何だ、これは! 無礼な! すぐに解放しろ、俺は魔界の王だぞ!」
「落ち着け、サタナエル。 本来ならば、おぬしを眠らせたまま刑場に向かうべきなのだが、せめて現実に立ち戻り、別れを告げたかったのだ……最後の我がままゆえ、許せ……」
 金眼銀眼から輝く貴石の涙がこぼれ、テケルは彼に口づける。
 その唇はかさかさに乾き、冷え切っていた。
 その一瞬で、タナトスはこれまでの経緯を思い出した。
「テケル! 死ぬな! 俺と共に生きろ!」
「疾(と)うの昔に、我は死んでおるのだぞ、サタナエル。そうして、今は虜囚(りょしゅう)の身……。 もはや気は済んだ。さあ、参ろう、エッカルト」
 テケルは、魔封じの枷(かせ)で縛(いまし)められた手を上げて見せ、立ち上がる。
「タナトス様、これにて失礼致します」
 魔法医は深々と頭を下げ、囚人を伴い、部屋を出ていく。
「テケル、行くな! テケルを返せ、エッカルト!」
 いくら暴れても自由にはなれず、悲痛な叫びだけが虚しく響く。
 半男半女の王子のすすり泣きが、長い回廊をゆっくり遠ざかっていくのが聞き取れて、魔界の王は居たたまれない思いをした。
 それに反して、彼を捕らえている紫の蛇の感想は冷ややかだった。
『……マッタク、王子ダッタトハ思エナイナ、アンナニメソメソト』
「貴様! 何だ、その言い草は!」
『我ガ本体ハ、泣クコトモ許サレナカッタゾ。ソレニ比ベテアノ王子ハ……』
「くっ、貴様、サマエルの敵討ちでもしているつもりか!?」
 タナトスが歯を食い縛ると、小蛇は否定の身振りをした。
『イイヤ。我ハタダ、一番イイト思ワレルコトヲ、シテイルダケダ』
「一番いいだと!? これがか!? ふざけるな! 覚えておれ、ここから解放されたら……!」
 タナトスは、ぎりぎりと歯を噛み鳴らす。
『分カッテイル、我ヲ八ツ裂キニシテ、うっぷんヲ晴ラスノダロウ……ドウセ仮初(カリソメ)ノ命、惜シクハナイ。 ダガ、えっかると男爵ハ、処罰シナイデ欲シイ。ごみ同然ノ我トハ違イ、彼ハ魔族ニトッテ、大事ナ人材ダ』
「貴様……どうしてケテルのことは、そう思ってくれんのだ……!」
『……泣イテイルノカ、たなとす』
「泣いてなどおらんわ! おのれの無力さに腹が立っているだけだ!」
 タナトスは、勢いよくそっぽを向く。
 やれやれと言いたげに、蛇は肩をすくめた。
『ナゼ、ソレホド、アノ化身ニ執着スルノヤラ。アレサエ、イナクナレバ、スベテガ、ウマクイクト言ウノニ』
「ふん。貴様の本体に聞いてみろ、なぜダイアデムに執着するのだとな」
 顔を背けたまま答えたタナトスは、はっとして蛇を見た。
「そうだ、サマエルだ、おい、ヤツと話をさせろ、あいつならきっと、テケルを消さずにどうにかできる方策を見出せるはずだ!」
 蛇は小首をかしげ、舌をちろちろと動かした。
『……フム、タシカニ、ソウカモ知レナイガ』
「そう思うなら話をさせろ、そうしたら貴様も生かしておいてやる! あいつが無理だと言うなら……くそっ、そのときは仕方がない、潔(いさぎよ)く諦める、だから、話をさせてくれ!」
 タナトスは必死に頼み込んだ。
 魔法陣に封じられているため、彼は今、念話が使えない。
『ソコマデ言ウナラ、我ヲ通ジテ話シテミルガイイ』
 蛇は眼を閉じた。
 やや間があって。
『……タナトス。お前、私の髪の毛など使って、また変なものを創ったね? どうせまた、いかがわしいことにでも使うつもりだったのだろうけれど』
 眼を明けた蛇の口から、紛れもない、弟王子の声がした。
「サマエル! 聞け! 時間がないのだ、“黯黒の眸”の化身で……」
 焦る彼をサマエルはさえぎった。
『知っているよ、蛇の記憶を読んだ。さっき直接、話もしたしね。 ……テケル王子、か。死なせてやればいい』
「きっ、貴様!」
 激昂(げっこう)しかけたタナトスは、落ち着き払った紅い眼に見つめられ、自分を取り戻した。
「……“焔の眸”を、その手で破壊したときの気分を思い出してみろ。 それに、テケルとて本当は消えたくないのだ、でなければ、あんなに泣くものか。 頼む、何でも言うことを聞く、だから、あいつを救ってやってくれ!」
 蛇は小首をかしげた。
『ふうん。そうまで言うなら、条件つきで考えてやってもいいが』
「本当か!? ありがたい!」
 タナトスは面(おもて)を輝かせる。
『そうだな、テケルの前で私を抱く、というのはどうだい?』
 しかし次の瞬間、吹っかけられた難題に、彼は眼を剥いた。
「な!? 貴様、何を……」
 けろりとして、第二王子は続ける。
『大丈夫。テケルも魔界の王子、その程度で動揺などしないさ。 くく……私の後に彼、いや、彼女かな、を味見すれば、比べられて二度美味しいだろう。そうだ、どうせなら、三人一緒というのはどう?』
「ふ、ふざけるなっ!」
『駄目? では、シンハも入れて、四……』
「いい加減にしろっ!」
 それ以上言わせてなるものかと、タナトスは声を張り上げる。
 蛇は、にっと笑った。
『そんなに青筋立てて怒鳴らなくても。残念、この話は無しか』
「もういい! 貴様には頼まん、放せ!」
 タナトスが腕を振り回すと、爬虫類の縛(いまし)めは、あっけなくほどけた。
「この、色気違いめが!」
 彼は跳ね起き、細長い体をむんずとつかんで放り投げる。
 蛇は結界にたたきつけられる前に体をひねり、うまくベッドに着地した。
「くそっ、踏み潰してやる!」
 怒りのあまり、魔界の王は足を持ち上げた。
 だが、蛇は逃げるでもなく、むしろうっとりとした表情で彼を見上げた。
『ああ……死ぬってどんな気分なのだろうね、ぞくぞくするよ、想像すると』
「な、何だと、この変態!」
『気の毒に、テケル王子は酷い殺され方をしたのだったね。 けれどそんな死でも、私はうらやましく思ってしまう……。 そうそう、シンハには違う意味で殺されかけたよ。二度ほど意識を失いかけたのさ。 とても気持ちがよくて……ああ……あのまま、本当に昇天できたらよかったのに……』
 蛇は色っぽく、体をくねらせた。
「……シンハが、貴様を失神させるほどだと……?」
 夢魔の王は怒りも焦りも一瞬忘れ、息を呑んだ。足も自然と下りていく。
『そう、精力絶倫という言葉は、彼のためにあるねぇ、まさしく。 お前もダイアデムでなく、シンハを相方にすればよかったのに。きっと満足できたと思うよ』
「た、たわけ、相手は獣だぞ、しかも雄だ! あんなでかいのに、のしかかられてたまるか!」
 タナトスは腕を振り回した。
 蛇は再び、にやりと笑う。
『へえ、雌ならよかったの?』
「性別の問題か!」
『ふうん? でも、お前のところにもカーラがいるし、のけ者にされたら、彼は淋しい思いをすると思うよ?』
「くっ、余計な世話だ!」
 やはり痛めつけてやろうかとタナトスが睨みつけると、蛇は、ふっと真顔になった。
『お前はともかく、私は苦痛にまみれて生きていたからね、優しくしてくれるシンハに抱かれてみたいと思っていたのさ。 糧を得るためとはいえ、一度に何人もの相手をさせられ……泣いても叫んでも助けなど来ないことを骨の髄(ずい)までたたきこまれ……すべてを諦めるしかなくて……。 それがどんなことか、お前に分かるか……?』
 不意に紅い眼から涙が流れ、驚いた蛇はそれをぺろりとなめた。
『お前、これに泣く機能までつけたのかい?』
「ふん、たまたまだ」
『シンハはね、ふふ……すべてにおいて行き届いていて、私がこうして欲しいと思うと……もう、色々と……ああ、思い出すだけで、たまらないよ……!』
 言いながら、蛇はまたも体をくねくねさせる。
 本体……人界にいるサマエルはさしずめ、紅く染まった頬を両手で押さえて陶然と身悶えしているところだろう。
 それを想像すると、何とはなしに口惜しさがこみ上げて来て、タナトスは思わず拳を握り締めた。
 今まで彼の腕の中で、弟がそんな表情をしたり、仕草をした例(ためし)などなかったのだ。
 魔界王の思いなどお構いなしに、蛇は恍惚(こうこつ)と続けた。
『それに彼ときたら、興が乗って来ると、噛みついたり、引っかいたりして……ああ、それも、すごくいいのだけれど……どうせなら、もう、いっそのこと、首を噛み切ってくれないものかなぁ……こんな幸せ、あり得ないよ……』
「やめろ、気違い! あいつがそんなことをすると思うか!」
 あきれ返って王は叫ぶが、陶酔状態の弟の耳に届いているかどうか、怪しいものだった。
『だからね、汎魔殿の男達にとって、ディーネ女王の呪いは福音(ふくいん)だったかも知れないよ。 シンハを野放しにしておいたら、女性は皆、彼にメロメロで、男達は飢えてしまったろうからね。 あ、そんなことより、早くこれを踏み潰して、死んでいく感覚を味わわせておくれよぉ……ねぇ、タナトスぅ』
 腹を見せてベッドに寝転がり、蛇は、ねだるように舌をひらひらさせる。
「まったく、貴様というヤツは……!」
 脱力したタナトスは、額に手を当て大きく息を吐き、ベッドから降りた。
『なぁんだ、殺してくれないのか、詰まらない』
 蛇のサマエルは、頬を膨らませて起き上がる。
 遅まきながら魔界王は約束を思い出し、蛇を指差した。
「当たり前だ、“そいつ”には、生かしておいてやると言ったのだからな!」
 すると蛇は、鎌首をもたげて彼の眼を覗き込んだ。
『では、妹背(いもせ)の君のところへ急ぐのだね、私とシンハの仲に嫉妬している暇があったら。 それに、今思い出したが、魔界と人界は今、かなり位相がずれているよ? 転移可能になるのは、少なく見積もっても十日ほどかかる。 それに私だって忙しい、四人平等に、相手をしなくてはいけないからね。 ふふ、次は誰にしようかな、順番でいくとやっぱりフェレス……ああ』
 再び陶酔しかけた蛇は、首を振って正気を取り戻し、タナトスを見た。
『そら、何をぼやぼやしている、結界は解いたぞ、早く行け。 大体、テケルが待っているのはお前だ、他人など当てにせず、自力で救出してやるのが筋だろう?』
「ちっ、忌々しい役立たずが! 貴様などに期待した俺が馬鹿だったわ! ──ムーヴ!」
 当てが外れたタナトスは、嫉妬も手伝ってか険しい顔で激しく舌打ちし、移動呪文を唱えた。

 16.処刑場の貴石(2)

 タナトスが移動したのは、汎魔殿の南方に位置するコロッセウムの入り口だった。
 巨大な石を積んで造られた、壮大な円形闘技場は、“黯黒の眸”の処刑を見ようと詰めかけた数万人もの魔族達で、あふれかえっていた。
 しかし、いくら巨大な建造物でも、魔界の住人すべてを収容はできない。
 そのため、各地にスクリーンが設置され、都から離れたところでも処刑の様子を見ることができるように配慮がなされていた。
「へ、陛下!?」
「タナトス様、お待ちを!」
「うるさい、どけ! テケルはどこだ! どこにいる!?」
 驚き、止める衛兵を吹き飛ばし、タナトスが門を突破したとき、内部からどよめきが聞こえて来て、彼の足は弥(いや)が上にも速まった。
 闘技場の中央部に、テネブレが引き出されたところだったのだ。
 テケルの存在は知られていないため、テネブレの処刑という告知がなされていた。
「どこだ、テケル! テケル、返事をしろ!」
 だが、それを知らないタナトスは、王子の名を呼びながら、薄暗い通路をひた走った。
 コロッセウムは今、罪人の逃亡防止用に強力な結界で覆われており、入ることは簡単だったが、魔法は使えなかったのだ。
「くそっ、頼む、テケル、生きていてくれ……!」
 間に合ってみせるという熱く固い決意と、早く行かなければという焦り、冷たい骸(むくろ)を眼にすることになったら……という恐怖にも似た懸念が、交互に彼の心を支配する。
 考えてみると、彼は今まで、自分が妃にと思い定めた相手を伴侶にすることができなかった。
 クニークルスのフィッダ……慎み深い彼女を王妃の位に就(つ)けたりしたら、短い命を気苦労で、さらに削ってしまったかも知れない。
 そしてジルは……そう、弟と一緒になって幸せだったのだろう。
 たとえ彼の精気で、一旦死んでいるその命を支えることができたとしても、サマエルを恋しがって泣き暮らし、日々やせ細っていって、やがては……。
 かといって、意思に反して記憶を消したりすれば、廃人になるかも知れず、いずれにせよ、幸福にしてやれたかどうかは疑わしかった。
 だが、今度は違う。
 タナトスは確信していた。テケルこそが、自分のために用意された相手……真の伴侶なのだと。
 そのとき前方に明かりが見えて来て、長い回廊がついに終わりを告げた。
 直後、彼の眼に、魔封具によって縛(いまし)められた“黯黒の眸”の姿が飛び込んで来た。
 一瞬で、彼は、それが闇の化身だと見て取った。
 テネブレが生きているということは、無論、テケルも……。
 彼は安堵しつつも、さらに速度を上げる。
「む、この気……?」
 テネブレが気配を感じ取り、振り返ったときには、すでに魔界の王は彼の元へとたどりついていた。
「テネ、ブレ……ま、間に、合った、な!」
 走りづめだったタナトスは、膝に手を当て、息を整える。
 盲(めし)いた瞳で、化身は彼を凝視した。
「おう、サタナエル……おぬし、何ゆえここに?
 せめて我も一言、おぬしに別れを告げたいと思いしに、叶えられたは望外の幸運だが」
「な、何が、別れだ、俺は、お前を、助けに来たのだぞ!」
 息を弾ませ、彼は答えた。
「されど、見よ、我がために、かくも多数が集(つど)った……今さらおぬしが参ったところで、この処刑を回避する術など、もはやあるまいに。 それほど皆の、我に対する恨みは深い……」
 テネブレは首を振り、うなだれる。
「お待ち下さいませ、タナトス様! 今は、……」
 その刹那、息せき切って走り寄って来たのは、エッカルトだった。
「エッカルト、貴様、よくも!」
 タナトスは眼にも留まらぬ早業で、腰に佩(は)いた黄金の剣を抜き、魔法医に袈裟懸(けさが)けを浴びせた。
「ぎゃっ!」
 一声上げてエッカルトは倒れ、地面が血に染まる。
 何事かと群集がどよめいた。
「タナトス様、何を!?」
「と、ともかく、男爵様を医務室へ!」
 警護の兵士が二人、急いで魔法医の体をタナトスから引き離し、連れて行く。
 それを見ることもなく、彼は、血まみれの剣で残る兵士達を牽制(けんせい)しつつ、魔封具をたたき外し、化身の手を取った。
「さあ、行くぞ、テネブレ。こんなところに長居は無用だ!」
 だが、“黯黒の眸”の化身は彼の手を振りほどき、頭を横に振った。
「我は行けぬ」
「何? どうしたというのだ?」
「おぬしが欲しておるのは、テケルであろう。 彼の夢にも、我は一度も出られなんだ……今、共に逃げたところで、おぬしは闇の我を封じ、光の王子とのみ、暮らす気なのであろう?」
「それは違う、俺はお前も……な、何をする!?」
 テネブレに剣をたたき落とされ、タナトスは面食らった。
 さらに闇の化身は、拾い上げた魔封具を、こともあろうに彼の手首にはめたのだ。
「お、おい……!?」
 眼を白黒させる魔界の王を尻目に、テネブレは両手を勢いよく掲げ、声高らかに宣した。
「──者ども! 処刑を始めよ!」
「何、だと……!?」
 刹那、驚きのあまり動けずにいるタナトスと、無防備な“黯黒の眸”目がけて、握り拳ほどの石が、雨あられと降り注ぎ始めた。
 投石。これは、テケルみずからが選んだ処刑法だった。
 恨みのある者達自身が処刑に手を貸すことができる上に、テネブレが意識を失いテケルの姿へ戻っても、投げられ堆積した石が、肉体を覆い隠してくれるからと。
 そうして一定の時間が経てば、魔力が失われた化身の体は石の下で消失し、光の王子と共に、禍々しい第二形態もまた、完全に消滅するのだ。
「……う、くそっ、これでは何もできんではないか!」
 魔法を使おうとして、魔界王は歯を食い縛った。
 さすがの彼も、結界と手枷により二重に力を封じられていては、それこそ、手も足も出ない。
 せめて魔封具だけでも外そうと剣を捜すが、今まで足元にあったはずなのに、影も形もない。
 その間にも、人々が投げつける石が、彼の体中に細かな傷を作っていく。
「う、つっ、や、やめろ、貴様ら!」
 テネブレをかばいながら叫ぶタナトスの声は、怒号にかき消され、民衆には届かないようだった。
“やめろ、貴様らの君主がやめろと言っているのだぞ!”
 ならばと、念を使ってみるが、なぜか人々の心から反応が返って来ない。
 何度心の声で呼びかけてみても、投石がやむことはなかった。
「どうしたのだ……俺の声が聞こえないはずは……」
 タナトスは戸惑い、周囲を埋め尽くす群集を見渡す。
 年齢性別を問わず、声を嗄(か)らして怒号を上げ、投石を続けている彼らの目つきは異常で、中には口から泡を吹き、びくびくと痙攣(けいれん)している者さえいる。
「面妖(めんよう)な。一体何が起こっているというのだ……む!」
 ふと、後ろにいる闇の化身に眼をやった彼は、顔色を変えた。
 テネブレは、つぶての雨をもろともせず、指を組み合わせて次々印を結んでは、何事かを唱えている。
「貴様、何をしている!?」
 彼が詰問すると、化身は邪悪な笑みを浮かべた。
「知れたことよ。ここにいる全員の心を操っておるのだ」
「何だとぉっ!?」
「礼を申すぞ、サタナエル。おぬしが手枷を外してくれたお陰で、連中の精神を御(ぎょ)することが可能となったのだからな」
 光のない瞳を彼に向け、そう話す間も、闇の宝石の化身の指はせわしなく動き、印を結び続けている。
「まさか、強力な結界が張られているのだぞ! 魔封具が外れたくらいで、皆の心を操るなど、できるわけがない!」
 彼が叫ぶと、闇の化身は眼を細め、不気味な笑みを一層深くした。
「……くくく。その結界こそが、この場に横溢(おういつ)する負の力を外部に漏らさぬよう封じ込め、我に力を与えておる……としたら? サタナエルよ、共に死のう。 おぬしが死去し、我が本体、“黯黒の眸”もが破壊されれば、魔族の結束、魔界の結界、双方共に失われ、結果、魔族は滅びるであろう……!」
 不吉な神託を下す神官のように、重々しくテネブレは言い放った。
「やめろ、そんなことをして何になる!」
 つかみかかろうとしたタナトスは、はっとして動きを止めた。
 相手の見えない両の眼から、涙が流れていたのだ。
「お前、生きていたいのだな」
「当然であろう。元来、テケルは偽善者よ。
 真の願望とはまるで逆(さか)しまな行動を取ったがゆえに、闇の化身である我に力を与えた……有体(ありてい)に申せば、我が庶幾(しょき)は、テケルの熱願でもあると申せよう」
 あふれる涙をそのままに、テネブレは、長い爪で自分の胸を指差した。
「嘘をつけ、テケルがそんなことを望むものか!」
 叫んだ途端、闇の化身はタナトスに足払いを食らわせ、地面に倒した。
「うわっ……ぐっ!?」
 そして王に馬乗りになり、いつぞやのように、その首を絞め始める。
「案ずるな、サタナエル。おぬしを弑(しい)せしのち、我もすぐ逝(ゆ)く……我は魂を持たぬゆえ、冥土への道行きには同行出来かねるが、な」
「くっ、う、よせっ、やめろっ!」
 もがき、抵抗するものの、手枷に自由を奪われ、化身の手を振りほどくことができない。
(く、くそ、誰かいないのか、こいつの術にかかっていない者! 力のある、王家の……そうだ!)
「お、叔母上はどこだ! イシュタル叔母上!」
 必死にイシュタルを呼ぶタナトスをあざ笑い、化身はさらに力を込める。
「くくく……無駄だ、エレシュキガルはここにはおらぬ。 死にかけのバアル・ゼブルが、放さずにおるゆえな。 この場にて正気でおるのは、おぬしのみだ、サタナエル……“敵対する者”、よ」
 エレシュキガルは、イシュタルの真の名である。
(くっ、い、息が……)
 意識が薄らぎ始めたタナトスの心に、そのとき、とある情景が流れ込んで来た。

          *       *       *

「何じゃと、テケルは、男子ではないと申すか!」
 王にふさわしい豪奢な衣装に身を包んだ男が、苛立たしげに叫ぶ。
「魔法医よ、いかなる呪いか知らぬが、疾(と)くテケルを男に戻すのじゃ!」
 そばにいた女性もまた、声を上げた。
「恐れながら、両陛下、これは呪いではございませぬ、王子殿下のお体は、先天的に……」
 二人の前に膝をつく魔法医は、滴る汗をぬぐいもせず、答えた。
「生まれつきじゃと!? ならば、何ゆえそなたは、生まれた直後、王子の体の変異を見抜けなんだのか!」
 すでに子供がいるとは思えないほど若く見える王妃は、柳眉(りゅうび)を逆立てた。
「も、申し訳、ございませぬ!」
 魔法医は、床に額をこすりつけた。
「もうよい。妃よ、後はそちに任せる」
 魔界の君主は冷ややかに言い捨て、くるりと後ろを向いた。
「陛下!?」
 驚く王妃を無視し、王は部屋を後にする。
 テケルはその様子を、虚ろな眼で見ていた。

 16.処刑場の貴石(3)

 その日から、テケルの日常は一変した。
 厳重な箝口令(かんこうれい)が敷かれ、それは彼の妹、ソノアにさえ及んだ。
 父王は彼と眼を合わせなくなり、母も会うなり涙にくれ、声を詰まらせる。
 彼自身も人の眼を避けた。
 あるとき、死のうとして母に止められ、気を取り直した彼は、自分でも図書館の本を調べてみることにした。
 何かしていないと、頭がどうにかなってしまいそうだったということもある。
 彼の場合、男女の性が複雑に入り組んでおり、現状では、女性の部分を完全に取り除くことは難しく、命にも関わるらしかった。
 床面積は体育館が二つ合わさったほどもあり、高い天井まで本棚がそびえ立つ図書室は、幼い頃、彼の格好の遊び場だった。
 幼い頃から懇意(こんい)にしていた司書のリベラは、驚きつつも彼に深く同情し、懸命に目録を調べ、役立ちそうな書籍を見つけ出しては、彼の許(もと)へと運んでくれた。
 こうして、死に物狂いで文献を探すうち、テケルの誕生日から半年が経った。
 王子の必死の思いとは裏腹に、膨大な冊数を誇る汎魔殿の図書室でさえも、望みの本や記述は発見できなかった。
「ない、ない、ない! これほど書物があるというのに……!」
 ついに彼は半狂乱になり、本を放り出して床に倒れた。
 周囲に山と詰まれた書物が、雪崩(なだれ)のように落ちて来る。
「殿下!」
 リベラが、本の山から彼を助け出した。
「ああ……我はもう駄目だ」
「お気をたしかに、諦めるのはまだお早い。“禁呪の間”ならば、あるいは……」
「何、そこにも本があるのか?」
「はい。お立ちになれますか。こちらです」
 王子は司書の後に続いた。
 案内された図書室の奥には、一人がやっと通れる、小さな木の扉があった。
 本館同様、この部屋もまた、天井までびっしりと、大小様々な書物で覆い尽くされていた。
「ああ、まだ、こんなにあったのだな!」
 テケルは顔を輝かせ、室内をぐるりと見渡した。
「はい。ここには当初、名の通り、あちらの“禁呪の書”のみが収蔵されておりました」
 司書は、部屋の左隅を示した。
「ですがその後、あまり性質がよくない魔法の書や、その……王家にとっては都合の悪い文献、過去の遺物となった古文書なども収められるようになったと、聞き及んでおります。それゆえ、もしかしたらと……」
「うむ、ここならば、きっと見出せよう!」
 金と銀の瞳から涙があふれ出す。
 ここが本当に、最後の頼みの綱だった。
 忘れられた書物の中になら望むものがあるに違いない、そう確信したテケルは、憑(つ)かれたように読み漁り始めた。
 夜、自室に帰るとき以外はこの部屋で過ごし、どうかすると、読みかけで眠ってしまうこともあった。
 この半年で、王子は別人のようになってしまっていた。
 外で遊ぶことが何より好きで、よく笑う、“光の申し子”と呼ばれた明るい少年の面影はもう、どこにもなかった。
 司書が運んで来る食事もろくに摂らず、薔薇色だった頬は血の気が失せて、やつれた顔に眼ばかりが異様な熱っぽさを帯びて光り、回廊ですれ違う女官達を怯えさせた。
 運命の日。
 うたた寝から目覚めると、ろうそくは消え、“禁呪の間”は暗闇に飲み込まれていた。
 彼も魔界の王子、夜目は利く。
「ああ……眠い、一旦部屋に戻るか」
 眼をこすりながら立ち上がり、ドアを開けようとしてテケルは愕然とした。
 そこにはただ、壁があるばかり。扉は消えてしまっていた。
「まさか、そんな馬鹿な!」
 慌てて見回すが、他の部分はすべて本棚、場所を間違えるわけがない。
「う、嘘だ……!」
 彼は一瞬パニックに襲われ、頭の中が真っ白になった。
「いや、落ち着け。誰かの、質の悪いいたずらに違いない。
 そうだ、魔法を使えばいいのだ。
 ──ムーヴ!」
 気を取り直して呪文を唱えても、魔法は効力を現さない。
「な、何ゆえ……そうか、魔封じの結界が張られているのか!」
 彼の顔から血の気が引く。
 テケルは、何者かによって監禁されてしまっていたのだ。
「誰かいないか、誰か! 助けてくれ、母上、父上、助けて!」
 声が嗄れるほど叫び、扉があった場所をたたいても、助けは来ない。
 壁を壊すものをと思っても、剣も持って来てはいなかった。
 彼はショックのあまり、気を失った。
 どれほど経ったのか、ケテルは正気づいた。
 窓もなく、どれほど時が経過したのか分からない。
 彼は起き上がり、壁にもたれかかると息をついた。
 落ち着いて考えてみれば、いずれリベラが気づくはずだった、扉が消えていることや、不自然な結界が張られていることに。
 それに、自分の姿が見えなくなれば、必ず母が捜してくれるだろう、それを待っていればいいのだ。
 王子ともあろう者が取り乱して恥ずかしい、そう彼は思った。
 しかし、どんなに待っても、助けは来なかった。
 本の表紙をかじってみても飢えは満たされず、喉の渇きも次第に耐えられなくなっていく。
 何とか脱出口を作ろうと壁に爪を立てるが、爪が剥がれ血が噴き出しても、わずかな引っかき傷ができるだけだった。
 そうして、闇の中、どれほどの日数が過ぎたかも分からないまま、とうとう彼は動けなくなり、大理石の床に横たわった。
 死を覚悟したそのとき、目の前の空間が輝き始めた。
 光はやがて三つの人影になり、ようやく助けが来たかに思えたのだが。
「おやおや、しぶといな、まだ生きているぞ」
 冷ややかな声が、テケルの希望を打ち砕いた。
「だから言っただろう、もう少し、様子を見ればよかったのだ」
「仕方あるまい、陛下が、見て参れと仰られたのだから」
 男達は口々に言う。
 王子の弱っていた心臓は、早鐘のように激しく打ち始めた。
 男の一人が、にやりと笑って彼を見下ろす。
「お聞き及びですか、王子様。 まあ、色々ありまして、陛下は、あなたが実子でないと判断なさいましてね、我らに始末を……いえ、あなたに死んで頂くようにと、命を下されたのですよ、お気の毒ですがね」
「う、嘘だ……ち、父上が、そんな、……」
 彼は懸命に、かすれた声を絞り出した。
「本当ですよ、知らぬはあなたばかりなり、でね」
 嘲(あざけ)るように、別の一人が言った。
「ほう、死の間際のあなたも美しい……そう言えば、男であり女である、というのはどういうものなのでしょうな」
 三人目の男が、テケルの衣服に手をかける。
「何を……やめ……」
 抵抗しようにも、もはや彼には力が残っていない。
「おい、よせ」
 最初の男が声をかけるが、第三の男はやめようとはしなかった。
「いいではないか、もったいない。 殿下、わたくしはずっとあなたを抱いてみたいと思っていたのですよ……それが、何と半男半女とはね……そそられますよ、本当に!」
 言うなり男は、力任せに彼の服を引き裂いた。
 男達が消えた後、残されたテケルは、呆然と、真っ暗な天井を見上げていた。
 床の冷たさが裸体に沁み込み、痛みと出血もあったが、もはやどうでもいいことだった。
 閉じ込められたこと……辱められたこと……何より、それを命じたのが父親だということ……。
 そして何より、王が、実の父ではないとは……?
 どうして自分だけがこんな目に……何のために生まれて来たのだろう。
 当たり前だと思っていたすべては粉々になり、消え去ってしまった。
 意識が遠のき、消えようとする寸前、視界の隅で紅い光が閃(ひらめ)いた。
 再び男達が戻って来たかと思い、テケルの体は抑えようもなく震えた。
 中の一人は、彼をかなり気に入った様子だった。
 どうせ死ぬならと連れて行かれ、そして……。
 もう安らかに死にたいと願い、彼は舌を噛もうとした。
 だが、それがもっと小さなもの……書物だと気づいた彼は、死にかけていたとも思えぬ敏捷(びんしょう)さで、それを手にしていた。
 開こうとしたが、糊付けされてでもいるかのように、びくともしない。
 仕方なく、テケルは表紙を見た。
 金の箔(はく)押しで“龍の書”とあり、その下にも文字がある。
「……『黎明(れいめい)の龍は光と闇を包含し、ゆえに双つの名を持つ。玉響(たまゆら)の心地に負けじと、命の賛歌を謡(うた)え、光を齎(もたらす)す者よ』」
 導かれるように読み上げた途端、本の輝きが増し、勢いよく開いた。
 ページが勝手にめくられていき、とある箇所を開いて止まる。
(何と、……!)
 彼は眼を見開いた。
 そこに記された呪文はひどく禍々しく、瘴気さえ発しているようで、すぐに、禁呪の書だと分かった。
「紅い……そうか、これは紅龍の書!」
 思わず声を上げると、本は輝きを増し、名を呼ばれた犬が尾を振るように、ぱたぱたとページをめくって見せた。
「……たしかに変化すれば脱出はできよう、されど、紅龍は世界を滅ぼす……。 ああ、父上……いえ、魔界王陛下。死ねと一言仰って頂けさえすれば、我はあなたの目の前で、見事、自害してご覧に入れましたものを……!」
 彼は顔を覆った。
 凍りついていた涙が、後から後からあふれ、滴り落ちていく。
 もう最期が近い。
 それを悟った彼は、辛抱強く待っていた本に、告げた。
「……このまま逝かせてくれ」
 書物は静かにページを閉ざし、棚へ戻っていった。
 輝きも消え、部屋は闇と静寂に覆われる。
 これでようやく死ねると、彼は眼を閉じたその瞬間。
“ほう、仇も討たぬまま逝くと申すか。 おぬしを陥れしが、まこと魔界王かも分からぬというに?”
 出し抜けに、不吉な問いかけが頭の中で響いた。
(だ、誰、だ……)
 彼はすでに、声を出すこともできなくなっていた。
“我は『黯黒の眸』。おぬしの絶望に惹きつけられて参ったのだ。 アイン・ソフ・オウル、光の王子よ、目蓋を上げ、しかと我を見るがいい”
 やっとの思いで眼を開いてみると、いつの間にか、暗いオーラをまとった漆黒の貴石が現れていた。
(もう、いい。死なせて、くれ……)
 貴石の片割れは、彼の答えを意にも介さず続けた。
“されど、王がもし謀(たばか)られておったなら、いかがであろうな。 讒言(ざんげん)にて王子の生命を絶たせ、王を傀儡(くぐつ)と為(な)す……その王も、いつの時まで恙無(つつがな)くいられるものやらな、くくく”
(何……)
“王逝去(せいきょ)の後、王妃と王女には、如何なる待遇が待っておるのやら。美しき、高貴な女が二人きり。男どもには極上の餌であろうな、くくく……”
 嫌らしい笑いが、テケルの頭の中に響く。
(そ、そんな……!)
“分かったであろう、もはや、おぬし一人の話ではない、我を受け入れよ、アイン・ソフ・オウル。 さすれば永遠の命を得、飢えも渇きも、もはやおぬしを苦しめぬ”
(永遠の命……!?)
“左様。思い描くがよい、それが、おぬしの新しき風姿となろう”
(新しい、姿……)
 テケルの体から力が抜ける。
 彼の最期の思考に呼応するように、“黯黒の眸”を覆うオーラが、もやもやと形を成していった。

 16.処刑場の貴石(4)

 生あるうちには得られなかった第二形態を手に入れ、“黯黒の眸”の化身となったテケルは、その力で、薄い紙でも破るかのようにやすやすと結界を破り、自由を手に入れた。
 そして、自分を死に追いやった憎い三人に次々と襲いかかり、その生首を手土産に、玉座の間へと赴(おもむ)いた。
 警備の兵士達をたやすく打ち倒し、巨大な広間にずかずかと入っていく。
 煌びやかな玉座に腰かけた人影に、彼は声をかけた。
「魔界王陛下にはご機嫌麗(うるわ)しく! 拝顔(はいがん)の栄(えい)に浴しまするは、すでに死人(しびと)たる者!」
 その声は、薄気味悪く、不吉な響きを帯びていた。
「何奴じゃ、名乗れ! 無礼であろう!」
 テケルとは気づかず、魔界王は彼に指を突きつけた。
 光の王子と称(たた)えられた面影は完全に消え去り、彼の外見は、声同様、生前とは似ても似つかない不気味なものになっていたのだ。
「……我を知らぬと? 然(しか)らば、これなる者どもをご高覧(こうらん)頂きましょうか!」
 言うなり彼は、手にしていた生首を放り投げた。
「何じゃ!?」
 思わず、王は立ち上がる。
 三つの首は玉座のそばに落ち、ごろごろと転がって、周囲を血まみれにした。
「よくご覧になるのですな、ご存知の面々のはずですぞ」
 言いながら、テケルはさらに歩を進める。
 恨みを呑んで白目を剥(む)いた三人の首……それらをまじまじと見ていた王は、はっと息を呑んだ。
「やや、この者達は……!」
「そやつらが、我を殺したのでございますよ」
「何!?」
 王は顔を上げ、近づいていく彼の金眼銀眼……そのときはまだ眼窩(がんか)に収まっていた……に気づくと、顔色を変えた。
「そ、そちは……もしや、テケルなのか!?」
「お久しゅうございます、魔界王陛下」
 彼は、返り血で真紅に染まった凄惨(せいさん)な顔に笑みを浮かべ、胸に手を当てお辞儀をした。
「くく、さぞや驚かれておいででしょうな。
 殺害を命じ、すでにこの世の者でなくなったはずの我が、こうして目の前におるのですから」
「な、何じゃと、そちを殺害!? わ、わしは左様な命など、出した覚えはないぞ!? そもそも、そちは何ゆえ……さながら暗黒の化身でもあるかのごとき、不祥(ふしょう)なる風姿(ふうし)に……!?」
 王は声を上ずらせ、後ずさる。
「この期(ご)に及んで、逃げ口上とは」
 テケルの眼差しは冷ややかだった。
「め、女神に誓うて、まことの話じゃ! わしはたしかにそちを、密かに魔封じの塔へ連れ出せと命じた。 されど今日とて、訳も分からず封ぜられたそちが、食事も喉を通らぬようになったと聞かされ、医師を手配するよう、申しつけたばかりなのじゃぞ! そ、それを、息の根を止めよなどと命じるわけがない!」
 魔界王は、彼の視線を真正面から捉え、懸命に訴える。
 その真剣な表情に、偽りがあるとも思えない。
 不意にテケルは、貴石の言葉を思い出した。
「ふむ……“黯黒の眸”は、王が謀(たばか)られておると申しておりましたな。 讒言(ざんげん)にて我が生命を絶たせ、王を傀儡(くぐつ)と為(な)す、などと……」
「何じゃと!?」
 みるみる王は青ざめ、三つの首へ向けて手を振った。
「こ、この者どもが、わしの言いつけをよいことに、左様な企(くわだ)てを!? して、“黯黒の眸”が、そちを救ったと申すか」
 テケルは眼を伏せた。
「陛下……我が肉体はすでに、冷たき骸(むくろ)と化しておりまする。 そしてこれは……我が望みし第二形態……生きて成長しておれば得ることができたやも知れぬ姿、なのでございますよ……」
 震える指で、彼は自分を示す。
 魔界王は、気が遠くなりそうな眼をした。
「な、何……もはや死しておるじゃと……!?」
「……御意。食事も水も与えられず、看取る者もなく息絶えましてございます。 今や我は、“黯黒の眸”の化身に成り果て……もはや、生きておるとは申せませぬ……」
 彼はうなだれた。金と銀との瞳が、抑えようもなくうるんでいく。
「おお……おお、これは何としたこと……テケルよ、侘びの言葉もない……。 じゃが、女神にかけて、わしは、そちを殺そうなどと……」
 王も涙ながらに、彼に手を差し伸べた。
 迷いつつも、テケルがその手を取ろうとしたとき、玉座の間に、一人の青年が飛び込んで来た。
「父上、ご無事で!? 警備の兵士達が殺されておりますぞ! おのれ、何奴!? 陛下から離れよ!」
 はっと振り向くテケルの視界の隅に、王がばつが悪そうな顔をしているのが映った。
「……陛下。あの者は何ゆえ、父上などと……?」
 彼は、疑惑に満ちた眼差しを王に向けた。
 すると魔界の君主は、渋々話し始めた。
「……あれはそちの異母兄なのじゃよ、テケル。名はフェガリ」
「えっ、異母兄!?」
「そちの母を……妃を娶(めと)る前、わしは、ある娘と恋に落ちた。 子まで生(な)したが、身分が違い過ぎたのじゃ……わしの縁談が持ち上がると、娘は身を引き、姿を消した。 それが最近になり、フェガリが現れた……母親が死の間際に書いたという手紙を持ち……それゆえわしは……」
「男か女か、おのれの子かさえも分からぬ者などより、自分の子と確証が持てる者を次期の王に、と? ……なるほど、そのために我を幽閉したのか……」
 テケルの目つきは、入って来たときよりも険しくなっていた。
「致し方なかったのじゃ……。 なぜならテケルよ……わしに昔、女と子までおったと知ると、そちの母はな、あろうことか、腹いせに不貞を働いたのじゃ……。 ゆえに、ソノアはわしの血を引かぬと、妃は白状致した……」
「えええっ!?」
 テケルは、殴られたようにのけぞった。
「ま、まことなのでございますか、それは!? こともあろうに、母上が、ふ、不貞……!? は、母上は何処(いずこ)におられます、直に聞かねば、左様なこと、到底信じられませぬ!」
 必死の思いで詰め寄るが、王の答えはさらに彼を驚愕させた。
「もはや遅い……そちの母は、わしがこの手で成敗(せいばい)致した。表向きは病死と致したがな。 前の女とは手が切れた上で迎え、王妃にふさわしき待遇を心がけて参ったと申すに、この裏切り……許せるわけがなかろう」
「……母上を、成敗……!? そ、そんな……」
 とうとうテケルは、立っていることもできなくなり、がくりと膝を折った。
「父上! こ、この有様は一体……!?」
 その間に駆け寄って来た青年は、血まみれの惨状に声を上げる。
「おう、フェガリ。話せば長くなるのじゃが、まずは、これがテケル……そちの弟“だった”者じゃ……」
「えっ、で、でも、前に見た彼とは全然違いますが……?」
 青年は眼を見開いた。
 その瞳は、左右揃って父親似の鮮紅色であり、顔形もまた王に似通っている……そう思った瞬間、ケテルの心の中に、どす黒い感情が噴き出して来た。
「くうぅ……! 貴様のせいだ、何もかも!」
 想像もしていなかった話の連続、そして異母兄の登場に、テケルの理性はついに吹き飛んだ。
 三人をずたずたに引き裂いた鋭い爪を、フェガリの心臓目がけ、思い切り突き出す。
「──死ね!」
 手ごたえはあった。
 だが。
「ち、父上……!?」
 彼の爪が貫いていたのは、憎悪の対象である異母兄ではなく、その楯となった魔界王の胸だった。
「す、済まぬ、許せ、テケル……憎むならば、わしを憎め……兄に、罪はない……フェ、ガリまでもが、し、死ねば、お、王家の血は、絶えてしまう……。 妃は……ただ一度の、過ちゆえ、そちは、わしの子だと、申した……。 そ、それを、信じておれば……いや、妃を……許して、やってさえ、おれば……そちも……死なさずに、済んだ、のじゃな……。 ああ……わしは……何と……愚かであった、ことか……!」
 後悔の言葉を残し、魔界の君主は彼の腕に倒れ込んだ。
「うわあああ、父上、父上!」
 テケルは王の体を抱きかかえ、泣き叫ぶ。
「何てことを! 父上、しっかりなさって下さい!」
「触るな!」
 彼は、王にすがろうとするフェガリの手を振り払い、睨みつけた。
「テケル、落ち着け、早く傷を治さねば、お命に関わる!」
「黙れ、その名で呼ぶな! 我はもはやテケルではない、闇の化身、そう、テネブレだ! あああ……もはや何も見たくない、その顔も、その眼も、父上が亡くなるところも……! ──うわあああ!」
 テケルは、王の血に濡れた爪で、自分の眼球を双方共、えぐって捨てた。
 空洞となった眼窩(がんか)から流れ出る血は、紅い涙のように王の体へ滴る。

         *       *       *

 熱い涙が顔にかかり、タナトスは我に返った。
 ずいぶん長い時間が経ったように感じたが、実際はほんの数分ほどだった。
「憎い……憎い……憎い……! おぬしは、あの、にっくき兄の子孫! あやつさえ現れなんだら、我も母も、いや、両親共、平和に……!」
 彼の首を締めつけながら、テネブレは、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
 それらはタナトスの頬を伝って地面に滴り落ち、黒い石へと変わってゆく。
(今のは、テケルの過去か……。 父を殺し……腹違いの兄までいるとは……サマエルにそっくりではないか)
 タナトスがそう思ったとき、彼の心を読んだように、テネブレが言った。
「我の生き様が、おぬしの弟に似ておるのではないわ。 ルキフェルの方が、我の人生になぞらえて生きるを強制されたのであろうよ」
「な、に……誰、に、だ……」
 彼は必死に、声を絞り出す。
「アナテ女神に決まっておろう。長き時に渡り、女神は、紅龍となり得る者を待っておった。 我が適格者と判明致したときには、死が迫り……。 その後、要石に条件を記してみても資格者は現れず……それも無理はあるまい、紅龍の過酷な運命を思えば、な。 いたずらに時は移り、女神はついに業(ごう)を煮やしたのだ、テケルという雛型(ひながた)をなぞった人生を歩ませれば、必ずや紅龍が出現するであろうと。 まあ、これは我の推論に過ぎぬが」
「先ほど、憎いと、言ったな……俺を、好いては、くれん、のか……俺が、これほど、お前を……」
「おぬしが我に惹かれるのは、生き様が弟に似ておるゆえ。それだけのことであろう」
「違う!」
 タナトスは声を振り絞り、否定した。
 彼を見返す闇の化身は、この上もなく悲しげだった。
「のう、サタナエルよ。おぬしの息が止まりし後、口づけてもよかろうか……。 命あるうちには、かようにおぞましき者に唇を奪われるなぞ、身の毛が弥立(よだ)つであろう、それゆえ、死した後でよい……ただ一度のみだ、それ以上は望まぬ……」
「な、何を言う、俺は、お前を……」
 言いかけた刹那、タナトスは思いついた。
 この化身に首を絞めるのをやめさせ、延(ひ)いては、二人で共に生きていく気にさせることができる方法を。

 16.処刑場の貴石(5)

 タナトスは、縛められた手をテネブレの首の後ろにかけて引き寄せると、抵抗する間も与えず、その唇を奪った。
「っ……!?」
 固まってしまった化身に向けて、彼は畳みかけた。
“俺は、心底お前に惚(ほ)れている。光(テケル)だろうが闇(テネブレ)だろうが構わん、どちらも同じ、お前という存在の表と裏だ! 俺と共に生きてくれ、頼む!”
 彼は全身全霊を込めてそう訴え、次いで、テネブレをベッドで愛しているところを思い浮かべた……テケルではなく。
「や、やめよ! いけしゃあしゃあと、よくも左様な妄想を!」
 テネブレは顔を真っ赤にし、もがいて彼の腕から逃れた。
「うっ、ごほ、お、俺は本気だぞ……くそ、こんなもの!」
 タナトスは喉を押さえながら起き上がり、周囲に山と積まれた石に、魔封具を繰り返し打ちつけて壊し、ようやく完全に自由の身となった。
「ようし、聞け、“黯黒の眸”!」
 そして、つぶてと怒号の中、魔界の王にふさわしい威厳を声を込め、化身を説得にかかる。
「お前とサマエルが同じような人生を歩んで来たなどと、俺は今、初めて知ったのだぞ! 生き方が似ているから愛したなどということはない、俺は何も知らんうちから、お前に惹かれていたのだ! もうこんな茶番はやめて、俺の妃になってくれ!」
 しかし、テネブレは激しく首を横に振った。
「いいや、我は愛など信じぬ! 我が双親は愛し合うていると思うておった、されど、父には過去に女がおり、母もまた、不義密通……。 その父も赤の他人……剰(あまつさ)え、前の女に産ませた子を世継ぎとなすがために幽閉され、命まで落とすこととなったのだぞ! もはや我は、金輪際(こんりんざい)、生物の感情ごときに振り回される気なぞないわ!」
「たしかに俺達の心は変化する、だからといって、必ず不幸になるとは限るまい! 手に入れられるはずの幸福を、みすみす逃すことになってもいいのか!?」
「笑止! 幸福などという観念そのものが、誤謬(ごびゅう)なのだ!」
 ぴしゃりとテネブレは言い、それから、沈鬱(ちんうつ)な表情になる。
「……おぬしの本心、たしかに受け取った。 されど、おぬしもいずれ変心致すことであろう、どの女子(おなご)か、男(おのこ)かは知らぬが、な」
「俺を見くびるな、心変わりなどせん!」
「つい今し方まで……おのれのものであったはずの愛が、去ってゆく……その後ろ姿を見送らねばならぬ者の心持ちが、おぬしに分かろうわけもない……」
「だから、俺は、他のヤツに心を移すことなど……」
 タナトスが、一歩踏み出したそのとき。
 矢のように飛んで来た石が、彼のこめかみに命中した。
「ぐわっ!」
「サタナエル!」
 化身の腕に、魔界の王は倒れ込んだ。
 どくどくと流れ出す血が、彼の襟元を朱(あけ)に染めてゆく。
「血……あのときと同じ……我が弑(しい)した……ああ、父上……!」
 テネブレは全身を震わせ、ローブの端を裂くと、必死の形相で傷口を押さえた。
「もはや死は見とうない、ことにおぬしの死は! 死なないでくれ、サタナエル!」
 その声に眼を明けたタナトスは、笑みを浮かべ、テネブレの頬をなでた。
「……ふ、やはり、俺を慕(した)っていてくれたのだな、お前……」
「ああ、我はもはや、おのれを騙せぬ!」
 叫びと同時に、闇の化身が輝き始める。
 光の王子、テケルが現れても、周りを囲み石を投げ続ける集団は、それに気づいた様子もない。
「テケル……お前なら、連中を正気づかせることができるだろう、早く……」
 タナトスの声は弱々しかった。
 ここ一ヶ月間、眠り続けていたために体力は落ち、さらに軽微とはいえ傷を受け続け、そしてとどめに今の石が、致命傷ではないにしろ、かなりの痛手を彼に与えたのだ。
「済まぬ……無理だ」
 テケルは眼に涙を溜め、うなだれた。
「彼らはすでに我が支配を離れ、この領域に充満する負のエネルギーそのものによって操られておるゆえ……もはや我には、如何ともし難い。 彼らを正気に戻すには、外部より結界を壊すほかにない……内側より破壊するは不可能……紅龍ほども力があればともかく……。 相済まぬ、サタナエル……我らはやはり、結ばれぬ定め……我が身を以っておぬしを守り、後はおぬしの心の中にて生き続けよう……」
 光の化身はタナトスに口づけた。
 熱い涙が、彼の顔に落ちる。
 その間にも、嵐のように降り注ぐ投石がテケルの命を削ってゆく。
 タナトスは焦り、もがいて唇を外した。
「もう俺は大丈夫だ! そこをどけ、死んでしまうぞ!」
「いいや、おぬしを守って死なせてくれ……それが我にとっての至福……」
 化身は息も絶え絶えに答える。
「何が至福だ、お前こそ勘違いをしている。幸福とは、何かを得て終わりではない、その得た何かを、守り、育ててゆくことだ。
 それにだ、死ぬ方が楽で簡単だが、それで本当に償(つぐな)いになるのか? 辛いだろうが、生きて魔族のために働くのが、真の償いなのではないか?」
「されど、見よ、我へ向けられる彼らの怨嗟(えんさ)の念を……」
 狂気に囚われた人々へ、テケルは弱々しく手を動かす。
「それはお前が、連中の負の思念を増幅したからだろう。 どんな者にも影の部分がある、光だけでは生きられん……闇、夜がなければ眠ることもできんようにな。 テケル、もう逃げるのはやめろ。運命を受け入れ、生きて償え。 辛いときは俺の胸に逃げて来い。少し休み、それからまた償えばいいのだ。 お前が真摯(しんし)に向き合えば、皆、きっと分かってくれるはずだ」
 タナトスは懇々(こんこん)と諭す。
 テケルはやつれた頬に、かすかな笑みを浮かべた。
「……もっと早くに、かように語り合えばよかったな、サタナエル。 お前と話していると、もしやと希望が湧いて来る……もはや手遅れなのだが、な」
「そんなことはない!」
 タナトスは苛立たしげに叫ぶ。 しかし、化身の言う通りだった。
 民衆が投げて来る石は、一つ一つはさほど大きくはなかったが、それでも数万人分である。
 それらがテケルの体中に傷を作り、しかも周囲や背中や手足にまで積もってゆく……その重みだけで、化身と、その下にいるタナトスの体を押し潰すに充分なほどになってきつつあった。
 その中でテケルは、もう体を起こしていることもできず、彼の胸に顔をつけて眼を閉じ、やっと息をしている状態だった。
 本体である“黯黒の眸”は力の大部分を吸収されていて、タナトス以上に弱っていたのだ。
「も、もはや死が近い……さ、さらばだ、サタ、ナエル……」
「弱音を吐くな、テケル! それに俺は、真の名で呼ばれるのは好かん。 それは“敵対する者”という意味だ、俺はお前と敵対などしたくない!」
「されど、“タナトス”の意味は“死”であろう……? 左様か、おぬしが、我にとっての死なのだな……これでようやく、真の死を死ぬことができよう……かつて、テネブレとしてセリンを操っておったとき、おぬしが言ったように……」
「真の死……?」
 その言葉で、タナトスは、さらわれたジルを助けるため、セリンと闘ったときのことを思い出した。
「ああ、そういえば、そんなことを言ったな……。 だが、あの時と今では状況が違う! はっきり言っておくぞ、お前は、死を乗り越えて俺の許へ来た、俺の花嫁……そう、“死の花嫁”なのだ!」
「死の、花嫁……?」
「そうだ、お前は死を恐れる必要がない、一度死んでいるのだしな。 死んだ気になって生きよ、“死の王”たる俺と共に! ──いくぞ!」
 気合と同時にタナトスは、テケルを抱いたまま歯を食い縛って起き上がり、闘技場の内部に逃げ込もうと走り出した。
 しかし、執拗(しつように)続く投石に行く手を阻まれて、衰弱していた彼は、たどり着く前に倒れてしまう。
「く……くそ、体が言うことを聞かん……!」
「サタ……いや、タナトス……逃げよ……我を置いて……」
 彼の腕の中で、テケルがささやく。
「で、できるか、そんなこと!」
「彼らの目当ては“黯黒の眸”だ。我さえここに残れれば、おぬしは……」
「何を言う、テケル。この場を満たしている闇の力を吸い取り、傷を癒せ。 それに、この力を全部吸収すれば、連中も正気に戻せるのではないのか?」
 タナトスは、周囲の観客に向かって腕を振って見せた。
「我はもはや、闇の力など、もはや欲してはおらぬ……何よりテネブレが左様に思うておる……。 不気味さを多少なりとも緩和できたからこそ、おぬしも、我が第二形態をさほど毛嫌いすることもなくなったのであろうから……闇の力は制御が困難……望みとは裏腹に、おぬしに害を与えることともなろう……」
「闇の力、か。そうだ、ならば、俺が黔龍になればどうだ? 紅龍ほどではないが、龍になれば、こんな結界の一つや二つ……」
「馬鹿な、その弱った体で変化などすれば、命に関わるぞ。
 それに龍となったとて、結界を破壊できるとは限らぬ」
「手をこまぬいて死を待つより、わずかでも可能性があるのなら、俺はそれに賭ける!」
「よ、よせ……!」
 タナトスは、止めようとする化身を振り切って、立ち上がる。
 気がかりは、手元に呪文の書がないことだった。
 変化が解けると同時に、本もどこかへ消えてしまったのだ。
「心配するな」
 優しく言うと、彼は呪文を暗誦(あんしょう)し始めた。
「夜を纏(まと)いし暗黒の魂よ、昏(くら)き闇に眠り、光を知らぬ者よ、目覚め、疾(と)く来たりて我に力を与えよ! 我が真の名はサタナエル・アサンスクリタ。その名の許に、“黔龍の封印”を解く! ──グヴァ・チネス!」
「タナトス……!」
 テケルが、蒼白な顔で彼の名を呼ぶ。
 しかし、幸か不幸か、何も起こらない。
 魔力が足りないせいか、呪文の書がないためか、あるいは、この強力な結界の中で変身すること自体が、不可能なのか。
 これらすべてが当てはまるのかも知れなかったが、ともかくタナトスは、龍に変身することはできなかった。
「く、くそ、駄目か……!」
 さすがの魔界の王も気力が尽き、膝をついてしまった。
「タナトス!」
 すがりついて来る“黯黒の眸”を、彼は抱き寄せた。
「済まん、な。大きな口をたたいておきながら、お前一人、助けられんとは。 添い遂げたかったが……」
 化身は否定の身振りをした。
「いいや、むしろ我が謝罪せねばなるまい。 我がためにおぬしが、あたら若き命を散らすことになってしまうとは……」
「お前とは、もっと色々と話したかったが……テネブレともな。 いや、俺としたことが、何を気弱なことを言っているのだか! くそ、諦めてたまるか……ちいっ、どうすればいいのだ!」
 彼が必死に考えを巡らしていたとき、突如、すさまじい音が頭上で鳴り響いた。
 はっとして見上げる視線の先で、空が紅に染まり、真っ二つに裂けた。

 16.処刑場の貴石(6)

 次の瞬間、魔界王は、深い青色に輝く、大きな二つの眼を覗き込んでいた。
 銀で縁取られ、晴れ渡った空のように澄んだその青は、生前、母親が好んで着けていたサファイアの指輪を思い起こさせた。
 あれは今、“焔の眸”の指に輝いているはず……そう思った刹那、彼は相手の正体に気づいた。
 強固な結界を破壊し、首だけをコロッセウムの中に差し入れて、半死半生の彼を見下ろしていたのは、全身に紅い鱗をまとった巨大な龍だったのだ。
「紅龍……いや、まさか……」
 タナトスは頭を振った。
“よくご覧、幻などではないよ”
 龍の念話が頭の中で反響し、彼は、これが現実だと知った。
「本当にサマエルか。……正気とは恐れ入ったな」
 彼は再び、澄んだ青い眼を見返した。
 以前の紅龍は、狂気に彩られた紅い瞳をしていた……ライラの捨て身の行動によって、正気を取り戻した後でさえも。
“『紅龍の書』がいきなり現れて困惑していたら、テケルが教えてくれたのさ、光の呪文を読む資格ができたからだと。 それでも変身がうまくいくかは心配だったけれど、間に合ったね”
「されど、いかようにして魔界に? 位相はかなりずれておる、妨害されぬようにと、その期を狙ったのだが」
 テケルは、巨大な龍の顔を仰ぎ見た。
“生憎と、以前にも叔母上やベルゼブル陛下のお力を借りて、転移したことがあるものでね。 あのとき以上に、ずれは大きかったけれど、楽々移動して来られたよ。 まったく、紅龍の力はすごいねぇ”
 他人事のように、サマエルは言った。
「だが、よく、俺達がここにいると……危機に陥っていると分かったな」
“それのお陰だよ”
 紅龍が指差すと、タナトスのマントの陰から、蛇がひょっこり顔を出し、舌をひらひらさせた。
『マッタク、困リモノノ王ダ。間ニ合ッタカラ、ヨカッタヨウナモノノ』
「生意気なことを。しかし、こやつ、いつの間に?」
“お前がここへ移動するとき、飛びつかせたのさ。 普通、強力な結界内から念話は送れないが、それは私の一部だからね”
『話はそこまで。治療を急がねば』
 紅龍の肩から黄金のライオンが飛び降りて来て、二人を癒し始める。
 そのときタナトスは、辺りが静まり返っていることに気づいた。
 見回すと、人々は皆、折り重なるようにして倒れている。
「これは一体……」
“私が眠らせたのさ。この姿を見せたら、パニックを起こすだろう? 皆、いい夢を見ているよ、私特製のね……ふふ”
 嫌な笑い方だったが、タナトスの体力はまだ完全とはいえず、詮索するのも億劫(おっくう)だった。
“さて、私もそこへ行くよ。 『焔の眸』が離れていると、長時間は正気を保てないらしい”
 サマエルが羽ばたくと、すさまじい風が起きた。
 銀の翼を広げて舞い降りる紅龍は、輝きながら徐々に縮んでいき、地上に着く頃には、黒い翼を持つ、いつもの人型に戻っていた。
「礼を言わねばならんな」
 弟が目の前に来ると、タナトスは言った。
 サマエルは肩をすくめた。
「ダイアデムに言ってくれ。泣いてすがられてしまって、渋々来たのだ。 まあ、見殺しにしたら夢見が悪いし、私も王になるのはご免だからね」
「ふん、礼くらい素直に受け取ったらどうだ」
 タナトスは、ふくれっ面になる。
 彼以上に不機嫌な顔で、サマエルは答えた。
「何を言っている。あれほど愛しているだの、妃にしたかっただの言っておきながら、その舌の根も乾かないうちに、テケルに求愛しておいて。 テケル、本当にこんなヤツでいいのかい、一度振っておいて何だが、私の方がお前を幸せに……」
「たわけ! 殺されたいか、貴様!」
 タナトスは、猛然と弟につかみかかった。
 慌てずサマエルは、彼の首に両手を回し、微笑んだ。
「それだけ元気なら、もう大丈夫だな。ねぇ、お兄様?」
「この、離せ!」
「せっかく再会したのに。楽しもうよ」
 もがく彼の唇に、サマエルはキスする。
「貴様、いい加減にしろ!」
 怒り心頭に発したタナトスは、弟を殴り倒した。
 サマエルは、乱れた髪の間から怨(えん)ずるように彼を見上げた。
「……酷いな。せっかく助けたのに。やはり愛の言葉など嘘、か……」
「うるさい! 俺のものに手を出すな!」
 怒りに任せてタナトスは、弟を足蹴(あしげ)にし始めた。
「あ、ああ……!」
 艶(なまめ)かしく、銀の髪を振り乱してサマエルは身悶えする。
『やめよ、サタナエル』
「左様、恩人ではないか」
 シンハとテケルが、二人の間に割って入った。
「ふん、どう見ても、喜んでいる顔だろうが!」
 タナトスは、鼻息も荒く言い捨てる。
「お前が私を憎んでいて、玩具としか思っていないことなど分かっているさ……でも、血縁はお前だけ……」
 倒れたままで、サマエルは、この上もなく悲しげな表情をした。
「子供の頃、自分は幽霊なのだと思っていた……。 だから皆には見えず、たまに見えても、ベルゼブル陛下のように嫌な顔をするのだと……。 もう死んでしまっているのに、天国の母上のところへは行けない……。 私に関わってくれたのはお前だけ……ああ、また幽霊に逆戻り、か……」
 第二王子は天を仰いだ。
 タナトスはうんざりした顔になる。
「おい、シンハ、こいつをどうにかしろ」
 だがシンハより先に、テケルがサマエルの手を取った。
「ルキフェ……いや、サマエル。 聞くがいい、我は、おぬしの兄を奪うつもりはない、というより、兄弟と伴侶とは違うのだ。 何があったとて、兄弟のつながりは切れぬのだぞ」
 言いながら、彼はサマエルを助け起こした。
「その通りだ。大体、貴様には、“焔の眸”という伴侶がいるだろうが。 最近はつくづく、お前をくびり殺さなくてよかったと思う。 命を奪っていたら、その後も気に食わんヤツを殺し続け、結果、予言通りの残虐な王になっていたかも知れん。 済まなかったな、そして、お前が生まれて来てくれたことをうれしく思うぞ。 お前が俺の弟で、本当によかった」
 タナトスは、テケルの小さな手ごと、弟の手を握った。
「兄上! ああ……いい事が続き過ぎて怖いよ……!」
 サマエルは、小さな子供のように、彼に抱きついた。
「ふん、たまには素直に喜べ、面倒な」
 タナトスは鼻を鳴らす。
『それほどに、ルキフェルの心の傷は深いのだ。 されど、徐々に同化は進んでおる。
 幼少時人格との統合も、時間の問題であろうよ』
 ライオンは重々しく請合った。
「そう願いたいが、な。さてと、この後どうするか、だが……」
「心配ないよ、魔界の住人、全員に夢を見せているから。 目覚めた後には皆、諸手(もろて)を揚げて、二人の結婚に賛成することになるだろう」
 そこまで言うと、サマエルは彼から離れ、極上の笑みを浮かべた。
「そうそう、お前には悪役になってもらったからね」
「何だと、俺が悪役だ!?」
 タナトスは眼を剥いた。
「して、いかなる夢か?」
 心配そうなテケルに、サマエルは微笑みかけた。
「まずは、どうしてテネブレという闇の人格が生まれたか、テケル、お前の過去を見せた。 なぜ人界との戦争が起きたか、説明するために。 そして、お前は償いのため、自分の処刑を望んだ……そこまでは事実のままだ。 その後の、タナトスが処刑を阻止した理由を捏造(ねつぞう)してみたのさ」
 サマエルは、にやりとした。
「夢でのタナトスの台詞は、こうだ。『俺が、こいつを本気で愛しているとでも? たわけ! 妃にしたからには、俺がこいつに何をしようと自由だ、毎晩、責め苛(さいな)んで、体で償いをさせてやる』と……」
「おい、貴様、言うに事欠いて!」
 タナトスは青筋を立て、弟に詰め寄る。
 けろりとして、サマエルは続けた。
「いいではないか、結婚してしまえばこっちのものだ。 寝所に近づく者がいても、“黯黒の眸”が拷問を受けて泣いているのか、それとも喜んでいるのかなど分かるまいさ。 そして人々は、泣き虫のテケルが涙ぐむたびに、辛い生活を強いられているのだと思い、同情が集まって暮らしやすくなるはずだよ、おめでとう」

         *        *        *

 その言葉通り、二人の婚姻に反対する者は出ず、話はとんとん拍子に進んで、一月半後、婚礼が執(と)り行われることに決まった。
 自室でテケルと二人きりになったタナトスは、つぶやいた。
「……静かだな。今までの騒ぎが嘘のようだ」
「されど、まこと、これでよいのであろうか?」
 テケルは自信なさげに彼を見上げる。
「何だ、俺の妃になるのが嫌なのか?」
 テケルは首を横に振った。
「いや、左様なことは……されど、あまりに何もかもが順調で、少し怖いのだ……」
「サマエルと同じことを言うのだな。 ならば、裸になってみろ」
「え……」
 テケルは、びくりとし、思わず服を抑える。
「心配するな、婚礼が終わるまで手は出さん、約束する。 もう一度、体を見たいだけだ。嫌なら強制はせんが。 ああ、ここでは誰か来るかも知れんし、隣に行くか?」
「わ、分かった……」
 寝室へ入ると、テケルは、震える手で衣装を脱いだ。
 少年とも少女ともつかぬ体は小さく、顔立ちも幼いが、口調は大人びており、時折老成した表情も見せる、魔界の至宝の化身。
 魔界の王は、伴侶に選んだ相手の体をじっくりと鑑賞し、やがて口を開いた。
「……ふうむ。見事に男女双方の特徴を具(そな)えているな」
「こんなものを見たら、我が嫌にならぬか?」
 テケルは涙ぐんだ。
「本当によく泣くのだな、お前は。 知っているか、テケル。人界には、錬金術というものがあってな。 鉛を金に変える魔法体系のようなものと一般には思われているが、その真の目的は、『完全な人間』になること、だそうだ」
「……完全な人間?」
「錬金術を極めた人間は、男で女、若くも年寄りにも見え、不老不死なのだと。 これはまさに、お前のことではないのか? そいつらがお前を知ったら、神も同然に崇(あが)められるだろうさ。 だから、おのれを恥じる必要などないぞ、自信を持て、テケル。 お前は俺の、すなわち、魔界王の妃にふさわしい存在だ」
「ああ、タナトス……!」
 テケルは彼に抱きつく。
 タナトスは、華奢な体を一旦は受け止めたものの、すぐに放した。
「さあ、服を着ろ。約束を守る自信がなくなる」
「分かった」
 服を拾おうとしたテケルは手を止め、何かを決意したかのように顔を上げると、いきなり彼に体当たりを食らわせた。
「うわ!?」
 不意を突かれ、タナトスは、後ろにあったベッドに倒れ込む。
「な、何をする!?」
 その彼に馬乗りになり、テケルはにっこりした。
「おぬしは、我に手を出さぬと申した。 されど、我はおぬしに、左様な約束はしてはおらぬぞ」
「何だと!?」
「タナトス、おぬしは我のものだ」
 何が起きているのか把握できず、眼を白黒している彼に、テケルは口づけた。

  ── エピローグ 婚姻の儀 (1) ──

 そして一ヵ月半後、ついに婚礼の日がやって来た。
 すでに真紅の衣装に着替え、落ち着かない気分で式を待つ二人の控え室へ、第二王子があいさつに訪れた。
「今日のよき日をお迎えになられ、まことにおめでたく存じます、魔界王陛下、並びに王妃殿下」
 片膝をつき、サマエルは深々と頭を下げる。
 続いて入って来たダイアデムは、立ったまま頭の後ろで指を組み、口を尖らせた。
「まーた、んな仰々(ぎょうぎょう)しいこと言ってよ。得意の嫌がらせか?」
「構わん、今日はめでたい日だ。こやつの皮肉の一つや二つ、聞き流してやるわ」
 鷹揚(おうよう)なところを見せて魔界の王は答えたが、待ち焦がれた日だというのに、顔色は優れなかった。
「へ〜めずらし、雪でも降んじゃねーのかよ。 ……まあいいや、これ、二人に結婚祝いな」
 その様子に首をひねりながら、“焔の眸”の化身は、ぱちんと指を鳴らす。
 現れたのは、背の高い色鮮やかな花々が咲き誇る、巨大な鉢植えだった。
 二抱えもある楕円の白い鉢には、向かい合う二羽の青い鳥が華やかに描かれ、お祝いにふさわしく、紅いリボンがかけられている。
「……貴様の山の花か?」
 タナトスは、うさんくさそうに鼻にしわを寄せ、弟を見た。
「そうだよ。山の環境を忠実に魔法で再現しているから、ずっと咲くはずだ。 色々考えたが、これが一番かなと。幸せを根付かせるという意味でね」
「ふん……」
 ジルを思い起こさせる花……これもまた、弟の当てこすりなのかも知れないが、そばにいる新妻に配慮し、彼は口に出さなかった。
「おお、何と麗(うるわ)しき色合い、芳(かぐわ)しき香気(こうき)よ! かように見事な花を咲かすとは、さぞかし地味豊かな土壌であろうな!」
 何も知らないテケルは素直に感動し、鉢の土に指を差込むと、ぺろりとなめた。
「……うむ、希少なる微量元素も、様々含まれておる。 かたじけない、二人共。丹精込めて育てるゆえ」
 うやうやしく、“黯黒の眸”は頭を下げる。
 魔界王の思いはともかく、弟王子は、他意がなさそうな笑みを浮かべていた。
「気に入ってくれてうれしいよ。お前の方が、花より遥かに美しいけれどね。 ともかく無事、今日を迎えられてよかった、本当におめでとう」
「そーそ。衣装もすっげー似合ってるぜ! オレから見てもうっとりだ!」
 ダイアデムは、これから王妃となる兄弟の、煌(きら)びやかな晴れ着を指差した。
「ああ、これは我がためにと、皆が作ってくれたそうでな、何ともありがたくて……」
 テケルの眼に、うっすら涙が浮かぶ。
 魔界の王妃にふさわしく贅(ぜい)を凝(こ)らし、彼の、男性とも女性ともつかぬ美貌を引き立てている衣装は、専属の織り師や縫い子達が、魔法を一切使わず仕上げており、まさしく努力の賜物(たまもの)だったのだ。
「おいおい、今から泣いててどうすんだよ」
 ダイアデムはハンカチを取り出す。
「す、済まぬ……」
 兄弟が涙をふいている間に、“焔の眸”の化身は、どこか浮かぬ顔で椅子に座り込んでいる魔界王に視線を向けた。
「ところで、タナトス。 せっかくの結婚式だってのに、さっきから何げっそりしてんだ? いつもなら、もっと元気っつうか、バタバタしてんだろーによ」
 するとすかさず、サマエルが口を挟んだ。
「一月以上もインキュバスの王子に可愛がられていたら、やつれるのも無理ないさ」
「え、可愛がられ……こいつが、テケルにぃ?」
 眼を丸くし、ダイアデムはタナトスを指差す。
「き、貴様、どうしてそれを! また蛇に覗きでもさせたのか!?」
 魔界王は真っ赤になり、ばっと立ち上がった。
「まさか。そこまで趣味は悪くないよ。 簡単に想像はつくさ。テケルは男として育って来て、すでに女性を知っていても不思議ではない年頃……さらに、彼の時代、男の同衾(どうきん)はまだ珍しかった……となれば、タナトス、お前が女性の役を……」
「も、もう黙れ、それ以上言うな!」
 魔界の王は、弟の饒舌(じょうぜつ)をさえぎり、吼(ほ)えた。
「は〜ん、ご愁傷様(しゅうしょうさま)なこったな、けけ。ざまあ」
 紅毛の少年は、楽しげにからかいの言葉を投げる。
「き、貴様ー!」
 青筋を立てる彼に、サマエルは追い討ちをかけた。
「だから言ったろう、最初のときは私も一緒にと。 お前を慣らしてやれるかと思ったのに、人の好意を無にするものだから」
「く、貴様、知っていたなら、あのときなぜ教えなかった……」
 抗議するタナトスの声が弱々しくなると、サマエルはにんまりした。
「何を言う、まったく聞く耳を持たなかったくせに。 まあ、楽しくやりたまえよ。というか、嫌なら拒否すればいいだろう?」
「う、うるさいわ!」
「ふふ、他の化身、ニュクスやテネブレはどうなのだろうね、楽しみだな?」
「何ぃ!」
 しつこい弟の顔を殴りそうになったそのとき、うるんだ瞳で、テケルが問いかけて来た。
「タナトス。我と同衾するのは嫌なのか?」
「そ、そうではない、のだが……」
 今までもうまく言えずに来たために、タナトスは口ごもる。
 ダイアデムは、にやっとした。
「違ぇえよ、慣れてねーだけ。気にせずよ〜く仕込んでやれよ、テケル」
「たわけ、余計なことを吹き込むな!」
 タナトスは頭から湯気を出して怒鳴る。
 テケルは眼を伏せた。
「懸念は、それのみにあらず。 実のところ、我はまだ思い迷うておる……我のような咎人(とがびと)が、王妃になぞ、なってよいものかと……」
「まだ気にしてんのか? もう誰も、文句言ってこねーんだろが」
「そうだよ。私は夢は見せたが、思考の押しつけはしていない。 皆、自由な意思の下でお前を許すことにしたのだよ、それは保障するから」
 サマエルも優しく口を添えた。
「されど、我は……王家に縁(ゆかり)もなき身なれば……」
 それでも自信なさげに、テケルは首を横に振る。
「だったら、アイシスはどうすんだよ、こいつらの母親は。 もう昔とは、考えも変わってんだぜ……あ、シンハがお前と話したいって」
 紅毛の少年の姿が輝き始める。
 代わって現れた黄金のライオンは、ひたと“黯黒の眸”の化身を見つめ、きっぱりと言った。
『テケル……アイン・ソフ・オウルよ、ようく聞け。汝は魔界王の子である。 何となれば、純血な魔族であるがゆえに、匂いで判別できるのだ。 王も愚かよ。我に一言尋ねておれば、悲劇に見舞われずに済んだものを』
「ええっ! で、では、我は……!?」
 テケルの体は、がくがくと震え出した。
『左様、汝の母の言葉は真実。 かてて加えて、汝は父親を手にかけてはおらぬ』
「何っ、ま、まことか、それは!?」
 震えは一瞬で止まり、テケルは勢いよく身を乗り出す。
 重々しく、シンハはうなずいた。
『無意識に汝は力を抜いたのであろう、かの折、王は死には至らず、数千年後に寿命を迎え、汝への謝罪の言葉を繰り返し、他界していったわ。 今まで伝えられず申し訳なかったが、汝は幾年も禁呪の間にこもっており、その後も我の話には耳を傾けず、なおかつ、行方知れずにもなりしゆえ』
「おお……わ、我は父上の子で……ち、父上はご存命……我は父上を……ああ、タナトス!」
 瞳から喜びの涙をあふれさせ、テケルは、夫となる魔界王の胸に飛び込んだ。
 タナトスは、妻をきつく抱き締めた。
「よかったな、テケル。これでもう、お前の心には何の曇りもあるまい」
「タナトス……!」
 しゃくり上げる兄弟に向けて、シンハはさらに続けた。
『剰(あまつさ)え、汝の夫たるサタナエルは、汝の兄のみならず、妹の血も引いておるのだぞ。 彼(か)の二人は、建前上は異母兄妹、実際は赤の他人……汝の死を共に悼(いた)むうち、やがて結ばれたと聞き及ぶ。 それゆえ、いかなる憎悪も悲嘆(ひたん)も、もはや忘却の彼方へ葬るがいい、テケル、テネブレ両名共にだ』
「ああ、ああ、ああ……!」
 “黯黒の眸”は、ただ泣きじゃくるだけだった。
 幾つもの美しい貴石が、床に転がり落ちてゆく。
 感動的な情景を後に、サマエルは一人、静かに部屋を出て行こうとしていた。
 それに気づいたライオンの体が輝き、少年の姿に戻る。
「おい、サマエル、どこに行くんだよ?」
「あいさつも済んだし、私はこれで帰るよ。お前はゆっくりしておいで」
「え、もうすぐ式も始まるんだし、今日一日くらい、いいだろ?」
「そのつもりでいたのだけれど、城内を歩くうちに、気分が悪くなって来てね……。 汎魔殿には一切、いい思い出がない。それどころか、あそこでは……ここではと……嫌な記憶ばかりが蘇って来て、吐き気さえするほどだ……。 私がまた狂ってしまったら、迷惑の極みだろう?」
 悲しげに、サマエルは首を横に振った。
「だ、だって……」
 思わずダイアデムも涙ぐみ、まだ泣いているテケルとサマエルを見比べた。
「だから、お前だけ列席すればいい、後で様子を聞くから、ね?」
「い、嫌だ、離れたくない! 二度と、お前に会えなくなっちまいそうな気がするんだ!」
 紅毛の少年は、ひしとサマエルにしがみついた。
「そう……済まないね。 タナトス、テケル、私達はもう帰るよ。 申し訳ない、せっかくのおめでたい式に、出席できなくて……」
 妻を抱き留め、サマエルは頭を下げた。
「ま、待ってくれ! 二人に贈り物があるのだ、それを見れば、サマエルの気も変わるに相違ない!」
 涙をふく間も惜しんで、テケルが扉の前に立ちふさがり、両手を広げたまさにそのとき、ドアがノックされた。
「タナトス様、テケル様、遅くなりました」
「ああ、待ちかねたぞ」
 指を鳴らし、タナトスは扉を開けてやる。
「失礼致します」
 山のような荷物を乗せた籠を、魔法で従えて入って来たのは、エッカルトだった。
 以前、王に斬られた傷も完全に癒え、その肩には、紫色の蛇が乗っている。
 元々あのときタナトスは、魔法医を殺すつもりはなく、腹立ち紛れに一太刀浴びせただけだったのだ。
「申し訳ございませぬ。縫い子が、どうしても最後の点検をと」
「間に合ったからよしとしてやる。 さあ、受け取れ、お前達のために作らせたものだ」
 魔界の王は、弟夫婦に向かって手を振る。
「ささ、お納め下さいませ」
 うやうやしく差し出された、籠に入った物……それは、五着の真っ赤な衣装だった。
「エッカルト……これは一体?」
 魔法医の代わりに、タナトスがしたり顔で答える。
「サマエル、いい思い出がないと言ったな。ならば今から俺が作ってやる。 “焔の眸”との婚礼だ。これ以上のいい思い出はなかろう、どうだ!」
「な、何を言い出すのだ、タナトス!?」
 サマエルは、珍しくも驚きを露(あらわ)にした。
「本日これから、俺達と貴様らの婚礼の儀を執(と)り行う! これは魔界王としての命令だ、異議は認めん!」
 言うなりタナトスは指を鳴らし、強制的に、二人の衣服を籠の中身と取り替えた。
 第二王子は唇を噛んだ。
「茶番だな、まったく。帰らせてもらうよ」
 素晴らしい出来栄えの衣装を脱ぐ手間すらもかけず、サマエルは扉に向かう。

  ── エピローグ 婚姻の儀 (2) ──

「茶番だとぉ!? 貴様はともかく、“焔の眸”にとってはどうなのだ!?」
 取り付く島もない弟に向けて、タナトスは苛立たしげに問いかけた。
 はっとしてサマエルが振り返ると、炎の瞳をうるませた少年が、自分を見ていた。
「サマエル、お前……今まで散々、オレを妻だ何だって言ってたくせに、マジに結婚するってなったら、やっぱ嫌なんだな? 他に女とかできたとき、既成事実があると邪魔だから……?」
「ま、まさか、そんなわけが!」
 サマエルは慌てて戻り、華麗な衣装をまとった少年の手を取った。
「私の妻はお前だけだ、今も、そしてこれからも。信じておくれ!」
「じゃあ、何で? せっかくこいつらが、ここまでお膳立てしてくれたってのに、式、挙げてくんねーんだ? ホントは、オレなんか、いらねーって思ってんだろ?」
「ち、違う! 聞いてくれ、私は……」
 必死に言いわけをするサマエルの手を、ダイアデムは、ばっと振り払った。
「いいよ、捨てられたって、お前ん家の地下に居座ってやるから! そんで、オレの涙で鍾乳洞が一杯になるまで泣き続けてやる、『サマエルの馬鹿、こんなに好きなのに、愛してるのに』って!」
 そして、テケルに抱きつき、大声を上げて泣き出してしまった。
「おお、相済まぬ、我の浅知恵で……! 心細く、おぬしが共におれば、魔界の王妃の重責を担う覚悟もできるかと思ったのだ……二人の仲を引き裂くつもりなど……!」
 テケルもまた、おろおろと兄弟を抱きしめ、大粒の涙をこぼす。
 魔界の至宝達の流す涙が床に滴り、美しい輝きを放つ小山ができあがっていく。
「貴様!人の好意を無碍(むげ)にしただけでは飽き足らず、俺の妻まで泣かす気か!」
 タナトスは弟の胸倉をつかみ、揺さぶった。
「い、いや、そうではなく……」
「タナトス様、ご婚儀の前でございます、乱暴は……」
 焦ったエッカルトが止めに入る。
 そのときだった。
 蛇がテーブルに飛び移り、大声を張り上げたのは。
『皆、我の話を聞いてくれ! これにはわけがあるのだ、今からそれを説明する!』
「わけだと!? よし、聞かせろ!」
 突き飛ばすように弟を解放し、タナトスは蛇に近づこうとする。
「蛇、余計なことは……」
 言いかける弟を、彼は殴った。
「うるさい、貴様は黙っていろ!」
 床に倒れこんだ第二王子は、白銀の髪を直しつつ、半身を起こす。
「もう、乱暴だな、相変わらず……」
「ええい、科(しな)を作るな、この、腹の立つヤツめが!」
 いつも以上に艶(なまめ)かしいその様子に苛立ち、タナトスはまたも弟を足蹴にし始めた。
「あ、う、ああ……」
 サマエルは床にうずくまり、抵抗も弁解も諦めたように、されるがままになっている。
「おやめ下され、タナトス様!」
 見かねたエッカルトが、またも止めに入ったとき。
『よせ、王よ! 我が本体をそれ以上、虐(いじ)めてくれるな!』
 蛇が再び、声をかけた。
 タナトスは、さっと向きを変え、腕組みをした。
「ならば、さっさと言え、そのわけとやらを!」
『話そうとしたら、お前が、暴力を揮(ふる)い始めたのだろうが』
 蛇は言ったが、タナトスに睨みつけられ、小さくため息をつくと、続けた。
『……まあいい。我が本体は、“焔の眸”を形式で束縛したくないと思っているのだよ、自由な意志で、自分のそばにいて欲しいと。 それで、式もあえて挙げることはしなかったのだ。 だが、実のところは、彼を檻に閉じ込め、逃がさないようにしてしまいたい、という思いと日々戦っているのだよ……それを分かってやって欲しい』
 頭を下げる蛇の声も言い回しも、サマエルによく似ていた。
 ダイアデムは、まるで第二王子自身がそう語ったかのように、泣き腫らした眼で彼を見た。
「サマエル、オレを閉じ込めたいって……何でだ? オレ、逃げたりどっか行ったりする気なんて、全然ねーのに」
 サマエルは、乱れた髪の間から宝石の化身を見返すと、気が重そうに口を開いた。
「それは分かっている……のだが、時折……どうにも抑えが効かなくなるときがあって……様々考えているうち、理性が吹き飛んでしまいそうになって、ね。 お前を閉じ込め……その檻に一緒に入り、そして……ああ……続きは後でいいかな、さすがに、皆の前ではちょっと……」
「うん。オレと一緒になるのが嫌じゃねーんなら、それでいいんだ。 けど、後でちゃんと聞かせてくれよ、そこら辺」
 紅毛の少年は、拳で涙をぬぐった。
「もちろん……だが、きっと私の妄想に、うんざりすると思うよ……」
 そう言うとサマエルは、蛇そっくりのため息をついて立ち上がり、テーブルに近づいた。
「それはともかく、蛇よ、お前、ずいぶんと流暢(りゅうちょう)に話せるようになったな。 鱗の艶(つや)もいい。エッカルトに可愛がられているのだね、タナトスに燃やされなくてよかったな」
 優しく語りかけながら、第二王子は、白い指先で下から上に向かって蛇の細長い体をなぞっていく。
 拾った髪から創り出され、用が済んだら消されるはずだった蛇は、創り主である魔界王よりも魔法医になついた結果、男爵家にもらわれていったのだった。
 紫の蛇は眼を閉じ、本体である彼にうっとりと身を任せた。
『ああ、新しいあるじはとても優しい。 エルピダという名前ももらった……我は幸せだ』
「艶がいい……楽しい、だと!? 貴様、まさか、こいつを、いかがわしいことに使っているのではあるまいな!」
 タナトスは、魔法医に指を突きつけた。
 エッカルトは一瞬きょとんとしたが、すぐにやれやれと頭を振った。
「何を仰いますやら。 左様な戯(たわむ)れ事に現(うつつ)を抜かすほど、暇ではございませぬよ」
『あきれたものだ、お前とあるじを一緒にするな』
 蛇も言い、舌をちろちろさせた。
「こいつめ、偉そうに!」
 腹立たしげな口調とは裏腹に、魔界の王は、ほっとして弟王子に向き直った。
「これで決まりだな、サマエル。 実はな、テケルは、こうも言っていたのだ。 お前も複雑な立場で、身の置き場がないという点では自分と同じだと。 だが、“焔の眸”との婚儀という後押しが得られたなら、真実はどうあれ、皆に王子として認められるのではないか、とな。 そこから、俺達と一緒に式を挙げたらどうかという話になり、大急ぎでお前達の衣装も作らせたのだ。 ただ、織り師や縫い子共は、俺のよりも貴様のを作りたがって騒ぎになったそうだがな、まったく!」
 サマエルは、その日初めての晴れやかな笑みを浮かべた。
「そうだったのか。ありがとう、タナトス、テケル。 “焔の眸”も心から望んでくれているし、喜んで式を挙げさせて頂くよ」
「わあい!」
 ダイアデムは彼に飛びつき、その日、魔界は二重の喜びに沸き立った。
 長い魔界王家の歴史でも例を見ない、王と弟王子の合同結婚式は、汎魔殿の大広間で厳(おごそ)かに行われ、その様子は魔界全土に中継された。
 式の途中、魔界の至宝達は、それぞれの夫に対して誓いの言葉を述べるため四度変化し、そのたびに絢爛豪華な紅い衣装を変えて、人々の眼を楽しませた。
 荘厳な婚姻の儀が終わると、祝賀に集まった同胞達に顔見世をするため、二組の夫婦はバルコニーに出た。
 大歓声が沸き起こる。
“見てみろ、テケル。ここにいる連中はすべて、俺達の結婚を祝福している。つまり、お前が妃になることを祝っているのだ、胸を張っていろ。 サマエルもだ、これで貴様も、魔界の王子と認められたのだからな”
“おお、何という……言葉にできぬ……”
 テケルは、目頭を押さえた。
“まあ、勢いに流されて、もしくは、仕方なく賛成している者もいるとは思うけれどね”
 タナトスだけに聞こえるように、サマエルはこっそりと念話を送る。
“ふん、そんなヤツは、どこの時代、どこの世界にもいるものだ。 一々気にしていられるか”
 それが冷ややかな魔界王の返事だった。
「さあ、涙をふけ、テケル。サマエルも、得意の愛想を振りまくがいい。 あいつを見習ってな」
 タナトスは、“焔の眸”の化身に向けて顎をしゃくる。
 誰に言われることなく、うれしげに飛び上がっては手を振り回していたダイアデムは、感極まってか、バルコニーから身を乗り出した。
「危ない!」
 止めるサマエルの手をすり抜け、少年は空中に飛び上がる。
「待ってくれ、私を一人にしないで……!」
 第二王子は必死に追いすがり、楽しげに滑空する妻の体を捕まえた。
「ああ、よかった……」
 サマエルは妻にしがみつき、大きく息をつく。
「何焦ってんだよ、オレがお前を置いて、どこにも行くわけねーだろ……ん? どうしたんだよ、これ」
 そのときダイアデムは、自分をつかんでいる夫の掌が、傷ついていることに気づいた。
「ああ、これは……」
 第二王子は、血の気の引いた顔でゆっくりと首を振った。
「情けないが、私は汎魔殿の広間は苦手でね……。 エッカルトにもらった吐き気止めも……あまり効かなくて……掌に爪を食い込ませていたのだが……」
「そっか、無理させてごめんな、もう帰ろ」
「いや、大丈夫だよ。お前がそばにいてくれれば……。 式の最後の方もお前ばかり見ていた……ベッドで、お前を愛することを想像して……いや、お前だけでなく、化身すべてを……。 ああ、済まない、こんないやらしい男が夫だなんて……式は済ませたけれど……もし、こんな私が嫌なら……」
 サマエルはうなだれた。
 ダイアデムは、落ち込む夫の耳元でささやいた。
「それのどこが悪いんだよ? 式の真っ最中に、他の女とヤること考えてたってんなら離婚モノだけど、ヨメのオレ見て、ムラムラしてたんだろ? 吐き気だって最後まで我慢できたんだし、褒美(ほうび)モンじゃんか」
 サマエルは、驚いたように顔を上げた。
「褒美? そんなもの、もらったこともない……」
 ダイアデムは、にやりとした。
「じゃあ、これからたっぷりくれてやるさ、ベッドん中で」
「え……」
 思わず顔を赤らめるサマエルを尻目に、ダイアデムは声を張り上げた。
「さーて、式も終わったし、オレらはもう帰るからな!」
 周囲から残念がる声が上がると、少年は、バルコニーで心配そうに自分達を見ている二人を指差した。
「後は、あいつらを祝ってやってくれ、今日のホントの主役、魔界王タナトスと王妃……オレの兄弟、“黯黒の眸”を! じゃーな、サマエルが腹へってしょーがねーって言うから、オレらもう、ベッドにしけ込むぜ、後、よろしく! ──ムーヴ!」
 最後に王と王妃に声をかけ、“焔の眸”の化身は、第二王子と共に消える。
 弟夫婦を見送った魔界王は、妃にささやいた。
「今夜こそ、俺が、お前の味見をするからな」
 テケルは極上の笑みを浮かべた。
「我、一人のみでよいのか?」
「全員だ!」
 タナトスが新妻の唇を奪うと、群集から歓喜の声が湧き起こる。
「魔界王陛下、万歳!」
「“黯黒の眸”妃殿下万歳!」

                        The End.